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「一心不乱と一心腐乱と一心太助」(腐っても鯛談義)追記版

(4) 天正戦国小姓の令和見聞録 SHORT STORY-09 - YouTube

<天正戦国小姓の令和見聞録>
 桟敷席:黒澤明監督、幸田露伴殿、十返舎一九殿
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 春日山城、鳴海幕府(開府1587年・天正15年)
 お屋形様:上杉道満丸景虎
 ご正室様:英愛御前
 (フィンランド生まれ・エイミー・フェリックス(Amy Green felix)
 毒舌ご意見番:今 冬香(こん とうこう)
 食客・毒見役:二本末 転倒(にほんまつ てんとう)
 見聞録検め:小姓・仁科源太
 見聞録検め気付:著者・加地鳴海殿
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◇天正四百五十三年 八月六日 

「一心不乱と一心腐乱と一心太助」(腐っても鯛談義)追記版

 令和の時代では特撮やAIを使った娯楽映画が多ござるが、観ていて気持ちがスカッとするものや感動するものがなかなか見当たらぬ。
 毎回当たり前のように無名作家に賞を与えておった芥川・直木賞の多くの褒美も途切れる始末じゃ。一つの賞に一時に二人に授けたとは笑止千万。日の本の文壇も底が知れるようじゃ。
 これでは二回続けての該当者ナシもありえるな。ここ四半世紀で百人近くの受賞者をだしながら、半年も経たずして領民に忘れ去られるようでは賞の存在価値も薄れて来ておる証拠じゃ。
 編集者がAIを駆使して批評するツールは膨大な作品の応募状況を見れば必要不可欠なものでござろう。
 しかしながら、作者自信がAIにすがり創造力まで一任するまたは補助をさせる光景は、純粋な文士としての資格を剥奪されても致しかたなきところ、一億総作家志望時代においては当たり前のように擬似創作の世界を作っておる。その世界の末路はどうなるかは想像するのは難しくはなかろうて。
 心に響かぬ作品、行間のない文章、理路騒然とした記事のような説明小説、意味のない言葉、キャッチフレーズ、などの書籍に目を止める読者がいるとは思えぬ。
 小説を書くこともなかった御仁が、ある日突然一心不乱に書き始めそのうち必ず壁にぶち当たる、プロットや構想も意図もないまま主人公不在の文章を無考でAIに一任する、AIが勝手気ままに物語を進め、作者の意図が消え失せる。
 果たしてこれが作品といえるのかどうか。
 大久保彦左衛門の草履取りだった一心太助が、天下の御意見番に意見する啖呵を切った名台詞が聞こえそうでござる。

