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魔王を殺す魔法使い(想像力と共感力、『葬送のフリーレン』の表裏)

この記事では「魔王を殺す魔法使い」について、『葬送のフリーレン』における「魔法」に関する想像イメージ力の観点から考察を行います。そして、『葬送のフリーレン』全体の構造(おもて面と裏面、そして表裏の関係)について示します。また、補足的にはなりますがユーベルの共感力に関しても触れます。(私ユーベルのファンなので)

今回、流れで触れられる伏線や謎には積極的に言及してみました(触れるに留めているので詳細は関連キャラ名でマガジン内検索をしてみてください)。結果、10,000字を超えていますので時間のある時にお読み頂けるとありがたいです。

考察では「帝国編」(第14巻未収録の最新第140話)までの内容を扱っています。また、「考察」という性格上、先の展開に関する重大なネタバレを含む可能性があります(もちろん的外れな考察である可能性もあります)ことをご了承の上で読み進んでください。なお、原作マンガ未読の方は下記リンク先で『葬送のフリーレン』を紹介していますので、まずはこちらをどうぞ。

はじめに

「一級魔法使い試験編」の山場の一つに、ゼーリエ(師匠)、フランメ(弟子)、フリーレン(孫弟子)が一堂に会する場面があります。敵役かと思われたゼーリエが実はフランメの師匠だったことがここで判明するのですが、会話からは三人の立場の微妙な違いも見えてきます。

フランメとフリーレンは魔王討伐を目指していますが、ゼーリエはどうやら魔王討伐にそれほど熱心ではないらしいこと。そして、フランメによれば、ゼーリエとフランメには魔王を殺せない、けれどもフリーレンならば魔王を殺せるというのです。

フランメの立場には妙な「ねじれ」があります。フリーレンとゼーリエの立場が対立している(対照をなしている)点は理解できます。不思議なのは、フリーレンと立場を同じくするかと思われたフランメが、魔王を殺せるか否かという一点においてはゼーリエと同じ立場にあることです。

魔王を殺す魔法使い

見ていくのは、第一次試験のフリーレン対デンケンの対決の場面でデンケンが「魔法というものは探し求めているときが一番楽しい」と言ったことをきっかけに始まるフリーレンの回想シーンです。

フリーレンの実力を一目で見抜いたゼーリエが「強いな。気に入った。望む魔法を言うがいい。一つだけ授けてやる」と魔法使いなら誰もが羨む「特権」を与えようとするのですが、フリーレンは「いらない。魔法は探し求めている時が一番楽しいんだよ」と言って断ります。(第43話)

ゼーリエ:フランメ、やはり駄目だこの子は。野心が足りん。燃えたぎるような野心が。
フランメ師匠せんせい。この子はいつか魔王を倒すよ。きっとこういう魔法使いが平和な時代を切り開くんだ。
ゼーリエ:私には無理だとでも?
フランメ戦いを追い求めるあなたには魔王を殺せない。私達じゃ無理なんだよ。だってさ師匠せんせい、平和な時代に生きる自分の姿が想像できねぇだろう?
ゼーリエ:…
フランメ:フリーレンは平和な時代の魔法使いだ。

黄金郷編の小ネタ紹介です。ソリテールがこのフランメの「だってさ~想像できねぇだろう?」(第5巻43話)とそっくりな発言をしている場面があります。これと同種の小ネタはもう一つあって、フリーレンとヒンメルの出会いの場面(第3巻22話)を、ソリテールとマハトがそっくり再現しているというものもあります。単行本第10巻をお持ちの方は探してみてください。私はこれに気付いたときにはソリテールの「キモ可愛さ」にぞっとしました。

魔王を殺す魔法使いに関するフランメの言葉をまとめると次のようになります。

  • ゼーリエとフランメは魔王を殺せない。なぜなら二人は平和な時代に生きる自分の姿をイメージできないから。

  • フリーレンは魔王を殺せる。なぜならフリーレンは平和な時代に生きる自分の姿をイメージできるから。

これは、「一級魔法使い試験編」で繰り返し説明される「魔法はイメージの世界」、「イメージできないものは魔法では実現できない」というロジックの応用になっています。ですから、この理屈そのものには特に疑問はありません。

第一次試験(フリーレン)

第二次試験(ゼンゼ)

第三次試験(ゼーリエ)

