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人生のドーパミン遺産(11)エピローグ 余白を受け取る

エピローグ 余白を受け取る

頭の感覚が戻り、体に重力を感じた。
帰ってきたとき、自分の部屋は昨日のまま。
机の上のタイムバケツの用紙も、窓の外の風景も、スマホの通知も——何も変わっていない。
でも今日は、なぜか指が動かなかった。
あの、何もない時間の広さを——もう、知ってしまったから。
変わったのは、たぶんわたしだけ。

実家に行ったのは、その翌週だった。
「ちょうどよかった。あきらが来てるよ」
玄関を入ると、お母さんが笑顔で出迎えてくれた。
テーブルの上に、桐箱が置いてあった。
「……何、これ」
「見てみろ」
そう言うと、お父さんは箱を静かに開けた。中に、薄い和紙で包まれた、金色の楕円形の板が見える。
長い沈黙があった。何か月もの間、あきらがこの大判を手にするまでにしてきた苦労を想像するかのように、お父さんはじっと見続けている。
「……きれいだな」
お父さんが言った。

後で台所で皿を洗っているあきらに聞いた。
「どうやって手に入れたの」
「ああ。主催者じゃなくて出品者に直接連絡した」
「そんなことできるんだ」
「やってみたらできた」
少し照れたように笑う。
「断れなかっただけ」と言っていた兄は、いつの間にか自分で道を探していた。

リビングに戻ると、お父さんは興味深げに聞いてきた。
「ゆず、行けたか」
「行けたよ。鏡の中に吸い込まれるなんて、ちょっと怖かったけどね」
「会えたか、古代の人たちに」
「うん。お父さんが言っていた目——同じ目をした人が、古代にもいたんだ」
「そうか」
「今でもよく聞くような言葉も言ってた。本人のため、国のため——って」
「声は、出せたか」
「うん」
父が、少し笑った。透析の痕が残る腕を膝の上に置いたまま、静かに笑った。
「古代は、どうだった」
「空が、広かった」
「そうだろうな」
父は少し間を置いて、ゆっくり言った。
「遠くに行くと——自分がどこにいるかが、見えるんだ」
ずっと言えなかったことが、溢れてきた。
「お父さん。透析を始めた頃、毎日テレビ見てたでしょ。わたし、お父さんは疲れてるんだと思ってた。あんなに苦しんでたなんて、気づかなかった」
声が、かすれた。
「すぐ隣にいたのに。わたし、何も、できなかった」
父は、少し驚いた顔をした。それから、ゆっくり首を振った。
「気づかなくて、よかったんだ」
「え」
「あの頃のゆずは、まだ高校生だった。親の絶望に気づく子どもなんて、いなくていい」
父は、少し間を置いた。
「それにな。お前は、救えなかったんじゃない。お前が同じ部屋で、宿題して、ごはん食べて、笑ってる——それを見てるだけで、俺は、生きていられたんだ」
——救えなくていい。本当の声を、聞けばいい。
わたしが、ずっとやりたかったことって——。
「あとね、壱与って言う人がいて——ちょうどわたしくらいの年だった」
「え、壱与って、邪馬台国の女王の」
あきらが身を乗り出した。
「そうだよ。お兄ちゃん知ってるの」
「有名だろ」
そう言いながらも、視線はテーブルの上の桐箱に落ちていた。
しばらく黙っていたあと、ぽつりと言った。
「俺さ、仕事辞めるかもしれない」
「え?」
「考古学を勉強したい」
思わず顔を見た。
冗談を言っている顔ではなかった。
「急にどうしたの」
「わかんない」
あきらは苦笑した。
「本当にわかんないんだよ」
桐箱を開く。
中の大判を見つめる。
「これを追いかけてる間、ずっと考えてた」
指先が墨書きの上をなぞった。
「これを書いた人、誰なんだろうって」
「江戸時代の人?」
「たぶんな」
「でもさ」
あきらは少し迷うように言った。
「確かに生きてたんだよな」
誰も、茶化さなかった。
「名前も知らない。何考えてたかも知らない。でも、何百年も経って、まだここに残ってる。それが、どうしても気になる。俺、自分が何者なのか知りたいのかもしれない」
「哲学者じゃん」
「うるさい」
「わたしは良いと思うわ」
意外にも母が賛成した。
「実はね」
母は少し考えるように視線を上げた。
「外国に、住んでみたいの」
「住むって……旅行じゃなくて?」
母は笑った。
「英語を勉強して、リュック一つで世界中を回るの」
「おいおい」
父が苦笑した。
「急にどうした」
母は照れたように笑った。
「わたしね」
湯呑みを両手で包む。
「何十年も、お父さんの予定表を見て生きてきたの」
父が苦笑いする。
「別に嫌だったわけじゃないわよ。でも、一回くらい自分の予定表で生きてみたいなって」
湯呑みの湯気だけが、ゆっくり揺れていた。
母のそんな顔を、わたしは初めて見た。