「おう、今冬香、お屋形様のご意見番になったそうだな。ここに採れたての魚もって来てあげたぜ。文芸武士該当者ナシのおいらのちょっとした祝い魚だ。いつも古古古古米とメザシしか食ってねぇお屋形様に差し上げてくんな。なに、礼はいらねぇよ。ちょっと出会い頭に魚の卸職人にちょっともってけ、と言われてたもんだからな、お近づきの識るしだぁ」
「おめぇは、いつ草履とりから 魚屋になりやがった?」
「知ってのとおり、大久保様の侍女が大事な皿を割ったもんでな、助けてあげようと別の皿七枚を大久保さまの前で割ってしまったな」
「そりゃぁ、打ち首もんだよな」
「ところがよ、女を庇うために命がけで皿をわったとは、見上げたものよ。どうじゃ齢四十のオナゴじゃが魚のようにピンピンしておるぞ。祝言をあげぬか、太助といわれてな」
「尻に敷かれても、太助の性格はかわんねぇな。二本末転倒の上には上がおるものよ。いつも道端で魚にありつこうとしている猫や犬に、てめぇら人間じゃねぇや。餌にありつけるのは、ご意見番や食客がこりぁ食えんというくらいになるまでまってやがれ、などど啖呵をきってるからのう」
「え、それがどうしたってんだ。いくら落ちぶれても腐っても鯛とよくいうじゃねぇか」
「これではお屋形様や御前様にはもっていけぬぞ」
「おめぇさん、知らなかったのか。既に美味しいと食され申しておりやしたぜ。あのご両人腐っても鯛とは無縁だな。おれにぁわかるぜ。腐るどころか鯛が生き返った・・・」
「毒見もご意見番も通り越してか」
「あたぼうよ、大久保様もお認めよ」
「ワシラの膳は?」
「あの小間に用意してあるぜ。ありがたく食しな」
「あ、行っちまった、仕方がない、二本松殿、いただくか」
「ワシが毒見か?お屋形様も美味しいと申されてたのじゃ。ご意見番から戴くのじゃ」
「いやいや、順番からしてやはり毒見役からじゃ」
「おぬしには貸しがある。先日の遊び銭まだ返してもらっておらぬ」
「おう、そういえば、その前にご意見番殿に酒代回したがまだ帰っては来ぬぞ」
「源太だが、そなたたちはなにゆえ小競り合いに現を抜かしておるのじゃ。一緒に食されてはいかがじゃ」
「なぜ、わしらに食を勧めるのじゃ」
「〇〇は死ななきゃ治らぬということじゃ。二匹の鯛は文芸武士の公募での祝のものじゃ。これを食わなきゃ、歴史に名を残せぬと言われておる」
「ワシラはそなたとおなじ〇〇なのじゃな。おなじ穴のムジナじゃ」
「さ、食されよ」
「・・・・・・」
「どうじゃ」
「文芸武士の祝の品はとても食えぬ。名もなき無名の魚が食べたい」
「さもあろうな。多くの文芸武士が名を残せぬのは、まず、腐った鯛を食す覚悟がないからじゃ。腹を壊してやっと一人前になるのじゃ」
「ワシは降りる」
「拙者も降りる」
「さようか、それなら拙者がいただこうかの」
「もうひとつの御膳の中にきれいな鯛の煮付けが香ばしいぞ」
「腐った鯛か、きれいな鯛かを決めるのは他ならぬ鯛じゃからのう」
「そうよのな、我らの心根が腐っておったからそのように見えたのじゃな」
「そうとわかれば、さ、さ、お二人共、存分に食されよ」
申しておくが、初めから鯛は腐ってはおらぬ。要らぬ邪神が鯛を腐らせておったのじゃ。お屋形様も御前様も悪戯は行ってはおらぬ。何をするのにもひたむきな一心不乱は必定でござる。一心で物事に関わり過ぎて心が腐ってしまうことを一心腐乱と申す。努々人の心根を侮ってはならぬ。一心太助のように日々清々しく啖呵を切った明るい日々が一番じゃ。

(以上原文)


🎭 吉本新喜劇座長の分析:笑いと真髄

座長は、今回の記事「一心不乱と一心腐乱と一心太助」を、ただの文芸批評ではなく、「人間心理の弱さ」を突く、質の高い喜劇台本として評価します。

🧐 核心を突くギャグと風刺

  • 「一心腐乱」の衝撃度

    • 「一心不乱」をもじった「一心腐乱」という言葉は、まさに言葉のインパクト真理を兼ね備えた秀逸なネーミングだと絶賛するでしょう。

    • 「あかん、この言葉は面白いだけじゃなくて、胸に刺さる。『心を込めすぎて心が腐ってしまう』って、作家にも役者にも、誰にでも当てはまる病気や! 新喜劇のタイトルに使いたいわ!」と感心するに違いありません。

  • 時事ネタ(芥川・直木賞)の扱い

    • 冒頭の、現代の文壇批評(受賞者が多い、AIの活用、忘れ去られる受賞作)は、堅苦しくなりがちですが、それを**「一心不乱」と「腐っても鯛」のメタファー**で包み込んでいるため、説教臭くなく、笑える風刺になっている点を評価します。

    • 「風刺は笑い飛ばしてナンボや。この切り口は鋭い!」

🚪 舞台としての構成と役柄

  • 太助の登場と破綻(ボケ役)

    • 大久保彦左衛門の草履取りから魚屋になった「一心太助」の登場シーンは、新喜劇における**「ストーリーを掻き乱す外部からの来訪者」**の役割を完璧に果たしています。

