デジタルアクター試論 27. 『ワイルド・スピード』のブライアン・オコナーと、ドミニクたちの老い
デジタルアクター試論 目次
1. 発想の出発点——肖像権を払ってCGで作るという可能性
2. 最初の突破口は誰が開けるか
3. ブルース・リーという最有力候補
4. アイコンと役柄のバランス問題
5. 完全オリジナルのCGキャラによるスターシステム
6. 契約のパーセンテージ化
7. 仮面ライダー1号という日本の特殊事例
8. ルパン三世・クレヨンしんちゃんとの対比
9. 違う人が本郷猛を演じても定着しなかった理由
10. 今の仮面ライダーがほぼCGという逆説
11. 一文字隼人と佐々木剛氏
12. 美空ひばりとの違い——役を演じるか否か
13. 性格の可変性という基準——ブルース・ウェイン、長谷川平蔵、車寅次郎
14. 「群像劇化」が原点を重くする逆説
15. 特撮主演というキャリアの賭け——村上弘明、長谷川初範、細川茂樹、オダギリジョー
16. 西島秀俊という稀有な存在——シン・ウルトラマンからBLACK SUNへ
17. 西島秀俊と木村拓哉——芸能人としての格と俳優としての評価
18. 30代・40代の本郷猛を描くという可能性
19. 総3Dアニメ化という選択肢
20. フランケンシュタインの被造物として
21. 唯一無二性を生んだ三つの偶然
22. 撮影現場の一体感、という最後の鍵
23. ブルース・ウェインとクラーク・ケント——比較対象の精緻化、そして本郷猛の特異性のまとめ
24. 最初のデジタル化に生じる微妙な変更
25. 『ボヘミアン・ラプソディ』が示した「受け手の補完」
26. マイケル・ジャクソンの伝記映画
27. 『ワイルド・スピード』のブライアン・オコナーと、ドミニクたちの老い
28. 乱用するプロデューサーへの懸念
29. 「コモディティ化」と「民主化」という言葉の歪み
30. 政治権力による技術の独占とプロパガンダ
31. ゲリラ的パロディというもう一つの危険
32. 結語

Brian O'Conner (Paul Walker)
Furious 7
Furious7では、ポール・ウォーカー、弟をちょっとだけ出して、顔は変えてしまっていた。もうブライアンの登場はないから、そうしたんだろう。
映画『ワイルド・スピード SKY MISSION』(Furious 7)の、ポール・ウォーカー(ブライアン・オコナー役)のあのエピソードである。撮影期間中にポールが不慮の事故で亡くなってしまい、映画を完成させるために、彼の二人の弟(カレブとコディ)がスタンドイン(身代わり)として撮影に参加し、「顔だけを最新のCG・ディープフェイクで生前のポールの顔に差し替える」という手法が取られた。
まさにあの処理こそ、ここまで話してきたすべての議論の原点であり、映画史における最大の転換点だったかもしれない。
映画のラスト、ブライアンが白いトヨタ・スープラ(ポールの私物)に乗って、ドミニクと並走しながらお互いに微笑み合い、やがて分かれ道をそれぞれ別の方向へと進んでいくあのシーン。
本来なら「CGの顔なんて違和感があるんじゃないか」と、脳が間違い探しを始めてしまうリスクが一番高いシチュエーションだった。しかし、観客は全員「ポールが亡くなってしまい、これが彼の最後の姿になる」という現実を知っていた。だからこそ、画面に映るブライアンの笑顔(CG)を見た瞬間、観客の脳は違和感を弾くどころか、「彼を最高の形で送り出してあげたい」という愛とリスペクトで、大幅な余白を自ら猛烈に補完したわけである。
「もうブライアンの登場はないから、最後に完璧な形で物語の幕を引く」という作り手の執念と、観客の感情が完全にシンクロしたからこそ、あのCGは「偽物」ではなく、映画史に残る「最も美しいお別れ(リアリティ)」になった。