※「(本作における)魔法とは?」を説明することが「一級魔法使い試験編」の役割の一つです。

二つの疑問

魔王を殺す魔法使いに関するフランメの言葉をまとめたものを再掲します。

  • ゼーリエとフランメは魔王を殺せない。なぜなら二人は平和な時代に生きる自分の姿をイメージできないから。

  • フリーレンは魔王を殺せる。なぜならフリーレンは平和な時代に生きる自分の姿をイメージできるから。

このフランメの言葉に関して、「戦いを追い求めるゼーリエには魔王を殺せない。なぜなら、ゼーリエは平和な時代に生きる自分の姿をイメージできないから」という理屈は、ゼーリエの人となりから納得できます。ゼーリエの場合「イメージできない」というよりは、そもそも平和な時代を望んでいるのか怪しいとさえ感じます。

ただ、このフランメの言葉には、具体的に考えていくとよくわからない点が二つあるように思います。(フランメの言葉をまとめた下表を見てください)

一つ目の疑問は、なぜフランメに魔王を殺せないのか?です。

というのも、幼い頃のフランメは花畑を出す魔法がお気に入りで、誰もがそういう魔法を使える世界を夢見る女の子でした(第53話)。これについてゼーリエは「虫唾が走った」と評しています。ゼーリエがフランメを深く愛していた事は間違いなく、この言葉を額面通り受け取る事はできないのですが、ゼーリエとしてみればフランメの願いは「実現不可能」な「夢物語」だとしか考えられなかったのです。

このフランメ像を前提にすると、フランメがゼーリエと同じ「戦いを追い求める」、「平和な時代に生きる自分の姿をイメージできない」魔法使いだとはどうしても思えないのです。

もう一つの疑問は、そんなフランメにも魔王を殺せないというのなら、なぜフリーレンに魔王を殺せるのか?です。「平和な時代に生きる自分の姿」をフランメでさえイメージできないというのに、なぜフリーレンにはそれができると言えるのでしょう?

フランメとフリーレンを比較すると、フランメには世の中に積極的に関わろう、世の中を良くしようという意志が見られるのですが、フリーレンは厭世的です(エルフだからということもありますが)。フリーレンも魔族を憎んではいるのでしょうが、かと言って人々のために世界に平和を取り戻そうという熱い正義感は見られません。実際ヒンメルと出会うまではフリーレンは魔王討伐のために具体的な行動をすることはなく、魔王討伐を半ば諦めかけていたのです(友人の戦士ゴリラを追いかけることを諦めてしまったザインと同じです。そんなフリーレンの背中を押したのは南の勇者でした。同行を求めても断られることが分かっていたのに南の勇者がわざわざフリーレンに会いに行った理由はそこにあるのでしょう。南の勇者の正体も面白い謎ですが、それについてはここでは触れませんので、別記事を検索してみてください)。そんなフリーレンになぜ魔王を殺せるのか?フリーレンには凡そ「平和な時代を切り開く」魔法使いとしての素質が欠けている、フランメの方がずっと相応しいと感じるわけです。

フランメは「フリーレンは平和な時代の魔法使いだ」と言います。会話の流れからして、これは「フリーレンは平和な時代の魔法使いだ。だから、フリーレンは平和な時代に生きる自分の姿をイメージできる。よって、フリーレンは魔王を殺せる。私たちには無理だけれども」と言いたいのでしょう。

しかし、フランメは同時に「こういう魔法使い(フリーレン)が平和な時代を切り開く」とも言っています。

この二つの発言を組み合わせると、「平和な時代の魔法使いが平和な時代を切り開く」となります。

しかし、平和な時代の魔法使いは、平和な時代に生まれるものでしょう。「平和な時代」に生まれた「平和な時代の魔法使い」が「平和な時代」を切り開くとは、循環論法(鶏が先か、卵が先かのジレンマ)に陥っているように思われます。

このように、魔王を殺す魔法使いに関するフランメの理屈は、「魔法はイメージの世界」、「イメージできないものは魔法では実現できない」というロジックの応用ではあるものの、具体的に考えてみるとどうも腑に落ちない所があるのです。

ここまでが状況確認と問題提起です。ここから少しずつ私なりに謎(ミステリ)を解いてみます。

フリーレンは「平和な時代の魔法使い」なのか?

