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【創作大賞2026応募作品】帰り道の名前

あらすじ:沈黙を連れて帰る

仕事帰りの大井町。
同じ会社で働く篠原ひかりと佐伯直哉は、部署は違うが、いつの間にか帰り道を重ねるようになっていた。高架下の白い光と電車の音に守られたその時間は、二人にとって言葉を選ばなくていい、いちばん楽な距離だった。

互いを特別だと感じながらも、それを恋と呼ぶことはしない。名前をつけた瞬間に、この穏やかな関係が壊れてしまう気がして、踏み込まない選択を続けていた。

しかし、帰り道が重ならない日が増え、同じ時間が失われかけたとき、二人は初めて不在の重さを知る。守っていたはずの距離が、少しずつ痛みに変わっていく。

高架下の音が感情を隠してくれなくなった夜。二人は告白という言葉を使わず、けれど逃げずに、選ぶことを決める。

名前をつけないまま、それでも明日も一緒に帰る。日常を選び続けることそのものが、二人の恋になっていく物語。

第1章:白い音の下で

大井町の改札を抜けた瞬間、外の空気が頬に触れて、遅れていた感覚が戻ってきた。

オフィスの白い明るさの中にいるあいだ、呼吸はずっと浅かったのだと思う。気づかなかった。気づかないようにしていたのかもしれない。机の上に置いた書類の重さと、画面の数字の並びと、誰かの言葉の角を丸めることに忙しくて、自分の肺の広さなんて、思い出す暇がない。

駅の外は、人の湿り気と夜の冷えが混ざっている。コートの内側に、わずかな風が入り込んで、肌の上をゆっくり撫でた。冷たい。けれど、乾いた冷たさではなくて、微かに水気のある冷え方だった。雨はもう降っていないのに、路面のどこかに残っている湿度が、息を吸うたび鼻の奥に引っかかる。

人の流れが、ひとつの生き物みたいに改札前をうねっていく。肩が触れない程度の距離で、同じ方向へ押し出され、ほどけ、また別の線になって散っていく。歩く靴底が、舗装を擦る音。遠くで閉まる自動ドアの乾いた音。自分の心臓の音は、そこには混ざらないはずなのに、今日はやけに聞こえた。

ひかりは、歩幅が小さくなるのを感じた。

まただ。

考えると遅くなる。身体が先に反応する。頭が追いつくよりも早く、足が慎重になる。仕事の終わりのこの時間は、だいたいいつもそうだ。だけど今日は、遅くなりたくないと思った。遅くなったら、何かに間に合わない気がする。その何かが何なのか、言葉にしようとすると途端に幼くなるから、言葉にしないでおく。

高架の影が近づく。蛍光灯の白が、地面にまっすぐ落ちている。まっすぐすぎて、逆に嘘みたいだと思うことがある。ここでは、夜の色も人の顔も、少しだけ平らになる。上を電車が通る音が、遠くから近くへ、近くから遠くへ、ともすれば一定に繰り返されて、沈黙を作る。

音があるのに、沈黙が生まれる。

そういう場所が東京にはいくつもあって、そのひとつが大井町のこの高架下だった。音が厚いと、言葉が余計な意味を持ちにくい。会話が途切れても、誰のせいにもならない。助かる。助かると、そこに甘えてしまう。

視界の端に、見慣れた背中があった。

濃い色のコート。肩の線がぶれない。歩く速度が乱れない。急いでいないのに迷ってもいない歩き方。佐伯直哉。会社の中で見かける彼は、もっと仕事の顔をしている。周りに合わせて笑う角度や、言葉の滑らかさが一定で、どこか遠い。けれどこの道では、背中だけで分かる。背中のほうが、嘘がつけないのかもしれない。

ひかりは少しだけ速度を上げて、それからすぐに落とした。

追いつきたいのが見えるのが、嫌だった。嫌なのに、追いつきたい。そういう矛盾を抱えて歩くと、夜が重くなる。重い夜は苦手なはずなのに、直哉の背中を見つけると、その重さが少しだけ落ち着くのも事実だ。

直哉が振り返る。

目が合いそうになって、ひかりはほんの一瞬、視線を外した。外したことが自分でも分かって、遅れて恥ずかしさが来る。どうしてこう、素直に目を合わせられないんだろう。思うだけで、また歩幅が縮む。

