紫陽花恋歌 『私を染めた、青の記憶』
雨の日は、世界が少しだけ優しくなる気がする。
アスファルトを叩く単調なリズムが、
余計な雑音をすべてかき消してくれるから。
鎌倉、明月院。
「悟りの窓」の向こう側に広がる新緑も美しいが、
今日の僕の目的は、参道を埋め尽くすほどの**「姫あじさい」**だった。
「やっぱり、雨の日のほうが似合いますね」
隣で傘をさす結衣(ゆい)が、小さく笑った。
彼女の持つ透明なビニール傘には、大粒の雨滴がいくつも弾け、
ダイヤモンドのように光っている。
僕と結衣は、大学の文芸サークルで知り合った。
彼女はいつも、古い詩集のような静かな空気を纏っている。
付き合い始めて半年になるけれど、
僕はまだ、彼女の心の奥底にある「本当の言葉」を掴みきれずにいた。
💞移ろう色、揺れる心
紫陽花の花言葉は、少し複雑だ。
**「家族の団らん」という温かいものもあれば、
「移り気」や「冷淡」**といった、
突き放すような響きも持っている。
「ねえ、蓮くん。紫陽花の色って、土の性質で決まるって知ってた?」
結衣が、淡い青色の花びらに指先を近づけた。
「酸性なら青、アルカリ性なら赤。自分じゃ選べない環境に、
色を決められてしまうの。
なんだか、少し寂しいと思わない?」
「……環境に染まることが、必ずしも悪いことじゃないと思うけど。
その場所で一番綺麗に咲こうとしている結果だし」
僕がそう答えると、結衣は一瞬だけ、悲しそうな目を崩した。
その表情の意味を問おうとした瞬間、
彼女はくるりと背を向け、石段を上がり始めた。
「私ね、来月からフランスに行くことになったの」
雨音に紛れて消えてしまいそうな、細い声だった。
☂️降り止まぬ雨の中で
立ち止まる僕の足元で、濡れた土の匂いが立ち上がる。
「留学……? 初めて聞いたよ」
「言ったら、蓮くんを困らせると思って。
でも、この雨が止む頃には、私、もうここにはいないから」
彼女の言葉は、紫陽花の色が少しずつ変化するように、
僕たちの関係を塗り替えていく。
昨日までの「日常」という色が、急速に「追憶」へと褪せて行きかけた。
「フランスでも、紫陽花は咲くのかな」
僕は、精一杯の言葉を絞り出した。
引き止める権利なんて、僕にはない。
彼女が選んだ道だ。
けれど、胸の奥が刺すように痛む。
「どうだろう。でも、もし見つけたら、今日のこの雨を思い出すよ」
結衣は振り返り、僕を見つめた。
その瞳は、雨に濡れて一層鮮やかさを増した紫陽花の青と同じ、
深く、吸い込まれそうな色をしていた。
✉️残された香り
一ヶ月後。
予報通りに梅雨が明け、鎌倉を焼き付けるような夏の日差しが訪れた。
僕の手元には、一通の絵葉書が届いている。
差出人は結衣。
消印はパリ。
そこには、現地の公園で撮ったという、
白い紫陽花の写真が添えられていた。

「こっちの紫陽花は、真っ白でした。何色にも染まらないまま、凛と咲いています。私も、そんな風に強くなれたらいいな」
文末に添えられた小さな文字をなぞる。
彼女はもう、僕の知らない空の下で、新しい自分を咲かせ始めている。
僕の部屋の窓の外では、盛りを過ぎた紫陽花が、茶色く枯れ始めていた。
けれど、雨が降るたびに僕は思い出すだろう。
あの青い参道で、二人で分け合った一つの傘と、静かな恋の歌を。
💗柊紅葉💗

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