フランメは「フリーレンは平和な時代の魔法使いだ」と言いますが、そもそも、フリーレンは平和な時代に生まれ育ったわけではありません。フランメと同じように魔族によってすべてを奪われて、魔族を根絶やしにしたいほど憎んでいます(第21話)。

フリーレンは「私は魔族にすべてを奪われた」、「魔族を根絶やしにしたいほど憎い」、「けれども私は魔法が好きで…」と言います。フランメはそのすべてについて畳み掛けるように「私もだ」、「私もだ」、「私も好きだ」とフリーレンに同意するのです(第21話)。どう考えても二人は「似た者同士」です。

このやり取りでフリーレンは物憂げですが、フランメの表情は真剣・深刻です。フランメは優秀な魔法使いをたくさん育てました。しかし、この場面の後、フランメは「(魔力制限という卑怯な手段を使って魔族と戦うのは)私達だけでいい」と不思議なことを言います(つまり、フランメは魔力制限を使って魔族を殺し続けることの副作用・弊害を憂慮しているのです)。これは、黄金郷編におけるソリテールによるフリーレンへの痛烈な指摘に繋がります。ソリテールはこう指摘します。「葬送のフリーレン」と呼ばれるほど多くの魔族を殺してきたお前の精神はもはや「人類のものとは掛け離れて」いる。お前に人としての精神があるならそんなことはできないはずだ。お前は魔族を化け物だと言うけれどもお前の方こそ化け物だ、と(第100話)。このソリテールの指摘により「人類は人喰いの化け物である魔族と戦わざるを得ない。しかしそのためには自らも化け物になるしかない」という構造と、いかにしてこの人類と魔族の対立構造を解消(止揚)するのか(戦いの先に答えはあるのか?他の答えが見つかるのか?)という『葬送のフリーレン』の大テーマが示されます。フランメの懸念(「私達だけでいい」と言った時のフランメの表情を見てください)を知ってか知らずか、魔力制限という技術を承継させられたフェルンのメンタルも気掛かりです。

フランメは何を根拠に「フリーレンは平和な時代の魔法使いだ」と言うのでしょう。フランメ自身と何が違うのでしょう。

更に、こちらのシーン(第22話)を見てみると、当時のフリーレンは果たして「平和な時代の魔法使い」だったのだろうか?と疑問を感じます。

フリーレンに「後悔しているの?」と問われたフランメは「いいや」と否定するのですが、フリーレンに背を向けていますから、フリーレンの指摘は図星なわけです。フランメはフリーレンに「戦いのこと」や「復讐のための魔法」しか教えなかったことを後悔しています。

とすれば、フランメは「フリーレンは平和な時代の魔法使いだ」とゼーリエには言いましたが、これは「平和な時代の魔法使いである」という断定ではなく、今はまだ「平和な時代の魔法使い」ではないけれどもいつかは「平和な時代の魔法使いになって欲しい」という強い願い、あるいは「平和な時代の魔法使いに必ずやなるだろう」という確信に近い予言だと考えるべきでしょう。

つまり、ゼーリエ、フランメ、フリーレンの三人は同じ「戦いを追い求める」「平和な時代に生きる自分の姿をイメージできない」魔法使いです。考えてみれば同時代に生きる三人なのですから、これは当たり前の事だと言えます。

※※※ここから先は重大なネタバレになる可能性があります※※※

「平和な時代の魔法使い」へ(『葬送のフリーレン』のおもて面の姿イメージ

フリーレンが「平和な時代の魔法使い」ではなく「戦いを追い求める魔法使い」だとすると、フランメの理論(「フリーレンは平和な時代の魔法使いだ。だから、フリーレンは平和な時代に生きる自分の姿をイメージできる。よって、フリーレンは魔王を殺せる」)によればヒンメルたちは魔王を殺せなかったはずです。「私達(戦いを追い求める魔法使い)じゃ無理なんだよ」というわけです。

また、ヒンメルたちは腐敗の賢老・クヴァールを倒せず、封印したことを思い出してください。クヴァールを倒せなかったヒンメルたちに魔王を倒せたはずがないと考えるのが素直でしょう。

ヒンメルたちはクヴァールを封印して、時の経過を利用しました。魔王に苦戦した時、同じ発想を持たなかったとは思えません。しかも、ヒンメル、ハイター、アイゼンの三人はキーノ峠で未来からタイムリープしてきたフリーレンと会っているのです。(フリーレンだけが魔王戦の時点でタイムリープを知りません。これもポイントです。)

ヒンメルが剣の里の「勇者の剣」を抜けなかったことも、このことを示しています。この世界(線)は世界の在りようとしてまだヒンメルが魔王を倒す世界(線)になっていないから抜けないのです。

魔王が生きている(封印されている)ことは別の考察からも裏付けることができます(ゼーリエとフリーレンの面接時の会話の読み解きです。ゼーリエは魔王が生きていることを知っていて、フリーレンがそれを知っているのか探りを入れるために鎌をかけています)。なぜ魔王が生きていると考えられるのか、また、なぜフリーレンがそのことを知らないのかについては下の記事を参照ください。

