人生のドーパミン遺産(7)第六章 行く、と決めた
第六章 行く、と決めた
気づくと朝になっていた。
タイムバケツの用紙は、机の上に広げたままだ。起き上がって確認すると、あの夜書いた文字がそこにあった。
「古代へ行く」
まるでペンが先に動いたような感覚だったけど——日の光の中で見ると、疑いようもなく、見慣れたわたしの字。
「古代へ行く」と書いた紙を見ていると、父のことを思い出した。
「詳しい話は——また、する」と言った日から、しばらく経っていた。父から電話があったのは、少し前のことだ。
「ゆず、聞けるか。あのとき、途中になったままだったから。古代で会った人たちのこと」
父は静かに話した。
その中に、名前も知らない女性がいた。奴隷として扱われていた。でも父たちが解放に加わったとき、別れ際に芋をくれたのだという。貧しいのに、持っているものを全部。
「みんなで焼き芋にして食べたんだ」
まるで目の前に見えているかのように話し続ける。
「……あの顔が、今でも胸に残っている。あの人たちがその後どうなったか、ずっと気になってるんだ。お礼もできないまま、また行くこともできなくなった。あの人は、もう死んでいるかもしれない。でも、確認したいんだ——だから、頼みたい」
「どうやって行けばいいの」
「銅鏡は神様を祀ったり、占いに使われていた道具だ。その銅鏡を、じっと見つめてみろ。鏡の中に吸い込まれる感じがするはずだ。俺はそうやって行けた。ゆずもきっと——」
それでも、まだ「行く」と決めてはいなかった。
お父さんに頼まれているから行く。
「あの目」が気になるから行く。
でも、それは「行きたい」と同じなんだろうか。
——わからないまま動くのも、怖かった。
古代へ発つ準備を、どう進めよう。そんなことを考えていた矢先、瀬川さんのことで、人事に相談を持ちかけた。
彼女には、はっきりした強みがある。人と向き合う仕事なら、誰より力を発揮する。ただ、いまの段取り中心の仕事は、その特性と、噛み合っていない。
「特性っていうのは——得意と苦手の差が、人より大きいんです。だから、苦手な事務で測るより、得意な対人の場所に——」
「特性?」
担当者が、聞き返した。
「つまり——障害、みたいな話ですか」
「いえ、そうじゃなくて」
慌てた。
「誰にでも、得意不得意はあるじゃないですか。瀬川さんは、その凸凹が、少し大きいだけで。凸のほうを活かせたら、すごく戦力になると思うんです」
担当者は、メモを取りながら頷いた。
「本人の特性に合わせた配慮、ですね」
「はい。配置転換を、検討していただけたら」
そのときは、伝わったと思った。
それから、しばらくして。
会社の受付で、瀬川さんとすれ違った。
私服だった。手に、小さな紙袋。
「先生。お世話になりました」
「今日は、お休みですか」
「いえ。今日で、最後なんです」
「最後……?」
「辞めることにしました」
息が、止まった。
「次のところも、まだですけど。でも、いいんです」
瀬川さんは、笑っていた。
「先生に『特性』って言ってもらえたとき、救われたんです。ダメなんじゃなくて、向いてないだけなんだって」
よかった、と言いかけた言葉が、行き場をなくした。
「でも、人事の方に教えてもらって。わたし、発達障害だったんですね」
——え。
「先生も、そう言ってたよって。無理にこの仕事を続けるより、自分に合った道を、って。会社も、配慮しますって」
紙袋を、持ち直す。
「やっと、納得できたんです。ああ、障害だったから、こんなに迷惑かけてたんだって」
怒ってもいない。恨んでもいない。
むしろ——感謝するみたいに。
「だから、いいんです。ありがとうございました」
頭を下げて、瀬川さんは受付を出ていった。
自動ドアが、閉まる。
——わたしだ。
「特性」と人事に言ったのは、わたしだ。守るつもりだった。
その言葉が、本人に届くころには、「障害」に変わっていた。札に書き換えられて、瀬川さんの胸に貼られていた。退職を、納得させるために。
わたしが言わなければ。瀬川さんは、まだ、あの席にいたかもしれない。
——取り返しが、つかない。
謝ることも、できなかった。わたしのせいだと気づかず、いや、おかげだと思って、帰ってしまった。
胃の底に、冷たいものが溜まっていく。
Kさんのときは、何も言えなかった。次は、ちゃんと言葉にしようと思った。
その言葉が、これだ。
——人を、一人、沈めた。
受付の床の一点を、見ていた。
数日が過ぎても、あの「ありがとうございました」が、耳の奥で鳴っていた。
