人生のドーパミン遺産(8)第七章 時を越えた形見
第七章 時を越えた形見
草の匂い。それが最初にわかったことだった。次に、虫の声。遠くで水が流れる音。わたしはゆっくり目を開けた。
建物は低く、地面に這うように並んでいた。屋根は草と土でできていて、縁に光が当たると、緑と黄土色が混ざり合った色になる。遠くで子どもの声がした。煙の匂いと、獣の匂いと、草の匂いが、全部同じ空気の中にあった。空だけが、現代と変わらなかった。
立っているのは、小高い丘の上だった。
「にゃ」と猫だるまが言った。「着いたにゃ」
「ここが……」
「邪馬台国にゃ。たぶんにゃ」
「たぶん?」
「場所の特定は難しいにゃ。でも時代は合っているにゃ」
大丈夫かな。でも今は、それどころではなかった。
手の中で、スマホはただの黒い板になっていた。そっとリュックの奥にしまうと、急に、自分が世界でいちばん遠いところまで来てしまった気がした。
足元を見ると、土だった。靴の下に、ただの土がある。アスファルトでも、タイルでも、フローリングでもない。ただの、土。踏み込むと少しだけ沈んで、踏み返してくる感触があった。
布を体に巻いた女性が、大きな器を両手で抱えて丘の下を歩いていく。素足だった。地面を踏む音が、ぺたぺたと聞こえてくる。こちらをちらりと見て、すっと目を外した。驚いてもいない。ただ、見慣れないものとして受け流した、という感じだった。
「……みんな、普通に生活してる」
「当たり前にゃ」と猫だるまは言った。「ここで生きているにゃ」
みこが、静かに深呼吸をしていた。
目を閉じて、空気を吸い込んで——それから、ゆっくり息を吐いた。
「……ただいま」
みこは普段、あまり感情を見せない。一緒にいると気持ちが穏やかになるのを感じて、決して悪い気はしないけど、何も言わない人だった。でもいま、その小さな体で「ただいま」と言ったとき——胸の奥が、しんと鳴った。
どれくらい、帰りたかったんだろう。何年、いや、もっと前から。
「現代にいたとき、みこさんって——どこか、居場所がない人みたいに見えてました」
みこは少しだけ笑った。
「そう見えてた?」
「なんか、居場所っていうか、どこにも根っこがない感じ」
「根っこはここにあったから。現代では、宙ぶらりんに見えてたかもしれないね」
「ずっと、帰りたかったんですね」
「ずっとね」
案内された建物は、丘の中腹にあった。
みこの後を歩きながら、足元を見ていた。道というものがない。草を踏み分けて進むだけだ。靴が土で汚れていく。帰ったら洗わないといけないな、でも——本当に帰れるのかな。
すれ違う人たちの視線がすっと来て、すっと外れた。わたしの服装が珍しいのだろう。でも誰も立ち止まらなかった。ここでは、見慣れないものを見慣れないまま受け流す術が、身についているのかもしれない。
道の脇に、何かが干してあった。草か、根菜か——細長いものが束になって、柱に吊るされている。食料の保存だろうか。その下を鶏が歩いていた。鶏が道を歩いている。当たり前の光景として。
「ゆずちゃん」とみこが振り返った。「足元、気をつけて」
見ると、石が転がっていた。よけながら、ふと思った。
——みこは、ここを知っている。
足を置く場所を、体が覚えている。石の位置も、草の深さも。ここで何年も、生きていた人の歩き方だった。
中に入ると、布を重ねた座が置いてあり、壁には何かの絵が描かれていた。待っていると、足音がして——
「そなたが、みこの連れか」
振り返ると、二十代くらいの女性が立っていた。長い黒髪を束ねて、白と赤の布をまとっている。鋭い目は——どこか疲れているようだった。
わたしの足元から頭まで、一度だけ往復した。値踏みするような、隙のない視線。
「わらわは壱与と申す者。みこが連れてくる者を、わたしは信じることにしている」
壱与は厳かに言った。
「だが——信じることと、気を許すことは、違う」
布の内側で、壱与の左手が帯を強く握っているのが見えた。
「あの」
緊張に耐えられず、わたしは言った。
「すみません、言葉はわかるんですが、口調が……」
