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人生のドーパミン遺産(4)第三章 メメント・モリ

第三章 メメント・モリ

Kさんが会社を去ってから、一週間が経った。
社内では何事もなかったかのように、仕事は続いた。
「最近どうですか」「まあ普通です」という予定調和の会話。
ドラマの裁判シーンで、弁護士が「異議あり」と叫んだり、裁判長が「静粛に」と場を制したりするくらい、見慣れた光景。
一週間の面談で、わたしは何度も「お気持ちわかります」と言った。
上司との関係で食欲がないという三十代の男性に。腰痛が改善しないので運動できないという五十代の男性に。
——お気持ちわかります。
本当に、わかっていたのか。
そんなことを考えていた頃だった。

向かいに座ったのは四十代前半の女性だった。
総務部の中村さん。
面談票には、
「最近イライラする」
とだけ書かれている。
「最近どうですか」
中村さんはすぐに答えた。
「別に普通です」
どこかで聞いた言葉。
「面談票にはイライラすると」
「ああ、それですか」
中村さんは苦笑した。
「上司ですよ」
即答だった。
「あの人とは合わないんですよ。細かいんです」
「細かい?」
「資料の言い回しとか、フォントとか」
話し始めたものの、でもどこか平坦な口調だった。
友達にも家族にも、同じことを何度も話しているような話し方。
上司。上司。一つ飛ばして、また上司。
話は全部そこへ戻る。
四十分後、面談は終わり、上司の問題は残ったままだった。
「すみません、愚痴ばかりで」
中村さんは帰り際、笑った。
その笑顔が、なぜか少し疲れて見えた。

翌週、また中村さんが面談に来た。
中村さんは椅子に座るなり言った。
「また上司の話なんですけど」
そう言って笑った。
「今日はどんなフォントの話ですか?」
「それがですね。上司が明朝体と游明朝の違いを指摘するんです。しかも会議資料を一瞥しただけで。わたしには暗号解読にしか見えません。どこかの国のスパイなのかと思うくらいですよ」
それを皮切りに、中村さんは話し始めた。
上司のこと。部下のこと。会議のこと。
内容はいつもと同じだった。
話を聞くのが好きなタイプなので、苦ではなかった。人によっては中村さんの話の繰り返しに辟易とするだろうな。耳にタコがくっついている絵が頭に浮かぶ。
でも今日は少しだけ違っていた。
途中で、中村さんの言葉が止まった。
「どうしました?」
「……あれ」
自分でも不思議そうな顔をした。
しばらく黙り、窓の外を見る。
それから、ぽつりと言った。
「わたし」
「うん」
「上司のこと、そんなに嫌いじゃないかも」
中村さんは続けた。
「もちろん腹立つんですよ」
少し笑う。
「でも、本当にしんどいのは」
言葉が止まり、目が赤くなっていく。
「受験なんです」
唇が細かく震えている。
「娘が受験なんです。毎日心配で」
涙がこぼれた。
「落ちたらどうしようって。本人の方が頑張ってるのに」
ハンカチで涙を拭く。
「私ばっかり不安になって」
わたしは黙ってティッシュを差し出した。
「わたし、上司にイライラしてたんじゃなかったんですね」
鼻をすすりながら言って、少し笑った。
「怖かったんですね」
肩が落ち、長く息を吐く。
まるで、何年も背負った何かを下ろした人の顔だった。
受験は終わっていない。
もちろん結果も出ていない。
中村さんは、わたしを通して自分を見つめた。
その鏡を通して、
『娘を心配する母親の不安』
という正体不明の苦しさを見たのだ。