昼休み。
自販機の前で缶コーヒーを買おうとしていると、後ろから声がした。
「ゆずさん」
振り向くと、陽太だった。
以前より少しだけ顔色が良かった。
それだけのことなのに、なぜかわかった。
何かが動いたのだ。
「最近どう?」
職業病みたいな質問をすると、陽太は笑った。
「それ、いつもの面談みたいっすね」
「そうだっけ」
「そっす」
少し沈黙があった。
ボタンを押して、缶コーヒーが落ちる音がして、取り出した。
「実は」
陽太が言った。
「会社辞めるっす」
思わず缶を落としそうになった。
「え?」
「そんな顔します?」
「するよ」
陽太は自然に笑った。
「東南アジアにバックパッカーに行こうと思って」
「東南アジア?」
「そっす」
「英語できたっけ」
「無理っす」
「タイ語は」
「それも無理っす」
「スワヒリ語は」
「どこの国っすかそれ」
陽太は、以前より楽しそうだった。
「何かやりたいこと見つかったの?」
「それが」
頭をかいた。
「まだわからないっす」
わたしは思わず笑った。
「わからないのに行くの?」
「わからないから行くっす」
陽太は続けた。
「俺、昔は毎日ゲームしてたんす」
「ゲームね。楽しいよね」
「楽しかったっす」
「今は?」
「もっと楽しいっす」
「何が?」
「わからないことっす」
陽太は、いたずらっぽく笑った。
なるほど。
プロとしてのわたしなら、そんな無計画なことは止めたかもしれない。
「じゃあ」
わたしは言った。
「いいと思う」
陽太は少し驚いた顔をした。
「反対されると思ってたっす」
「普通は反対するかもね」
わたしがそう言うと、陽太は何かを思い出すように言った。
「みこさんが言ってたっす」
みこさん?
どうしてみこさんが出てくるんだろう。
「みこさんがこの間、俺のデスクにきたっす。みこさん、仕事辞めて実家に帰るって」
そんな話、聞いたことがなかった。
みこさんが、辞める。
実家に帰る。
突然の話に頭がついていかない。
「仕事のことはゆずさんがいるから大丈夫だけど、俺のことだけは心配だって」
「みこさんって、普段ならあれしろこれしろって言わないっす。でも俺にはその日、言ってたっす」
みこさんが陽太を指導する姿が想像できない。
「何て言ってたの」
陽太は、両手を、コップの形に丸めてみせた。
「『一日って、このコップ一杯の水と同じなの』って。『陽太のは、ゲームと動画で、底まで濁ってる』って」
「うん」
「『でもね、どんなに濁った水でも、底のほうに、小さな宝石が必ず沈んでるの。指輪の石くらい、ちっちゃいやつ』って」
「宝石」
「『濁りが多すぎると、その宝石まで黒く染まっちゃうの。だから、まず濁りを減らして、底を覗いてごらん』って」
陽太は、丸めた手のひらを、まるで水晶玉でも覗き込むように、そっと見つめた。
ゲームの画面ばかり見ていたはずのその目が、今は、何もないはずの手のひらの奥を、真剣にのぞいていた。
「『きれいな宝石が、絶対あるから』って。それで、家のもの全部出して、断捨離始めたっす」
きれいな宝石が、絶対ある。
わたしは、手の中の缶を、そっと握った。
「これまでありがとうっす」
陽太はそう言って頭を下げた。
就職した時、それどころかほんの数ヶ月前までわたしと同じような生活だったはずなのに。
背中にバックパックを背負い、スワヒリ語を話す陽太を想像して、見送った。
面談では、わたしは答えを渡していない。
わたしだけが取り残されていた。
手の中の缶コーヒーは、もう冷めていた。
プルタブを起こすと、小さな丸い口から、黒い水面がのぞいた。
底は、見えない。
陽太のは、濁っていても、水だった。
わたしのは——もう、こんなに黒い。
昼休みの四十分が、毎日、この黒さに溶けていく。
その底に、わたしの宝石は、まだ沈んでいるんだろうか。
それとも、とっくに、染まりきってしまったのか。
そのとき、スマホが震えた。
反射的に画面を見ると、通知が三つ。ニュース、動画、誰かの投稿。
指が、まるで自分の指じゃないみたいに、勝手に動いた。
一つ開いて、すぐ閉じる。また別のものを開く。数秒だけ笑って、次の瞬間には、何を見たのか、もう忘れている。
何も、残らない。
それなのに、また画面を触ろうと、指が動き続けている。
——ぞっとした。
人の声を聞く仕事をしている。でも、本当は、聞いているふりをしていただけなのかもしれない。
Kさんの声も。父の声も。陽太の声も。
——自分の声も。
スマホの画面を消すと、黒くなったガラスに、自分の顔が映った。
底は、見えなかった。
