人生のドーパミン遺産(6)第五章 後悔を先に知る
第五章 後悔を先に知る
タイムバケツの用紙は、机の上にあった。
昨日と同じ場所で、昨日と同じ白さのまま。
カードは置けるようになった。でも、その先が続かない。あの夜から、三日経っていた。
ソファに寝転んで、スマホに手を伸ばしかけて——ふと、思い出した。
書店の、あの本。
「死を意識すると、人は変わる」という見出しの。
猫だるまに見つかって、慌てて棚に戻した本。
あのとき、なんで戻したんだろう。
終活の本を持っているところを、見られたくなかったのだ。二十四歳が死ぬことを考えるなんて、変だと思われる気がして。
でも——変、なのかな。
土曜の昼、もう一度、あの書店に行った。
終活のポップは、同じ場所にあった。
本も、同じ場所。
手に取る。
レジの店員さんが、本とわたしの顔を、ちらりと見比べた。
「……自分用です」
聞かれてもいないのに、言っていた。
その夜、ソファに座った。
買った本は、タイムバケツの用紙の上に置いてある。
白い紙の上に、死の本。
真っ白なタイムバケツと、誰かの最期を集めた本が、同じ机の上に並んでいる。
表紙が、まだ開けない。
開いてしまったら、もう言い訳できない。
「読まないのかにゃ」
「ひゃっ」
振り向くと、ソファの背もたれに猫だるまが乗っていた。
「いつからいたの」
「いつでもいるにゃ」
「それ、怖いからやめてって言ってるのに」
猫だるまは本を覗き込んだ。
「にゃにゃ。買いに行ったにゃ」
「……まあね」
ページをめくる前に、気になっていたことを聞いた。
「これ書いた人って、どんな人なんだろう」
「調べたにゃ」
猫だるまが、すっと画面を見せてきた。
大きなエビフライとタルタルソースが中央にあり、脇には白ワインのボトルが氷に浸されている。
「おいしそう。ってかエビフライ大きいな。お皿からエビの頭がはみ出てるよ」
添えられた新鮮なレモンの果汁が画面から飛び出してきそうだ。うれしい悲鳴とともに、よだれが出始める。
「にゃにゃにゃ。間違えたにゃ。こっちにゃ」
猫だるまが慌てて画面を切り替えた。
ブロニー・ウェア。
オーストラリアの、緩和ケアの看護師。何年もかけて、何百人もの人の最期に立ち会い、そこで聞いた「後悔」を書き留めた人。この本には、その五つのリストが載っている。
「猫ちゃん。さっきのエビフライは何」
「行きつけにゃ」
「それ、快楽報酬って言うんだよ」
「悪くないと言ったのは、ゆずにゃんにゃ」
笑ったら、少しだけ、力が抜けた。
表紙を開き、最初の一行を読んでみた。
「重っ」
思わず声が出た。
次を見ると、Kさんの顔が浮かぶ。
その次で、ページをめくる手が止まった。会議室。白い蛍光灯。何も言えなかったことを思い出した。
四つ目、五つ目は読んだのに頭に入らなかった。
「何これ。全部後悔じゃん」
「後悔リストにゃから」
「これさ」
本を見つめたまま言った。
「全部違うこと言ってるのに」
少し考えた。
「同じこと言ってる気がする」
手が震えたのは、そのときだった。
「生きた証を残さなかったこと」
指先が、冷えて、しびれてくる。
Kさんの顔が浮かんだ。
いや——「浮かんだ」というより、「出てきた」。
本当は、ずっとそこにいた。
「俺は生きた証を残したい」
あのとき、Kさんはどんな顔をしていたか。わたしは覚えている。会議室の白い蛍光灯の下。
そのとき、父の言葉が降ってきた。
——もうここしかないと知っている目。
わたしは息を止め、ソファの上で、動けなくなった。
——待って。
それは。
Kさんの、あの目だった。
会議室を出ていくとき、ドアの前で一瞬振り返って——わたしを見た。あの一瞬の目が、ずっとどこかに引っかかっていた。うまく説明できなかった。でも今なら言える。
あの目は、ただ——もうここしかないと、知っていた目だった。
「同じだ」
声に出していた。
父が古代で見た目と。Kさんの、去り際の、あの目が。
「猫ちゃん」
「にゃ」
「お父さんが見た古代の人の目と、Kさんの目が……同じだと思う」
猫だるまは、しばらく黙っていた。猫だるまにしては珍しい、長い沈黙。
「……それは、ゆずにゃんにしか気づけないことにゃ」
「なんで」