ヒンメルたち勇者一行が魔王を倒したことは子供でも知っている「常識」です。フリーレン一人の力で魔王を倒したと考えている人はいません。なのになぜゼーリエはこんなことを言うのでしょう?ゼーリエの発言の意図が理解できません。これは読者が知らないことをゼーリエが知っている(読者の前提が間違っている)ことを示しています。

では、ここからは「魔王は生きている(封印されている)」ことを前提に話を進めます。

フランメの理論(「フリーレンは平和な時代の魔法使いだ。だから、フリーレンは平和な時代に生きる自分の姿をイメージできる。よって、フリーレンは魔王を殺せる」)によれば、魔王を殺せるのは「平和な時代の魔法使い」です。つまり、フリーレンは「平和な時代の魔法使い」にならなければ魔王を殺せません。では、どうすればフリーレンは「平和な時代の魔法使い」になれるのか?

もともとはフランメもフリーレンも同じ「戦いを追い求める」魔法使いです。

けれども実は、エルフ(長命種)のフリーレンならば「平和な時代の魔法使い」へクラスチェンジ(転職)ができるのです。なぜなら、フリーレンは魔王封印後の(仮初めではありますが)平和な時代を生きることができるからです。平和な時代は第1話から始まります。

第1話

つまり、フリーレンはフェルンたちとの旅(人間を知る旅)を通じて「戦いを追い求める魔法使い」から「平和な時代の魔法使い」へクラスチェンジしている最中だということになります。

第116話

この過程(「人間を知る旅」すなわちフリーレンが人間を知っていく「成長」の過程)がアニメ公式HPなどで『葬送のフリーレン』が紹介される際に使われる『葬送のフリーレン』のおもて面の姿イメージです(裏面の姿イメージは「失敗した魔王討伐のやり直しの旅」で、知っているのはフランメ、ヒンメルたち三人、ゼーリエくらいでしょう。魔王も「女神の石碑」を監視していましたから気付いていたと思います)。アニメ第2期の放送が決定された現在、公式HPには足湯で旅の疲れを癒すフリーレン、フェルン、シュタルクの姿と共に「くだらない、かけがえのない冒険。」と書かれています。これが「平和な時代に生きる自分フリーレンの姿」なわけです。https://frieren-anime.jp/

それに対してフランメは「平和な時代の魔法使い」へのクラスチェンジができません。1,000年前の時代に生きていた人間(短命種)であるフランメは現在の平和な時代を生きることができないからです。

完璧なイメージ

答えはほぼ見えてきましたが、もう一度、「魔法の世界ではイメージできないものは実現できない」というロジックに戻ります。

ユーベルは大体なんでも切る魔法レイルザイデンで「不動の外套」を打ち破ったことに関して「イメージの話だよ」と簡単に言ってのけます。

それに対してゼンゼは「布を切るイメージなんて誰でもできる。馬鹿にだってできる。だが、魔法の世界はそんなに甘いものじゃない。完璧にイメージできないものは魔法では実現できない」と言います。ユーベルはあっさりと「イメージ」と言うけれども、魔法の世界で求められる完璧なイメージがそんなに生易しいものではないことをわかっているゼンゼは、なぜユーベルに「不動の外套」を切るイメージが可能なのか考えを巡らせて、ユーベルの才覚を認めるのです。(第54話)

この場面では、ユーベルの「人として成立している精神状態とは思えない」ような卓越したイメージ構築力と彼女がいかにして布を切る「完璧なイメージ」を構築したのか(幼い頃に姉が裁縫するときに裁ち鋏を使って布を切る様子を間近で何度も見ていた)を例に挙げながら、魔法で必要とされるイメージがどのようなものかについてかなり丁寧に説明されています。

ですから、本作において魔法で何事かを実現するにあたっては、誰でもできるような単なるイメージではなく「完璧なイメージ」である事が重要なポイントなわけです。

これは「平和な時代」についても同じことが言えるはずです。魔王を倒して平和な時代を切り開くためには、「平和な時代に生きる自分の姿」を完璧にイメージできる必要があります。

とすれば、平和な時代を生きたことがなければ「平和な時代を生きる自分の姿」を完璧にはイメージできないということなのでしょう。

まずは「平和な時代を生きる自分フリーレンの姿」を想像してみてください。次に、先程の足湯でくつろぐフリーレンたちのイメージを思い出してみてください。おそらく、言葉の上での観念としての「平和な時代を生きる自分フリーレンの姿」と具体的な経験の裏付けがあってイメージする「平和な時代を生きる自分フリーレンの姿」とでは全くそのディティールが異っていたはずです。

