人生のドーパミン遺産(9)第八章 占い師と産業カウンセラー
第八章 占い師と産業カウンセラー
翌朝。
目を覚ますと、みこの姿がなかった。
外へ出ると、小川のそばにいた。
膝を折り、水に手を入れている。
白い布の袖を少しだけたくし上げていた。
水面に映る朝日が揺れている。
みこは何も言わず、水の中で葉を洗っていた。
長い葉、細い茎。見たことのない草だった。
洗い終わると、迷いのない自然な動作で束ねる。
「何してるんですか」
「あ、ゆずちゃん。おはよう」
振り返ったみこは、いつもの笑顔だった。
「朝の薬草だよ」
「薬草」
「少しお腹の調子が悪い人がいて」
そう言って葉を見せる。
わたしには雑草にしか見えなかった。逆にお腹を壊しそうだ。
スーパーの棚に並んでいても、まず手に取らない。
でも、みこの手の中では、それがちゃんと薬に見えるのだった。
「今でも覚えてるんですね」
「覚えているというより」
葉についた水を払う。
「体が先に動く感じかな」
小川の流れを見た。
「現代の方が長かったはずなんだけどね」
少し笑う。
「でも、水を見ると洗いたくなるし」
葉を束ねる。
「この匂いを嗅ぐと、どの薬草か思い出すし」
空を見上げる。
「鳥の声を聞くと天気を考えるの」
本当に不思議そうだった。
村へ戻る途中、みこは立ち止まり、何かを拾った。
細い枝だった。
その場にしゃがみ込み、枝先を整える。
「あ」
と小さく声が出た。
「どうしたんですか」
「昔もよくやってたなと思って」
少し照れたように笑い、枝を使って髪をまとめる。
迷いがなく、手際が良かった。
「似合いますね」
そう言うと、みこは少し困ったように笑った。
「ありがとう。でも、まだ変な感じ」
「何がですか」
「帰ってきたはずなのに」
風が吹いた。
長い髪が揺れる。
「ずっと留守にしていた家に戻ったみたい」
みこは遠くの山を見た。
「懐かしいのに、全部がそのままじゃないんだよね」
みこの横顔に、朝の光が当たっていた。
懐かしさと、寂しさが、同じ顔の上で揺れていた。
帰る場所があるというのは、こんなにも——複雑なことなのか。
「一軒だけ、寄ってもいい?」
少し落ち着かない様子で、みこは返事を待たずに、もう歩き出している。
連れていかれたのは、村のいちばん端の家。屋根を葺く草が、ほかの家より深く茂っている。
入り口で、みこが声をかけた。
出てきたのは、腰の曲がった年老いた女性だった。みこの顔を見ると、ほっとしたような、戸惑っているような、半端な顔になった。
「眠れてないでしょう。ここのところ」
みこは、さっきとは違う草の束を差し出した。
「お腹じゃなくて、眠れない時の」
女性は震える手で、何も言わずに受け取った。
奥に、あの男性がいた。
広場で見た、足を怪我した男性。足に布を巻いて、壁にもたれて座っている。
膝のあたりに、子どもが二人いた。女の子が、男性の手を両手で握っている。ぎゅっと。
「孫です」と女性は言った。「親が早くに逝って。じいさまが、ずっと育ててきたんです」
「あの」
聞いてはいけない、と思いながら、わたしは聞いていた。
「この方は、これから——」
女性は、笑った。
口の端だけを、無理に持ち上げる笑い方だった。
「明日の朝、神様のところへ」
丁寧過ぎる言葉。
「名誉なことです。村のために、なるんですから」
本人のため。村のため。
何度も口の中で繰り返したみたいな言い方。
女性は、その言葉を、お守りみたいに握っていた。握っていないと、立っていられないかのように。
まだ、生きているのに。
すぐそこに座って、手も握れて、目も合うのに。
この家では、もう——お別れが、始まっていた。
帰り道、みこは長いこと黙っていた。
「占いは、しないんですか」
みこは村の人の不安を、いつも占いで受け止めていたはず。
「しても」
みこは前を向いたまま言った。
「もう、決まってることだからね」
草を踏む音だけが、しばらく続いた。
「占いでは、変えられないこともあるの」
——わたしが職場で、何度も飲み込んできた声だった。
しばらく歩くと、年配の女性がみこに声をかけた。
「先生、お帰りなさいませ」
みこは少し困ったように笑った。
「先生じゃないよ」
そう言いながらも、女性の手をそっと握る。
二、三言葉を交わすと、女性は安心したような顔で去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、わたしは聞いた。
「人気者なんですね」
みこは首を横に振った。
「違うの。わたしじゃなくて、昔の先生のおかげ」
占いの先生だろうか。
「どんな人だったんですか」
歩きながら、遠くの空を見る。
「優しい人だった」
それから少し笑う。
「でも、すごく怖かった」
どっちなんだろう。
「怖かった?」
「嘘が嫌いだったから。占いって、人の心配事を聞くでしょう」
「うん」
「その人が本当に言いたいことと違うことを話していると。すぐ見抜かれた」