「父の言葉を受け取って、Kさんにも会ったのは、ゆずにゃんだけにゃから」
時代が違っても、同じ目をした人がいる。
「ただ——もうここしかないと知っている」人が、古代にも、現代にも、いる。
お父さんは——古代でその人たちを見て、ずっと覚えていた。それを、わたしに渡した。
「遺産って」
わたしは天井を見上げて言った。
「こういうことなのかな」
Kさんは、式典を残そうとした。
お父さんは、古代で見た目を、わたしに渡そうとしている。
お兄ちゃんは、何百年も残る大判の、書き手を追いかけている。
陽太だって、何かを掴もうとしている。
みんな、何かを残そうと、もがいている。
じゃあ、わたしは。
仕事をして、給料をもらって、動画を見て、寝る。四十分が消えて、二時間が消えて、一日が消えて——そうやって、ただ、年を取っていく。
わたしが死んだあと、わたしがここにいたことを、何が、証明してくれるんだろう。
タイムバケツの真っ白い紙。
——俺は、生きた証を残したかったんです。
Kさんの声が、自分の声になって聞こえた。
その夜、わたしはタイムバケツの用紙を机の前に広げた。
前回は、本当に欲しいものが書けなかった。カードは並べたけれど、どれも借りものの言葉で、自分のものだと思えなかった。「自分にはやりたいことがない」という事実が、重くなっていく。
でも今夜は——違った。
「生きた証を残さなかった」という後悔が、恐怖になっていた。自分への恐怖。「このままではKさんと同じ後悔をする」という恐怖。
ペンを持った。
「古代へ行く」
最初に書いたのは、それだった。自分でも驚いた。お父さんに言われて、義務感で書くつもりだったのに、手が先に動いていた。
「お父さんにもう一度話を聞く」
「お母さんと旅行」
「Kさんに、声を届ける——届け方はまだわからないけれど」
今日は止まらない。これまでは、自分の言葉がひとつも出てこなかったのに。
やりたいことを思いつくまま書いてみた。
「ミュージカルを観る」
「高級レストランで食事」
その勢いで、「結婚」
さすがに二十代前半には入らないよね。相手もいないし。
でも書いてみると、気持ちまでわくわくしてきた。
寝る前に、父からLINEが来ていた。
「あきらが大判の主催者に連絡を取ったらしい。門前払いだったって。でも、まだ調べているそうだ」
わたしはそのLINEを何度か読んだ。「あきらがんばれ」とも、「難しいな」とも書いていない。ただ、報告だけ。
「断れなかっただけ」と言っていたあきらが——諦めていない。
その夜、眠れなかった。
でも、不思議と気持ちは重くなかった。
机の上には、
『古代へ行く』
と書かれた紙がある。
前は、借りものの言葉だけだった。
今は違う。
父が「あの目」を渡してくれた夜から、ずっと、そこにあったのかもしれない。
さっそく、書いたばかりのカードを一枚、実行してみることにした。
『ミュージカルを観る』
観たかった演目は、とっくに売り切れ。人気公演だと、予約日に埋まることも珍しくないらしい。やっぱりね、と画面を閉じた。何となく諦めがつかず、時間を置いて、何度もサイトをチェックした。
すると、キャンセルが出たのか、二席だけ空いているタイミングがあった。
でもどうしよう。
ミュージカルガチ勢の中、一人でぽつんと座るのは、心細い。
かといって、こんな直前に誘って、来られる人なんて——。
いた。一人だけ。最近やたらと身軽な、あいつだ。
「ミュージカル、っすか」
電話の向こうで、陽太は気の抜けた声を出した。
「ちなみに興味ないっす。でも、逆に行くっす」
陽太は「ちなみに」と「逆に」が口癖だ。変な日本語だが、特に意味はないらしい。
「どっちなの」
「興味がないことに、興味があるんす」
相変わらず、よくわからない。でも、来るらしい。
待ち合わせに現れた陽太を見て、一瞬、別人かと思った。
職場のよれたシャツではなく、きちんとした上着。髪も、整えてある。
暗転した劇場で音楽が鳴った瞬間、少しだけ、泣きそうになった。理由は、自分でもわからなかった。
隣を見ると、興味がないはずの陽太が、誰よりも前のめりになっていた。
幕が下りたあと、陽太がぽつりと言った。
「生身の人が、生きた声で歌うと、こんなに違うんすね」