ふいに、Kさんのことを思い出した。
あの人も、何かを怖がっていたんだろうか。
わたしには、最後までわからなかった。

同じ週に、もう一人、気になる相談者がいた。
瀬川さん。三十代半ばの女性。
「すみません、また休んじゃって」
椅子に座るなり、謝った。
半年前に、営業から管理部門へ異動になったのだという。
「営業のときは、よかったんですけどね」
そこだけ、声が明るくなった。客先で相手の表情を読んで、その場で言葉を返す。表彰されたこともある。
でも、異動先は、まるで違った。
「段取り、っていうんですかね。それが、どうしてもできなくて」
締め切りの管理。順番どおりの書類。
「会議では、けっこういい発言するんですよ。なのに、議事録は毎回遅れて。興味が持てないと、頭が、ぜんぜん動かなくて」
机の上は、書類で埋まっているらしい。
——わたしと、同じだ。
「こんな簡単なこと、みんな普通にできてるのに。わたし、ダメになっちゃって」
ダメ、と瀬川さんは何度も言った。
でも、ダメなんじゃない。得意と苦手の差が、人より大きいだけだ。人と向き合えば、輝く。
強みを活かせる場所に、戻してあげられたら——。
いいことを思いついた気が、していた。

金曜日の夜、コンビニでパンを手に取り、戻した。何度かそんなことを繰り返し、自分が何を買いに来たのかもわからなくなっていた。
中村さんの「怖かったんですね」は、引き出せた。
でも、Kさんには——間に合わなかった。
同じ仕事をしているはずなのに。
——Kさんのことが、頭から離れない。特にあの目が、目をつぶると目の前に見えるようだった。
「死ぬまでにやりたいこと、ありますか」
眠れない夜、天井を見ながら、何度もその言葉を繰り返した。

週末の昼下がり、ふらりと書店に入った。
特に探している本はなかったけど、部屋にいると固まりがまた奥に押し込まれそうで、外に出たかった。
新刊コーナー。ビジネス書。小説。棚の間をぶらぶら歩いた。
その先に、「終活」と書かれたポップがあった。
「死ぬ前にやること百選」「遺言の書き方・完全ガイド」「人生の後半戦、始め方」「エンディングノートの作り方」「死後の自分に怒られないための準備」「たぶん死ぬけど念のため長生きする本」。
二十四歳のわたしには、まだ関係ない——。
でも、足が止まった。
胃のあたりが、少しだけ重くなった。
一冊、手に取り、パラパラとめくってみた。
「死を意識すると、人は変わる」という見出しが目に入る。
——変わる、か。
Kさんは変わった。余命を知ってから、確かに。表情が、声が、目が——全部変わった。わたしはKさんの変化を見ていたのに、何もできなかった。

「ゆずにゃーん」
振り向くと、向こうから猫だるまが近づいてくる。
本を棚に戻し、作り笑顔で間に合わせた。
「猫ちゃんも本なんて読むの?猫の飼い方の本とか?」
「猫の飼い方の本なわけにゃいにゃろー」
見ると肉球で一冊の本を抱えていた。タイトルを読もうとしたら、隠すように棚に戻した。
邪馬台国の文字と、漢字が並んだ古文書?の写真が表紙に載っていた。

書店の外、ベンチに二人で座った。
師走の風が冷たくて、猫だるまは丸まって、ますます丸くなっていた。
「Kさん、癌だなんて言われて、怖かっただろうな」

気づいたら声に出していた。

「でもなんで——癌って言われてから、急に話せるようになったんだろう」

「ゆずにゃんは、もう答えを知っているにゃ」

「わたしが?」

「さっき自分で言ったにゃ。怖かった、って」

「それって……怖いから話せるようになった、ってこと?」
その言葉が、何かに刺さった。
心臓でも、頭でもなく——もっと、真ん中あたりの、名前のない場所。
死を知ってから、声が出た。
じゃあ——死を知る前の、あの長い沈黙は何だったのか。「まあ普通です」の繰り返し。あの時間は、Kさんにとって何だったのか。
「死ぬことを、ふだん忘れているにゃ」

