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本能寺の変1582 【重史177】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【重史177】 『信長公記』

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→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 概説大 目次中 →
 1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
 4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
 3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【人物】 【信長の人物像】 6 7 8 9 10
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*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
 信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正 

【重史177】 ◎第66話

①三月七日、三位中将信忠卿、上諏訪より甲府に至りて御入国。

②武田四郎勝頼一門・親類・家老の者、尋ね捜して悉く御成敗。

③駿・甲・信・上野、四ケ国の諸侍、

④帰参の御礼、門前、市をなすなり。                 

                       『信長公記』


 天正十年1582、三月七日。             158200307

 信忠は、諏訪から甲府に入った。

  三月七日、三位中将信忠卿、上の諏訪より、甲府に至りて御入国。

 信忠は、武田の一族・重臣を成敗した。
 彼らは、主家に殉ずる道を選んだ。

  一条蔵人私宅に、御陣を居ゑさせられ、
  武田四郎勝頼一門・親類・家老の者、尋ね捜して、
  悉(ことごと)く、御成敗。

  生害の衆。
  一条右衛門大輔(信竜)・清野美作守・朝比奈摂津守・諏訪越中守・
  武田上総介・今福筑前守・小山田出羽守・正用軒(武田信廉)・
  山懸三郎兵衛子・隆宝(竜芳)、是れはおせうどう(御聖道様)事なり。
  此等皆、御成敗候なり。

 信忠は、上野へ軍勢を派した。
 将は、弟織田信房、団忠正・森長可。 

  織田源三郎、団平八・森勝蔵、足軽衆に仰せつけられ、
  上野国表へ差し遣はされ候ところ、

 信長は、戦わずして、上野一国を手に入れた。
 小幡信真は、人質を差し出した。
 上野に、抵抗する者など、いない。

  小幡、人質進上申し、別条これなし。

 信長は、わずか一月で、四ヶ国を制圧した。
 駿河・甲斐・信濃・上野。
 すなわち、武田の全領地。

 二月三日、信忠の先遣隊、出発。
 同十二日、信忠自身の出陣。
 そして、三月の今。
 わずか一月である。

  駿・甲・信・上野、四ケ国の諸侍、
  有縁をもつて、帰参の御礼、
  門前(信忠の)、市をなすなり。
                        (『信長公記』)

 信長の勢威、恐るべし。
 最早、逆らう者など、誰もいない。

 光秀は、まだ、この光景を知らない。
 同じ頃、光秀は、信長とともに、岐阜にいた。
 まだ、この光景を見ていない。
 信長の勢威が、これ程までだとは、思ってもいなかった。。

 信長も、光秀も、甲斐攻めが長引くものと思っていた。
 これ程簡単に片付くとは、思っていなかった。
 もっと、長引くものと思っていた。
 それ故、中国出陣は、「来たる秋」なのであり、
 光秀は、多く兵の数を率いて来たのである。

 考えても見よ。

 信長の勢威は、確実に成長していた (1~3) 。
 「戦わずして、勝つ」
 これこそ、信長の望むところ。

 1 「長篠効果」  
  天正三年1575。
  長篠での、大勝利。
  信長の勢威は、強大なものになった。
  これが、「長篠効果」。

  光秀は、これを後ろ盾にして、丹波平定に着手した。
  なるほど、最初は、調子が良かった。
  
  だが、しかし、・・・・・。

  信長の勢威は、丹波では通用しなかった。
  天正四年1576。
  一月、波多野秀治が裏切った。
  光秀は、大敗を喫し、九死に一生を得た。

  天正五年1577。
  八月、松永久秀、謀叛。
  光秀、出陣。

  本願寺・毛利の勢力がピークに達していた時期。
  光秀が、最も苦労した時期である。

  天正六年1578~。
  十月、荒木村重、謀叛。
  光秀、これにも出陣。

  そして、ようやく。
  同七年1579、十月。
  丹波統一、成る。

  天正八年1580。
  丹波一国、拝領。

  長い戦いだった。
  光秀には、そのような経緯があった。

 2 「本願寺効果」
  同年、八月。
  本願寺、退城。

  これにより、信長の勢威は、さらに、大きなものになっていく。
  これが、「本願寺効果」。 

  最早、この国に、信長に対抗し得る勢力など、存在しない。

 3 「武田効果」
  そして、天正十年1582。
  甲斐侵攻。
  武田は、内側から崩壊した。
  そして、
  「勝頼の最期」
  「武田の滅亡」へとつづく。
  これによって、信長の勢威は、爆発的に、増大する。
  これを、「武田効果」と呼ぶ。
  
  間もなく、
  信長は、これに気づき・・・・・。
    
                 →【重史018】「武家事紀」

  光秀は、その恐ろしさを再認識することになる。


 【引用】◎第66話 第66話



 ⇒ 次へつづく

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