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【上映時間3時間以上】超長尺映画100本を代わりに観る《第4章:戦争と平和》


第4章:戦争と平和

今回の企画を進めるにあたり、上映時間3時間以上の作品をリストアップして行きまとめる中で戦争/紛争にまつわる作品が非常に多かった。ロシアのウクライナ侵攻やイスラエル軍が絶え間なくガザへ攻撃を仕掛けている問題など凄惨なニュースが次々と流れていく中で、筆者の関心も自ずと国際情勢へと向いてくるわけである。2024年にはA24作品として『関心領域』『占領都市』が公開され、日本でも話題となったこともあり、今回の企画では「戦争と平和」と題した章で社会情勢や歴史にフォーカスを置いた作品をピックアップしていく。

53.SHOAH ショア/SHOAH(クロード・ランズマン、1985年、567分)

SHOAH ショア(1985年)
※映画.comより画像引用

「死ぬまでに観たい映画1001本」に掲載され、映画史上最も重要な映画遺産である『SHOAH ショア』。2023年には本作の35mmネガ復元版、そして200時間に及ぶショアの歴史に関する目撃証言の音声アーカイブがユネスコの世界の記憶に登録された。

毎年のように日本でもホロコーストに関する映画が公開されているが、それでも映像化されていないような話が関係者の取材のみで語られる。たとえば、収容所行の列車を運転する者にはウォッカが配布されていたとかたる者がいる。列車内はユダヤ人ですし詰めとなっており悪臭が酷く気を紛らわせるためにウォッカが配布され、酒気帯び運転していたことが明らかとなる。9時間以上に渡るホロコーストの記憶のアーカイブこそ映画遺産として価値があるが、ドキュメンタリーとして問題を抱えていた点にも注目してほしい。

アルノー・デプレシャン『映画を愛する君へ』によれば、本作はイスラエル外務省からの要請で製作された作品とのこと。そのためか、取材対象に対する誘導質問や隠し撮りなどといったドキュメンタリー作家としてのモラルを逸脱したアプローチが目立つ。また、構成が整理されておらず、数時間ごとに類似の話に戻ってくるため、焦点が囚人たちの反乱に絞られた『ソビブル、1943年10月14日午後4時』の方が丁寧にまとまっているイメージがある。

『SHOAH ショア』はこのような批判も含めて、人類がホロコーストの歴史に向き合う機会を与えているのだ。ちなみに、第75回ベルリン国際映画祭では『SHOAH ショア』と併せてランズマンの回顧録と未公開フッテージを使用し再考したドキュメンタリー『Je n’avais que le néant – "Shoah" par Lanzmann』が上映されており、日本でもクロード・ランズマン レトロスペクティブが行われることが期待される。

54.不正義の果て/The Last of the Unjust(クロード・ランズマン、2013年、220分)

不正義の果て(2013年)
※映画.comより画像引用

クロード・ランズマンは『SHOAH ショア』の制作のため、テレージエンシュタット強制収容所から唯一生き残ったユダヤ人評議会最後の長老ベンヤミン・ムルメルシュタインにインタビューを行った。その証言内容が『SHOAH ショア』のコンセプトとズレていたため、別の作品として『不正義の果て』が作られることとなった。

本作はハンナ・アーレントが提示した「悪の凡庸さ」について興味深い観点を示してくれる。「<悪の凡庸さ>を問い直す」にて、「悪の凡庸さ」の誤用が指摘されている。一般的に、単に社会の歯車として悪に加担してしまう状況を「悪の凡庸さ」として認識されがちである。確かに、ハンナ・アーレントの「エルサレムのアイヒマン」を読むと具体的な定義について語られておらず、わかりにくいところがあるのだが、アーレントは「凡庸さ」を「ありふれていること」として使っておらず、アイヒマンのような有能で野心的な存在ではない様を表現するためにこの言葉を用いている。また、組織の歯車として虐殺を行ったから自分に責任はないといった主張は通用しない立場をアーレントは取っていると本書では語られている。

一方で、アイヒマンを近くで見ていたムルメルシュタインによればアイヒマンは「凡庸」ではなく「邪悪で残忍な反ユダヤ的悪魔」とのこと。模範的収容所と称しユダヤ人を効率的に押し込めるシステム化を導入。ユダヤ人移住基金を設立し、ユダヤ人から資産を巻き上げ、それを元手にすることで親衛隊本部に依存することなく行動した狡猾さなどが語られていく。