それは確かに怖そうだ。
「占いも教わったんですか」
「少しだけね」
みこは空を見たまま言った。
「本当は、もう一度会いたかった。でも、帰るのが遅くなったから」
「その人、偉い人だったんですか」
みこは少し考え、珍しく少しだけ寂しそうに笑った。
「わたしにとってはね」
少し歩いて、みこは足を止めた。
「ゆずちゃんには、話しておこうかな。卑弥呼様。わたしの、先生」
「卑弥呼って……あの、卑弥呼ですか」
歴史の教科書にも載っていた、遠い昔の女王。それが——みこさんの、先生。
「うん。占いを教わったのも、あの方」
みこは懐かしそうに、でも少し痛そうに笑った。
「ご自分でも、わかっていたみたい。もう、長くないって。体が、言うことをきかなくなってきてた」
風が吹いた。
「次に立つ人も、もう決まってた。男の王様。……あんまり、いい人じゃなかったの」
「いい人じゃない?」
「賂を受け取って、誰を生贄にするか決めるような人。奴隷たちにも、つらく当たった。自分のことばかりの人だったの」
みこの声は、淡々としていた。
「卑弥呼様は、わかってたんだと思う。あの人の代になったら、国が荒れるって。だから——わたしを、ここじゃない時代に送ったの。荒れたあとを、支えられる人を、探してきてって」
「それが……」
「壱与様」
みこは頷いた。
「卑弥呼様が亡くなって、男の王様の代になって——国は、ひどく乱れた。たくさんの人が、争って死んだ。それを収めるために、まだ子どもだった壱与様が、女王に立てられたの」
わたしは、何も言えなかった。
「カリスマだった卑弥呼様の、跡継ぎ。みんなが、同じものを期待する。あんなに小さいのに」
みこは目を伏せた。
「わたしが、卑弥呼様の生きているうちに帰れていたら。せめて、最期に、間に合っていたら」
声が、少しだけ震えた。
「亡くなったことは……占いの中で、わかってしまった。それでも、帰れなかったの。ゆずちゃんが、まだ鏡を手に取らないうちは」
帰りたい場所は残っていても、会いたい人は残っていないことがある。
みこは前を向いた。
その先には、壱与の住む建物が見えていた。
中に入ると、壱与はもう起きていた。
「ちょっとマジでストレスなんですけどー」
わたしを見るなり、言った。いきなりだった。
「……今、何て……」
「月9始まっちゃう。ロンバケ見てくる」
おい猫ちゃん、何を教えてるんだ。
「ちょっとわたしの時代とズレてるよ。猫ちゃんの教え方が……」
わたしは天を仰いだ。
「なんで90年代なんだろ」
「ほかにも、覚えたぞ。『MK5』」
「えむ、けー……?」
「マジでキレる、五秒前。怒りを、数で告げる呪文だ」
「いや呪文って、そんな大層なものじゃ……」
「だが、わらわは、『チョベリグ』が、いちばん好きだ」
壱与は胸を張った。
「超、ベリー、グッド。別の国の言葉が、一つに繋がっている。考えた者は、相当な知恵者だな」
それ、たぶん女子高生だよ——言葉を飲み込んだ。
「壱与、それ、誰かの前で使った?」
「昨日、長老たちに。収穫の報告に、『チョベリグである』と答えた」
「……みんな、何て?」
「深く、頷いていた。女王の神託だと思ったのだろう」
こらえきれずに、噴き出した。壱与も、つられて笑う。この笑顔は現代と変わらない。
「ねえ、わたしの時代の言葉も、教えてあげる」
つい、乗ってしまった。
「『ワンチャン』。たぶん、いける、っていう意味」
「ワン、チャン」
壱与は、宝物みたいに、その音を繰り返した。
それから、いたずらっぽく、わたしを見た。
「——明日、あの者の生贄。止められるか? ワンチャン」
「……ワンチャン、あるかも」
「嫌いじゃない。この軽い言葉が」
壱与は、もう、笑っていなかった。
「わたしが普段使う言葉は、全部、重い。民に告げる言葉。神に捧げる言葉。国を動かす言葉。——一つ口にするだけで、人が動く。軽い言葉は、疲れなくて、良いな」
壱与は、息をふっと吐いた。
「誰かに、話したことある?」
「何を」
「重さのこと」
「誰に話す。みんな、国のために、と言う。わたしも、国のために、と言わなければいけない。たとえ、誰かが犠牲になったとしてもな」
「壱与は、どうしたいの」
壱与が、驚いた顔でわたしの方を見た。
「……今、何て」
「壱与は、本当はどうしたいの」
部屋には、虫の声だけがしていた。
「その問いを」と壱与はゆっくり言った。「誰かにされたのは——初めてだ」
「初めて?」
「みんな、どうすべきか、を聞く。神はどう告げるか、民はどう動くか、国はどう治めるか——そういうことを聞く。わたし自身がどうしたいか、は——誰も聞かなかった」
壱与が肩で深呼吸をする。
「疲れた」
はじめて、声が小さくなった。
「卑弥呼の後を継いで——ずっと疲れている。でもそれを言える場所が、ない。言ったら、民が不安になるから」
「ここでは言っていいんだよ」
わたしは言った。
