#572[短編]琥珀色の間[19]──言葉の芽吹き
大翔を美術館に誘った爽子は髪を整え、心を鎮めて平静を保とうとする。連載第23回。
1話、2話、番外編・大翔、3話 -I、3話 -II、3話 -III、4話、5話-I、5話-II、5話-III、5話-IV、5話-V、6話、7話、番外編・爽子、8話、9話、10話、11話、本稿、前半まとめ
※ 連載ですが、どのお話からも読めます。
まだ冬の名残を残す春の初めに、夕焼けの金色が爽子の横顔を照らす。地下道を抜けてカフェの近くに出ると、白木蓮の街路樹が甘い香りを漂わせていた。
琥珀色の灯りが漏れる店のガラス扉を開けると、コーヒーの香りに混じって、焼き菓子の甘さが先に届く。
レジ前に並んだパンが、夕方の光を受けて艶を帯びていた。誰かの手に入れ取られるのを待つように、小さな影を落としていた。
──深みのあるミルクココアがそっと心をほぐす。
トーストを頼んだクロワッサンが仕上がり、バターの焦げた香りが漂う。番号を呼ばれて席を立つと、辺りはまだ陽が残っていた。
心を鎮めるのは簡単だった。ほんの数時間の会話なのに、知らないはずの彼の輪郭が、ふしぎとどこか馴染んでいる。大翔に出会った日……つじつまを合わせると、うまくやれそうな気はする──。
それが、「自分の思う通りなら」と、爽子は思った。
考えを走らせ過ぎる喉を、ココアが通り抜ける。
これ以上、近づかない方がいい。自分は彼に必要な人でもなければ、彼は彼自身でうまくやれる人だ。
自分に相応しいものは迷わず手に取れる人。
素直に自分を明かし、人と共に答えを導ける人。
その人の隣にいる自分を想像すると、爽子は喉が細くなり、息が飲み込めなくなった。
手帳から浮かせた視線が、マガジンラックの1冊の本に留まる。アマチュア写真家の写真集──ビルからの朝焼け、働く人の姿、自画像…生きる人を描いた作品に、爽子はふと自分を重ねる。写真の中の人々は、いまの自分より先を歩いているように見えた。
ふいに、メッセージが入った。
[1時間早く来てもらっていいですか?]美容師の斗からだ。
食事をしていると告げ、20分後に訪ねる約束になった。再び写真集に目線を落とす。ボロボロの骨格のX線画像──彼の生きる道の方がよほど危うかった。もし自分が明日からそうなると告げられたら、すぐにでも答えを出したかった。
今を生きる──爽子は今見た光景を目に焼きつけ、写真集をすぐに注文した。
◇
表通りから1本中路地に入ると、焼いたベーコンの匂いが漂う──料理店の向かいに、小さなアトリエ風の店、斗の美容室に入った。
「こんばんは…あ、鈴木さん」斗がバックヤードから顔を出す。洗い物の水を止めて急いで手を拭いて出てきた。
「今日はすみません。いらっしゃいませ。前のお客さんがキャンセルで……」斗は爽子のバッグとコートを預かり、ロッカーに入れる。
「大丈夫です、近くにいたので」
「ごはん食べました?」
「はい、軽くいただきました」
斗は申し訳なさそうに、息を弾ませて爽子に詫びると、席へ案内した。
「ホント、スミマセン。さて…今日はどうしますか?」
◇
鏡の横の雫型の加湿器から細い湯気が立ちのぼる。ケープに髪が落ちて床に流れていく。天井のダクトレールに並んだハロゲンランプが、爽子の肩をやさしく包んでいた。
昼と夜の合間の夜を迎えた街の色と、髪が切られる瞬間の皮膚の触覚、耳の横を通るハサミの音とリズムが重なる時間が好きで、いつもこの時間に予約をしていた。
爽子はこの店を知ってから髪を切るのが楽しくなった。
沈黙が気まずくて、何かに気がついたフリをして店の外に目を遣ると、タクシーのテールランプが流れていく。
鏡越しに壁のアートを見るのも好きだった。長身の斗のジャケットと黒のTシャツ、チタンの眼鏡、短くて細い髪…斗の目先は爽子の髪に集中している。一瞬、斗のハサミがランプに反射してキラリと光る。ふいに斗と目が合った。
「あ。疲れましたか?」斗が鏡越しに話しかける。
「ちょっと休憩しますか。いつものお茶でいいですか?」
「はい、ありがとうございます」爽子はホッとして笑みが溢れた。
「いただきます……」爽子はカップにそっと息を落とす。
斗は急な予約変更を詫びた。爽子も早めに仕上がる方がよかったのと、思わぬ夜景が見られるのも運がよかった。
「あ。斗さん。実は読んでもらいたいものがあって…」爽子が言うと、斗はカップを爽子から受け取り、加湿器の横のコンソールに置いた。
「ちょっと待ってくださいね」斗はロッカーから爽子のバッグを取り出し、爽子に手渡すと、爽子はコピー用紙を取り出した。言葉より先に動く人だと、爽子は知っていた。
「できたんですね」爽子はこの前に、斗に自分の書いたエッセイを読んで欲しいと頼んでいた。ブログがきっかけで来店していた爽子に、斗はエールを送っていた。
◇
細身の斗の無駄のないハサミの動きと同じように、爽子の文を読む指先は、どこか慈しむようにページを捲る。
「面白いですね。書いてみては?」
自分に無いものを渇望する痛みを識っている斗の言葉には、揺るがない自信と闘志が満ちていた。
深い余計なものを拒絶し、本質だけを掴むことのできる繊細な工芸品のような手先を持つ彼は、言葉を多く必要としなかった。
「……この、言葉。そのままがいいですよ」
斗の店を出ると、夜の空気はまだ冷たかった。
街灯に照らされた並木の枝先が、心なしかふっくらと膨らんでいるように見える。
夜風が頬を撫でていく。
いまは、この冷たさだけを受け取ればいい。
答えは、急がなくていい。
次に髪を切るころには、この街も、心も、
きっと淡い色に染まっている。
爽子はマフラーに顔を埋め、足早に駅へと向かった。
執筆: 2026/3/26 かきおろし <了, 約 2,100 字>
※改稿中です(エッセイ的なので🙏 2026年3月27, 9日、6/13)
この回は物語の転換点として先に書いたエピソードで、まだ私自身がうまく言語化できていないため、出来事よりも空気や感覚を中心に描いています。
斗さんは、自分の人生を、自分の手で続けている人です。爽子は決めきれていないことがあり、斗さんは爽子にとって答えを知っている人ではなく、答えがなくても続けている人、というシーンになります。
(2026/6/13 作者)
おはようございます🙂
桜がちらほら見え始めましたね。
1月で完結するつもりだったこのシリーズ、
引き続きよろしくお願いいたします🌷

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