「悪の凡庸さ」を中心とするハンナ・アーレントに関する議論は今でも盛んに行われるのだが、当事者の温度感を知るためにこの作品は有効であろう。また、先日Carlotta FilmsからPourquoi Israel』『TsahalのDVDが発売された。後者はイスラエル国防軍全面協力のもとで制作されているため、警戒は必要ではあるものの、イスラエルサイドから見た世界、ホロコーストの歴史を把握する重要な資料となるであろう。

55.占領都市/Occupied City(スティーヴ・マックィーン、2023年、251分) 

占領都市(2023年)
※映画.comより画像引用

4時間に渡りアムステルダムの光景をバックにホロコーストの歴史が語られていく。A24は2023年のカンヌ国際映画祭で『関心領域』と併せてクロード・ランズマン『SHOAH ショア』のアップデートを図ろうとしたわけだ。

実際に『占領都市』では、アムステルダムのホロコースト関連遺産であるアンネ・フランクの家は映さず、語りのみで凄惨さを伝える。街全体の歴史を捉えるための試みとなっているのは明白だ。

クロード・ランズマンのケースでは、被写体に対するインタビューが主となっており、その語りの決定的瞬間を捉えているため歴史資料の挿入が極端に少なくとも飽きることなく観ることができた。一方で、本作は時系列が行ったり来たりしながら、断片的にアンネ・フランクのように隠れ家で暮らしていた人の暮らしやソビブルで起きた事件などが語られていく。それは映画というフォーマットを取る必要があったのか?本だけで完結していても良いのではと思わずにはいられない。また、事前情報でコロナ禍の生活と重なるとのことだったのだが、そこまでコロナ禍による厳戒態勢の空気感が伝わってこないため、ホロコースト下の抑圧された生活との関連性が薄かったのも気になった。そのため、催眠的な4時間であったのだが、後半に明らかな交通事故、自転車が横転する決定的瞬間が収められており驚かされた。なぜこの映画でこの決定的事故の瞬間を挿入する必要があったのか理解に苦しむ。コロナ禍は様々な監督が世界的な異常事態をどのように映画にするのか模索していたわけだが、スティーヴ・マックィーンのホロコーストとコロナ禍を絡めるアプローチは空中分解してしまったように思えた。

56.レニ/The Wonderful, Horrible Life of Leni Riefenstahl(レイ・ミュラー、1993年、188分)

レニ(1993年)
※映画.comより画像引用

クリエイターとしてこれ以上にない恵まれた環境を手にし、一気に転落した人物、レニ・リーフェンシュタール。彼女は、ナチス・ドイツに協力した人物として叩かれやすい。また、題材が題材なだけに撮影者は自分なりの解釈をついつい入れたくなってしまう。しかしながら、本作では一貫してドライに事象と向き合っている。自らの調査とレニの証言を照らし合わせ、安易に決断を下さない。真実と曖昧さの中々、レニ個人の問題から人間心理の問題へと掘り下げていく。この距離感の維持はドキュメンタリー映画の模範といえる。レニは情熱的な人物だ。彼女の語る波乱万丈な人生についつい同情したり、肩を持ちたくなることもあるだろう。人によっては、彼女の饒舌さに不快感を抱くかもしれない。だが、撮影者だけはレニに取り込まれることなく、また様々な論に引っ張られたり、誘導しようとすることはない。彼女から真実を語らせ、そのモザイクから人間を捉えようとしている。まさしく、『オリンピア』の高飛び込みで男性選手の名前をフィルムに焼き付けず、普遍的人間の行動を捉えようとしようとしたように。

彼女は、最初はヒトラーからの映画製作の申し入れを断っていた。だが、映画製作への、至高への渇望が彼女をナチス・ドイツサイドへ引き込んでいく。400kmものフィルムを提供され、撮影後2年間もの編集時間を与えられた。彼女が、『オリンピア』での撮影を語る時、今まで溜め込んでいた水がダムから決壊し流れ出るように情熱的に語る。

