人生のドーパミン遺産(10)第九章 帰る場所
第九章 帰る場所
翌朝になって、使いが来た。
広場に病人を連れて行く時間が来た、という知らせだった。
壱与は立ち上がり、表情が、また戻っていた。指導者の顔に。
「行こう」
壱与はわたしに言った。試しているような目だった。
「うん。行こう」
広場は昨日より人が多かった。
病人の男性は同じ場所に座っていた。顔色が昨日より白い。目を閉じていた。でも——わたしが近づくと、薄く目を開けた。
視線が合った。
知っている目。もう見慣れていた。
周囲の人間が、儀式の準備を進めていた。粛々と。争いもなく、疑いもなく。
「本人のため、国のためです」と脇に立っていた男性がわたしに言った。儀礼的な口調で。
その言葉を聞いたとき、何かがわたしの中で、固まった。
「その人自身は、何と言っていますか」
「……は?」
「この人が、どうしたいか——聞きましたか」
場が静まった。
わたしは病人の男性の前にしゃがみ、目を合わせた。
声が出ない人に、どう話しかければいいか——職場でも考えたことがある。
「聞こえていますか」
男性の目が、わずかに動いた。
「うなずけますか」
ゆっくりと、首が動いた。
「怖いですか」
首が、また動いた。今度は大きく。
「ずっと、怖かったんですね」
首が動いた。
「あなたは、どうしたいですか」
男性の目が、大きく開いた。
そういう問いを、されたことがなかったのかもしれない。周りは全員、「本人のため、国のため」と決めていた。この人自身が何を望むかを、誰も聞かなかった。
口が、わずかに動いた。声にならない声が、唇の形だけで出てきた。絞り出すように。
「……家に、帰りたい」
壱与が決めるまで、時間はかからなかった。
「帰しなさい」
壱与は言った。静かに、でも揺らぎなく。
「この人を、家に」
反論が出た。国のためだ、神が——という声が、いくつか上がった。
「国のためというなら、わたしが神に問う。今夜、問う。それまで待て」
壱与が言うと、誰も、それ以上言えなかった。
その夜、壱与の部屋に呼ばれた。
壱与は座ったまま、灯りを見ていた。
「昼間のあれ、勝手なことしてごめん。壱与の立場が悪くなったよね」
「これまで、止めなかった」
「……え?」
「生贄を。わたしは何度も、見送ってきた」
声は静かだった。静かすぎた。
「神に問うて、答えが出なかったとき——周りが、国のためだと言う。わたしが頷けば、決まる。頷かなければ、決まらない。それを知っていて、頷いてきた」
壱与の指が、膝の上で固く組まれていた。
よく見ると——その指が、小さく震えていた。
「卑弥呼様なら、どうしただろうと、毎回考えた。でも答えは出なかった。だから——慣習に、従った。その慣習も……本当は、きれいなものじゃない」
「どういうこと」
「わたしの前に立った、男の王。あの人の代から、生贄は——歪んだ」
声が、低くなった。
「誰を捧げるか。神ではなく、賂が決めることがあった。逆らった者、邪魔な者、貧しくて誰も庇わない者。そういう者から、選ばれていった」
わたしは、息を呑んだ。
「わたしが継いだときには、それはもう、慣習の顔をしていた。神の名を借りた、ただの都合だ」
壱与の指が、また固くなった。
「気づいていた。気づいていて——止められなかった。正そうとすれば、国が割れる。わたしに、それを抑える力は、まだなかった」
「だから……」
「神に問うふりをして、目を、つぶってきた」
壱与は、初めて、声を詰まらせた。
「わたしが見送った者の中には——神ではなく、誰かの都合で選ばれた者も、いたかもしれない」
「壱与……」
「今日、おまえが聞いただろう。本人はどうしたいか、と。あの問いは、わたしが何年も、自分にさせなかった問いだ」
灯りの炎が揺れて、壱与の横顔に影が動いた。
「明日、あの者を帰せば——これまで見送った者たちを、間違いだったと認めることになる」
壱与は一度、目を閉じた。
「……あの者たちの顔を、覚えている。全員だ。送り出す朝の顔も。最後にわたしを見た目も」
揺れる声。
民の前で語るときの声ではなかった。
二十代の、わたしと同じ年頃の人の声。
「間違いだったと認めたら、わたしは——あの者たちに、何と言えばいい」
膝の上の指が、白くなるほど組まれていた。
「それに、民はわたしの言葉で動く。わたしが慣習を覆せば、不安に思う者が出る。日照りが来れば、あの者を生かしたせいだと言われる。疫病が出ても、そう言われる。これから先の悪いことすべてが、明日のわたしの決定のせいになるかもしれない」