つまり、フランメは平和な時代を生きたことがないので、平和な時代を生きる自分の姿を完璧にはイメージできない。それに対してフリーレンは平和な時代を生きているので、平和な時代を生きる自分の姿を完璧にイメージできる。これこそがフランメには魔王を殺せず、にもかかわらずフリーレンならば魔王を殺せる理由です。

※ここからは何か「平和」に関する「メッセージ」を読み取ることもできそうですが、ここでは立ち入りません。

「完璧なイメージ」とユーベルの「共感」

「完璧なイメージ」と関連してユーベルの「共感」について触れておきます。

本作における魔法には、魔導書や魔法学校で学ぶことにより習得できる知識体系・学問体系といった印象があります。一般攻撃魔法ゾルトラークの発展に関する魔法史のエピソードが科学と科学史を連想させることもその印象を強めています。(序盤のクヴァールに関するエピソードだけでなく、黄金郷編でも魔法は歴史の中で発展してゆくものとして位置付けられています。)

しかし、ここまでの考察(平和な時代に生きる自分の姿を完璧にイメージするためには平和な時代を生きる経験が必要)で見てきたように、実は意外と個人的な体験・経験といったものに根差している面も無視できません。

それを体現している魔法使いがユーベルです。(対照的なのがラントで、ラントの魔法理解は体系的・理論的なものです)

ユーベルは「その人が得意とする魔法は人生や人間性に大きく係わっている」と語っており、ラントに共感するために「君は何を思ってどんな人生を歩んできたの?教えてよ」と問いかけています。

ユーベルが大体なんでも切る魔法レイルザイデンで「不動の外套」を切るイメージを構築できたことの根幹には彼女の個人的な体験がありました。しかも、この体験はおそらく唯一残された家族である姉の記憶と結びついたものです。ユーベルは一級魔法使い試験合格の「特権」として「姉貴が見つかる魔法」を望んでいますから、ユーベルにとって姉はとても大きな存在です。このように、ユーベルの得意な大体なんでも切る魔法レイルザイデンはユーベルの人生や人間性(ユーベルと姉の関係性)と大きな係わりがあるわけです。

ユーベルの「共感」に関する謎の一つに、なぜ「人を殺すことを何とも思っていない」ユーベルがヴィアベルに「共感」して見た者を拘束する魔法ソルガニールを習得できたのか?というものがあります。ヴィアベルは既に「両手は血で染まっている」けれども同時に「人間でありたい」と強く願っており、「殺す覚悟のための時間」が欲しいために見た者を拘束する魔法ソルガニールを使うのです。これがユーベルの指摘するヴィアベルの人生や人間性と見た者を拘束する魔法ソルガニールの係わりです。けれども、殺しに関してユーベルにはヴィアベルの様な「躊躇い臆すること」があるようには見えません。では、ユーベルの人生や人間性と見た者を拘束する魔法ソルガニールにどんな係わりがあるというのでしょう?

「まだ人間でありたい」と思っているのはユーベルも同じです。ただ、この時ユーベルの念頭にあるのは「殺人一般」ではありません…

私なりの答えを述べます。それは、ユーベルにはどうしても殺したいある人物がいて、しかも殺す前にその人物と話をしたい(その人物を殺す覚悟のための時間が欲しい、その人物を殺すまでの猶予が欲しい)からです。そして、その復讐がユーベルの人生に深く係わっていて、ユーベルは復讐のために生きていると言っても過言ではないからです。ヴィアベルから戦場での悲惨な体験談を聞いて通常の意味で「共感」したからではありませんし、殺人一般に関してヴィアベルと同じように「殺す覚悟のための時間」や「殺すまでの猶予」を望んでいるわけではありません。(私見)

魔法に必要なイメージが単なるイメージではなく「完璧なイメージ」であることと同じように、ユーベルが魔法の取得に必要な「共感」は、「人生や人間性に係わる深い共感」が必要なはずです。これは本作における「魔法」の重要な(そして見落とされがちな)性質を表しています。