一方で、ナチスに最初から協力的だったのでは?と訊き始めると途端に怒り始める。「こんなところで話せない」と語るのだ。彼女は、映画業界から姿を消して半世紀ぐらい経ち、スーダンのヌバ族に迫った『アフリカへの想い』を撮り、亡くなる直前にはグリーンピースに入り海洋ドキュメンタリー『ワンダー・アンダー・ウォーター 原色の海』を撮った。こうした点が繋がっていくと、彼女は究極の美を求めて、過去から逃れるように白人のいないアフリカへ渡り、しまいには人間すらいない海へ逃避したといえる。彼女の、言葉を選んで逃げようとする姿は保身ではあるものの、自分が壊れないようにする自己防衛だったのかもしれない。

これは他人事だろうか。誰しもが人生でミスをする。たまたまその場にいた、所属していたから「すまない」で済まされない事態に巻き込まれたらどうだろうか。「すまない」と謝罪しても許されない。かといって無視しても、社会がそれを許さない。今やSNSの発展でいくらでも過去を掘り起こすことができる。無論、戦争被害を無視することは被害者にとって暴力であろう。だが、SNSで問題に対して声を挙げる際に気をつけないといけないのは、時と場所が異なれば自分が同じ状況に陥る可能性がある。たとえ、無実な人生を送っていても、どこで誰を傷つけているかわからない。そう考えると、彼女のこの映画での態度を批判することはできないなと思ったりもする。誰しもがオイディプス王になり得るのだ。『オリンピア』が映像的に傑作であっても、政治的に問題な作品であるように0か1かで分けることのできない人間と社会のグレーな関係性に対し冷静な眼差しを向ける。それが『レニ』なのだ。

なお、2024年にレニ・リーフェンシュタールを扱った新作ドキュメンタリー『Riefenstahl』が『ヨーゼフ・ボイスは挑発する』のアンドレス・ファイエル監督によって作られた。こちらは、彼女のナルシストな側面や自己矛盾を掘り下げていく内容となっており注目である。

57.ハイゼ家 百年/Heimat Is a Space in Time(トーマス・ハイゼ、2020年、218分)

ハイゼ家 百年(2020年)
※映画.comより画像引用

『ハイゼ家 百年』最大の特徴は30分以上におよぶ強制移送されたオーストリア系ユダヤ人のリストが提示されるところにある。クロード・ランズマン『ソビブル、1943年10月14日午後4時』のラストで収容所に収監された人のリストを読み上げられる場面があるが、本作は変わった演出となっている。映画のエンドロールさながらリストがスクロールされる『ソビブル、1943年10月14日午後4時』に対して、リストとは無関係に見える手紙のやりとりが読まれるのだ。リストの日付も全く関係ない。これはどういうことか。じっくりと観ていくと段々と納得してくる。手紙では段々と社会情勢が悪化し、石炭等の物資が手に入らなくなり、移送のため限られた荷物だけもって家から追い出されていく家族のやりとりが語られていく。そうです。我々は未来の視点から結末を「目」で追い、一方でその悲惨な未来に向かって突き進む様子を「耳」で追っているのだ。

クロード・ランズマンの観客の脳裏に激動の時代のヴィジョンを植え付ける手法とも、マルセル・オフュルスの編集によって歴史アーカイブをドラマティックに魅せる手法とも、はたまたジェイムズ・ベニングが『Deseret』で写真のスライドショーに物語を付加していく手法とも異なる、新たなアーカイブ映画の語り口を発見しているように思える。

そして、目の前で提示される景色は然程語りとリンクしていない。しかしながら、ゆっくりゆっくりとスクロールされるリストと、ゆっくりゆっくり全身する貨物列車の動作が、未来に向かって牛歩で進む息苦しさを象徴していたり、廃墟の片鱗から見える歴史の層から語りと紐づいたりと発見が多い。我々は、街を歩けば視覚/聴覚から自動的にインプットされる情報を通じて、思索する。思索する中で過去の事象と紐づいていき、蜘蛛の巣のようにネットワークが形成されるのである。

トーマス・ハイゼは極私的家族のクロニクルを「絡まった糸を解くのに意味はあるのか?」と言わんばかりに徒然なるまま紡いでいく。だが、そのプロセスは決して彼だけのものでもドイツ史だけのものでもなく、日本に住む我々にとっても自然な行動であり普遍的な存在だ。故に、『ハイゼ家 百年』は他人の思索のプロセスを覗き見ることでメタ的に自分の思索と向き合う百年の「豊饒な」孤独であった。