猫だるまが続けた。

「忘れていないと、怖くて動けなくなるからにゃ。だから忘れるにゃ」

「……それって、いいことなの?」

「悪くはにゃい。でも——忘れすぎると、本当に大事なものも、一緒に霞んでいくにゃ」

風が、ゆっくり通った。
師走の街を、みんな急ぎ足で歩いている。

「Kさんは——余命を知って、百周年の式典を見届けたい、生きた証を残したいって言ったにゃ。死が見えたから——本当に大事なものが見えたにゃ」

「でも、Kさんは、その式典を見られない」

「だから——早いほうがいいにゃ。気づくのが、にゃ」

風が吹いた。猫だるまの毛並みが、少し揺れた。
「ゆずにゃんはどっちにゃ?」

「どっち、って?」

「死から目を逸らしているのか。それとも——死から、何かを見ようとしているのか、にゃ」

SNSや動画がどこまでも流れ続ける。気づいたら二時間。Kさんの言葉から逃げるように画面を開いた夜のことを、思い出した。

「……目を逸らしてる」

「にゃ。今の時代、それがとても簡単にゃ。ドーパミンの蛇口が、常に全開にゃ」

「ドーパミンの蛇口……」

お父さんも「ドーパミン」って言っていたのを思い出す。

「今のゆずにゃんは、退屈できないにゃ」

猫だるまはわたしのスマホをちらりと見た。

「じゃあ——どうすればいいんだろう」

猫だるまは少し間を置いた。

「一つだけ、試してみるにゃ」

猫だるまが言ったのは、シンプルなことだった。
「一度だけ——自分が死ぬことを、考えてみるにゃ」
「それだけでいいの?」
「それだけにゃ。怖くなくていいにゃ。長くなくていいにゃ。一分でもいいにゃ。ただ——考えてみるにゃ」
「えー、ちょっと怖そう。わたしホラー系って苦手なんだよね。でも、何のために」
「いい質問にゃ」
猫だるまは小さく咳払いをした。
「死を意識した人間は——本当に大事なものへ向かうにゃ。怖いからじゃなくて、見えるからにゃ」
「へえ」
「古代ローマ人は、それを習慣にしていたにゃ。メメント・モリ——死を思え、にゃ」
「メメント・モリ。猫ちゃん、物知りだね」
「吾輩は教養人にゃから。続きを読むにゃ、いや、言うにゃ。将軍が……、えーと、あっせん……、違うにゃ、がいせ……凱旋するとき、奴隷が後ろから囁き続けたにゃ。おまえも死ぬ、と」
今、つっかえたな。
よく見ると、猫だるまの視線が、ちらちらと下を向いている。
丸いお腹のあたり。
毛並みの間に——本が、挟まっていた。
「猫ちゃん、それ何」
「にゃ?」
「お腹のとこ。何か挟まってる」
「何も挟まってないにゃ」
猫だるまは体を反らした。
反らした拍子に、ぽとり、と本が落ちた。
『死を思え——人生が変わる古代ローマの知恵』
帯に「いま話題!教養人にふさわしい一冊」と書いてあった。
ページの間から、レシートがはみ出ている。
「これ、さっき買ったんじゃん」
「ち、違うにゃ。これは、その、復習にゃ」
「囁き続けたにゃ、のところ、思いっきり読んでたでしょ」
「読んでないにゃ。暗唱にゃ」
わたしは本を拾い、ぱらぱらとめくった。
さっき猫だるまが語った言葉が、そのまま並んでいた。
「……ねえ、猫ちゃん。メメント・モリって、結局どういう意味なの。呪いなの?脅しなの?」
「それはにゃ——」
猫だるまは胸を張り、それから、しぼんだ。
「……わからないにゃ」
がっくりと肩を落とす。
「読んだけど、わからなかったにゃ。死を思え、と言われても、吾輩は今日もコーヒーが熱々で嬉しいにゃ。それと死と、どうつながるのか——本には書いてなかったにゃ」
風が、ベンチの前を通り過ぎた。
「でも、気になったにゃ。二千年も前の言葉が、今も本屋に並んでいるにゃ。きっと、何かあるにゃ」
「……それで、試してみるにゃ、なんだ」
「そうにゃ。吾輩も今夜、考えてみるにゃ。自分が死ぬことを」
猫だるまが死ぬことを考えている姿は、うまく想像できなかった。
でも、不思議と笑えなかった。
わからないまま、二千年残った言葉。
わからないまま、試してみる猫。
じゃあ、わたしも——わからないまま、やってみるか。
猫だるまは立ち上がり、ぽてぽてと歩き始めた。
「吾輩はもう一回、本を見てくるにゃ。さっきの棚の端に、気になるものがあったにゃ」
「ああ、何か歴史の本ね」
猫だるまは答えず、無言のまま書店に向かって歩き出した。くるりとこちらを振り返り、ニヤッと笑いながら言った。
「人間の飼い方の本にゃ」
「……ホラー系」
「冗談にゃ冗談にゃ」
猫だるまは慌てて額を拭っていた。

