【小説】8月某日の夢 第3話

 3年前の家で過ごす日々は、どこか懐かしいような、今の生活と違うから慣れないような、そんな感覚があった。
 だけど、3年前ではごく普通の当たり前の1日。中学校生活を思い出しながら、私は家での生活を送った。朝食を作るお母さんの姿は、3年前から変わっていないことが確認できた。

 家から出てしばらく歩いた。
 その間、私は自分が3年前を生きていることについて、あれこれ考えていた。
 なぜ急にタイムスリップしたんだろう。
 でも、今の私にとって、これは悪い状況じゃなかった。幸せだったあの頃をもう一度生きることができるし、もしかしたら、後悔していたことをやり直せるかもしれないから。

 やがて、昨日紬貴くんと別れたあの交差点が見えてきた。前の家は、中学校からこんなに近かったんだ。
 そうだ。この日の朝は、紬貴くんを見かけて……
 私は、ふと紬貴くんの姿を探してしまった。
 すると、ちょうど交差点を走って渡る紬貴くんがいた。隣にはもう1人、男子クラスメイトが並走している。青信号が点滅する前に渡り切った2人は、ゆったりと談笑しながら歩き出した。
 私は仲間に入ろうと思って、2人を追いかけた。ここで、3年前の私は紬貴くんたちに声をかけなかった。紬貴くんと友達の2人の時間を、私が邪魔してしまうと思ったからだ。
 でも、今はきっと大丈夫。紬貴くんも隣のクラスメイトも、とても優しい性格をしていること、今の私は知っている。
 私は2人の歩く横から顔を出して、声をかけた。
「2人とも、おはよう!」
「高坂さん、おはようございます」
「おはよ〜、夏芽ちゃん!」
 うまくいった! 私は2人の会話に入ることができた。


「というか、『夏芽』で良いよ? 『高坂さん』って呼び方、堅苦しくない?」
「そうですか?」
 楽しい授業もつまらない授業も通り過ぎ、時間はあっという間にお昼になっていた。中学校の給食。今はお弁当を持参するから、私にとってはすっかり新鮮になっていた。
 お腹が空いていた私は、昼食を早く食べ終わった。
 少食なのか、普段から多く食べない紬貴くんも早くに食べ終わる。
 今、昼休みに一緒に絵を描きに行かないかと誘っていたところなのだが、今更ながら紬貴くんの『高坂さん』呼びが気になってしまった。紬貴くんが敬語キャラだということは、前々から分かっていたけれど。
「すみません……俺、人の名前とか覚えるのが苦手で。いつも、体操着に書かれている名前を覚えてしまうんですよね」
 それもそうか。高校もそうだけど、中学校の体操着に刺繍されているのは苗字だけ。中学生の頃の私も名前を覚えるのが苦手で、体操着の刺繍を見て覚えていた。
 だから、「苗字で呼ぶのは堅苦しい」と言っておきながら、当時の私もみんなのことを苗字で呼んでいた。もちろん、紬貴くんのことも。「紬貴くん」じゃなくて「伊勢田くん」と呼んでいた。
「もう7月とはいえ、入学式から3ヶ月しか経っていないからね。確かに、40人分の名前を覚えるのは難しいか。じゃあ、慣れたら下の名前で呼んでね」
 私がそう笑うと、「じゃあ、覚えたら」と紬貴くんは言った。
 3年前はこんなこと言わなかったからか、最後まで『高坂さん』と呼ばれていたけど、今度はどうだろう。ちゃんと名前で呼んでくれるかな。

「ごちそうさまでした」
 日直の挨拶が終わり、時間は昼休みに入った。
 私と紬貴くんはパレット一式を持って美術室に向かった。
 私たちの教室が1階に対し、美術室は4階。最初は階段が大変だけど、紬貴くんと絵を描きに行くのが毎日となれば、もうすっかり徒歩移動として馴染んでいた。
 美術室の後ろの棚には、部員たちの作品が並べられている。私は折り紙何個かとセットで置かれた画用紙を。紬貴くんは、大きめのキャンバスを取り出して持ち上げた。窓際のイーゼルに立てかけて、椅子を持ってきたり、パレットに絵の具を出したりして、準備が整ったことを合図するかのように筆を手に取った。
 私は紬貴くんのすぐそばの机の上に画用紙を置いた。作った折り紙を丁寧に画用紙に貼っていって、余白を絵の具で塗っていった。画用紙だから、水で破れたりしないように水加減は慎重に……。
 そろそろ文化祭で飾る絵も作り始めないと。部員1人、必ずキャンバスに風景画を描かないといけない。

