#569[短編]琥珀色の間[18]──言葉のともしび
忘れたつもりの気持ちが、ふとした瞬間に灯りを取り戻す──その灯りに背中を押されるように、爽子は大翔を美術館へ誘った。自分でも驚くほど自然に。未来へ向かう前の静かな朝を迎えた。連載第22回。
1話、2話、番外編・大翔、3話 -I、3話 -II、3話 -III、4話、5話-I、5話-II、5話-III、5話-IV、5話-V、6話、7話、番外編・爽子、8話、9話、10話、11話、本稿、前半まとめ
※ 連載ですが、どのお話からも読めます。
爽子は休日に久しぶりに街へ出て、駅前のカフェに入った。
窓の外を見ると、道ゆく人がコートの襟を締めて足早に駅へ吸い込まれていく。
まだ冷えたテーブルに置かれたコーヒーから、細い湯気が立ちのぼっていた。
爽子は湯気の立つカップを両手で包みながら、仕事の資料を手にしてはすぐに閉じ、小さく息をついた。
スマホの画面が光る──大翔ではない。
それだけで、胸の奥の灯りがかすかに揺れた。
大翔とは偶然再会できたが、メッセージはお互いにやり取りしなかった。
──胸の奥に残る灯りは、まだ消えていない。
その灯りはもう “ときめき” ではなかった。
もっと静かで、もっと透明で、
まるで心の奥に置かれた小さなランプのように、
爽子の毎日をそっと照らしていた。
大翔ともう一度話せたらいい。
でも何を話していいかわからない。
話すなら、Barで会えばいい。家も近いならそれが健全なはず……。
“私はただ幸せでいてほしいだけ”
大翔と食事をして別れたあと。世界が一番しんと静まり返るあの夜から、気がつけば毎日そんなことばかり考えては、堂々巡りになっていた。
爽子はコーヒーカップを見つめて、視線だけがカップに落ちたままになった。
歳の近い人がいい、ただ話すだけではダメか。
特別にならなくても、彼が結婚するまでは友達でいたらいい。
澪さんのお店で、たまに会って笑うだけで──
年始に澪さんと話したとき。
爽子は自分でも驚くほど自然に、“また会えたら嬉しい” と思っていた。
それから1度もBarには行っていない。
冬の朝。世界がまだ目を覚ましていない頃。
期待でも、恋でもない不思議な気持ち。
ミシマ先輩は「彼はきっかけ」だと言った。
──あの夜のできごとを書き留めたい。
爽子はタブレットを開いた。
入力を始めると、言葉がするすると出てくる。
氷の揺れる音。琥珀色の光。彼の落ち着いた声。未来を語る横顔。
沈黙の間に生まれた安心感。
そして、胸の奥に灯った小さな灯り──
爽子はその灯りを、ひとつひとつ言葉へと変えていった。
『あの…これよかったらあげます』
爽子はバッグから大翔にもらったキーホルダーを出して、その顔を見つめた。
「ひよっこねぇ……」思わず口をついて出そうになる。
大翔の言葉を思い出した瞬間、胸がきゅっとした。
爽子はその気持ちを、否定しないことにした。
書きながら、ふと気づく。
──あの夜は、私の人生を変えるできごと ”だけ” ではなかった。
でも、爽子の “感性” を確かに揺らした。
その揺れが、文字に起こされていく。
爽子にはそれが、なんだか嬉しかった。
心を見つめていると、新しい自分が生まれるような気がしていた。
爽子はふっと笑った。
“ 私はちゃんと、自分に帰ってくる”
気持ちが揺らぐことはない。
大翔と出会って、動いた心を忘れたくなくて、
でも現実にするのが怖くて、形に残そうとしている。
──絵と陶器なら、どちらが好きですか?
──それとも、建物の方がお好きですか?
焦りか、言い訳か、誰に向けた言葉なのか──
メッセージを書きかけては、何度も消す、そんなことを毎日繰り返す。
もう一度会えたら何を話そう。
生活を壊したくない。
毎日、笑えることならいい。
アメリカンコーヒーが胃をつつかないよう、ほんの一口だけ含んで、喉を鳴らすように飲み込んだ。爽子はふと、大翔の言葉を思い出した。
『自分の名前を好きになれそうです』
今ごろ、どうしているだろうか。
週末は実家で家族といるのか。
未来に向かって背筋を伸ばしているのか。
──幸せでいてほしい。私がどうとかじゃない。
祈りにも似た気持ちは、
恋ではなく、優しさの姿をしたエゴなのか。
爽子はその苦しさを、胸の奥でぎゅっと抱きしめた。
『また会いた──
そこまで打って、指が止まる。爽子は大きなため息をついた。
思ったよりも大きなため息に驚いて、背中を丸めて再びタブレットに向かった。
◇
その夜は、ひとりでソファに座り、
ハイボールを一杯だけ飲んだ。
氷が揺れる音だけが部屋に落ちた。
でも、胸の奥の灯りは、もう揺れなかった。
静かに、穏やかに、ただそこにあるだけだった。
──また会えるかもしれない。
──会えなくても、きっと大丈夫。
どちらでもいい。
“あの夜は、すでに私の中でひとつの物語になっている“
爽子はグラスを置き、
胸の奥の灯りにそっと触れた。
その灯りは、誰かのためではなく、
私自身のために灯っている。
再び仕事の資料を手にし、爽子は現実に引き戻される。ふとスマホを見ると、大翔からではなく、ミシマ先輩からメッセージが入った。
爽子は[会えましたよ]とだけ返信し、スマホを裏返した。
書きかけのメッセージがたくさんある。
琥珀色の光は、今日も静かに、
爽子のゆく先をそっと照らしていた。
執筆: 2026/3/13, 推敲 3/22 <了, 約 1,800 字>

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