今日、二人が「行く」と言った。陽太が。みこさんが。そして——
その日の夕方、みこさんがアパートに来た。
玄関のインターホンが鳴り、画面に映っていたのは、小さくて、色白の顔だった。
「急に訪ねて、ごめんね」
子どもの頃から、猫だるまと一緒に、我が家の節目に現れる人だった。
病院でも。
あの日の荒れた部屋でも。
いつも、どこか現実から半歩ずれた場所に立っているような人だった。
猫だるまが時を越える猫なら——みこさんもまた、普通の人ではないのだろう。
だから、わたしが古代へ行こうとしていることを知っていても、もう不思議ではなかった。
玄関に入るみこさんの顔を見て、ふと思った。
この人には、帰る場所がある。
ずっとそう思っていた。
でも今夜、初めてわかった。
それは——ここではない場所なのだと。
「準備は、できた?」
やっぱり。
「……何でわかったんですか。わたしが行く気になったって」
「うーん」
みこさんは少しだけ笑った。
「うまく言えないけど。わたしも、ずっと待ってたの。ゆずちゃんが、その気になるのを」
準備のためと言って、コーヒーを淹れ、みこさんに少し待っててもらった。スーツケースを持ってきたけど、リュックの方が動きやすいと思い直した。着替え。よし。メイク道具。……古代に行くのに、ばっちりメイクで気合いを入れてどうする。でも、すっぴんで時を越えるのも、それはそれで嫌だ。お気に入りの一組だけ持っていこう。
それに、日焼け止めも。これまで徹底して美白を目指してきたんだから、ここで日焼けするわけにはいかない。パソコンの待受画面にしている色白の美人アイドルと目を合わせ、頷く。
スマホの充電器は、いらないか。古代にコンセントは、たぶんない。
現金。そもそも、邪馬台国にお金ってあるんだっけ。物々交換だとしたら、わたしが差し出せるのは、財布の小銭と、賞味期限切れのミンティアくらいだ。一応、エチケットとして持っていこう。
ガイドブックもない。乗換案内も使えない。地図アプリは、確実に圏外。
……
「荷物なんて、何もいらないにゃ。地図もあるから大丈夫にゃ」
いつの間にか、猫だるまが枕の上で丸くなっていた。
「なんだ、地図があるんだね」
猫だるまは古い紙の束を取り出した。
「ここにばっちり載ってるにゃ」
しかし、どこを見ても難しい漢字ばかりで、肝心の地図がない。
「猫ちゃん、やっぱりないみたいよ」
「魏志倭人伝、邪馬台国の位置が書いてあるから、迷わず行けるにゃ。水行十日、陸行一月」
マジか。しかも水行十日とかさらっと言ってるけど、ヤバそうなフレーズだ。
「食べ物も心配いらないにゃ。エビもカニも食べ放題にゃ」
「なんだ。そんなおもてなししてくれるんだ。気を遣わなくていいのにね」
「にゃにゃ、自分で海から取るにゃ」
エグ過ぎ。わたしの美肌計画が。
パソコンの色白アイドルがわたしに微笑んでいた。
でも、「何もいらない」が、少しだけわたしの肩の力を抜いた。
「あの目」を持つ人たちが、古代にいる。Kさんと同じ目をした人たちが。わたしが現代で声を上げられなかった分を——どこかで言わなければいけない。それが古代なのかどうかは、まだわからない。でも——わからないから、行く。
行く。
陽太が。みこさんが。そして——わたしも。
行くと、決めた。
突然、獣の低いうめき声のような音が聞こえ、コーヒーカップの割れる音がした。
何が起きたかわからず、驚いて音の方に行くと、みこさんが倒れている。
「……壱与様」
ハアハアと絶え間なく息をして、苦しそうだ。みこさんも気が動転しているようで、目の焦点が定まっていない。
「みこさん、大丈夫。何か持病はある?薬は?」
呼吸が速く、とても返事もできない。
「猫ちゃん、どうしよう」
猫だるまが大慌てで、みこの周りをグルグル駆け回る。
119番を押そうとして、指が震えて画面を何度も間違えた。
そうしていると、荒い呼吸の合間が少しずつ出てきた。
「ゆず……、ちゃん……。ごめんね……。……たまに、こうなるの。帰り道が、開いているか……占いで、確かめようとして」
しばらくすると、だいぶ落ち着いてきたので、わたしはほっとした。
いつも冷静で穏やかな、みこさんが。
それに——さっきの獣のようなうめき声。それと、さっき漏れた「壱与様」という名前。
どちらも、何だったんだろう。
銅鏡は、押し入れの奥に仕舞っていた。
しばらく触っていなかった。怖かったから、ではない——準備ができていなかったから、だと思う。
久しぶりに取り出した。