「口調?」
「現代語とちょっと違って……」
壱与は眉をひそめた。
「現代、とは何か」
「ゆずにゃーん。バッチリ教えとくにゃ」
「教えるって、何を」
女王様か、やっぱり威厳があって、緊張するな。
案内された小さな部屋に荷物を置き、水をもらって少し休憩した。
休憩している間、猫だるまが壱与にいきさつを話してくれるようだった。
しばらくすると、猫だるまが戻ってきた。壱与も一緒だ。
「マジで?」
「ヤバくない?」
「チョベリバにゃね」
「チョベリバにゃ」
楽しそうな会話。何だろう、この違和感は。
聞くと、猫だるまが壱与に現代語を教えていたという。
「それ、今の言葉じゃないよ」
わたしはこっそり猫だるまに言った。
「チョベリグにゃ」
猫だるまは、肉球にグッと力を入れた。
壱与の吸収は、異様に早かった。
発音に古語のリズムが残っているけど、語彙はどんどん現代語に、というか——なぜか90年代に近づいていた。
「ロンバケって何か?」
壱与がいきなり聞いた。
「……えっと、何だっけ」
「丸い猫が言っていた。月9に出てくるものだと」
「……今の言葉じゃないですよ、それも」
でも壱与は笑った。初めて、表情が柔らかくなった瞬間だった。
「おかしいか? わらわは——わたしは、言葉を覚えるのが好きだ。言葉は、時代を越えるから」
笑いが終わったのは、外から声が聞こえてきたときだった。
複数の人の声。何かを叫んでいる。言葉は聞き取れなかったが——緊張した空気が、建物の中まで伝わってきた。
「何かあったのかな」
わたしが言いかけると、壱与の表情が、戻っていた。さっきの柔らかさが消えて、また鋭く、疲れた目に戻っていた。
「見るか?」
「……はい」
広場に人が集まり、その中心に——病人がいた。
老いた男性が地面に座らされていて、両足がだらりと伸びていた。足に、布が巻かれていた。怪我をしている。声も出ていなかった。口は少し開いているのに、何も出てこない。
周囲を、役職のありそうな何人かが囲んでいる。何かを話し合っている。争っているのではなく——粛々と、何かを進めようとしているように見えた。
「怪我、ひどそうだね」
「足は——一月ほど前だ。山仕事で痛めた。それだけなら、よくある話だ」
「声は」
「足を痛めてから、周りが悪霊ではないかと言い始めた。その頃から、だ。生贄に決まったのは」
「生贄……」
わたしは息を止めた。
「五日前だ。声が出なくなったのを見て——もう疑いようがないと」
怪我で歩けない。それだけなら、ただの怪我。
でも「悪霊かもしれない」「生贄になるかもしれない」という恐怖が重なったとき——体が、別の形で止まることがある。声という形で。
周囲の人たちの顔は、怖がっているのではなかった。粛々としていた。まるで、これが正しいことだという空気があった。
「本人のため、国のため」
脇に立っていた男性が言った。
聞いたことのある言葉だった。
本人のため。会社のため。会議室のあの声が、脳裏に重なった。
そのとき、病人がこちらを見た。
——知っている。この目を、知っている。
——もうここしかないと知っている目だ。
父が言っていた。あの言葉の通りの目が、今、目の前にある。Kさんの目と、同じだった。時代が違っても。言語が違っても。二千年近く離れていても——同じ目が、ここにあった。
「ゆずにゃん」と猫だるまが呼んだ。
わたしは、そこにいる人の目から離れられなかった。
「……わかった。なぜ、ここに来なければいけなかったか」
声は思ったより落ち着いていた。
広場から少し離れたところで、みこが座っているのが見えた。向かいに、若い女性が膝を抱えて座っている。うつむいていて、顔が見えなかった。
みこが目を閉じた。
しばらく、何も起きなかった。
それから——みこが、高く、ゆっくりと声を出した。
鳥の声に、似ていた。似ているどころか、そうとしか言いようがなかった。人の口から出ているとは思えない、透き通った、細い声。頭の上を何かがすうっと通り過ぎていくような音だった。