「怖い?」
聞くと、壱与はゆっくり頷いた。
「怖い。本当は——昼間からずっと、怖い。帰すと言った瞬間から、手が冷たい。夜になっても、温まらない」
壱与は自分の手を見た。
わたしはその手に、自分の手を重ねた。
本当に、冷たかった。
しばらく、灯りの音だけがしていた。
やがて、壱与が息を吸った。
深く、長く。
吐いたとき、組まれていた指が、ほどけていた。
顔を上げた壱与の目は、もう揺れていなかった。
「もう、休め」
いつもの声に、戻っていた。
夜中に目が覚めた。
外から、低い声が聞こえていた。
そっと覗くと、壱与が一人、空に向かって語りかけていた。
外に出ると、ひんやりとした空気が頬に当たった。草の匂いがした。地面が、足の裏に固かった。
——ああ、今、ここにいるんだ。
星が、多かった。こんなに星があったのか。見上げていると、吸い込まれそうになる。現代では、なかなか見えない星だ。
古代に来てから、いろんなことがあった。みこの「ただいま」。壱与との初対面。病人の目。夜になってもまだ、視界の中にあの目が残っている。——でも、不思議と今は、騒がしくなかった。
星空の下に出てきてから、頭の中に、大きな余白ができたみたい。余白の中に、澄んだ星空が広がっていく。
壱与の声は、民の前で語るときとも、わたしに話しかけるときとも違った。静かで、小さくて——誰かに聞かせるためではなく、ただ空に放つだけの声だった。
余白があるから、神様と話せるのかもしれない。
——いや、もしかしたら。
話している相手は、神様ではなくて。自分の奥に閉じ込められている、自分自身なのかもしれない。
壱与が星を見上げながら語りかける先に、何があるのか、わたしにはわからない。でも——国を背負った人間にも、誰にも聞かせられない言葉が、ある。
神に問う、とはこういうことなのか。
わたしはそっと部屋に戻り、目を閉じた。
夜が明けると、壱与は民を集め、生贄を取りやめると告げた。神に問うた末の決定だ、と。それ以上、逆らう声は出なかった。しばらくして、使いが駆け込んできた。
「あの方が、声を出しました」
広場へ行くと、昨日とは空気が違った。
昨日はあれだけ人がいたのに、今朝は静かだった。儀式の準備をしていた人たちの姿がない。代わりに、人の輪ができていた。
近づいて、足を止めた。
あの家の人たちだ。昨日、村のいちばん端で会った、あの老いた女性と、孫の二人。
男性が、昨日と同じ場所に、昨日と同じように座っていた。足の怪我はそのまま。
でも——顔が、違った。
隣に座った女性の手を握り、小さく、かすれた声で何かを言っている。女性が目を赤くして、頷いた。
女性は、もう「名誉なこと」とは言わなかった。「村のため」とも。昨日、お守りみたいに握っていた言葉を、手放していた。
子どもが二人、男性のそばにいた。男の子は膝に手をかけて、何も言わずにいる。女の子は——昨日と同じように、男性の手を、両手で握っていた。ぎゅっと。
昨日のあれは、もう会えなくなる前に、しがみつく手だった。今日のは——ただ、安心した手だった。
「奇跡だ」と誰かが言った。
「神が許した」と誰かが言った。
奇跡でも、神の許しでもない——。
男性が女性の手を握ったまま、空を見上げた。その横顔を見ていたら、喉の奥に何かが詰まった。
Kさんのこと。エレベーターのドア。段ボール箱。あの目。
あのとき声を上げられなかったこと。喉の奥で固まったまま、ドアが閉まったこと。
——ここでは、言えた。
詰まっていたものが、ゆっくりと溶けていく感じがした。全部が解決したわけじゃない。男性の足は治っていない。Kさんに届けられたわけでもない。でも——何かが、少しだけ動いた気がした。
そのとき、男性がこちらを見た。
目が合った。
昨日は「もうここしかない」と知っている目。
今朝は——帰る場所のある目だった。
男性が、小さく頷いた。
わたしも、頷いた。
壱与が静かに言った。
「どう思う」
「声が出なくなったのは、悪霊のせいじゃなかったね」
「では、何のせいだろう」
「怖かったから、じゃないかな」
わたしは言った。
「足を怪我して、悪霊だと言われて、生贄に決まって——怖くて、声が出なくなった。体が、極限の恐怖に反応したんだと思う」
「怖さが、声を奪うのか」
「奪うことがある。それで——怖さが消えると、戻ることがある」
「声を聞くことが、治すことになるのか」
「そう。もちろん、全部じゃないけどね」
「足は」