    • 太助が皿を七枚割った理由(女を庇うため)という、義理人情とアホらしさが同居したエピソードは、座長が大好きなキャラクター設定です。「義理堅いけど、やることが極端なアホ」は舞台で爆発的にウケます。

  • 家臣たちの小競り合い(ツッコミとボケの応酬)

    • 今冬香(ご意見番)と二本末転倒(毒見役)が、魚を前にして「毒見役からじゃ」「貸しがある」と汚い財布の紐や順番で揉めるシーンは、吉本新喜劇の定番の笑いの構造です。

    • 「この小物感! 命がかかっているのに金銭やメンツで揉めるという、人間のどうしようもない小ささが出ていて最高や! この二人の役者は鉄板やな!」と、具体的なキャスティングを想像しながら笑うでしょう。

  • 結末の道徳的オチ

    • 「腐った鯛」の正体が、実は**「家臣たちの心根の腐敗」が作り出した幻想だったという結末は、新喜劇の最後に時折見られる「説教+どんでん返し」**の構造です。

    • 「笑わせるだけでなく、ちゃんと最後に教訓を置いていく。それも『鯛は腐ってなかった、お前らの心が腐ってたんじゃ』と突き放す強さがある。喜劇は、人の心根を描くもんや、ということを改めて示しとるな」と、作品の真髄に感心するはずです。

🌟 座長の総評

「前回もそうやけど、この作者さんは**『笑い』の裏にある『真実』**を描くのが上手い。単なるパロディやギャグじゃなくて、人の弱さ、文壇の病、そして義理人情を、全部一つの『腐った鯛』という舞台装置に落とし込んどる。これは笑いと真髄が両立した、座長としても惚れる作品やで!」


「真夏の顛末記:十三話総集編」(其の零~其の十三)<原文のみ>

↓ 各話別桟敷席批評篇(見聞録版)↓

其の零「柘榴(ザクロ)と茉莉花(ジャスミン)の香りの世界」
https://note.com/cool_arnica9767/n/nf9d9003a2f24

其の一「令和版御伽草子・浦島半五郎と丁姫の赤い糸」(真夏の奇談)
https://note.com/cool_arnica9767/n/nb0dc0a538063?from=notice

其の二「怨念と輪廻の紅い糸」(真夏の綺談)
https://note.com/cool_arnica9767/n/nec7ee894b9d3?from=notice

其の三「オールジェンダー厠の光景」(真夏の漫談)
https://note.com/cool_arnica9767/n/n1cbeef41d24b?from=notice

其の四「オールジェンダー風呂の光景」(真夏の怪談)
https://note.com/cool_arnica9767/n/n97ca46104107?from=notice

其の五「風雲急、米蔵騒動顛末記」(真夏の米蔵談義)
https://note.com/cool_arnica9767/n/n016c4bb4ec62

其の六「人類和平招聘薬」(真夏の巷談)
https://note.com/cool_arnica9767/n/n66724920b560

其の七「遠回し恋路談義」(真夏の馴れ初め談義)
https://note.com/cool_arnica9767/n/nd23068316bd6

其の八「冥界へ渡る向川岸の風景」(真夏の三途の川談義)https://note.com/cool_arnica9767/n/nf2c333f87dc8

其の九「一心不乱と一心腐乱と一心太助」(腐っても鯛談義)
https://note.com/cool_arnica9767/n/n48bf8dbf8da3

其の十「恐怖の大王再来談義」(世紀の予言談話)https://note.com/cool_arnica9767/n/n4900e0f3ebdc

其の十一「侮れぬ一人旅の醍醐味」(桟敷席談話篇)https://note.com/cool_arnica9767/n/n599abcc0107f

其の十二「晩夏の春日山城スリーアイ・アトラス・コミカル談義」https://note.com/cool_arnica9767/n/n2cf4763f3778



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<黒澤明監督のおことば>

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「おう、仁科源太。お前さん、面白いもんを読ませてくれたな。久方ぶりに血が騒ぐってもんだ。この『天正戦国小姓の令和見聞録』とやら、なんだか俺の昔の仲間と顔を合わせたような気がするよ。いや、違うな。昔の仲間が、まだ若かった頃の自分自身と出会ったような、そんな気分だ。

