月2回の恋人たち
第1章 - 初めての朝
午前7時47分。ゆめの目が覚めたのは、健太の寝息の変化だった。
昨夜のことが、まだ体の奥に残っている。初めて、だった。6ヶ月かけてたどり着いた、あの瞬間。健太が何度も「大丈夫?」「痛くない?」と聞いてくれて、最初はぎこちなくて、でも最後は──。
隣で健太が寝返りを打つ。薄いTシャツの背中越しに、筋肉の動きが見える。ゆめは自分の体を確認した。少し、違和感があった。でもそれは痛みじゃなくて、何か新しい感覚だった。
スマホの画面を見る。LINEに由香からのメッセージが3件。
『昨日どうだった?』
『返事遅いってことは…』
『詳細は今度聞くからw』
ゆめは小さく笑った。由香はすぐわかってしまう。大学時代からずっとそうだった。
「おはよう」
健太の声。振り返ると、まだ半分眠そうな目がこちらを見ていた。
「おはよう」
なんて返事していいかわからない。普通に「おはよう」でいいのか。昨夜のことを口にすべきなのか。健太も同じように戸惑っているのがわかった。
「えっと…」
「あ、あの…」
二人同時に口を開いて、同時に止まった。健太が苦笑いする。
「昨日、ありがとう」
健太がそう言った時、ゆめの胸がきゅっとなった。ありがとうって、そういうものなのかな。お礼を言うものなのかな。
「私こそ。優しくしてくれて」
そう答えながら、ゆめは自分の言葉が正しいのかわからなかった。雑誌で読んだような、ドラマで見たような言葉じゃない。でも、本当にそう思った。
健太が起き上がって、ベッドサイドの時計を見る。
「7時50分か。ゆめ、今日も取引?」
「うん。9時から」
いつもの会話に戻っていく。でも、昨日とは少し違う。空気が変わった、というより、二人の距離が変わった。物理的な距離じゃなくて、何か見えない境界線が消えたような感じ。
ゆめは健太のアパートから自分の部屋に戻る準備をしながら、昨夜のことを思い返していた。思っていたより痛くなかった。思っていたより、自然だった。健太が緊張していたのも、なんだか可愛かった。
「車で送るよ」
「ううん、電車で大丈夫」
「でも──」
「本当に大丈夫。いつものペースで行きたいから」
健太は少し寂しそうな顔をしたけれど、うなずいた。ゆめの投資に対する姿勢を理解してくれている。平日の朝は、恋愛モードから投資モードに完全に切り替える必要があった。
電車の中で、ゆめはスマホを見た。日経平均の前日終値、為替レート、アメリカの夜間先物。いつもの確認作業。でも今日は集中力が散漫だった。
昨夜の健太の手のぬくもりが、まだ体に残っている。
家に着いて、6畳の部屋に入る。デスクトップPCとサブモニター、そして投資用の機材が並ぶ、いつもの場所。ここが自分の戦場だった。
8時58分。取引開始まであと2分。
ゆめは深呼吸をして、頭を切り替えた。恋愛は恋愛、投資は投資。今は投資の時間。
でも、取引システムにログインしながら、ふと思った。昨夜のことを健太に話したい気持ちがある。でも何を話せばいいのかわからない。「良かった」って言えばいいのかな。「また今度」って言えばいいのかな。
そんなことを考えているうちに、9時の鐘が鳴った。
市場が開く。
ゆめは一瞬で投資モードに入った。昨夜のことは一旦脇に置いて、チャートに集中する。ソフトバンクの板を見る。買いが厚い。任天堂はどうだろう。
でも、いつもと違って、集中力が続かない。頭の片隅に健太のことがある。昨夜のことがある。そして、なんだか体調も普通じゃない。
9時15分。最初の15分で、いつもなら3銘柄はチェックするのに、まだソフトバンクしか見ていない。
これじゃダメだ。
ゆめは立ち上がって、窓を開けた。朝の冷たい空気を吸い込む。頭をクリアにする。
そして、デスクに戻った時、LINEの通知音が鳴った。
健太からだった。
『お疲れさま。集中して頑張って』
短いメッセージ。でも、ゆめには健太の気遣いが伝わった。取引中にLINEを送るのを躊躇したけれど、応援だけは伝えたかったんだろう。
ゆめは返事をしなかった。取引中は返事をしない、というルールを健太も知っている。でもそのメッセージが、なんだか心を落ち着かせてくれた。
9時30分。ようやく集中できるようになった。
ソフトバンクを300株、買い。任天堂の動きを見ながら、トヨタの板も確認する。いつものペース。いつものリズム。
でも心の奥で、新しい何かが始まったのを感じていた。
昨夜から今朝にかけて、確実に何かが変わった。健太との関係が、ゆめ自身が、そして見えている世界が。
投資で100万円を突破した時の興奮とは違う、もっと静かで深い変化。
10時30分。1時間ちょっとの取引で、8万円のプラス。
いい滑り出しだった。
ゆめは小さく息を吐いて、チャートを見つめた。グリーンに輝く数字が、昨夜の記憶と重なって見えた。