思っていたより、重かった。金属の冷たさが手のひらに広がった。鏡面には、ぼんやりとわたしの顔が映っていた。
鏡面を見ていると、意識が惹き込まれそうになる——前より、その感覚が強かった。
みこさんが小さく息を吸った。
「ゆずちゃん、自分で出したんだね」
わたしが取り出すのを、まるで何年も待っていた人の顔をしていた。
「長かったな、と思って」
みこさんは窓の外を見たまま言った。
「何が、ですか」
「こっちにいる時間が、ね」
少しだけ、声が揺れた。いつもとは違う揺れ方。
「あの日——部屋が荒れてたの、何があったんですか」
思い切って聞いてみた。
「……練習してたの。うまくいかなかったけど」
「練習?」
「帰るための、準備を。一人でやろうとして——でも、何度やっても」
そこで言葉を止めた。
「焦ってたんだと思う、正直」
みこさんは小さく笑った。
笑っているのに、目は笑っていなかった。
「なんで、一人じゃできないんですか」
みこさんは、わたしの手の銅鏡に目をやった。
「その鏡が、いるの。それから——ゆずちゃん自身が、行きたいと思うことも」
「わたしが、行きたいと思うこと。それってどういう——」
「探してたの。ずっと」
「探す?」
「壱与様を、支えられる人を」
さっき発作のとき、みこさんが呼んだ名前だった。
「まだ若いのに、たくさんの人の命を背負ってる。誰にも、弱音を吐けない」
みこさんの声が、少しだけ湿った。
「占いで支えるんじゃないの。壱与様に必要なのは——ただ、隣で話を聞いてくれる人。本当の言葉を、言わせてくれる人なの」
わたしは、自分の仕事を思い出した。
人の話を聞いて、言葉にして、返す。
「だから、現代に来たの。そういう人が、どこかにいるはずだと思って」
みこさんは、わたしを見た。
「ずいぶん長くかかったけどね」
笑っているのに、目のふちが赤かった。
「見つけたの。子どものくせに、占い師になりたいなんて言う——でも、誰より人の話を、聞いてあげられる子を」
——わたしのことだ。
「あれから、ずっと待ってた。ゆずちゃんが、自分の手で鏡を取る日を」
「これでいいにゃ」
「この銅鏡、どうすれば……」
「持っていれば、いいにゃ」
みこさんが静かに手を繋いだ。
鏡面を見つめると、視野が狭まり、周りの音が聞こえなくなっていった。
まるで広い空の下、一人で空中に浮いているような感覚。
みこさんの手の温もりだけ、わずかに感じる。
場所や時間の感覚が薄れていく——
急に、草の匂いがした。風が、顔に当たった。
目を開けると、空がどこまでも広かった。
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【全話もくじ】人生のドーパミン遺産 ― 猫だるまと渡す、20代からの終活 ―
(1)プロローグ 遺産分割
https://note.com/jolly_lotus814/n/n687cd0dd5751
(2)第一章 声にならない言葉
https://note.com/jolly_lotus814/n/n6a3b19da90e1
(3)第二章 生きた証
https://note.com/jolly_lotus814/n/n7933a6164818
(4)第三章 メメント・モリ
https://note.com/jolly_lotus814/n/n47f7db7cd5a6
(5)第四章 人生のカードゲーム
https://note.com/jolly_lotus814/n/ne940872a5043
(6)第五章 後悔を先に知る
https://note.com/jolly_lotus814/n/n0fe9a6a2aeab
(7)第六章 行く、と決めた
https://note.com/jolly_lotus814/n/nb0372931122c
(8)第七章 時を越えた形見
https://note.com/jolly_lotus814/n/nfd2381d40a05
(9)第八章 占い師と産業カウンセラー
https://note.com/jolly_lotus814/n/ndb68876446da
(10)第九章 帰る場所
https://note.com/jolly_lotus814/n/n9f46c63dc7aa
(11)エピローグ 余白を受け取る
https://note.com/jolly_lotus814/n/n3dea09cc614c
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