58.哀しみと憐れみ/The Sorrow and the Pity (マルセル・オフュルス、1969年、251分)

哀しみと憐れみ(1969年)
※IMDbより画像引用

2025年5月24日、ドキュメンタリー作家であるマルセル・オフュルスが亡くなった。マックス・オフュルスの息子であり、ホロコーストのフッテージを使わずにリヨンの屠殺人であるクラウス・バルビーの裁判を多角的に捉えた『ホテル・テルミニュス 戦犯クラウス・バルビーの生涯』など、『SHOAH ショア』の先駆けともえいるホロコーストドキュメンタリーを放ったマルセル・オフュルスだが、意外なことに日本ではほとんど知られていない監督である。

クロード・ランズマン作品と比べると、編集の映画になっており、4時間の尺でありながら退屈することなくテーマへ惹き込まれる。『ホテル・テルミニュス 戦犯クラウス・バルビーの生涯』の場合、まるでスコセッシの映画のように軽妙にインタビューを繋ぎ合わせ、視覚的ドラマを生み出している。インタビューのプロセスでクラウス・バルビーの数奇な運命を観客に追体験させる。オフュルスの高い傾聴力がなくては引き出せない情報が次々と飛び出し、それを巧みな情報整理でまとめあげていく様は見事である。

もうひとつの代表作『哀しみと憐れみ』も重要だ。1940年5月にドイツに敗北し、対独協力を強いられたヴィシー政権がどういったものなのかをインタビュー映像、過去のアーカイブを巧みに繋ぎ合わせて論考している。フランスは最終的にドイツの敗戦により、国の政治的立ち位置が最上位となる。しかしながら、ドキュメンタリーでは反ユダヤの側面であるフランス像が浮き彫りにされていく。結局、単にドイツが敗戦したから歴史的にナチスは悪として描かれるが、フランスだって危なかったのでは。ファシストに成り果てる運命だったのではといったことを鋭く考察していく。マルセル・オフュルスの激しい問いかけにより本音や嘘、歪曲された言葉が吐露される生々しさが特徴となっている。

「Nuremberg and Vietnam: An American Tragedy」から着想を得て、個人/集団の責任と戦時中の残虐行為を掘り下げた『The Memory of Justice』も併せて日本で紹介されてほしい監督である。

59.ルート181/Route 181: Fragments of a Journey in Palestine-Israel(ミシェル・クレイフィ&エイアル・シヴァン、2003年、270分)

ルート181(2003年)
※神戸映画資料館より画像引用

蓮實重彥「ショットとは何か 歴史編」巻末の年間ベストまとめにも掲載されている作品『ルート181』は、イスラエル/パレスチナ問題を考えるうえで最も重要な作品であり、本作から20年以上経った世界で撮られた『ノー・アザー・ランド 故郷は他にない』と比較することで、事態がより悪化していることを痛感させられる。

静止しているふたりをデジタルな動きでクローズアップする。周囲は動的であるのに、中心にいるふたりは静的である奇妙さについて考えさせる間もなく、『ルート181』のテーマを表現する特殊な画を構成していく。上下に分割した画を用意し、上には本作の背景がテロップで説明される。下には旅のルートが表示され両画面とも動く。テロップの終わりに、紙を破るようなアクションが入り、上下の境界が融和していく。

イスラエル/パレスチナの分断を巡る4時間半の旅において、明確な境界と曖昧な側面を意識させられる場面が反復される。車が走る際、フロントガラスに地図が映り込む。監督が引いた1947年にパレスティナを二分するために採択された国連決議181条で描かれた境界線《ルート181》と実際の境界、壁、自由に境界を越えていく戦闘機、アラブ人とユダヤ人の中にある複雑な心理、これらを意識させる導入から映画は始まる。

本作最大の見どころは第二部における『SHOAH ショア』批判のパートだろう。

『SHOAH ショア』ではホロコースト経験者による凄惨さが語られ、ユダヤ人に同情が集まる内容となっているが、その裏返しになっている。ホロコーストを知りながらもアラブ人への行為に対しては「何も感じない」と語る場面や散髪屋の場面にそれは現れている。そして何よりも、ユダヤ人兵士との対話が重要である。自分たちの状況をカフカの「審判」や「掟の門」にたとえ、デカルトをはじめとする哲学に興味があると語っているが、「エルサレムのアイヒマン」については知らないと語っている。