「ふぅ………………」
 突然ため息のような声が聞こえ、私は顔を上げた。
 斜め後ろを振り向いて、紬貴くんの様子を伺った。だけど、何も心配は要らなかった。
 紬貴くんは明るい笑顔で、キャンバスを見つめていた。すると、私が見ていることに気がついたのか、こちらに視線を合わせて笑いかけてきた。
「描けました」
 イーゼルの向きを変えて、私に完成したばかりの絵を見せてくれた。
「すごい…………!」
 山にかかる雲の影、小さな屋根たちが並ぶ姿やショッピングモールの看板……
 4階の美術室の窓を覗いて見える街並みが、そっくりそのまま紬貴くんのキャンバスに映っていた。
「上手だね」と言って絶賛した。紬貴くんは「じゃあ、これ文化祭で展示します」と言って、乾かしながら色褪せないようにするためか、絵をイーゼルごと日陰に避難させた。
 その後、紬貴くんに進捗情報を聞かれた。紬貴くんの絵を見た後に、自分の絵を見せるのは少し恥ずかしかった。けど、見せないわけにはいかない。私は恐る恐る画用紙を差し出した。
「やっぱり手先が器用ですね。俺はこんなに綺麗に折れないし、こんなに繊細な色使いは出来ないです」
 優しい紬貴くんは決まってそう褒めてくれた。
 でも、私の作品は、紬貴くんのものに比べたら全然幼稚で見劣りする。繊細な色使いをしているのは、いつも紬貴くんの方だ。器用なのも、紬貴くんの方。それも、作画においてだけじゃなくて、人との付き合い方や時間の使い方も私よりずっと上手。
「そんなわけないでしょ? そんな綺麗な風景画が描けるのに」
 私はそう笑った。画用紙を平らに持って、棚にしまう。
 そろそろ次の授業が始まる時間だ。
「では、行きましょうか」
 紬貴くんが美術室の外に誘う。私たちは教室へと向かっていった。

 午後の授業が始まった。
 でも、文系の私にとって、数学と理科の授業は難しい。なかなかついていけないことも多々あった。
 こういう時、紬貴くんはどうしているんだろう。
 文系も理系もそつなくこなす紬貴くん。私は、つい彼の行動を見てしまった。
 ……きっと午前中の授業と、休み時間に集中して絵を描いたことで疲れていたのだろう。紬貴くんは突っ伏して寝ていた。
 先生は何事もなく授業を進めている。本当に気づいていないのか、気づかないふりをしているのか………………


「午後の授業、ほぼ寝ていたけど大丈夫だった?」
「もちろん、大丈夫じゃないです」
 帰り道、紬貴くんは数学と理科の教科書をパラパラとめくりながら歩いていた。
 寝てしまった午後の授業を、なんとか取り返そうとしていた。
「部活の時間に勉強しよう、とか思ったのに、結局やらなかったし……」
「でも、絵が完成したじゃん」
「それもそうですね。文化祭用の絵は描けましたけど……」
 紬貴くんは、今日も今日とて熱心に絵を描いていた。休み時間に描き上げた絵の仕上げを、細部まで丁寧に。
「まぁ、国語とか英語じゃなくて良かったです。それだけが不幸中の幸い」
 紬貴くんは、そう言ってまたページをめくった。文系も得意な紬貴くんだけど、彼曰く「理系はちゃんと答えが決まっているから、文系よりはマシ」らしい。
 私は文系女子だけど、国語や英語は記述が特に難しく感じる。どんな文章が好ましいのか、未だよく分からない。
 理系派の紬貴くんとは対照的な私は、しばらく紬貴くんに数学や理科を教えてもらいながら帰った。


「明日の授業だるいんで受けたくないです」
 分岐点である交差点が近づくと、話は1日の振り返りに。
「分かるけど、あと1日だから頑張ってよ〜」
 確か、明日は金曜日。あと少し頑張れば、休日に入る。
 ……でも、私は、早く休日になって欲しいとは思わない。それは、3年前の私だってそうだった。休日に入れば、紬貴くんに会えなくなってしまうから。休日が来ても、その度に月曜日が早く来ることを祈っていた。こんなに月曜日が楽しみになったのは、あの時が初めてだった。
「そうですね。でも、学校の友達に会えなくなるのは寂しいから……」
「あ、私もちょうど同じことを考えてた!」
 2人で笑い合って歩いた。交差点までもう数kmあれば良いのに。
 でも、名残惜しく思ううちに交差点が目の前に近づいた。
 でも、歩行者用の信号はまだ赤だ。私は少しだけ立ち止まった。
「I don't like English.」
「紬貴くん、上手!」
「そんなことないです。アイキャントスピークイングリッシュ」
「No, no. You can speak English.」
「高坂さんの方が上手じゃないですか」
 2人で笑った。ほんの少しだけだった。
 あっという間に信号は青に変わり、紬貴くんは前を向いた。
「じゃあ明日の英語、一緒に頑張りましょう」
 そう言って手を振りながら、走っていく。
「うん、頑張ろう!」
 私も手を振って、歩き出した。

 今も、3年前も、”一緒に”と言ってくれたことがとても嬉しく感じた。



第4話
https://note.com/light_hyssop657/n/n5a2f22eab5fe

第5話
https://note.com/light_hyssop657/n/n3d09fd335414

第6話
https://note.com/light_hyssop657/n/ncc0d4b0cdf9c

第7話
https://note.com/light_hyssop657/n/ndb8389d87e68

第8話
https://note.com/light_hyssop657/n/nfb16c41b9eaa

第9話
https://note.com/light_hyssop657/n/nc5deecf1fa95

第10話
https://note.com/light_hyssop657/n/n11c9e1d2c389

第11話
https://note.com/light_hyssop657/n/ne0b1d46617b5

第12話
https://note.com/light_hyssop657/n/n75a6f2b6cf77

第13話
https://note.com/light_hyssop657/n/n727b1ee68199

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