本能寺の変1582 【重史259】 №6-154 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史259】 №6-154
はじめに ←目次 重要 ◎目次 過去記事 目次 【記事一覧】
←【五大要因】 中 小
←1 時代の風潮
1戦国時代=相互不信の時代
2美濃
3尾張
←2 光秀の実像
1信長という男
2光秀という男
3光秀と光慶 1光秀の素性 2光秀の年齢 3嫡男光慶
4先祖の教訓
5大量殺戮
6信長の弱点
←3 光秀の苦悩
1粛清の怖れ
2志向の相違
3光秀の老い
4四国問題
5自立への道
←4 武田の滅亡
1甲斐遠征
2勝頼の首
3武田効果
←5 信長の油断
「事態急変」
1 勝利の余韻 概略 4月21日 24日
2 四国出陣 概略 5月7日 1/3 2/3 3/3 11日
3 足蹴事件 概略 5月12日 1/5 2/5 3/5 4/5 5/5 15日
密室にて 1/3 2/3 3/3 ① ② ③ ④ ⑤
4 中国出陣
5 時は今、・・・・・。
←さる程に、不慮の題目出来候て、
←【注目ポイント】 目次
←【重要史料】 【重史全通】 【重史一覧】
←【人物】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
【重史259】 №6-154
①当一五八二年の三月八日(天正十年二月十四日)夜の十時に、
②天は東の方が甚だ明るく、
③(信長が)甲斐国の王に対する戦争に出たことは、
④戦争は好結果を収め、
⑤王とその子を殺し、甚だ大なる国四ヵ国を占領した。
⑥絶えず懸念した敵に打ち克ったのであるが故、
⑦この勝利によって一層傲慢となった。
「イエズス会日本年報」
「武田効果」により、
信長の傲慢さは、ピークに達していた。
光秀は、そのことを、他の誰よりも、よく知っていた。
光秀は、信長の甲斐出陣に同行して(三月五日~四月二十一日)以来、帰陣後も、この日まで、連日のように、信長の側近くにあった。
当一五八二年の三月八日(天正十年二月十四日)夜の十時に、
天は東の方が甚だ明るく、信長の城の最高の塔の上方は甚だ赤く見え、
我等に非常な恐怖を起こしたが、これは朝まで続いた。
赤さは甚だ低く、二十レグワ(≒5×20km)の所よりは見ることができまい
と思はれたが、その後聞いたところによれば、豊後においてもこれが見
えたといふことである。
信長がこの驚くべき兆(きざ)しにかかはらず、怖るることなく甲斐国の
王に対する戦争に出たことは、我等カザ(教会)に居る者の驚いたところ
である。
同地には世子がまづ赴き、
信長はその後に行ったのであるが、
戦争は好結果を収め、
王とその子を殺し、甚だ大なる国四ヵ国を占領した。
彼は常に大いに苦しめられ、絶えず懸念した敵に打ち克ったのであるが
故、
この勝利によって一層傲慢となった。
(「イエズス会日本年報」天正十年十月二十日付)
これが、天正十年五月中頃の、信長の精神状態。
信長は、感情が高ぶっていた。
心の余裕を失っていた。
すなわち、精神的なバランスを欠いていたものと思う。
光秀は、肝に銘じていた。
信長は、誇り高い男。
逆らってはならぬ・・・・・、
逆らってはならぬ・・・・・、のである。
だが、信長に縋(すが)る他、術がなかった・・・・・。
光秀は、切羽詰まっていた。
どうすることも出来なかった。
「最後の手段」
そうする他なかったのである。
そして、その時が来た・・・・・。
【引用】5月12日 5/5
【参照】
【重史236】 信長は、傲慢になっていた。
【重史258】 それは、増長し・・・・・。
【重史052】 天文三年1534、五月十二日。
織田信長が生まれた。
かくの如く驕慢となり
⇒ 次へつづく