ここで監督は、「悪の凡庸さ」の俗説である「悪を犯す人は普通の人(哲学書を読んでいるような普通の人が戦争犯罪に手を染めてしまう)」理論でユダヤ人兵士に語り掛ける。今となっては、この説は批判の対象であるのだが、この場面においては極めて重要な役割を果たす。

1.自分たちの話にもかかわらずハンナ・アーレントを知らない
2.なんとなく自分の状況を理解しておきながら加害に手を染めてしまう様

後者は「悪の凡庸さ」が使いやすいバズワードかつ、それに該当する別の表現がないという問題から誤用されているのだが、『ルート181』全編通してユダヤ人が「じゃあ、どうしろと?社会がそうなのだがらそうならざる得ない」と開き直ってしまう様と当事者であり知識欲がありながら重要なことに目を背けてしまう様を同時に捉えるために必要なアクションだったといえよう。

60.スウェーデン・テレビ放送に見るイスラエル・パレスチナ 1958-1989/Israel Palestine on Swedish TV 1958-1989(ヨーラン・ヒューゴ・オルソン、2024年、202分)

スウェーデン・テレビ放送に見るイスラエル・パレスチナ 1958-1989(2024年)
※映画.comより画像引用

近年、アーカイブフッテージを用いながら歴史を紐解くドキュメンタリーが増えているように思える。デジタルシネマの時代となり、データが扱いやすくなったせいだろうか。この手のドキュメンタリーの注目監督にヨーラン・ヒューゴ・オルソンがいる。『ブラックパワー・ミックステープ アメリカの光と影』にて、テレビ局のフッテージを用いて歴史を語るドキュメンタリーを制作した彼は『スウェーデン・テレビ放送に見るイスラエル・パレスチナ 1958-1989』でも同様の手法を用いている。本作は2018年にスウェーデンテレビのアーカイブに基づいたプロジェクト「May 68」に取り組んでいた際に数千時間あるフッテージを抽出してスウェーデンから見るイスラエル・パレスチナ問題を捉えようとしたと制作された。

「アーカイブ素材は必ずしも実際に何が起こったかを語っているわけではなく、どのように語られたかについて多くを語っている」と監督が語っているように、本作はアーカイブ映画の本質的なところに迫る内容である。

ここ数十年でアーカイブ映像へのアクセス性が上がり、その時代の利から歴史を再考しようとする作品が出てくるようになった。ある意味、論文に近いようなもので、本作でも実際に図書館で資料を見つけて整理する感覚の疑似体験として、各映像にミニカードと文脈のナレーションがついている仕組みとなっている。

しかし、メディアとは政治的社会的文脈によって切り取られたものであり、所詮は事実を編集した真実に過ぎない。それを整理して並び替えたところで、歴史のすべてが明かされる訳ではないのだ。実際に、引用される映像にはプロパガンダじみたものもあるし、当時のスウェーデンとしての立ち回りがあるから客観的とは呼べないものもあったりする。しかし、どのように語られたかは紛れもない事実としてそこにある。

3時間半観たところで、イスラエル・パレスチナ問題が完全に分かる訳でもないし、このドキュメンタリーですべてが明かされる訳ではないのだが、歴史との向き合い方。映像メディアとの接し方をメタ的に学ぶことができる作品といえる。

個人的にはジャーナリスト志望の青年がアフリカで取材しようとしていることに対して「イスラエルに留まろうとは思いませんか?」と質問する場面が印象的である。ジャーナリストとしてイスラエルには重要な取材対象や調査項目があるのだが、自分がやりたいことを実現するには外へ行くしかないと語られており、人材が流出する状況の生々しさが現出した場面だと感じた。また、女性が選挙に行く場面もスウェーデンのテレビ放送だから撮られていた点も興味深い。

61.ブルータリスト/The Brutalist(ブラディ・コーベット、2024年、215分)