直哉は呼吸を一拍置いてから口を開く。言葉の前に、必ずその間がある。癖だと知っている。知っていることが増えるのは、どこか危ない。

「おつかれ」

「おつかれさま」

挨拶は軽い。軽いのに、胸の奥がほどける。ほどけたことを認めたくなくて、ひかりは指先を丸めた。何かを握っているふりをしていないと、手が所在なくなる。

二人は並ぶ。

直哉は半歩前に出ない。あからさまに合わせている感じがないのに、いつの間にか速度が揃う。たぶん、最初から揃っていたわけじゃない。何度も歩くうちに、互いのリズムが擦り合わせられてしまったのだと思う。擦り合わせ、という言い方は少し怖い。擦り合わせるのは、生活の方だ。生活が擦り合うと、ほどくのが難しくなる。

高架下の光が、二人の影を薄く伸ばした。

裏通りに差しかかると、匂いが変わる。油の甘さ。出汁の湯気の名残り。濡れたコンクリートの冷え。遠くの店の裏口から流れてくる生ぬるい空気が、ほんの少しだけ頬をあたためる。街の裏側の匂いは、ひかりにとって落ち着く匂いだった。誰のものでもない場所の匂い。表向きの顔を外していい場所の匂い。

「今日、遅かった?」

直哉は語尾を短く言う。余計な飾りがない分、言葉がまっすぐ入ってくる。入ってきてしまう。逃げにくい。

「数字がね。最後の最後で一個だけ合わなくて」

「一個だけって、いちばん嫌なやつ」

「そう。全部揃ってる顔してるのに、一個だけ違うっていう」

言いながら、ひかりは自分の声が少し軽くなっているのを感じた。愚痴が言える相手がいるだけで、身体が楽になる。楽になることが怖い。楽になってしまうと、それが必要になるからだ。

必要、という言葉に触れた瞬間、ひかりは心の中で小さく首を振った。

恋は、日常の均衡を崩すものだとどこかで思っている。好きになっても、確かめる前に失う可能性を数えてしまう。安心できる関係を守るためなら、恋に名前をつけないままでいい。そう決めてきた。決めてきたはずだ。けれど決めているのに、毎晩こうして同じ道を歩いている。矛盾しているのは自分の方だ。

直哉は缶コーヒーの自販機の前で足を止めた。裏通りの暗さの中で、自販機の光だけが浮いている。値札の紙が少し波打っていて、ボタンの周りには指の跡が残っている。新しくもないし、清潔とも言い切れない。でも、妙に安心する。こういう場所のこういうものは、生活の呼吸を持っている。

「飲む?」

「喉は乾いてないけど」

言ったそばから、ひかりは自分に少し腹が立った。素直にうんと言えばいいのに。断る理由があるわけでもないのに。相手に合わせすぎる自分が嫌いで、でも相手に好意が見えすぎるのも怖くて、結局どっちつかずになる。そういう中途半端さが、仕事では役に立つことが多い。人の間に立つとき、断定しないことは便利だ。けれど今は便利じゃない。

直哉は少しだけ口角を上げて、軽く肩をすくめた。

「じゃ、俺が飲む」

言って、コインを入れる。ボタンを押す前に一拍呼吸が遅れる。選ぶだけの動作にも、その癖が出るのがおかしくて、ひかりは笑いそうになる。笑いそうになって、笑わない。笑ったら、今夜が少し特別に見えてしまう気がするからだ。

缶が落ちる音が、狭い通りに硬く響いた。

直哉は二本取った。一本をひかりに差し出す。ひかりは受け取ってしまう。受け取るのが自然すぎて、断る余地がない。冷たい金属が手のひらの熱を奪う。指先が少し痺れるような冷え。

「ありがとう」

そのありがとうは、たぶん缶に対してだけじゃない。そう思った瞬間、胸の奥がかすかに痛んだ。意味を増やしたくないのに、自分が勝手に増やしてしまう。増やした意味は、いつか崩れるかもしれない。崩れたとき、痛い。痛いのが怖い。怖いのに、今のこの冷たさが、妙に現実的で安心するのも事実だった。

ひかりは蓋を開けた。開く音が小さく鳴って、甘い匂いが立つ。

「甘いのにした」

「うん」

「疲れてるとき、甘いのが落ちる」

落ちる、という言い方が彼らしいと思った。直哉は仕事でも、言葉の置き方が独特だ。刺さるとか、落ちるとか、届くとか。動詞がはっきりしている。はっきりしているのに、本人の本音は見えにくい。見えにくいことに、ひかりは少しだけ救われている。見えなければ、勝手に決めつけなくて済む。決めつけないことが、関係を守る。