昨夜のことを健太に伝えたい。でも、どう伝えればいいのかわからない。「良かった」なんて軽い言葉じゃない。「嬉しかった」でもない。
もっと、深くて複雑な感情。
11時。ゆめは立ち上がって、ストレッチをした。
部屋の鏡に映る自分を見る。昨日と同じ顔、同じ体。でも確実に何かが違う。
昨夜、健太と一つになった時の感覚を思い出す。最初の痛みも、その後の温かさも、健太の優しい手も。
そして、もっと大切なことに気づく。
昨夜は、二人で作った時間だった。健太一人でもなく、ゆめ一人でもなく、二人で作った特別な時間。
11時30分。前場終了。
今日の利益は15万円。昨夜の興奮と今朝の複雑な気持ちが、なぜか取引にプラスに働いていた。
ゆめはスマホを手に取った。健太にメッセージを送りたかった。でも、何て書けばいいのかわからない。
結局、シンプルに書いた。
『前場終了。今日は調子良い。昨夜のこと、今度ちゃんと話したい』
送信ボタンを押す前に、少し迷った。「昨夜のこと」って書くのは恥ずかしかった。でも、避けて通れない話でもあった。
送信。
すぐに既読がついた。そして返事が来た。
『お疲れさま!調子良くて良かった。話したいこと、俺もある。今度ゆっくり』
ゆめは安堵した。健太も同じ気持ちだった。
昼休み。ゆめは投資の勉強をせずに、ベッドに横になった。
昨夜から今朝にかけての出来事を、ゆっくりと振り返る。
健太の優しさ。自分の緊張。痛みと、その後の安らぎ。朝の戸惑い。そして今の、なんとも言えない充実感。
これが恋愛なのかな、とゆめは思った。
雑誌に書いてあるようなキラキラした恋愛じゃない。SNSに投稿したくなるような華やかな恋愛でもない。
でも、確実に自分の中に根を張った、大切な何か。
12時10分。後場の準備をしながら、ゆめは小さく微笑んだ。
今日は、新しい自分で取引ができそうだった。
12時30分。後場開始。
ゆめは完全に集中モードに入った。恋愛は恋愛、投資は投資。でも今日は、その二つが自分の中で自然に共存している感じがした。
健太がいるから投資を頑張れる、というわけじゃない。投資があるから健太を大切にできる、というわけでもない。
ただ、どちらも自分にとって大切なもので、どちらも自分の一部だった。
15時30分。取引終了。
今日の総利益は22万円。投資を始めて以来、最高の日だった。
ゆめは画面を見つめながら、昨夜のことを思い出していた。
健太との初めての夜が、こんな風に取引にプラスに働くなんて思っていなかった。心が安定しているからだろうか。それとも、何か新しいエネルギーが生まれたからだろうか。
15時40分。ゆめはスマホを手に取って、健太にメッセージを送った。
『今日は過去最高の利益だった。120万円を超えて142万円になった!』
興奮を抑えきれなかった。投資を始めてから一番の成果。そして、その喜びを一番に健太に伝えたくなった。
すぐに返事が来た。
『すごい!本当におめでとう!!今日は何か特別な日だったんだね』
健太のメッセージに、昨夜のことを仄めかすような温かさがあった。
ゆめは顔が熱くなるのを感じた。そうだった。今日は特別な日だった。昨夜から続く、特別な時間の一部だった。
『ありがとう。今度詳しく話すね』
『楽しみにしてる。今日はMELLOWで待ってるよ』
ゆめは微笑んだ。いつものMELLOW。健太の職場。二人が出会った場所。
今日行ったら、昨日とは違う気持ちで健太を見ることになるだろう。昨夜のことを知っている二人として。
でも、それも悪くない。
むしろ、楽しみだった。
16時。ゆめは投資の記録をつけながら、今日という日を振り返っていた。
朝の戸惑い。取引中の集中力。過去最高の利益。そして、健太への自然な報告。
すべてが新しくて、すべてが自分らしかった。
昨夜のことで、何かが変わった。でもそれは、自分を失うような変化じゃなくて、自分をより自分らしくしてくれる変化だった。
17時。MELLOWに向かう準備をしながら、ゆめは鏡を見た。
昨夜から今日にかけて、確実に大人になった自分がいた。
でも、それは急激な変化じゃなくて、自然な成長だった。健太と一緒に歩んできた6ヶ月の延長線上にある、当然の一歩だった。
外に出る前に、ゆめは深呼吸をした。
今日という日を、大切に終わらせたかった。
昨夜から始まった新しい日常を、健太と一緒に育てていきたかった。
そして、投資の成功も、恋愛の進展も、すべて自分の力で掴んだものだということを、忘れないでいたかった。
18時。MELLOWの扉を開く時、ゆめの心は静かで、でも確実に満たされていた。
新しい日常が、始まったばかりだった。
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