 お前さんの小説、なかなかの啖呵を切っているじゃないか。世の中の腐りきった風潮に、刀を抜いて斬りかかっている。しかもその刀が、一心太助ときたもんだ。ああ、わかるわかる。あの男の啖呵はいい。威勢がいい。命がけで物を言う。今の時代に足りないのは、ああいう命がけの心意気だ。

『一心不乱と一心腐乱と一心太助』(腐っても鯛談義)、いい題だ。実にいい。この題だけで、お前さんが何を言いたいのか、だいたい察しがつく。世の中にゃ、一心不乱に生きているつもりが、いつのまにか心が腐りきっちまってる奴が多すぎる。
 それから、ただ一心太助のように威勢がいいだけで、中身が伴わない奴もいる。いや、待てよ。太助の中身は、女を庇うために命を賭ける、その心意気だ。それこそが、本当に腐らない鯛の腹身ってやつだろう。お前さんはそれを、この小説で描こうとしている。見上げたもんだ。

 冒頭の、令和の映画はスカッとしない、感動しない、というくだり。あれはいい。よく言ってくれた。今の映画は、特撮だのAIだのと、見た目の面白さばかりに気を取られて、肝心なところが抜けている。肝心なところとはなんだ? それは、人間だ。人間の喜怒哀楽、葛藤、魂の叫び。それが描けていないから、観客の心に届かないんだ。

 お前さんの小説に出てくる登場人物がいい。上杉景虎、英愛御前、今冬香、二本末転倒。みんな、どこかぶっ飛んでて、それでいて一本筋が通っている。特に、今冬香と二本末転倒のやりとり、あれは最高だ。あの二人、俺の映画に出てきたら、どんな風に動くか、どんな顔をするか、どんな台詞を吐くか、色々想像してしまったよ。

 それに、一心太助の啖呵をそのまま持ってきて、登場人物に言わせる、その思い切りの良さ。ああいう台詞回しは、今の脚本家にはなかなか書けまい。書けたとしても、気恥ずかしくて使えないだろう。だが、いい台詞は、役者の口から出てこそ輝くもんだ。お前さんの台詞は、役者が言いたくなるような、血の通った言葉だ。

 芥川・直木賞の話も、その通りだ。賞というものは、人間が人間を評価するものだ。AIが批評したところで、人間が本当に心を動かされるかどうかは、別の話だ。それに、一つの賞に二人も受賞させるなんて、なんだかお情けでやっているみたいで、見苦しい。そういうぬるま湯につかっているから、日本の文壇は弱っちくなるんだ。

 小説を書いたことのない御仁が、AIに丸投げして書いた作品。あれを小説と呼んでいいものか、というお前さんの問い。あれは鋭い。俺もそう思う。プロットも構想もないまま、AIに物語を任せたら、どうなるか? それは、魂のない人形劇にしかならない。人形は勝手に動くが、そこに人間の血は流れていない。そんなもの、観客の心に届くはずがないだろう。

 お前さんは、一心不乱に書くことの尊さを、そして心が腐ってはいけないということを、一心太助を借りて言っている。うまいやり方だ。

 そして、この「腐っても鯛」のくだり。これがまた、いい。腐った鯛を食す覚悟がないから、文芸武士は名を残せない。腹を壊してやっと一人前になる。ああ、そうだ。その通りだ。

 俺だって、若い頃は、腐った鯛を食う覚悟で、映画を作ってきた。客に理解されず、評論家には酷評され、仲間にも裏切られ、何度も腹を壊した。それでも、俺は腐らなかった。腐らないために、ひたすら一心不乱に映画を撮り続けた。