ブルータリスト(2024年)
※映画.comより画像引用

1919年、ドイツ・ワイマール共和国でヴァルター・グロピウスが「建築の家」を意味する美術学校バウハウスを設立した。「すべての造形活動の最終目標は完璧な建築にある」と宣言したグロピウスは、パウル・クレーやワシリー・カンディンスキーを始めとする名だたる教授陣を集め新しい建築のありかたを模索した。その中でインターナショナル・スタイルを確立させていく。鉄、コンクリート、ガラスを用いた、装飾性を排した合理的建築のありかたが定式化されていったのだ。しかし、バウハウスは度重なる資金不足、政情不安に悩まされた。結局、ナチス・ドイツによる迫害で閉校することとなり、バウハウスの芸術家たちは離散した。

架空伝記ものである『ブルータリスト』は、ドイツからアメリカへ流れついた男の建築にまつわる作品となっているのだが、物質的な建築を通じてイスラエル建国と芸術家における心理的聖域の確立を表現している点が興味深い。ナチス・ドイツの迫害を受けて離散したユダヤ人はイスラエル建国を目指す。その運動はアメリカへ伝わり、第二部では娘と恋人が政治的意志でもってイスラエルへ渡る。一方で、主人公であるラースロー・トートは実業家であるハリソンに見いだされ、プロテスタント教会、図書館、そして体育館が一体となった複合施設マーガレット・ヴァン・ビューレン・コミュニティセンターを建造することとなるのだが、段々と施設はラースローの心象世界となっていき大衆施設からほど遠いものとなってしまう。特定の群のために建てられる点でイスラエルとマーガレット・ヴァン・ビューレン・コミュニティセンターは繋がっている。しかし、ユダヤ人のために建国されたイスラエルに対して、マーガレット・ヴァン・ビューレン・コミュニティセンターは個人的なものへと留まる。迫害された者が、迫害できない心理に聖域を作ろうとする様と共鳴することで戦後ユダヤ人がどのように社会と向き合おうとしてきたかを多角的に示しているのだ。

62.唯一、ゲオルギア/Alone, Georgia(オタール・イオセリアーニ、1994年、246分)

唯一、ゲオルギア(1994年)
※映画.comより画像引用

本作は『群盗、第七章』や『月の寵児たち』などで知られるジョージアの巨匠オタール・イオセリアーニが、内戦で荒れる本国を前にどうしてそうなってしまったかを語る歴史ドキュメンタリーとなっている。彼の運動によるコミカルなアクション芸を期待して観ると肩透かしをくらう作品ではあるが、ジョージア史を4時間で学べる貴重な資料である。

序盤は、建築の側面からジョージアの歴史が語られる。世界遺産であるゲラティ修道院をはじめとする、修道院文化、村の習慣、クヴェヴリワイン醸造の現場を語る。ジョージアの村は完全に個人主義だったらしく、同じ村の中で干渉することは少なかったという話に驚かされる。また、修道院は次々と新しい様式に建て替えられる文化があったという話からはバグラティ大聖堂のことを思い浮かべる。1994年、古代ジョージアの中で最も重要な文化の中心地を伝える場としてバグラティ大聖堂とゲラティ修道院は世界遺産に登録された。しかし、バグラティ大聖堂で行われた再建工事によって顕著な普遍的価値が損なわれたとして2017年に世界遺産から削除されてしまった。このような再建が行われてしまった背景や村の価値観が見えてくる。また、バルコニー文化が「文化」として保存されず、観光地用に消費されてしまっているとの指摘には、世界遺産の勉強をしている者として重要な観点だと改めて認識する。

中盤からは、ソ連による侵略の歴史が描かれているのだが、ロシアのウクライナ侵攻に通じるものがある。分断を生み出すべくジョージア政府にぬるっと入り込み、内戦に持っていこうとソ連のいやらしさを徹底的に突きつけられる。そして何よりも、ソ連に所属することによって「ジョージア」が世界から認識されず、文化がソ連の所有物になってしまう状況への憤りは、ボルシチがロシア料理として扱われた際にウクライナ人が感じるものに通じる。ジョージア史を知るための貴重な一本であることは間違いない。

63.ミスター・ランズベルギス/Mr. Landsbergis(セルゲイ・ロズニツァ、2021年、248分)

ミスター・ランズベルギス(2021年)
※映画.comより画像引用

ドキュメンタリー映画の配給に強いサニーフィルムによって、日本でも紹介される機会が増えてきたベラルーシ生まれウクライナ育ちのセルゲイ・ロズニツァ監督。彼はリトアニアをソ連から独立に導いた元リトアニア国家元首であるヴィータウタス・ランズベルギスに取材をし、4時間にまとめた。