わたしがうまく言葉にできなかった気持ちを、そのまま掬い取ったような一言だった。
トクン、と胸が音を立てる。
終わったあとの勢いで、もう一枚のカードも実行した。劇場の近く、高級ホテルのテラスにあるレストラン。
大きなエビフライ。たっぷりのタルタルソース。氷に浸かった、白ワイン。
——見たことある。猫ちゃんが間違えて見せてきた、あの写真だ。
猫ちゃん、こんないい店、よく知ってたな。
一口食べると、すぐ来て、すぐ消える、おいしさ。エビフライも白ワインも、たしかに快楽報酬だ。
なのに今日は、胸のあたりがじんわり温かい。
観たいものを自分で選んで、緊張しながら誰かを誘って、こうして余韻を分け合っている。
すぐに消える快楽報酬のはずなのに——。
「お待ちください」
突然、場にそぐわない大声が響いた。
「誰か、その猫を捕まえて」
見ると、丸い猫が一匹、出口へそそくさと走り、店員に捕まえられていた。
「小判では、お支払いいただけません。現金でお願いします」
「小判のほうが、価値が高いにゃ」
「そういう問題ではございません」
また猫ちゃんか。押し問答に頭を抱えかけたとき、もう陽太が席を立っていた。
「俺が出すんで、大丈夫っす」
さらりと伝票を受け取り、それから、揉めている猫に、軽く笑いかけた。
「グルメっすね。今度、いい店教えてほしいっす」
声をかけられた猫ちゃんが、きょとんとしている。
見ず知らずの、しかも小判で揉めている猫に、嫌な顔ひとつしない。
職場では、何を考えているかわからない変な人。なのに今は——。
いけない。気のせいだ。ワインが、少し回ったんだ。
「ゆずさん」
陽太が、わたしの手元を覗き込んでいた。タイムバケツのカードに、チェックをつけようとしていたところだった。
猫だるまは、いつの間にかデザートのプリンまで、ちゃっかり食べている。
「今日、三つも達成したっすね」
「三つ?」
ミュージカルと、食事と——。
陽太が、いたずらっぽく一枚を指した。
『結婚』
「…………」
「ちなみに、冗談っすよ」
「逆に、ね」
落ち着かずに手鏡を見ると、わたしの頬が、オレンジ色に染まっていた。
たぶん、夕焼けのせいだ。
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【全話もくじ】人生のドーパミン遺産 ― 猫だるまと渡す、20代からの終活 ―
(1)プロローグ 遺産分割
https://note.com/jolly_lotus814/n/n687cd0dd5751
(2)第一章 声にならない言葉
https://note.com/jolly_lotus814/n/n6a3b19da90e1
(3)第二章 生きた証
https://note.com/jolly_lotus814/n/n7933a6164818
(4)第三章 メメント・モリ
https://note.com/jolly_lotus814/n/n47f7db7cd5a6
(5)第四章 人生のカードゲーム
https://note.com/jolly_lotus814/n/ne940872a5043
(6)第五章 後悔を先に知る
https://note.com/jolly_lotus814/n/n0fe9a6a2aeab
(7)第六章 行く、と決めた
https://note.com/jolly_lotus814/n/nb0372931122c
(8)第七章 時を越えた形見
https://note.com/jolly_lotus814/n/nfd2381d40a05
(9)第八章 占い師と産業カウンセラー
https://note.com/jolly_lotus814/n/ndb68876446da
(10)第九章 帰る場所
https://note.com/jolly_lotus814/n/n9f46c63dc7aa
(11)エピローグ 余白を受け取る
https://note.com/jolly_lotus814/n/n3dea09cc614c
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