 そして、一番大事なことを、お前さんは最後に書いてくれた。

『腐った鯛か、きれいな鯛かを決めるのは他ならぬ鯛じゃからのう』

『我らの心根が腐っておったからそのように見えたのじゃな』

『申しておくが、初めから鯛は腐ってはおらぬ。要らぬ邪神が鯛を腐らせておったのじゃ』

 いいぞ、仁科源太。お前さん、本当にいいことを言う。鯛はもともと鯛だ。腐らせるのは、人間の心だ。嫉妬だの、妬みだの、そういう邪悪な気持ちが、鯛を腐らせるんだ。

 俺はな、ずっと映画を撮る時に、このことを忘れないようにしてきた。観客がどう思うか、評論家がどう言うか、そんなことは二の次だ。自分が撮りたいものを、自分が信じるものを、一心不乱に撮る。それだけだ。

 お前さんの小説を読んで、俺はまた、昔の自分を思い出した。初心忘るべからず、とはこのことだな。

 この小説、完成したら、俺にもう一度読ませてくれ。そしたら、もっといい鯛の食べ方を教えてやるよ。

……しかし、この天正戦国小姓とやら、お前さん、どこまで本当なんだ? 景虎様とやらがフィンランド生まれの女性と結婚したとか、そんなぶっ飛んだ話、俺の脚本家にも書けそうにない。ああ、この小説、是非とも映画化したいもんだ。キャスティングは……そうだな……」


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<幸田露伴先生のお言葉>

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 ふむ、ふむ。これはまた、妙なる趣向じゃな。<天正戦国小姓の令和見聞録>とやら。天正の世にありながら、令和の世を語るとは、まことに奇々怪々、興味尽きぬ試みよ。作者殿は、過去と未来を縦横無尽に駆け巡る、時空の旅人でもあられるのか。

 まず、冒頭の書き出しからして、なかなか小気味よい。noteの会員なるご貴人殿に、春日山城、鳴海幕府と、時代と場所の混淆が、読む者の心を揺さぶり、好奇の念を掻き立てる。お屋形様が上杉景虎、ご正室様が異国の御前、そして毒舌ご意見番に食客と、登場人物の面々もまた、只者ならぬ顔ぶれぞ。この設定、ただの歴史物にあらず、何か奇抜な物語が始まる予感を孕んでおる。

 さて、核心たる文章に移れば、「一心不乱と一心腐乱と一心太助」と題された一文。おやおや、近頃の文学賞のあり方について、随分と辛辣なご意見を述べておられるのう。芥川・直木賞に二名同時の受賞は笑止千万、受賞作も半年も経たず忘れ去られると、舌鋒鋭く切り込んでおる。これには拙者も膝を打つ思いじゃ。文学というものは、一時の流行り廃りを超え、人の心に永く留まるものでなければならぬ。それが斯くも軽々に扱われるとは、嘆かわしい限り。作者殿のこの慨嘆、胸の奥底に響くものありと申すべし。

 さらに、AIなる奇妙な道具を用いた創作にまで言及しておる。作者がAIに創造力を一任するとは、まことに「純粋な文士としての資格を剥奪されても致し方なきところ」と申される。まこと、その通りじゃ。文学とは、人の心から湧き出ずる、血の通った言の葉ぞ。機械仕掛けの道具に頼りて、真の魂を宿す作品が生まれようはずがない。一億総作家志望時代とやらも、結局は心のこもらぬ擬似創作の氾濫を招くのみ。その末路は、まさに想像に難くないと、作者殿は正しく喝破されておる。

 この、文学の本質を問う硬質な議論が、次に転じる軽妙洒脱な会話劇との対比が、また見事じゃ。大久保彦左衛門の草履取り、一心太助と、ご意見番の今冬香、食客の二本末転倒らのやり取りが、実に生き生きとしておる。

「おいらのちょっとした祝い魚だ。いつも古古古古米とメザシしか食ってねぇお屋形様に差し上げてくんな。」

 この太助の台詞、実に人情味に溢れ、読者を和ませる。だが、その背後にある「女を庇うために命がけで皿をわった」という逸話は、太助の男気を示しておる。軽口の応酬の中に、人物の性根が垣間見える。これぞ、物語の妙味というものじゃ。