家に帰ったのは、夕方の五時過ぎ。
部屋に入って、コートを脱いで、ソファに横になる。いつもならそのままスマホを開くけど、今日はテーブルに伏せて置いた。

「一度だけ——自分が死ぬことを、考えてみるにゃ」

やってみようか。
椅子に座り、背筋をピンと伸ばし、目を閉じた。

「わたしは……死ぬ」

声に出すと、少し恥ずかしかった。部屋に誰もいないのに。

……。
よくわからない。
自分が死ぬ。具体的な映像が何も浮かばない。棺桶?お葬式?どちらも他人事みたいで、リアルさがない。

目を開けると、部屋は変わらずそこにあった。
テーブル。飲みかけのコーヒー。壁のカレンダー。全部、さっきと同じ場所にある。
死ぬ、って——何だろう。
この部屋が、なくなる。テーブルも、コーヒーも、カレンダーも、わたしにとっては存在しなくなる。でもそれは「なくなる」のではなく「わたしがいなくなる」のだ。部屋は残る。世界は続く。わたしだけが——
なんか怖い方向に行ってきた。
スマホを取ろうとして、手を止めた。
これが「目を逸らす」だ。

勇気を出して、もう一度、目を閉じた。
一分経ったか、三分経ったか。
浮かんだのは、Kさんの顔ではない。

父の顔だった。
透析室の窓際で、橙色の空を見ていた、あの横顔。
「きれいだな」と言った、あの声。
父はあの瞬間、何を思っていたんだろう。
そして——わたしは今、何をしているだろう。
目を開けると、部屋が薄暗くなっていた。
スマホの通知が三つ、光っているのが目についた。
今日は——そのままにしておくことにした。
——わたしは、死ぬまでに、何がしたいんだろう。

#創作大賞2026 #お仕事小説部門

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【全話もくじ】人生のドーパミン遺産 ― 猫だるまと渡す、20代からの終活 ―

(1)プロローグ 遺産分割
https://note.com/jolly_lotus814/n/n687cd0dd5751
(2)第一章 声にならない言葉
https://note.com/jolly_lotus814/n/n6a3b19da90e1
(3)第二章 生きた証
https://note.com/jolly_lotus814/n/n7933a6164818
(4)第三章 メメント・モリ
https://note.com/jolly_lotus814/n/n47f7db7cd5a6
(5)第四章 人生のカードゲーム
https://note.com/jolly_lotus814/n/ne940872a5043
(6)第五章 後悔を先に知る
https://note.com/jolly_lotus814/n/n0fe9a6a2aeab
(7)第六章 行く、と決めた
https://note.com/jolly_lotus814/n/nb0372931122c
(8)第七章 時を越えた形見
https://note.com/jolly_lotus814/n/nfd2381d40a05
(9)第八章 占い師と産業カウンセラー
https://note.com/jolly_lotus814/n/ndb68876446da
(10)第九章 帰る場所
https://note.com/jolly_lotus814/n/n9f46c63dc7aa
(11)エピローグ 余白を受け取る
https://note.com/jolly_lotus814/n/n3dea09cc614c
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