二人はまた歩き出す。

高架の音が遠のいたり近づいたりする。ときどき車の走行音が別の層で混ざり、遠くの信号が変わる気配が伝わる。人の声が通りの向こうで弾けて、そのままこちらには届かない。届かないのがいい。届いたら、自分たちの静けさが壊れてしまう。

「直哉くんは、来週の提案って言ってたよね」

ひかりは沈黙を避けるように言った。避けたのは沈黙そのものではなく、沈黙の中で育つものだ。沈黙は膨らむ。膨らんだものは、いつか形になる。形になったら、名前がついてしまう。

「うん。関係者が増えて、言い方ひとつで空気が変わる」

「戻せない感じ?」

ひかりが言うと、直哉は一度だけ視線を逸らし、すぐ戻した。その癖。考えているときの癖。逸らした視線は路面の黒い点々に触れた。乾ききらない雨の痕が残っている。消えそうで消えない。生活も、たぶんそうだ。

「戻せないかもしれない」

直哉の言葉が、仕事の話なのに別の場所へ触れる。触れてしまう。ひかりは心の奥で、しまったと思った。自分が先に、戻せないという言葉を引き出してしまった気がする。相手の生活を揺らしたくない。直哉はそういう人だ。だから彼は、言葉を慎重に選ぶ。慎重さは優しさでもあるし、恐れでもある。

ひかりにも恐れがある。関係に名前をつけた瞬間、いまの距離が失われること。好きだと認めたあとで、何も残らない未来。そういう未来を先に想像してしまう癖が、夜の湿度みたいにまとわりつく。

電車が頭上を走り抜けた。

振動が靴底から膝へ上ってくる。会話が自然に途切れる。音が大きいのに、その音は不思議と安心をくれる。何も言わなくていい理由になるからだ。ひかりはその間に、横を見ない。沈黙が長くなると視線を前に固定する。横を見たら、直哉の表情を読んでしまいそうで、それが怖い。

怖いのに。

直哉のポケットのあたりがわずかに動く。手を入れたまま、指先だけが落ち着かない。見なくても分かる。分かってしまう。そんなことまで分かるようになったことが、少しだけ嫌だ。嫌だと言いながら、嫌いになれない。そこがまた自分を面倒にする。

音が引いていく。

静けさが戻ると、ひかりは自分の呼吸を聞いた。息を吐くと、喉の奥が甘い匂いをもう一度思い出す。甘さは短い。短いから、もっと欲しくなる。そういうものだ。そういうものに頼りたくないのに、頼ってしまう夜がある。

「今日さ」

直哉が言いかけた。

言葉の前に、一拍。いつもより長い。ひかりはその間に、いくつもの可能性を勝手に並べる。仕事の話。会社の誰かの話。帰り道の話。帰り道の話だけは、触れられると困るのに、触れてほしい気もする。矛盾が喉のあたりで小さく鳴る。

「なに」

「いや……」

直哉はそこで止めた。止めたまま、少しだけ笑う。声にならない笑い。息が軽くなるだけの笑い。

「なんでもない」

なんでもないで済ませられる言葉があるのなら、なんでもないままにしておけばいい。そう思う。思うのに、なんでもないが続くと、逆に疲れる。なにも言わないで守っている関係は、守るための力が要る。力は無限じゃない。どこかで必ず疲れる。

直哉は、歩く速度をほんの少し落とした。ひかりに合わせるため、と言ってしまえば簡単だけど、たぶんそれだけじゃない。言葉を探すとき、人は無意識に速度を変える。足が迷う。迷いが見えるのは、どこか生々しい。

「ひかり」

名前を呼ばれると、胸が一段強く打つ。分かりやすい身体。嫌になる。嫌になるのに、止められない。

「最近、この帰り道さ」

直哉は前を見たまま言う。横顔は蛍光灯の白で平たく見えるはずなのに、なぜか今日は細部が見える気がした。眉の少しの動き。口元の緊張。喉仏が微かに上下する気配。

「当たり前になったなって思って」

当たり前。

その言葉は、安心と同時に不安を連れてくる。ひかりは当たり前が崩れる瞬間を仕事で何度も見てきた。会議で積み上げた合意が、たった一言で崩れる。人の機嫌が変わるだけで、計画が歪む。均衡は脆い。だから恋は均衡を崩すものだと感じてしまう。