「それは——わたしには治せないです。でも、家に帰って、家族のそばにいることが、この人には必要だと思います」
遠くで、男性が家族と話している声が聞こえた。
その夜、わたしは一人になれなかった。
病人は、家に帰れる。声も、戻った。すべてうまくいった——はずだった。
なのに、胸の奥が、ざわざわした。
「浮かない顔だね」
壱与が、隣に来た。
「……Kさんのこと、考えてて」
言ったら、止まらなくなった。
「わたしの時代に、Kさんっていう人がいて。あの病人と、同じ目をしてた。でも、わたしは何もできなかった。声をかけることも」
声が、震えた。
「お父さんも。ずっと苦しんでたのに、あの頃のわたしは、何も気づかなかった。今だって、病気は治せない。みこさんも——間に合わなかった」
涙がこぼれた。
「人を救いたくて、カウンセラーになったの。なのに——誰も、救えてない。一人も。わたし、何のために、この仕事を選んだんだろう」
壱与は、何かを思い出すように、つぶやいた。
「わたしは、たくさんの者を見送ってきた。一人も、救えなかった。でも今日、ゆずは、あの男の声を聞いた。聞いただけだ。それでも——あの男は、家に帰る」
壱与の目は、もう揺れていなかった。
「救えなくていい。本当の声を、聞けばいい。ゆずは、ずっと、それをしてきたんでしょ」
別れは、夜だった。
銅鏡を持って、みこと並んで立っていた。
「みこさんは、来ないの?」
「わたしはここにいるよ。もともとここがわたしの故郷だから。ゆずちゃんに会えて、本当に良かった」
——もう、現代でみこさんに会うことはないんだ。
みこは笑っていた。泣いていなかった。
何も渡さなかった。言葉も、形あるものも。
笑顔だけを残した。
「みこさん」
「ゆずちゃん、ありがとう」
そして、壱与が最後に言った言葉は、「またにゃ」だった。
「……それ、猫ちゃんの言い方」
「そう?」
壱与は少し首を傾けた。
「でも、気に入っている」
「何で」
「また会えるような気がするから」
銅鏡を、もう一度見つめた。
視野が狭まり、周りの音が遠ざかっていく。
まるで広い空の下、一人で空中に浮いているような感覚。
でも、今度は——握ってくれる手が、なかった。
みこさんの手の温もりは、もうない。
それでも、心のどこかは、温かかった。
最後に見たのは、壱与の顔だった。
また会えるような気がする、と言っていた。
わたしも——そう思った。
場所や時間の感覚が、薄れていく——
草の匂いが遠くなり、風が消えた。
空の広さだけが、瞼の裏に残った。
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【全話もくじ】人生のドーパミン遺産 ― 猫だるまと渡す、20代からの終活 ―
(1)プロローグ 遺産分割
https://note.com/jolly_lotus814/n/n687cd0dd5751
(2)第一章 声にならない言葉
https://note.com/jolly_lotus814/n/n6a3b19da90e1
(3)第二章 生きた証
https://note.com/jolly_lotus814/n/n7933a6164818
(4)第三章 メメント・モリ
https://note.com/jolly_lotus814/n/n47f7db7cd5a6
(5)第四章 人生のカードゲーム
https://note.com/jolly_lotus814/n/ne940872a5043
(6)第五章 後悔を先に知る
https://note.com/jolly_lotus814/n/n0fe9a6a2aeab
(7)第六章 行く、と決めた
https://note.com/jolly_lotus814/n/nb0372931122c
(8)第七章 時を越えた形見
https://note.com/jolly_lotus814/n/nfd2381d40a05
(9)第八章 占い師と産業カウンセラー
https://note.com/jolly_lotus814/n/ndb68876446da
(10)第九章 帰る場所
https://note.com/jolly_lotus814/n/n9f46c63dc7aa
(11)エピローグ 余白を受け取る
https://note.com/jolly_lotus814/n/n3dea09cc614c
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