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人生のドーパミン遺産(5)第四章 人生のカードゲーム

第四章 人生のカードゲーム

メメント・モリを試みた一週間は、あまり上手くいかなかった。
最初の夜は、少しだけ怖かった。布団の中で目を閉じて、「自分が死ぬこと」を考えようとした。自分が死んだあとの世界が、まったく想像できなかった。
二日目は、忘れていた。
三日目は思い出して、また一分だけ試みた。前と同じで、よくわからなかった。
四日目は残業で帰りが遅く、スマホを見たまま寝た。
五日目、六日目——よく覚えていない。
七日目の夜、猫だるまがアパートにやって来た。
「どうだったにゃ?」
「ひぇ、猫ちゃん。相変わらず神出鬼没ね」
そう言いながら、アパートの戸締りを確認して回る。
「……あんまり上手くできなかったよ」
「にゃるほどにゃ」
猫だるまはテーブルの上に座り、部屋をゆっくり見回した。積み上がった本。飲みかけのコーヒー。スマホの通知が、小さく光っていた。
「ゆずにゃんは——なぜ生きているにゃ?」
「……え?」
「なぜ毎日起きて、仕事に行って、ご飯を食べているにゃ。何のために、にゃ」
メメント・モリと同じで、よくわからなかった。
「そういう猫ちゃんは、どうだったのよ。メメント・モリ。考えるって言ってたじゃん」
「やったにゃ」
猫だるまは胸を張った。
「吾輩は真剣に考えたにゃ。自分が死ぬ前に、熱々のコーヒーをあと何杯飲めるか」
「……考える方向、違くない?」
「ふつうの猫の寿命で数えたら、あと二百杯しかなかったにゃ」
猫だるまは、そのときを思い出したのか、ぶるりと震えた。
「ぞっとしたにゃ」
「少なっ。猫ちゃん、何かの病気なの?」
「でも吾輩はふつうの猫じゃないにゃ。百倍して、二万杯にゃ。安心して寝たにゃ」
「計算で逃げた」
それはメメント・モリと言えるんだろうか。
笑いかけて、でも、ちょっと気になった。
寿命を延ばす、か。
生活習慣を整えると病気のリスクを減らして、予防になる。
わたしも、それを仕事にしてるんだった。
それに、わたしは一分で挫折したのだ。二百杯にぞっとするところまで行った猫の方が、よっぽど真剣だった。
「でもにゃ」
猫だるまの声が、少し変わった。
「ひとつだけ、嫌なことがあったにゃ」
「嫌なこと?」
「コーヒーが飲めなくなるのは、平気だったにゃ。二万杯飲めば、たぶん満足にゃ。でも——」
猫だるまは、わたしを見た。
「ゆずにゃんたちの『その後』が見られなくなるのは、嫌だったにゃ」
「……その後?」
「お父にゃんが、これからどう生きるか。あきらにゃんが、大判を手に入れるのか。ゆずにゃんが——何を見つけるのか。吾輩はずっと見てきたにゃ。だから、続きが見たいにゃ」
言葉が出なかった。
この猫は、わたしが生まれる前から、この家族を見てきたのだ。
「不思議にゃ」
猫だるまは首をかしげた。
「コーヒーは、あんなに好きなのに、なくなっても平気にゃ。続きを見ることは——なくなると思ったら、胸のあたりが、ぎゅっとしたにゃ。この違いは、何なのかにゃ」
本人が、一番わかっていない顔をしていた。
コーヒー。
プレミアムショートケーキ。
毎日見ている動画。
どれも好きだ。でも、毎日続いたら、たぶん飽きる。大好きなケーキだって、毎日食べたら格別じゃなくなる。
じゃあ、Kさんの五年間は?
五年も同じ式典の準備をして、飽きたんだろうか。
——いや。あの目を見れば、わかる。
「……種類が、違うんだ」
声に出していた。
「すぐ来て、すぐ消える楽しみと。時間がかかって、でも残るもの。脳の中では、たぶん別物なんだ」
仕事で読んだ研修資料の記憶が、ゆっくりつながっていく。ドーパミンには二種類の出方がある——ご褒美にすぐ飛びつく回路と、目的に向かうときに支え続ける回路。
「名前を付けるなら——快楽報酬と、意味報酬、かな」
「かいらく、と、いみ」
猫だるまが繰り返した。
「コーヒーは快楽報酬にゃ?」
「うん。わたしの動画も、ケーキも」
「悪者かにゃ」
「悪くないよ。おいしいし、楽しいし。ただ——」
スマホの画面が、また光った。
「それだけだと、Kさんみたいに『生きた証を残したかった』とは、言わない気がする」
「試してみるにゃ。いまから、その通知を全部見ていいにゃ。吾輩は待ってるにゃ」
「え、いいの?」
狐につままれた感じだったけど、言われるまま、スマホを開いた。通知を順番に見ていく。動画もほんのさわりだけと思って、タップした。猫だるまは目を閉じて、置物になっていた。
気づいたら、一時間経っていた。
「で」
置物が、しゃべった。
「いま、何が残ってるにゃ?」
画面から顔を上げ、何を見たか、思い出そうとした。
猫の動画。誰かのランチ。知らない人の口喧嘩。
……ほとんど、思い出せなかった。
一時間が、どこにもなかった。
「それが、答えにゃ」
スマホの通知が、また一つ増えていた。