「そうだね」

無難な返事。いつもの逃げ道。けれど直哉は逃がしてくれない。

「嫌じゃない?」

直哉の声は静かで、押しつけがましくない。だからこそ逃げにくい。優しい問いは、こちらの心を丁寧にほどこうとする。ほどかれたら困る。困るのに、ほどかれてみたいと思う自分もいる。そういう自分が、いちばん扱いづらい。

ひかりは横を見ない。見ないまま、言葉を選ぶ。選びすぎて、結局無難な方へ滑る癖がある。けれど今日は、その無難さが少しだけ間に合わなかった。

「嫌じゃない」

言ってしまった。言った瞬間、胸が少し軽くなる。軽くなることが怖い。怖いから、続けてしまう。

「でも」

自分で自分を止められない。止めない方が、たぶん正直だ。正直は怖い。

「名前がつくのは、ちょっと」

直哉の呼吸が小さく変わる。彼の歩みが、ほんのわずかに揺れる。揺れたのは驚きか、それとも同意か。分からない。分からないのに、言葉はもう外に出た。

電車の音が遠くで鳴り、近づいてくる。音が間に入ってくれればと思ったのに、今日は音が助けにならない。言葉の輪郭だけが残る。

「こういうのって、勝手に意味が増えるから」

ひかりは続けた。続けるつもりはなかったのに、続けた。書きながら考えるみたいに、話しながら考えている。整えたいのに整えきれない自分が、そのまま出る。

「増えた意味が、崩れたら……痛い」

痛い、と口にした瞬間、胸の奥が本当に痛んだ。言葉が身体に追いつくのが遅れて、ようやく自分の怖さが形になった気がした。

直哉は少しだけ間を置いて、短く言った。

「わかる」

その一言が救いになってしまうのが、悔しい。救われたくないわけじゃない。ただ、救われると返さなければならない気がする。返せないと、自分が悪い気がする。そういう思考の癖が、ひかりをいつも疲れさせる。

「俺も、増えるの怖い」

直哉はそれだけ言って、缶を一口飲む。喉が動く。白い光の下で、その動きだけが妙に生々しい。ひかりは見てしまって、すぐ視線を落とした。見てしまうことが増えた。見ない努力をしているのに、見てしまう。

「でもさ」

直哉が言う。

「怖いって言ってるだけだと、なんか……」

なんか、の先が出てこない。出てこないまま、直哉は口を閉じる。閉じた口元が、少しだけ硬い。硬いのに、怒ってはいない。怒ってはいないことが分かる。それがまた厄介だ。

ひかりは、衝動みたいに聞いてしまった。

「足りないって思う?」

言った瞬間、しまったと思う。踏み込んだ。踏み込まないことで守ってきたのに、自分から踏み込んだ。けれど、もう遅い。言葉は外に出てしまった。

直哉は速度を落とす。落とした分だけ、二人の足音がゆっくりになる。足音がゆっくりになると、空気が濃くなる。濃くなった空気は、逃げ道を狭める。

「ある」

直哉は短く答えた。短いのに、その答えが重い。重い答えを、彼は軽く扱わない。軽く扱わないところが、彼の優しさでもあり、彼の不器用さでもある。

「でも、足りないって言ったら」

直哉は一拍遅れて呼吸し、続ける。

「困らせる気がする」

困らせる。ひかりは、少しだけ笑いたくなった。困らせるのは、もう困っているからだ。困っているのに、困っていないふりをしている。ふりをするのが上手い二人が、ここまで来てしまった。

「困らないよ……たぶん」

たぶん、と付けてしまう自分が情けない。断定できない。断定したら、引き返せなくなる気がする。引き返せなくなるのが怖い。怖いのに、引き返したくない気持ちもある。どちらも本当だ。

直哉は声にならない笑いをもう一度吐いた。今度は少しだけ苦い。

「たぶんって言うの、ひかりらしい」

「悪かったね」

「悪くない。そういうとこで助かってる人もいるだろ」

助かってる。仕事の話みたいだと思って、ひかりは目を伏せた。助かる、という言葉は優しい。でもその優しさは、ときどき自分の居場所を固定してしまう。気配りが細かい人、穏やかな人。場を乱さない人。そういう役割を、いつの間にか自分が引き受けてしまう。引き受けたくて引き受けたわけじゃないのに、降り方が分からない。