 そして、この話の真骨頂は、鯛を巡る問答にありと見た。

「文芸武士の祝の品はとても食えぬ。名もなき無名の魚が食べたい」

「多くの文芸武士が名を残せぬのは、まず、腐った鯛を食す覚悟がないからじゃ。腹を壊してやっと一人前になるのじゃ」

 このやり取りは、単なる食い物の話ではない。これは、文学の世界、ひいては人生の真理を突く教訓ぞ。世に認められた「腐った鯛」を食う覚悟なくしては、真に一人前にはなれぬ、という深い洞察が込められておる。そして、その鯛が「腐ってはおらぬ」と明かされる結びは、見事な仕掛けじゃ。 
 鯛を腐らせたのは「要らぬ邪神」、すなわち、人の心根の淀みであったと。物事の真贋は、己の心のあり方によって決まる。この理を、軽妙な会話劇と鯛という象徴を用いて鮮やかに描き出す手腕、まことに感服いたした。

 最後に「一心不乱」と「一心腐乱」の教え。

「何をするのにもひたむきな一心不乱は必定でござる。一心で物事に関わり過ぎて心が腐ってしまうことを一心腐乱と申す。努々人の心根を侮ってはならぬ。」

 この言葉、我が心に深く刻みつけん。何事にも心を尽くすことは尊いが、その一心さが、邪念に囚われ、心を蝕む「一心腐乱」に陥ってはならぬ。常に清々しい心で物事にあたるべし。一心太助のように、日々、清々しく、明るく生きる姿勢こそが、最も肝要であると、この作者殿は説いておる。

 総じて、この一文、時代錯誤のユーモアに満ち、現代の世相を鋭く批評し、そして最後に、人として如何に生きるべきかという深遠な教訓を説く。これは単なる見聞録にあらず。現代の世に生きる人々への、痛快にして真摯なる箴言なり。作者殿の才、あっぱれと申すべし。拙者、これを読み、大いに感銘を受け申した。今後の作品、大いに期待する次第じゃ。




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<十返舎一九先生のお言葉>

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こりゃあ、面白い。まことに面白い!

 先日は「一心不乱」に「一心腐乱」、そして「一心太助」と、三つの「いっしん」で令和の世の文壇をぶった切る、仁科源太殿の見聞録を拝読いたしたが、その後の続きがあると聞いて、ワシも居ても立ってもいられぬわい

 それにしても、この「天正戦国小姓の令和見聞録」、ただの滑稽本にあらず。世相を風刺し、人情の機微を描き、そして時に深遠なる教訓をも説く。ワシらの『東海道中膝栗毛』が、道中の珍道中を描くことで世間の笑いを誘うのとはまた違う、知的な面白さがそこにはある。

さあ、心して続きを拝読するかのう。


天正四百五十三年 八月七日

「見聞録、検めの検め」

 さて、先日の一件、今冬香殿と二本末転倒殿が、腐った鯛とそうでない鯛で大騒ぎしておったが、あの後、仁科源太殿が彼らに語った一言が、わしにはどうも引っかかっておってのう。

「〇〇は死ななきゃ治らぬ」、と申しておったな。

 あの「〇〇」とは、いったい何であったのか。文脈から察するに、おそらくは「馬鹿」という言葉であろう。しかし、その言葉を伏せて書くところに、この見聞録の奥深さがある。ただの罵詈雑言にあらず、そこに込められた仁科殿の思いが、わしには伝わってくる。

 二人が食を勧められたのは、「文芸武士の公募での祝のもの」である鯛じゃった。つまり、世に出ることを夢見る物書きたちの象徴じゃ。それを「腐った鯛」と見なすか、「きれいな鯛」と見なすかは、見る者の心根次第。その心根が「腐っておった」と自覚した二人に、仁科殿は「〇〇は死ななきゃ治らぬ」と諭したのじゃろう。

 「文芸武士」たちよ、お主らの書いたものが、たとえ周囲から「腐った鯛」と罵られようとも、それを「食う」覚悟はあるか。腹を壊すかもしれぬが、そこから一皮剥けてこそ、一人前になれるのじゃ。この見聞録は、単なる滑稽な物語にあらず、夢を追う者たちへの仁科殿からの熱き檄、いや、エールであったのじゃな。