ピアニストからリトアニア国家元首になった男ランズベルギスはゆっくり腰を下ろし、物腰柔らかに語り始める。それはまるで歴史の授業のように、淡々と事実が述べる。もちろん、彼は当事者だから主観的な語りが混ざる。激動のリトアニア史に客観性を持たせるため、本作はフッテージを用いて裏を取る。そこにはロシア、リトアニアどちらかに肩入れするようなものではなく、当時起きていたことを均一に提示していくものとなっている。これはバビ・ヤール終盤における、群衆がもたらす暴力性を明らかにする運動に近い。

人々は、混沌とし明日も分からぬ、そして自分の身に危険を感じている状況下で、一定の方向に歩もうとする。その流れの中で強烈な暴力が生まれる。やぐらを倒したり、膨大な人の波として敵対勢力になだれ込んだりする。その過程で、ソ連側は威嚇射撃をするもやがて、正面から撃ち込み、戦車も爆撃を始める。本作のフッテージは一貫して、人が群れることによって発生する暴力性について物語っているといえる。フッテージは時に、個に着目する。個々は自分の意志で、勲章を捨てたり、抗議の活動をしている。だが、マクロな視点での群れを見た時、その行動は群集心理として作られたもののようにも見える。自分で行動しているようで群れの流れにそって生み出された行動とも思えるのだ。

ランズベルギスは、政治家になりたかったかと尋ねられると、「普通の人生を送りたかった」と語る。音楽で生活し、家族と共に過ごしたかったと。それが叶わなかった今、ようやく手にした静謐の中、残り少ない人生を歩む彼を見ると、彼もまた、激動の中に巻き込まれてしまった犠牲者なんだということに気付かされる。フラットに歴史を捉えることで明らかにされる群集心理についての作品であった。

64.精神の声/Spiritual Voices(アレクサンドル・ソクーロフ、1995年、328分)

精神の声(1995年)
※IMDbより画像引用

ソ連の崩壊により1991年にタジキスタンは独立する。しかしながら、翌年に共産党政権と反政府組織との間で内戦が勃発してしまう。アレクサンドル・ソクーロフはタジキスタンに派兵されたロシア軍を追った。このように聞くと、激しい戦闘の瞬間が捉えられるスペクタクル的なものを連想するが、ソクーロフはスペクタクル性を排除することで兵士たちのやつれた心理へと接近する。

雪原を定点でカメラが捉え続ける中、モーツァルトやベートーヴェンの音楽が流れ、彼らにまつわる語りがボソボソと語られていく。たとえば、モーツァルトの死後、家族に残されたものはなにかと考察する場面がある。語り手は「不滅の名、寄る辺ない二人の幼子と妻、未払いの借金」であると言う。内戦とは関係のない、タジキスタンからも離れた話が全く代わり映えのしないイメージの中で語られていくのだが、じっくり観ると、遠くで狼煙があがる。そしてオーバーラップして寝ている人の姿が映し出される。戦地で兵士がみる夢ないし物理的場所から隔絶された聖域としての思索が表象される。戦争パートへと移ると、全貌が見えず狭い視野の中虚無に向かって銃を放ち、彷徨う兵士たちの姿が映し出される。スペクタクル的な戦闘もなければ、破滅はなかなか訪れず間延びした時間がセピアに染まった世界に広がっている。兵士たちの虚ろな心が焼き付いた5時間半におよぶイメージなのだ。

65.祖国 イラク零年/Homeland(Iraq Year Zero)(アッバース・ファーディル、2015年、334分)

祖国 イラク零年(2015年)
※映画.comより画像引用

戦争や紛争地帯を撮ったドキュメンタリーはどうしても監督の強い意志によって、激しい爆撃や崩壊する医療現場を撮りがちだ。無論、そういった作品は傑作であることが多い。

しかし、この『祖国 イラク零年』を観ると、戦争や紛争と市民の関係は、にじり寄るようにと悲劇が浸透していくものなのではと考えずにはいられない。アッバース・ファーディル監督は15年ぶりにイラクへ帰ってくる。彼はカメラを回し、家族とともに団欒とした日常を捉えていく。料理を作り、ベランダでは子どもたちが庭の実を投げ合って遊んでいる。しかし、アメリカとの情勢が悪化し、テレビではサダム・フセインのプロパガンダが放送されている。町では有事に備えて準備が行われている。少年たちは、学校に行かず井戸掘りを手伝っている。