※ここまでくれば、ラントの人生と分身魔法の係わりもわかりますね。ラントには、故郷での祖母との暮らしをどうしても捨てることができなかった、けれども魔法学校は帝都にあって…という背景があり、彼の分身魔法が磨かれたのです。ユーベルがその係わりを理解したのはラントの祖母の墓前です。つまり、このときにユーベルはラントに「共感」しているはずです。ラントと祖母の関係に類似するものがユーベルの人生のどこかにもあったのでしょう(姉との離別かもしれません)。ユーベルは既にラントの分身魔法を習得していると考えます。ユーベルの分身魔法が「帝国編」の山場の一つになるかもしれません。(私見)

ユーベルが殺そうとしている人物は誰か。まず、ユーベルが殺したいのは殺すための覚悟や猶予が必要な人物ですから、ユーベルの家族と一切無関係な人物とは考えづらいです。とすれば、姉か姉と何らかの関わりがある人物でしょう。また、ユーベルの影なる戦士への言及(第138話)の仕方からして、ユーベルは元・影なる戦士だと考えます(別記事参照)。手掛かりはこの二点です。姉本人だとすれば、リネアールは「対人戦という一点において、リネアール程優秀な人間の魔法使いを私は知らない」(ゼンゼ)と言われる手練れで、彼女の杖はユーベルと同じく刃が備わっています。リネアールも元・影なる戦士でユーベルの(擬似)姉かもしれません。また、帝国編全体の構成としてラントと魔導特務隊(フラーゼ)、ユーベルと影なる戦士(レーヴェ)という綺麗な対称性が見られます。ラントはフラーゼと確執があるようですから、影なる戦士の指揮官レーヴェとユーベルの姉に何らかの関わりがあり、ユーベルが殺そうとしているのはレーヴェである可能性もあると思います。また、ユーベルの「戦い方」「感性」がフラーゼに似ているというノイの指摘もあるため(第131話)、ユーベルと魔導特務隊の関連も気にはなるのですが、こちら方面はあまり材料がありませんね。年齢からしてフラーゼがユーベルの姉ということはないでしょう。母親?しかしユーベルの両親に関してはまだ作中一切言及がないため唐突な印象です。

魔王を殺す「平和な時代の魔法使い」はどこからやって来るか

以上からわかるとおり、魔王を殺す魔法使い=平和な時代の魔法使い=未来から来た魔法使い、です。

このように考えることで、「平和な時代の魔法使いが平和な時代を切り開く」というフランメの言葉を循環論法から脱して矛盾なく理解することができます。

フランメは「平和な時代の魔法使いが未来からやって来て魔王を殺すだろう」と予言しているわけです。

フランメについて

以上の考察を前提にすれば、

  • ヒンメルたちが一度は魔王討伐に失敗して魔王を封印すること

  • 仮初めの平和な時代が到来すること

  • 「フランメの手記」を読んだフリーレンがエンデ(オレオール)を目指す「人間を知る旅」を通じて「平和な時代の魔法使い」になること

  • フリーレンを過去にタイムリープさせて失敗した魔王討伐をやり直すというヒンメルたち三人の計画

これらは全てフランメの魔王討伐のための計画の一部であると考えて良いでしょう。(フランメとヒンメル(南の勇者)の間に何か連絡・連携があったのでは?という気もします)

そうすると「このような超越的・俯瞰的視点を持つフランメとは一体何者なのか?」という疑問が生じます。下の記事では、フランメはヒンメルたちが魔王討伐に失敗した未来からやってきたタイムトラベラーではないか?という仮説を立てています。

また、今回の考察では「平和な時代の魔法使い」であることが具体的に何を意味するのかはよくわかりませんでしたが(おそらくヒンメルたちのパーティに足りなかった信頼関係や絆もその一つでしょう)、もしかすると「平和な時代の魔法使い」の象徴である「花畑を出す魔法」が魔王戦における鍵になるのかもしれません。なぜなら、これもフランメがフリーレンに教えた魔法なのですから。

おわりに

本稿の考察では一般的な『葬送のフリーレン』のおもて面の姿イメージ(人間を知る旅)と裏面の姿イメージ(失敗した魔王討伐のやり直しの旅)とが「魔法の本質」(イメージできないものは実現できない)という作中のロジックによって密接に関連付けられていることを示せたと思います。

と言いますか、「関連付け」どころではなく、魔王討伐のために必要な過程として「人間を知る旅」が位置付けられているわけです。表・裏という表現は実はあまり上手くなく、この二面はメビウスの輪のようにつながっていて、「人間を知る旅」を読んでいたらいつのまにか「失敗した魔王討伐のやり直しの旅」を読んでいたというふうに自然に接続されるのかもしれません。