「わたしが聞いているのは、国のことじゃなくて、壱与のことだから」
壱与は長い間、黙っていた。
それから、ぽつぽつと、話し始めた。
卑弥呼の死後、まだ若かった自分が指導者に据えられたこと。期待に応えようとするほど、孤独になっていったこと。占いとは本来、神の言葉を伝えるものだが——実際には、不安を抱えた人の話を聞いて、言葉にして、返すことだということ。
「それは」
わたしはハッとした。
「カウンセリングと、同じだ」
「かうんせりんぐ?」
「わたしの仕事。人の話を聞いて、言葉にして、返す」
壱与は考えた。
「では——わたしたちは、同じことをしているのか」
「呼び方が違うだけで、同じだと思うよ」
壱与の目を、どこかで見たことがある。
広場の、あの人。エレベーターの、Kさん。そして、父が言っていた——もうここしかないと知っている目。
壱与も、同じだった。
違うのは、立っている場所だけ。あの人たちは、囚われた場所から動けなかった。壱与は——囚われた場所の、いちばん高いところに、立たされていた。
その日、気づくと、何もしていなかった。
みこは壱与のところへ行っている。
猫だるまもいない。
わたしは建物の外に座っていた。
風が吹く。
草が揺れる。
遠くで子どもたちの声がする。
誰かが薪を割る音。
煙の匂い。
それ以外、何もない。本当に何もなかった。
スマホもない。
通知もない。
動画もない。
コンビニもない。
「暇だな」
すると少し遅れて、自分の言葉に驚いた。
そういえば最近、暇だと思ったことがあっただろうか。
現代では、暇になる前にスマホを開いていた。
待ち時間も。
移動時間も。
寝る前も。
何なら寝ながらでも。
全部、何かで埋めていた。
空には、ゆっくりと雲が流れていた。
見ているうちに、別のことが浮かんできた。
お父さんのこと。
Kさんのこと。
陽太のこと。
みこのこと。
順番もなく、空に浮かぶ雲のように。
ある雲が見えなくなると、別の雲が勝手に浮かんできた。
「何してるにゃ」
気づくと猫だるまが隣にいた。
「暇してる」
「それは良かったにゃ」
何が良いんだ。でも反論は出なかった。
「猫ちゃん」
「にゃ」
「何か、頭の中が静か」
猫だるまは頷いた。
「余白ができたにゃ」
「余白か」
「現代では埋まり過ぎていたにゃ」
わたしは空を見た。
鳥が飛んでいるのを、ただ目で追いかける。
「退屈って」
わたしは言った。
「悪いことじゃないのかも」
夕方、壱与が民の前で言葉を語った。
わたしはその後ろで、立って見ていた。
壱与は神の言葉を告げた。でもそれは——呪文でも予言でもなかった。不安を抱えた人の顔を見て、その人が言えなかったことを言葉にして、返していた。
「あなたの心配はこういうことだ。だからこう動けばいい」——それだけだった。
——わたしの仕事と、同じだ。
子どもの頃、占い師になりたかった。
実は——もうなっていたのかもしれない。
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【全話もくじ】人生のドーパミン遺産 ― 猫だるまと渡す、20代からの終活 ―
(1)プロローグ 遺産分割
https://note.com/jolly_lotus814/n/n687cd0dd5751
(2)第一章 声にならない言葉
https://note.com/jolly_lotus814/n/n6a3b19da90e1
(3)第二章 生きた証
https://note.com/jolly_lotus814/n/n7933a6164818
(4)第三章 メメント・モリ
https://note.com/jolly_lotus814/n/n47f7db7cd5a6
(5)第四章 人生のカードゲーム
https://note.com/jolly_lotus814/n/ne940872a5043
(6)第五章 後悔を先に知る
https://note.com/jolly_lotus814/n/n0fe9a6a2aeab
(7)第六章 行く、と決めた
https://note.com/jolly_lotus814/n/nb0372931122c
(8)第七章 時を越えた形見
https://note.com/jolly_lotus814/n/nfd2381d40a05
(9)第八章 占い師と産業カウンセラー
https://note.com/jolly_lotus814/n/ndb68876446da
(10)第九章 帰る場所
https://note.com/jolly_lotus814/n/n9f46c63dc7aa
(11)エピローグ 余白を受け取る
https://note.com/jolly_lotus814/n/n3dea09cc614c
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