『鏡の中の砂時計』
美しさは、時に鋭利な刃物となります。
自分を磨き上げるほどに、
その刃は自らの心を、
そして存在そのものを削り取っていく。
鏡の中に映る「理想」に魅入られたとき、
人は何を引き換えにするのでしょうか。
静かな夜、耳鳴りのように響く悪魔の囁きに、
どうぞ耳を澄ませてみてください。
柊紅葉
渋谷の交差点は、巨大なバイキング会場のようだった。
風に乗って運ばれてくるキャラメルの甘い香りと、
肉を焼く暴力的なまでの脂の匂い。
美月は胃の奥が疼くのをこらえ、
奥歯を噛み締めた。
「そんなの無理だって。美月、先週も『明日から』って言ってたじゃん」
昼休み、同僚の理恵がコンビニの唐揚げ棒を頬張りながら鼻で笑った。
その無遠慮な咀嚼音が、美月の神経を逆なでする。
絶対に見返してやる。
彼女は心の中で、自分を馬鹿にした同僚たちの顔を、
黒いマジックで塗りつぶした。
その夜から、美月の部屋は静かな戦場へと変わった。
好物だったデパ地下の惣菜も、
深夜のポテトチップスも、
すべてゴミ箱へ捨てた。
代わりに、味のしないオートミールと、
四肢を引きちぎるようなストレッチが日常を埋め尽くす。
「……食べて」
最初にそれを聞いたのは、
ダイエットを始めて一ヶ月が過ぎた頃だった。
耳鳴りのような、掠れた低い声。
空腹で意識が朦朧とする深夜、
枕元で誰かが囁いた気がした。
しかし、周りには誰もいない。
「もっと、削らなきゃ……」
美月は強迫観念に突き動かされるように、
さらに食事を制限した。
鏡を見るたび、頬の肉が削げ、
首筋のラインが浮き出てくる。
その変化が、何よりも甘美な報酬だった。
三ヶ月が経つ頃、美月は別人のようなスタイルを手に入れていた。
タイトなワンピースに身を包んで出社すると、
かつて自分を嘲笑った男たちが、
吸い寄せられるように視線を送ってくる。
理恵たちは遠巻きに自分を見ているが、
その目は明らかに冷ややかだった。
「何よ。私が綺麗になったのが、そんなに面白くないの?」
美月は優越感に浸り、ハイヒールの音を響かせて歩いた。
世界は自分の手の中にある。そう確信していた。
しかし、あの大嫌いな耳鳴りは、
消えるどころか日増しに強くなっていった。
「……足りない。もっと、美しく」
声はもはや、美月の頭蓋骨の内側で反響していた。
理想の体重になったはずなのに、
鏡に映る自分はまだ「太っている」ように見える。
もっと削らなければ。もっと、もっと。
ある夜、美月は気づいた。
どれだけ運動しても、どれだけ食事を抜いても、
もうこれ以上体重が落ちない。
数字は停滞し、鏡の中の自分は「完成」を拒んでいる。
「どうすればいいの? 教えてよ!」
暗闇に向かって叫んだ美月に、悪魔が答えを授けた。
それは、脳を痺れさせるような、恐ろしくも魅力的な提案だった。
翌朝。
美月は会社に現れなかった。
心配した理恵が彼女のマンションを訪ねると、鍵は開いたままだった。
部屋の中に、美月の姿はなかった。
ただ、リビングの中央に置かれた姿見の前に、
脱ぎ捨てられたタイトなワンピースと、
大量の「砂」がこぼれていた。

それは、人間の骨を極限まで砕き、
磨き上げたような、白く美しい砂だった。
床に散らばった砂の上には、美月が愛用していた口紅で、
鏡にこう書き残されていた。
『究極の軽さへ』
窓から入る風に吹かれ、美月だったはずの砂は、
音もなく夜の街へと消えていった。
あとがき
「変わりたい」という純粋な願いが、
いつの間にか引き返せない場所への片道切符に変わってしまう。
そんな人間の脆さと、執着の果てにある虚無を描いてみました。
最後に残った白い砂は、
彼女の解放だったのか、
それとも罰だったのか。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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