この二面構成それ自体は特別に目新しいものではないかもしれませんが、その構成を採用することに説得力を持たせているのが『葬送のフリーレン』の場合は「魔法の本質」(イメージできないものは実現できない)というアイデアです。

また、本作が昨今全く珍しくもない「タイムリープもの」であることも、「不本意な結果をなかったことにするために過去に戻る」という無闇に採用されたギミックではなくて(正直に言うと、「女神の石碑編」を読んで本作が「タイムリープもの」であることを知った時、私は少しがっかりしたのです)、「未来を経由して過去に戻る」ということが作中ロジックの「魔法の本質」から必然的に要求されていることもわかります。

作者の構想力に心の底から感服します。

蛇足ですが、「剣と魔法のファンタジーもの」という少し読む人を選ぶ世界観を持つ本作ですが、「人間を知る旅」という万人受けするイメージを前面に押し出すことで読者の間口を広げるプロモーションとしていることにも上手さを感じます。(ここは出版社等の作品を売り出す体制の妙でしょう)

まあ、私としては「『葬送のフリーレン』はそれだけの作品ではない」ということを伝えたくてこんな作文をしている所もあるのですが…。

最後に、これは考察ではありませんが、私の好きなフランメとユーベルの眼差しについて触れておきます。

フランメの眼差し

今回取り上げた三人が一堂に会する(唯一の)場面は、師匠・弟子・孫弟子の美しい師弟関係を描いた何度見ても見飽きない名場面だと思います。(ここはマンガ派の方にも是非アニメ版で見て欲しい場面です。理由は後述します)

「魔法は探し求めているときが一番楽しいんだよ」と言う弟子のフリーレンをフランメは誇らしげに見つめています。(この時のフランメの表情にはアニメ化に際して変更が入っており、かなり印象が異なります)

それを聞いたゼーリエが「駄目だこの子は」とフリーレンを否定すると、それまでゼーリエの前で跪いていたフランメは「師匠せんせい」と言ってフリーレンを守るようにスッと立ち上がり、「この子はいつか魔王を倒すよ」と師匠のゼーリエに対して異を唱えます。

このフランメが自然体で立ち上がる所作からは、弟子のフリーレンに対する深い愛情を感じます。仮に跪いたままであったり、気負うようにして立ち上がるのであれば、かなり印象が異なるでしょう。(このフランメのさりげない所作のアニメーションも、まったく派手なところはないのですが見て欲しいところです)

また、師匠のゼーリエを敬いつつも、言うべきことは当たり前にサラリと言うフランメの態度からは、この二人の健全な師弟関係と厚い信頼関係が感じられて気持ちのよいものです。(この時点ではまだヒール・ヴィランの印象が強いゼーリエですが、フランメとの関係性からは決してそのような存在ではないと読み取ることが可能です)

※こちらの考察では「私は戦いしか知らない時代遅れの魔法使いです」と自嘲するレルネンと関連させて「平和な時代の魔法使い」について触れています。

ユーベルの眼差し

ユーベルがラントのことを徐々に理解して共感して行く過程を見てみましょう。

第一次試験後

「少しわかった」「もっと知りたい」

第二次試験

「また一つ君のことがわかった」「まだ時間はかかるかな」

帝国編

ラントの祖母の墓前です。ユーベルはまだラントに「共感」できていません。「だから聞かせて」欲しいのです。
ラントの話を聞き終えたユーベルです。ユーベルの饒舌は鳴りを潜め「そう。」の一言のみです。共感できたことがわかります。

どうでしょう?ここにはクラフトが指摘した「人殺しの目」はありません。ユーベル「らしくない」表情ばかりです。ラントの祖母の墓前で共感できた時には得も言われぬ美しい表情をしています。

ユーベルがラントについて知るとき、(普段のユーベルとは全く異なる)少し目を細めた悲しそうな表情になります。こうやってユーベルの表情を追って見れば、ユーベルがラントに付き纏う理由がわかります。ユーベルはラントの過去に自分の過去を重ねているのです。これはユーベルが彼女自身の過去を眼差している表情です。

ユーベルは自身の過去について語ろうとしません。ですから、ここには大きな余白があります。けれども、手掛かりはあります。ユーベルの過去はラントの過去から想像できるのです。私なりに想像すると、おそらくはラントの過去の反転になっています。

一つは、守りたかった大切な人を自分のために死なせてしまった過去。(第二次試験)