気付くと、テーブルにぎっしりとカードが並べられていた。
わたしを待っている間に、猫だるまが遊んでいたようだ。
かわいいモンスターや、やたら強そうなモンスターが描かれている。
「猫ちゃん、カードゲーム好きなんだね」
猫だるまは体をずいっと動かし、カードを隠した。
「暇つぶしに、たしなむ程度にゃ。五万円のレアカードは持ってないにゃ。持ってないにゃ」
持ってるな、これ。
最近は価格が高騰して、発売日の前夜から並ぶ人もいるらしい。ニュースで見たことがある。
興味本位で覗き込んだ。
モンスターのカード。
エネルギーのカード。
アイテムのカード。
猫だるまは真剣な顔で考えながら、それらを枠の中に並べている。
一枚置く。
考える。
また一枚置く。
じっと見ているうちに、不思議な感覚になった。
人生も、こういうものなのかもしれない。
頭の中に、ぽつりと浮かんだ。
わたしは紙を引き寄せた。
ハサミで切る。
カードくらいの大きさの紙が何枚もできた。
「何してるにゃ」
「ちょっと待って」
思いついたことがあった。
一枚目。
『海外旅行』
二枚目。
『英語を話せるようになる』
三枚目。
『ピアノ』
やりたいこと。
やりたいことのカード。
さらに紙を切る。
『目が見えなくなる』
『遠くへ歩けなくなる』
『好きなものが食べられなくなる』
『一人では旅行に行けなくなる』
今度は、できなくなること。
負のカード。
「ちょっと黙るにゃ」
猫だるまが言った。
「吾輩は集中してるにゃ」
「わたしも集中してるの」
五年ごとの枠を作った。
二十代前半。
二十代後半。
三十代前半。
カードを並べてみる。
でも手が止まった。
『海外旅行』
どこに置けばいいんだろう。
二十代でもいい。
三十代でもいい。
四十代でもいい。
『英語を話せるようになる』
これも同じだった。
『ピアノ』
『料理』
『一人旅』
全部そうだった。
思いつくけど、置けない。
海外旅行は、どの国とか、何をしたいとか、そういうものが何もついてこない。海外、という言葉だけが空中に浮いている。
英語は、何のために覚えたいのか。
ピアノは、本当にやりたいのか。
一枚書くたびに、
「それは違う」
という声が聞こえた。
「別に今じゃなくてもいい」
「もっと明確な理由が必要」
「本当にやりたいことじゃないかもしれない」
気づいてしまった。
思いつかないんじゃなかった。
思いついたものを、全部却下していた。
海外旅行を落とし、英語を落とし、ピアノを落とし、料理を落とし、一人旅を落とす。
厳しい審査員だった。
そして、その審査員は——わたしだった。
「どうしたにゃ」
「どれも、今じゃなくてもいい気がする」
言いながら、自分でも変な言葉だと思った。
そのとき、何となく負のカードを横に置いてみた。
『目が見えなくなる』
『一人では旅行に行けなくなる』
『好きなものが食べられなくなる』
プレミアムショートケーキのことが頭に浮かんだ。
好きなものを、いつまでも食べられるわけじゃない。
透析が始まる前、お父さんにもきっとあったはずだ。
好きなものを食べる未来。
お母さんと旅行する未来。
でも、負のカードの方が先に来てしまった。
だからお父さんは、わたしたちに渡したのかもしれない。
間に合ううちに。
『海外旅行』
その横に、
『一人では旅行に行けなくなる』
を置く。
すると不思議なことが起きた。
