#561[短編]22歳、自分に還る場所──琥珀色の間・番外編
2月1日。爽子が大翔と会った夜のことを、ひとつだけ書き残しておきたいと思いました。本編とは少し離れた、大翔の “帰り道” の物語。連載第20回。
1話、2話、番外編・大翔、3話 -I、3話 -II、3話 -III、4話、5話-I、5話-II、5話-III、5話-IV、5話-V、6話、7話、番外編・爽子、8話、9話、10話、本稿、前半まとめ
※ 連載ですが、どのお話からも読めます。
──名前も知らない人に出会った夜。涙目で笑ったあの人の笑顔が、残響みたいに何度も心のスクリーンに映りつづける。
冷たい空気が頬に触れた。
酔いが一気に引くような、でも胸の奥だけは妙に熱いまま──
忘年会帰りの人集りにざわつく街。あちこちから聞こえる笑い声と、タクシーの灯りに目が眩んだ。飲んで、喋って、愛想笑いして……。
自分が何者なのか、どこへ帰るのか分からなくなりそうで、あの店に立ち寄った。
そして、あの人が帰ったあと──
澪さんと何を話したのか、あまり覚えていない。
最後の最後までいたのは、結局俺だけだった。
「怖いんです、仕事に行くのが」
店を出た瞬間から、澪さんと挨拶をかわした後で、俺の耳にはさっきの女の人──サワコさんの言葉が、ずっと胸の中で揺れている。
──大人の女性が、あんなふうに弱さを見せるなんて思わなかった。
俺よりずっと年上で、落ち着いていて、
言葉の選び方も丁寧で、人生の厚みがある人。
そういう人が、あんなふうに弱さを見せて、言葉を選びながら、グラスを持つ手が少し震えていた。あの笑顔が、なぜか頭から離れない。
守りたいとか、そんな大それたことじゃない。
ただ、あの人があのまま一人で帰るのが、少しだけ心配だった。
けれど名前も知らないし、連絡先を聞く勇気もなかった。
聞いたら失礼だと思ったし、何より、あの人が抱えているものに踏み込む資格なんて自分にはないと思った。
──華やかな人の、ほんの少しの綻び。
そもそも俺なんかが、人の人生に触れていいのか。
そんなことばかり考えていた。
◇
先に帰るあの人は、「おやすみなさい。よいお年を」と言った。
あの声が、妙に優しくて、胸の奥に残ったまま離れない。
歩きながら、何度も思い返した。
あの人は何を言いかけたんだろう。
俺に話してもいいことなのか、
それとも言わないほうがよかったことなのか。
あの沈黙は、なんだったんだろう。
気まずさじゃなかった。
むしろ、言葉を探しているような、
互いに距離を測っているような、静かな時間だった。
あの「間」が、心地よかった。
名前も知らないのに、どうしてこんなに気もちになるんだろう。家に向かう途中、酔ったせいでぐるぐると考えるんだと思った。
今日は「落ち着いてるね」と何度か言われた。
そんなふうに言われたことは、今まで一度もなかった。
仕事はいつもはお荷物扱いだ。
上司に怒られてばかりで、落ち着いてるなんて、それこそ誰にも言われたことがない。なのに、あの人は俺のことをそう見てくれた。
◇
俺の選んだ道──働きながら勉強していること──それを「いいね」と言ってくれた。あれは、ただの社交辞令じゃなかった。
目でわかる。あの人は、俺の話をちゃんと聞いてくれた。
誰かに “ちゃんと聞いてもらう” って、こんなに嬉しいことなんだと初めて知った。
あれから、鏡に映る自分の顔が少しだけ違って見える。
なんだろう、この感覚。
恋じゃない。まだそこまでいってない。
ただ──もう一度会いたい。
あの涙の理由と、沈黙の意味を知りたい。
あの人がどんな人生を歩いてきたのか、知りたい。
知りたい、
知りたい、
知りたい──
そんな気持ちが、胸の奥で静かに膨らんでいく。
甘えたいとか、楽したいとか、そういうのじゃない。
むしろ逆だ。
あの人の前では、ちゃんとしたい。
胸を張れる自分でいたい。
あの人に「落ち着いてるね」と言われた自分を裏切りたくない。
あの人の前では、嘘をつきたくない。
そんな気持ちが芽生えていた。
◇
家に着く頃には、酔いは完全に冷めていた。
代わりに、胸の奥に残った熱だけが、じんわりと広がっていた。
翌朝、目が覚めた瞬間に思い出したのは、
Barの薄暗いオレンジの照明と、あの人の横顔だった。
年末の朝の空気は冷たくて、
窓の外は静かだったのに、胸の中だけはざわついている。
あの人は、今日どうしているんだろう。
仕事に行くのが怖いと言っていたけれど、年末だから休みなのかもしれない。家でゆっくりしているのか、それとも誰かと過ごしているのか。
そんなことを考える自分に驚く。
まだ何も知らないのに、こんなに気になるなんて。
けれど、気になる理由ははっきりしている。あの人は、俺の話をちゃんと聞いてくれた。俺の選んだ道を肯定してくれた。俺の未熟さを笑わなかった。
沈黙を怖がらずに、俺の目を見て話してくれた。
あの人の涙が胸に刺さったまま、震える声が、今も心を揺らす。
あの人の「おやすみなさい」が、俺の中で何度も反響している。
自分の内側を無理に飾らないまま、しかし他人に投げつけもしないで抱えていた。感情を持て余しながらも、それを誰かのせいにしない人。
弱さがあるのに、それを武器にも、免罪符にも使わない人。
そういう人に出会えて、何かがゆっくりとほどけていく。
俺は、あの人に何を知ってもらいたいんだろう。
たぶん──俺がちゃんと生きていること。逃げずに働いていること。夢を諦めていないこと。
誰かの人生に触れる覚悟はまだないけれど、誰かを大切にしたいと思える自分になりたいこと。そんなことを、知っていてほしい。
◇
じゃあ、俺はあの人の何を知りたいんだろう。
あの涙と沈黙の意味。あの人が抱えているもの。
あの人がどんなふうに笑う、どんなふうに泣くのか。
どんなふうに生きてきたのか。
知りたい。もっと知りたい。
あの人の人生に触れたい。
あの人の言葉の奥にあるものを知りたい。
あの人の強さと弱さの、両方を見たい。
あの人の前で、自分がどんな顔をするのか知りたい。
そんな気持ちが、静かに、でも確実に芽生えていた。
昨日の夜は、俺にとって “特別な出会い” だった。
あの人にもう一度会いたい。
あの沈黙の続きを話したい。
あの涙の意味を聞けるくらいの大人になりたい。そう思った。
◇
でも、そんな俺は何がしたいんだろう?
あの人がどう、俺がどうしたい、そんなことよりも、これからどうなりたいんだろう……。
俺は何を知りたい、何を望んでいるのか。
何の意味を持つのか、まるでわからなかった。
──俺は、俺のことを見てくれる人よりも、彼女が自分自身のことをよく見えている人だったことに、惹かれたことを。
一緒にいたいというより、同じものを見ていたい。
そんな気持ちは、生まれて初めてだった。
執筆: 2026/2/1 下書き <了, 約 2,600 字>
本日は、大翔のコンセプトでお送りしました。
続きじゃなくてごめんなさい🙏
大翔の熱量が高く、推敲でいくらか整理をして、締めの一文も少し変えたいと思っています🙂
引き続き、よろしくお願いいたします😊

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