vol.4|J.CHAPELの物語 「すべては主の賛美の中にある」
J.CHAPELが始まるまでの歩みの中
みことばがどのように道を照らしてきたのかを
J.CHAPELの物語としてシリーズでお分かちしたいと思います。
ここに記しているのは、出来事の記録ではありません。
その時々に与えられ、私たちを導いてきた
みことばの意味をたどる、静かな物語です。
4. すべては主の賛美の中にある
I WILL PRAISE THE LORD, NO MATTER WHAT
― 息あるものはみな、主をほめたたえよ ―
詩篇150篇は、
理由を積み重ねることなく、
ただ一つの呼びかけで終わります。
息あるものはみな、主をほめたたえよ。
ー詩篇150篇ー
ここで語られている賛美は、
状況が整ったときに捧げられる感謝ではありません。
成功や回復の結果として生まれる賛美でもありません。
詩篇の最後に置かれているこの言葉は、
賛美が、すべてのいのちの帰着点であることを告げています。
つまり、
私たちは何かを成し遂げたから賛美するのではなく、
息をしている存在そのものとして、賛美へと招かれているのです。
主を賛美することが、
私たちに喜びや力を与えるのではありません。
主ご自身が、
すでに喜びであり、
すでに力であり、
すべてであられるからこそ、
私たちは主をほめたたえます。
礼拝は、
感情を高めるための行為ではありません。
主の前に立ち、
主が誰であるかを受け取り、
その方とひとつにされていく場所です。
だから私たちは、
「問題があるけれど、主がいるから大丈夫」
という立ち位置に立つのではありません。
主ご自身が、すでに喜びであり、平安である
という現実の中に立ちます。
その方と共に歩むことができるなら、
状況が揺れても、
私たちの中心は揺るがされません。
賛美は、
現実から目を背けるためのものではなく、
現実のただ中で、
主が誰であるかを告白する行為です。
息あるものとして、
主の前に立ち、
主をほめたたえる。
そこに、
理由を超えた喜びがあり、
状況を超えた平安があります。
主を賛美するとき
するというよりも
主を賛美することが出来たとき
それは、
「主権は主にある」
という価値観の中に生きることが出来
そのとき、
私たちは神の国の中に包まれるのです。
神の国の中に包まれているとき、
恐れや不安が消えるというよりも、
それらが私たちを支配することができなくなります。
主ご自身がすべてのすべてであるお方なので
光でないものは
そこで何の力も持つことは出来ないからです。
けれども、賛美することさえも
私たちの力で出来ることではなく
イエス・キリストの十字架の贖いによってのみ
主を賛美することの恵みを知ることができるようになります。
だから私たちは、
どんなときも賛美します。
それは、
気合や決意による選択ではなく、
すでに賛美の中に置かれている者としての応答だからです。
次回、
vol.5|J.CHAPELの物語「杖を高く掲げなさい」
<J.CHAPELの歩みの物語>
・vol.0:J.CHAPELの物語 「みことばに導かれて歩む道」
・vol.1:J.CHAPELの物語 「空の星を見上げなさい。」
・vol.2|J.CHAPELの物語 「天幕を広げよ」
・vol.3|J.CHAPELの物語 「契約は動かない」
・vol.4|J.CHAPELの物語 「すべては主の賛美の中にある」
・vol.5|J.CHAPELの物語 「杖を高く掲げなさい」
・vol.6|J.CHAPELの物語 「主は来られる。王となられる。」
・vol.7|J.CHAPELの物語 「吠えたける獅子の勝利の声」
・vol.8|J.CHAPELの物語 「涙の種から、喜びの束へ」
・vol.9|J.CHAPELの物語 「主が建てられるのでなければ」
・vol.10|J.CHAPELの物語 「キリストにあってひとつとなる」