さっきまでどこにも置けなかったカードが、
急に二十代前半に見えた。
わたしは手を止めた。
「……あ」
猫だるまがちらりとこちらを見る。
「見えた」
たぶん。
少しだけ。
「やりたいことだけだと、どこに置けばいいかわからない」
紙を見つめながら言った。
「でも、できなくなることを置くと——今やる理由が見える」
猫だるまは何も言わなかった。
よく見ると、そもそも聞いていなかった。
テーブルの端で、山札とにらめっこしている。
「エネルギー、エネルギー……」
ぶつぶつ言っている。
場には、やたら強そうなモンスターのカードが一枚、置いてあった。
「猫ちゃん、それ強そうじゃん」
「強いにゃ。でも、動けないにゃ」
「動けないの?」
「モンスターだけでは技が出せないにゃ。エネルギーのカードが来て、初めて技が出るにゃ」
猫だるまは真剣な顔で、山札を一枚めくった。
「アイテムカードにゃ……今じゃないにゃ」
また一枚。
「モンスターにゃ……お前でもないにゃ」
ため息までついている。
わたしは自分のカードに戻った。
『料理』
どこに置こう。
『好きなものが食べられなくなる』を、隣に置いてみる。
——置けた。
食べたいものは、食べられるうちに、作れるうちに。
二十代後半の枠に、すっと収まった。
次は『英語』。
隣に置ける負のカードが、見当たらない。
手が止まる。
……想像してみる。
新しいことを、覚えられなくなる。
覚えたいのに、頭に入らない日が、いつか来る。
三十代の枠から、二十代の枠へ。
『ピアノ』は、まだ動かなかった。
それはそれで、いいような気がした。
机の上が、少しずつ埋まっていく。
気づいたら、前のめりになっていた。
「エネルギー来い、エネルギー来い」
「負のカード、負のカード」
お互い、相手の声が聞こえないくらい必死だった。
残りは『一人旅』、一枚。
どの負のカードが、これを動かしてくれるんだろう。
切った紙の束を、一枚ずつめくっていく。
猫だるまも、山札に肉球をかけた。
「来い(にゃ)……、来い(にゃ)……」
めくった。
『遠くへ歩けなくなる』
「来た(にゃ)ー!」
声とともに、二枚のカードが頭上で重なった。
顔を見合わせる。
猫だるまのカードは、キラキラ光っている。
「……それ、もしかして五万円のレアカード?」
「にゃにゃ。持ってないにゃ。持ってないにゃ」
猫だるまは、ホログラムが緻密に施されたカードを高々と掲げていた。
場では、モンスターが技を出せるようになっていた。
わたしの机では、『一人旅』が二十代前半の枠に収まっていた。
「何の勝負だったんだろうね、今の」
「わからないにゃ。でも、いい勝負だったにゃ」
猫だるまは満足そうに、テーブルのコーヒーをぐびりと飲んだ。
「冷めてるにゃ……」
「それ、わたしのだけどね」
猫だるまは、わたしの机を肉球で指した。
「ゆずにゃんのカードも、同じにゃ」
「同じ?」
「やりたいことのカードだけでは、動けないにゃ。負のカードが来て、初めて——今やる理由という技が出るにゃ」
負のカードは、怖いだけの紙だと思っていた。
でも、違うのかもしれない。
あれは——わたしの場の、エネルギーカードなのだ。
枠の中に並んだカードを見ているうちに、ふと思った。
枠だと少し見づらい。
もっと入れ物みたいな方がいいかもしれない。
バケツみたいな——。
「タイムバケツ、か」
誰に言うでもなく、わたしは呟いた。