ユーベルの表情は隠されています。ユーベルはラントより一歩先を歩き、俯いていて、感情を悟られまいと表情を隠している様に見えます。ラントの内心をズバリ言い当てて得々としているのなら、こういう描写にはならないはずです。ユーベルには「自分のせいで誰か(大切な人)が死ぬ」という過去があるのでしょう。自分のせいで大切な人を死なせてしまった過去のあるユーベルが、ラントに「自分のせいで誰かが・・・死ぬのが嫌なんでしょ」と言っているわけですから、ユーベルの感情を想像しながら見るとかなり重い一コマです。第14巻でユーベルは「やっぱり私に・・死んでほしくないんだ」(第128話)と半分茶化して言えるようになっており、二人の関係性の発展を見守りたくなります。(この場面の描写はアニメ版とはかなり印象が異なります。ただ、アニメ版でもこの時の劇伴は物悲しい曲でした。)

もう一つは、大切な人から離れてはいけなかったのに離れてしまった過去です。(帝国編)

この直後が「そう。」のコマです。「一緒にいたいと思っていた」のはユーベルも同じでしょう。ラントは祖母と一緒に暮らす選択をしました。それに対して、ユーベルは大切なその人と一緒にいるという選択をしなかった(できなかった)という過去です。

実は、ユーベルがラントについて知るときの目を細めた悲しみを湛えた表情はマンガ版とアニメ版(「一級魔法使い試験編」)でかなり印象が異なっています。アニメ版では動画であることと声優の演技のせいか、ラントを手玉に取るユーベルの蠱惑的な魅力が強調されています。これはラントの主観から見たユーベル像と言って良いでしょう。ラントにとってユーベルは突然自分の前に現れて付き纏ってくる、何を考えているのかよくわからない煩い美少女です。(だからラントは知らず知らずのうちにユーベルに惹かれてゆきます。ラントは「強引に引っ張ってくれるような奴」「この村から連れ出してくれるような誰か」を心のどこかで探していたと吐露するのです。これは愛の告白にも聞こえるのですがラントはその意図を否定します。けれどもユーベルは「口説いてるの?」「もっと口説いてよ」と満更でもなさそうです。)

ラントがほんとうにわからないのは「線引き」でも「ルール」でも「原理」でもなく、ラントが横目で見つめているユーベルその人です。

それに対してマンガ版のユーベルはもっと客観的に描かれています。ここについては静止画であるマンガ版の圧勝だと私は思います。謎を湛えたユーベルの表情を静止画でゆっくり鑑賞するからこそ、ユーベルの過去への自由な想像が働くからです。この表現は鑑賞スピードを鑑賞者がコントロールできないアニメ(動画)では無理なのです。

とは言え、ここは意図的な演出変更でしょう。「ユーベルの過去」という伏線が回収されるのはおそらくは「帝国編」においてで、アニメ版ではこれは数年先の第3期になってしまうからです。アニメ版の『葬送のフリーレン』(第1期)は、この演出変更によってユーベルを分かりやすく魅力的なキャラクタにしたと言えます。アニメという形式を適切に使った良い判断だと感じます。(第二次試験での大活躍も相まって、彼女のファンはかなり増えたことでしょう)

ラントとユーベルには一級魔法使い試験の前から何らかの関係があったのでは?という雰囲気もあります。というのは、ゼーリエとの面接時に「故郷の村から出ていない」ことを指摘されたラントが「ユーベルにもバレなかったのに」とゼーリエの前でユーベルの名前を出すからです。一般論として、二人の会話の中で、一方が詳しく知らないはずのその場にいない人物の名前が説明もなく出てくるのは不自然です。しかも、この場面では二人には一応は上下関係があり、下の立場の者からその人物の名前が出てくるのです。上の立場にいるゼーリエが知らないはずの人物の名前(ユーベル)を下の立場にいるラントが口に出すでしょうか。常識的には礼を失する行為です(ゼーリエとラントに通常の常識があるかはともかくとして)。つまり、ラントには「ゼーリエはユーベルのことを知っている」という認識があるように見えるのです。ゼーリエはラントのことは両親や祖母の事も含めて良く知っています。そしてゼーリエとユーベルは(面接時のやり取りからして)旧知の仲です。となれば、ラントとユーベルはどうなのでしょう?

本文は以上になります。以下は『葬送のフリーレン』を紹介する記事等へのリンクになります。魅力的な「謎」がたくさんある作品ですので、是非読んでみてください。

『葬送のフリーレン』の紹介記事へのリンク

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※アニメ第1期を観た方へ

※「女神の石碑編」まで読んだ方へ

※「とりあえずここまで読めば面白さが分かる」というライン

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