映画の前半では、首都陥落するまでの日常が描かれている。そこに描かれているのは紛れもなく我々が『この世界の片隅に』で目撃したゆるく笑いに満ちた生活と、その延長に薄っすら浮かぶ戦争の足音だ。ギャラリーでは戦死者のポスターなどが貼られているし、日夜テレビでは戦争のことが話されているのだが、現実味がない。市民も、子どもだって政治や大人社会の不条理について語るのだが、でも心のどこかには虚構なのではといった感情が揺らめく。商店街では、宝石商や職人、屋台のおっちゃんがせわしなく働いており、陽気な生活が持続されている。カメラはそんな日々を捉え続ける。

しかし、首都陥落後を描いた後編では一気に様子が変わってくる。車で移動するのだが、至る所に軍人がいて、「ここは軍が管理しているから通行できない」と追い返されてしまう。イラク国立博物館には戦車が鎮座し、少年は「アメ公さんや、お茶はイランか?」「魚持ってねぇか?」と煽っている。

首都が陥落しても日常は続く。そこにもどこか生を感じない居心地の悪さがある。家はインフラが途絶えたのか、電気がつかず、ランプで灯りを作り出しているし、近所では簡易シェルターで暮らしている人がいる。ただ、市民は怒っていた。どこにもぶつけようのない怒りをカメラに向かって語りかける。映画関係者は、映画館が潰れてしまったこと、イラク映画史における貴重なアーカイブフィルムが破壊されてしまったことに怒りを露わにする。少年は、学校に2年も行けていないことに怒りを露わにするのだ。

そして、そんな静かなる怒りをよそに夜な夜などこからか銃撃戦の音がする。どこで銃撃が行われているのか分からない不安、いつ復興するのか、いつ平和が訪れるのか分からない地獄をただひたすら生きるしかない。彼らは笑って冗談を言っているように見えるが、そこには哀しみが見える。

戦場の恐怖を捉えることばかりに注目されがちなこの手のドキュメンタリーとして、ここまで自由にありのままのイラクの生活を捉えたのは本当に奇跡である。人類にとって大事な負の遺産としてこの映画を守っていかないのである。

余談だが、本作は意外な監督が賞賛している。『みんなのヴァカンス』や『7月の物語』で知られるギヨーム・ブラック監督がカイエ・デュ・シネマの2010年代ベスト映画に本作を挙げているのだ。以下、順不同であるが彼の挙げた2010年代ベスト映画である。

祖国 イラク零年
(アッバース・ファーディル、2015)

6才のボクが、大人になるまで。
(リチャード・リンクレイター、2014)

おおかみこどもの雨と雪
(細田守、2012)

テイク・シェルター
(ジェフ・ニコルズ、2011)

アラビアンナイト
(ミゲル・ゴメス、2015)

L'Escale
(カーヴェ・バフティアリ、2013)

ライフ・ゴーズ・オン 彼女たちの選択
(ケリー・ライカート、2016)

湖の見知らぬ男
(アラン・ギロディ、2013)

ありがとう、トニ・エルドマン
(マーレン・アーデ、2016)

ブライズメイズ 史上最悪のウェディングプラン
(ポール・フェイグ、2011)

プティ・カンカン
(ブリュノ・デュモン、2014)

La Coupe à dix francs
(Philippe Condroyer、1974)

Cahiers du Cinema N 761 - les Annees 2010 - Decembre 2019より拙訳引用

【目次】

《第0章:まえがき》

《第1章:超長尺映画入門》

《第2章:超長尺映画作家たちPART1》

《第2章:超長尺映画作家たちPART2》

《第3章:果てしなく長い語り》

《第5章:シリーズを完走する》

《第6章:執念の眼差しとしてのドキュメンタリー》

《第7章:深淵なる実験映画》

《第8章:List of longest films掲載作品を観る》

※サムネイルは映画.comよりクロード・ランズマン『SHOAH ショア』の画像を引用



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CHE BUNBUN 映画ブログ『チェ・ブンブンのティーマ』の管理人です。よろしければサポートよろしくお願いします。謎の映画探しの資金として活用させていただきます。