職場が変わったのは、少しずつだった。
一度では変えられない。でも——一度だけでもやってみよう。
最初の機会は、一か月後にやって来た。
会議室で、担当者が言った。
「本人のためですし、会社のためでもありますから」
聞き慣れた言葉。
「その方自身は、何と言っていますか」
部屋が、少し静まった。
担当者が「……確認してみます」と言って、面談を終えた。
ほんのそれだけのこと。劇的なことは何も起きなかった。でも——確認が行われた。
その後どうなるのかは、占うことはできない。わたしの言葉が、誰の手に渡り、どう使われるのかも。
それでも、わたしは声を出したのだ。今度は、言葉の行き先から、目を逸らさずに。

もう一つ、変わったことがある。
わたしの仕事は、産業カウンセラーだ。
社員が心と体をすり減らさず、働き続けられるように支える。生活習慣を整え、ストレスをためこまず、休職せずにいられるように。それが——会社にとっての「健康」だった。
健診の数値を見て、減塩を勧める。眠れていますか、と聞く。「大丈夫です」と返ってくれば、ひとまず安心する。
相談者の奥には、声にならない言葉が詰まっている。それを引き出したくて、この仕事を選んだはずだった。
でも、実際にやっていることは、もう少し味気ない。
不調のサインを早めに見つけて、手を打って、また現場へ戻す。壊れる前に直して、ラインに戻す。
——人を、機能させ続ける係。
ときどき、自分をそう思った。
「大丈夫です」と言われて安心するのは、たぶん、その人のためじゃない。これで一人、ちゃんと働き続けてくれる。そういう安心だ。
話を聞いて、少し楽にして、また同じ職場へ送り出す。受け取った言葉で、その人の人生が変わるわけじゃない。
わたしは、人を直す係。でも、直したその先を、見届けることはできない。
無力だな、と思う夜が、何度もあった。
働き続けられることと、その人が幸せなことは、同じではない。
Kさんは、働けなくなった瞬間に、会社から離された。陽太は、何の問題もないのに、何のために生きているのかわからない、と言った。
わたしはずっと、「働けるかどうか」を見てきた。
その人が何のために働き、何のために生きているのかは——聞いてこなかった。

その日の相談者は、五十代の男性だった。血圧が高く、何年も「要経過観察」が続いている。
「お酒、減らせましたか」
「まあ、それなりに」
少し前のわたしなら、ここで減塩の話を始めていた。
でも、その日は違うことを聞いた。
「長生きして、何がしたいですか」
男性が、顔を上げた。
「え」
「健康になって、働き続けて——その時間で、何をしたいですか」
考えたことがなかった、という顔だった。
「……孫が、まだ小さくて」
ぽつりと言った。
「あいつが大人になるのを、見たいですね」
それから、少し笑った。
「そのためなら——酒くらい、減らしますかね」
血圧の話は、結局しなかった。

生活を変えるのは、健康のためじゃない。
健康で、働き続けられて——その先のためだ。
順番が、逆だった。
——何のために、生きるのか。
それを聞けるカウンセラーに、わたしはなりたかったのだ。
たぶん、ずっと前から。
人を、ただ機能させ続ける係では、なく。

春になり、創業百周年の式典が開かれた。
大きなホールに、社員が集まっていた。
わたしは後ろの方の席に座った。
プログラムが進んでいく。
社長の挨拶。
会社の歩みの映像。
よくある式典だ。
突然、照明が落ちた。
スクリーンに、一人の人物が映し出された。
会場が、どよめいた。
「え、うそ」
「本物?」
隣の席の人たちが顔を見合わせる。
業界のレジェンドが、壇上に歩いてきた。
会場が、どっと湧き上がった。
拍手が鳴り止まなかった。
——この瞬間だ。
Kさんが見たかったのは、この瞬間だった。
五年かけて準備して、誰にも言わずに仕込んでいた、この瞬間。
わたしは拍手をしながら、目の奥が熱くなった。
周りの誰も、この演出を考えた人の名前を知らない。
プログラムのどこにも、書かれていない。
でも——確かに、ここにあった。
五年分の仕事が、会場いっぱいの歓声になって、鳴っていた。
Kさんがこの景色を、どこかで知ることができたのか。
それは、わからない。
でも、わたしは見た。
この歓声を見た証人なのだ。