顔はCGで書き換えていたが、あの車を運転する佇まいや、骨格のベースになっていたのは「血の繋がった弟たち」の肉体だった。ここが、「藤岡氏の息子さんがモーションを担当して、顔を若き日の藤岡弘、にする」という未来と、完全に地続きになっている。
まったくの赤の他人が演じるよりも、血の繋がりや、そのキャラクターへの深い理解を持った人間の「肉体」がベースにあるからこそ、CGのお面を被せたときに、単なるデジタル人形ではない「本物の血の通ったニュアンス」が画面に宿る。『ワイルド・スピード』の時は、悲劇的な事故という「どうしてもそうせざるを得ない理由」があったからこそ、ハリウッドは禁じ手を解禁し、観客もそれを100%の善意で受け入れた。
そして、あのシリーズの凄みは、単なるド派手なカーアクション映画の枠を超えて、「肉体の老いと、人生の成熟」という生々しい時間の経過を、キャラクターと役者自身がシンクロしながら、ガチのドキュメンタリーとして背負っている点にもある。
最初はストリートの若造だったドミニクたちが、回を重ねるごとに体に厚みが増し、顔の皺が深くなり、守るべき「ファミリー(家族)」ができ、父親になっていく。劇中でどれだけスーパーパワー並みの超人アクションを繰り広げても、彼らの「肉体と年齢のリアリティ」だけは絶対に嘘をつかないという構造が、あのシリーズの底流にはずっと流れている。
この「生々しい老い」という裏テーマを考えると、「デジタル・アクター」という存在が、いかに歪で、かつ強力な劇薬であるかがさらに浮き彫りになる。
ポール・ウォーカーの急逝によって、劇中のブライアンは「ファミリーの安全のために、戦いから身を引いて静かに暮らしている」という設定になった。つまり、ドミニクたちがこの先どれだけ年老い、白髪が増え、渋みを増していっても、シリーズの記憶の中にいるブライアンだけは、あのラストの、青い目をして微笑んでいた「若い姿」のまま、デジタル的に時間が永遠に凍結されている。
残された生身のメンバーが老いれば老いるほど、凍結されたブライアンの「永遠の若さ」が、ファミリーが失ってしまった「かつての輝かしい青春そのもの」の象徴として、より一層切なく、神聖なものとして輝きを放つ。
これは、CGという技術が図らずも映画にもたらしてしまった、究極のサウダージ(哀愁)である。
仮面ライダーに話を戻すと、まさにここが面白い対比になる。
『ワイルド・スピード』では、登場人物たちが生々しく老いていく現実のドラマの中に、不慮の事故によって「永遠の若さ」がデジタルで一ピースだけ埋め込まれた。
一方、未来の『仮面ライダー1号・2号』では、ご本人が生々しく老いていく現実があるからこそ、「あの全盛期のカッコよさ」をデジタルでサルベージし、ファンがいつでもアクセスできる「記号としてのヒーロー」として再起動させる。
生身の俳優が演じ続ける限り、「老い」は避けられない。藤岡氏や佐々木氏が年齢を重ねられた姿でスクリーンに立つことも、人生の重みという点でものすごく価値があるが、それは「本郷猛の老い」という別のドラマになってしまう。
観客が「ヒーロー」に求めているのが、時代を超えても絶対に色褪せない「普遍的な強さと憧れ」であるならば、やはりどこかのタイミングで、その肉体をデジタルに移行して「老い」から解放してあげる必要があるのかもしれない。
『ワイルド・スピード』が見せているのは、人間が時間とともに失っていくもの(老い、別れ)のリアルさである。だからこそ、その残酷な時間の流れに対抗するように、テクノロジーを使って「あの輝いていた瞬間」をフィルムの中にピン留めする行為に、私たちは強烈なエモーションを感じるのだろう。
映画のキャラクターと一緒に自分たちも年をとっていく贅沢さと、いつでもあの頃の姿で待っていてくれるヒーローの安心感。デジタル・アクターという未来は、私たちにその両方を手に入れる権利をくれようとしているのかもしれない。
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