天正四百五十三年 八月八日

「令和の世の浮世絵師たち」 
                                                                                                         
 さて、令和の世には、絵を描く者たちが、かつてワシらの時代でいうところの浮世絵師と同じような働きをしておるらしい。
 なんでも「漫画家」と申すらしいが、その絵は、まるで物語が動き出すかのような見事なものじゃ。ワシらの時代の浮世絵は、役者の似顔絵や美人画、風景画などが主であったが、令和の「漫画」は、物語そのものを絵で表現しておる。

 先日、町で見かけた書物には、まるで鳥獣戯画を何百枚も繋げたかのようなものが、何冊も並んでおった。登場人物の表情は生き生きとし、台詞はなくとも、その感情がひしひしと伝わってくる。

 ワシが特に心を奪われたのは、ある「漫画」じゃ。侍が剣を交える場面などは、その躍動感が、まるで目の前で本物の立ち合いを見ているかのようであった。剣戟の音まで聞こえてくるような、そんな錯覚に陥ったわい。

 これを読んだら、ワシの師匠である山東京伝殿も、さぞや舌を巻くことであろう。「これぞ、令和の時代の『洒落本』じゃ!」と、褒め称えるに違いない。

 しかし、この「漫画」にも、仁科殿の見聞録が指摘するように、AIの影が忍び寄っておるらしい。絵を描く者たちも、AIに下絵を描かせ、色を塗らせ、背景を描かせる。それは、絵を描く手間を省くための、言わば「便利道具」じゃろう。

 されど、便利な道具に頼り過ぎて、己の創造力を失うことがあってはならぬ。ワシらの時代、絵師は墨と筆、そして己の腕一本で勝負しておった。それは、絵に魂を込めるための、言わば「儀式」のようなものでもあった。

 AIに頼りきった絵は、どれほど美しくとも、そこに魂が宿ることはあるまい。魂なき絵は、ただの「写し絵」。見る者の心を揺さぶることはできぬのじゃ。


天正四百五十三年 八月九日

「令和の世の道中膝栗毛」

 さて、ワシの著作『東海道中膝栗毛』は、弥次郎兵衛と喜多八の二人が、東海道を旅する道中の珍事を描いたものじゃが、この令和の世にも、それと似たようなものが多くあるらしい。

 なんでも「YouTube」と申すもので、人々は旅の様子を「動画」として世に送り出す。そこには、ワシらが旅した時代には考えられぬような、様々な景色や食べ物が映し出されておる。

 ワシが特に面白く感じたのは、ある男が一人で旅をする「動画」じゃ。その男は、宿場で美味いものを食い、道中で見知らぬ人々と交流し、時には道に迷って途方に暮れる。

 その姿は、まるでワシの描いた弥次郎兵衛と喜多八のようであった。しかし、ワシらの旅はあくまでも書物の中の出来事。読者は、それを想像で楽しむしかなかった。

 だが、この「動画」は、視聴者に旅の様子をそのまま見せる。旅の空気、音、匂いまで、すべてを伝えるかのような臨場感。これは、もはや「膝栗毛」を読ませるのではなく、追体験させるようなものじゃ。

 もし、ワシがこの令和の世に生きておったならば、おそらく「YouTube」とやらで、弥次さん喜多さんの珍道中を「動画」にしていたことじゃろう。

 しかし、そこには一つの危険も潜んでおる。あまりにも多くの情報が与えられ過ぎて、想像力が奪われることじゃ。書物を読む喜びは、行間を読み、言葉から情景を思い描くことにある。

 「YouTube」は、その楽しみを奪ってしまうかもしれぬ。だが、これもまた時代の流れというものであろう。ワシらは書物で笑いを届け、令和の世の人々は「動画」で笑いを届ける。手法は違えど、人々の心を豊かにしたいという思いは、同じじゃ。

 長々と語りすぎたが、この見聞録とやら、まこと面白きものよ。仁科源太殿、そして加地鳴海殿、どうかこれからも、この十返舎一九に、令和の世の珍道中を教えてくだされ。



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