アパートの机の上には、切りそろえたカードが並んでいた。
『海外旅行』
『友人に会う』
『お母さんと旅行』
『目が見えなくなる』
『好きなものが食べられなくなる』
何度も書き直した跡がある。
その横には、何枚も没になった名前の候補が転がっていた。
『人生バケツ』
『終活カード』
『タイムカード』
どれもしっくりこなかった。
机いっぱいに広げたカードを、ながめる。
やりたいことの隣に、できなくなること。二十代、三十代、その先。
全部ならぶと、自分のこれからが、地形みたいに見えた。
——遠くに行くと、自分がどこにいるかが、見える。
最後に残った一枚に、
『ドーパミン地図』
と書いて、丸をつけた。

そのとき、スマホの通知が光った。
見てみると、お父さんからLINEが来ていた。
これまで、LINEなんかしてきたことないのに。
不思議に思いながら、開いてみた。

ゆずへ
この間は、お願いを聞いてくれてありがとう。
ここに書くことは、今すぐではなく、
十年後くらいに意味があることです。
相続に必要な書類は、
最寄りの法務局に預けてあります。
僕が死んだら、
お母さんのスマホの不具合とか、
ネット証券の使い方とか、
助けてあげてください。
お互い元気で。
ではまた。

「……ほらね、やっぱり相続の話じゃん」
いくらくらいもらえるのかな。
スマホを買い替えて、温泉旅行に行って——。
画面の文字が、にじんで見えなくなっていった。

ふと、机の引き出しを開ける。
中にはメモが一枚入っていた。

俺は——生きた証を残したかったんです

Kさんの言葉。
あの日、忘れないように書き留めたものだった。
紙の端は少し折れていた。
一度だけ、退職後の連絡先を探したことがある。
結局、見つからなかった。
メモを裏返す。
そして空いている場所に書き足した。

生きた証を残す手伝いをする

書いてみると、
妙にしっくりきた。

ドーパミン地図の用紙を、また広げた。
「古代へ行く」
チェックをつけた。
済んだことに完了のチェックをつけるのは、これが初めて。
その下に、まだ達成できていない項目が並んでいた。
「Kさんに、声を届ける」
届け方は、まだわからない。
ペン先を、その横に置いた。
チェックをつけようとして、手が止まった。
式典は終わった。
会場は湧いた。
Kさんの五年分は、確かにあの場所で鳴っていた。
でも、それをKさんが知ったかどうかは、わからない。
Kさんに代わりはいないし、次の誰かでもない。
それを、きれいな言葉で包んではいけない。
用紙の余白に、新しいカードを一枚、書き加えた。
「ドーパミン地図を、誰かに渡す」
Kさんの一行の下に、新しい一行が並んだ。
未完了のままの行と、これから始まる行。
ペンを置いた。
窓の外を見る。
あの広い空を思い出した。
古代で見た空。
壱与が見上げていた空。
みこが帰りたかった空。
そして、まだ見ぬ誰かが見上げる空。
余白はまだたくさん残っていた。

#創作大賞2026 #お仕事小説部門

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【全話もくじ】人生のドーパミン遺産 ― 猫だるまと渡す、20代からの終活 ―

(1)プロローグ 遺産分割
https://note.com/jolly_lotus814/n/n687cd0dd5751
(2)第一章 声にならない言葉
https://note.com/jolly_lotus814/n/n6a3b19da90e1
(3)第二章 生きた証
https://note.com/jolly_lotus814/n/n7933a6164818
(4)第三章 メメント・モリ
https://note.com/jolly_lotus814/n/n47f7db7cd5a6
(5)第四章 人生のカードゲーム
https://note.com/jolly_lotus814/n/ne940872a5043
(6)第五章 後悔を先に知る
https://note.com/jolly_lotus814/n/n0fe9a6a2aeab
(7)第六章 行く、と決めた
https://note.com/jolly_lotus814/n/nb0372931122c
(8)第七章 時を越えた形見
https://note.com/jolly_lotus814/n/nfd2381d40a05
(9)第八章 占い師と産業カウンセラー
https://note.com/jolly_lotus814/n/ndb68876446da
(10)第九章 帰る場所
https://note.com/jolly_lotus814/n/n9f46c63dc7aa
(11)エピローグ 余白を受け取る
https://note.com/jolly_lotus814/n/n3dea09cc614c
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