分かれ道が近づく。

いつもの角。左へ行けばひかりの帰り道。まっすぐ行けば直哉の方。いつも通りの構造が、ここにある。構造があるから、ここまで歩ける。構造があるから、ここで終わる。

直哉は角の手前で足を止めた。止め方が丁寧だった。ひかりが先に止まったように見える位置で止まる。そういう配慮が無意識にできる人だと分かってしまうのが、また厄介だ。優しい人は、好きになってしまうから。

ひかりは自分の胸に、その言葉が浮かびそうになるのを感じた。

好き。

浮かんだだけで、慌てて沈める。沈めるとき、心の水面が揺れる。その揺れが、息に出る。

「明日も」

直哉が言う。問いかける声。確かめる声。頼る声にも少し似ている。

「同じくらい?」

約束ではない。けれど明日という言葉は、今日を延長する。延長できるなら、助かる。助かると思った自分が、また怖い。いつから自分は、誰かとの帰り道に助けられるようになったんだろう。

「うん。同じくらいだと思う」

今度は、たぶんを飲み込んだ。飲み込んだ分だけ、胸が苦しくなる。断定は重い。重いのに、言ってしまう。言ってしまったことが、少しだけ嬉しい。

直哉は頷いた。頷きは小さい。小さいのに、確かだ。

何か言い足しそうに口が動いて、結局止まる。言いかけてやめた言葉が、空気の中に残る。残っているのに見えない。見えないものほど、触れると痛い。

「おやすみ」

「おやすみ」

ひかりは左へ曲がる。直哉の気配が背中に残る。残り方がいつもより長い気がして、振り返りたくなる。振り返ったら、何かが決まってしまう気がする。決まるのが怖い。怖いのに、決めてほしいと思う自分もいる。弱い。弱いけど、それが自分だとも思う。

裏通りの奥へ進むにつれて、音が減る。高架の響きは遠ざかり、代わりに自分の足音がはっきりする。吐く息が白くなるほどの冷えはまだ来ていないのに、息は夜の形をしている。吸うたび、肺の奥が少しだけ痛い。仕事の終わりの身体は、うまく呼吸を思い出せない。

ひかりは途中で立ち止まった。

植え込みの葉が湿り気を含んでいて、土の匂いがする。東京の匂いはいつも何かと混ざっている。排気の薄さ、古い建物の埃、店の裏の油。そこに土の匂いが混ざると、急に現実が柔らかくなる。柔らかくなるのに、胸の中は硬いままだ。

缶の甘さが舌に残っている。甘さは、短い救いだ。短いから、また欲しくなる。欲しくなることが怖い。欲しくならなければ、均衡は保てるはずなのに。

この時間がなくなるなら、恋じゃなくていい。

心の奥に沈めていた言葉が、また浮いてくる。浮いた言葉を沈め直す。沈めるたび、少しだけ水面が揺れる。揺れが止まらない。止められない。止めなくてもいいのかもしれない。そう思うと、今度は別の恐怖が来る。止めないまま進んだら、どこへ行くのか分からない。

ひかりは歩き出した。歩き出すしかない。今日の自分を、明日の自分へ運ぶために。

背中の方で、電車の音が一度だけ大きくなって、それから薄くなった。音の薄さの中に、直哉の呼吸の一拍遅れが思い出される。彼の沈黙。言いかけてやめた言葉。足りない、という短い音。

何も起きていない。

少なくとも、目に見える出来事は。

それでも、帰り道の空気だけが少し変わった。変わったことを、誰にも見られたくない。見られたくないのに、見られてもいいと思う瞬間もある。その瞬間の自分を、ひかりはまだ許せない。

許せないまま、玄関の灯りが見えてくる。

灯りはあたたかい。あたたかいのに、胸の奥の冷えは残る。冷えが残るのは、悪いことばかりじゃない。冷えがあるから、触れるものの温度が分かる。そう考えてしまう自分が、少しだけ滑稽だとも思う。大げさだ。大げさなのに、今夜はそういうふうにしか感じられない。

鍵を回す前に、ひかりはもう一度だけ息を吐いた。

明日も同じくらい。

その言葉は約束ではない。けれど、約束になりかけている。なりかけているものを、手放したくない。手放したくないから、名前をつけたくない。名前をつけないまま、抱えていくのが、いちばん楽で、いちばん苦しい。

そのことに気づいてしまった夜が、静かに更けていった。

-完-

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