猫だるまは、ふと思いついたように何かを書き始めた。
「猫ちゃんも書いてるの?どれどれ」
意外にも達筆で書かれたカードを見てみた。
「なになに。『プレミアムショートケーキを食べられなくなる』、ってピンポイント過ぎ」
「こっちは、『チャーシューメンの大盛りが食べられなくなる』」
もしかしてわたしって、大食いのイメージだったの?
心配になり、自分のお腹を指でつまんで確認した。
「一緒にゃね」
猫だるまが優しく微笑みながら、自分のお腹をつまんでいた。

その夜遅く、父から電話があった。
「あきらが動いてるぞ」と父は言った。「オークションの情報を調べているらしい。来月、主催者に連絡を取るそうだ」
「へー、すごい。そうなんだ」
「嬉しそうに言うなよ。相手にしてもらえるかどうかも、まだわからないのに」
でも——父の声は、少し弾んでいた。
電話を切って、わたしはまた紙を広げた。
枠の中には、さっき並べたカードがある。
置き場所は、わかった。
でも、どれも、借りものの言葉みたいだった。
本当に欲しいものは、まだ、ひとつもない。
ペンを持ち、二十代前半のバケツをじっと見つめる。
それでも——まだ、書けなかった。

自分のことは、こんなにわからないのに。
人の変化には、よく気づいてしまう。
若手社員の陽太とは、二週間に一度、面談を続けた。
「陽太が辞めそう」
「うつ病になって自殺の準備をしている」
「課長のパワハラにあった」
「マッチングアプリで美人局にあった」
とか、ありとあらゆるうわさが広まる始末で、人事から泣きつかれて面談を続けることになったのだ。
たいした話はしていないのに、なぜか毎回様子が変わっていくのである。
もともと風変わりなところはあったものの、最近の陽太はさらにおかしかった。
何ていうか、生活感がまるでない。
わたしと同じくらい散らかっていた机の上には、パソコンだけが王様気取りで座っている。
デスク周りの付箋や、書類もきれいになくなった。
まるで身辺整理をしているようだった。

「陽太、調子どう」
「いい感じっすよ」
わたしの想像とは裏腹に、満面の笑みだ。
これはヤバい。
受診勧奨ケースと確信しかけた時、陽太が意外な言葉を口にした。
「俺、断捨離始めたっす」
「断捨離」
「そっす。気分最高っす」
陽太が断捨離。
うつ病でもパワハラでも、ましてや美人局でもなく、断捨離。
「それにしても、急すぎない?」
「最初は財布の中だけだったっす。レシート捨てたりとか。でもやり始めると楽しくなっちゃって、ついには財布も持たなくなったっす」
陽太はおもむろにスマホを取り出す。
見せられたスマホのホーム画面にはアプリが一つも残っていなかった。
わたしのタイムバケツと同じだった。

陽太がガランと静まり返ったフローリングに座り、満面の笑みを見せる姿が目に浮かぶ。
そう言えばわたしの部屋にも使っていない物がたくさんあるな。
ふと、みこさんに借りたままの本を思い出した。
翌日の夕方、返しにアパートへ寄った。
——ただ、それだけのつもりだった。
インターホンを押す。
返事がない。
もう一度押そうとしたとき、中から何かが倒れる音がした。
ガタン。
続いて、聞いたことのない声。
獣がうなるような。
人の声ではない音。
わたしは固まった。
数秒後、鍵が開いた。
「ゆずちゃん」
みこさんは笑っていた。
でも顔色が悪かった。
部屋に入って、立ち止まった。
棚が倒れていた。
本が散乱していた。
食器が割れていた。
花瓶が転がっていた。
まるで小さな台風が通ったあとみたいだった。
「あ、ごめんね」
みこさんは笑った。
「片付けの途中で」
そう言う割に、みこさんの肩は大きく上下していた。
息が少し荒い。
「大丈夫ですか」
「うん」
答えは早かった。
早すぎた。
床にしゃがんで破片を拾う。
そのとき、みこさんの喉が小さく鳴った。
「……え?」
獣の唸る声に聞こえた。
本当に一瞬だった。
聞き間違いかもしれない。
でも、
「ごめん」
とだけ言ったみこさんの顔は、少しだけ気まずそうだった。
それだけ言って、すぐに別の破片を拾い始めた。
しばらくして、玄関を出てからも、あの音が耳に残っていた。
獣のような。
人ではない何かの声。
子どもの頃からそばにいた、穏やかなみこさん。
その奥に、わたしの知らない何かが——いる。
みこさんは、あの部屋で何をしていたんだろう。

#創作大賞2026 #お仕事小説部門

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【全話もくじ】人生のドーパミン遺産 ― 猫だるまと渡す、20代からの終活 ―

(1)プロローグ 遺産分割
https://note.com/jolly_lotus814/n/n687cd0dd5751
(2)第一章 声にならない言葉
https://note.com/jolly_lotus814/n/n6a3b19da90e1
(3)第二章 生きた証
https://note.com/jolly_lotus814/n/n7933a6164818
(4)第三章 メメント・モリ
https://note.com/jolly_lotus814/n/n47f7db7cd5a6
(5)第四章 人生のカードゲーム
https://note.com/jolly_lotus814/n/ne940872a5043
(6)第五章 後悔を先に知る
https://note.com/jolly_lotus814/n/n0fe9a6a2aeab
(7)第六章 行く、と決めた
https://note.com/jolly_lotus814/n/nb0372931122c
(8)第七章 時を越えた形見
https://note.com/jolly_lotus814/n/nfd2381d40a05
(9)第八章 占い師と産業カウンセラー
https://note.com/jolly_lotus814/n/ndb68876446da
(10)第九章 帰る場所
https://note.com/jolly_lotus814/n/n9f46c63dc7aa
(11)エピローグ 余白を受け取る
https://note.com/jolly_lotus814/n/n3dea09cc614c
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