今度は少し低く。お腹の底から出てくる、遠吠えのような声。
それから短く、小さく。子猫が呼ぶような声。
「何してるんですか」
隣に来た猫だるまにそっと聞いた。
「占いにゃ。みこは、動物に聞くにゃ」
「動物に?」
「鳥なら、空から見えるものを教えてもらうにゃ。獣なら、地の底で感じるものを教えてもらうにゃ。あの声は——みこが動物になって、聞いているときの声にゃ」
「相談者の人には、意味がわかるの?」
「聞こえているのは音だけにゃ。意味までは、まだわからにゃい」
みこが目を開けた。声が戻り、穏やかで、物静かな、いつものみこの声。女性に向かって、静かに言葉を伝えた。
女性はしばらく聞いていた。それから——ふっと息を吐いた。何かが緩んだ顔だった。深く頷いて、頭を下げた。
みこは笑顔で、小さく頷いた。
「……すごい」
思わず声が出た。
現代にいたみこは、静かで、優しくて、でもどこか——輪郭のぼんやりした人だと思っていた。言葉が少なくて、感情が読みにくくて。
今のみこは、わたしの知っているみこと同じ人には見えなかった。
「そういえば猫ちゃんも、動物なのに、人間の言葉をしゃべるよね」
「当たり前にゃ」
そう言って胸を張る様子を、不思議に思いながら見つめていた。
夜になり、建物の中で、みこと並んで座っていた。猫だるまは壱与に呼ばれて奥へ行っていた。
「みこさん」
「ん」
「父の言葉を、届けに来たと思っていたんです。最初は」
「最初は?」
「今は——違う気がします。父の言葉は、わたしの言葉でもある気がして」
みこは何も言わなかった。
「家族で話し合った日、父が渡してくれたのは言葉だけじゃなかったのかもしれない。あの目を見た、という経験を——渡してくれた気がします。そしてわたしはKさんで、同じ経験をした。だから今、ここにいる」
「遺産って」
みこは言った。
「お金じゃないんだよね」
「……そうですね」
「形のないものを渡すことを遺産と呼ぶなら、ゆずちゃんはもう、受け取ってるね」
外で、虫が鳴いていた。
草の匂いが、まだしていた。
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【全話もくじ】人生のドーパミン遺産 ― 猫だるまと渡す、20代からの終活 ―
(1)プロローグ 遺産分割
https://note.com/jolly_lotus814/n/n687cd0dd5751
(2)第一章 声にならない言葉
https://note.com/jolly_lotus814/n/n6a3b19da90e1
(3)第二章 生きた証
https://note.com/jolly_lotus814/n/n7933a6164818
(4)第三章 メメント・モリ
https://note.com/jolly_lotus814/n/n47f7db7cd5a6
(5)第四章 人生のカードゲーム
https://note.com/jolly_lotus814/n/ne940872a5043
(6)第五章 後悔を先に知る
https://note.com/jolly_lotus814/n/n0fe9a6a2aeab
(7)第六章 行く、と決めた
https://note.com/jolly_lotus814/n/nb0372931122c
(8)第七章 時を越えた形見
https://note.com/jolly_lotus814/n/nfd2381d40a05
(9)第八章 占い師と産業カウンセラー
https://note.com/jolly_lotus814/n/ndb68876446da
(10)第九章 帰る場所
https://note.com/jolly_lotus814/n/n9f46c63dc7aa
(11)エピローグ 余白を受け取る
https://note.com/jolly_lotus814/n/n3dea09cc614c
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