本能寺の変1852 その一因 2(1)光秀の素性4 そ第200話① 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
その一因 2(1)光秀の素性4 そ第200話①
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信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
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*加筆修正
そ第200話①
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1素性 そ第53話 そ第54話① そ第54話② そ第54話③
2争乱 そ第155話① そ第155話②
3下剋上 そ第156話① そ第156話② そ第157話① そ第157話②
そ第158話① そ第158話② そ第158話③ そ第158話④
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4没落 そ第200話① そ第200話② そ第200話③
光秀の雌伏時代1 「遊行上人三十一祖京畿御修行記」
天正八年1580、一月。
三十一代遊行(ゆぎょう)上人同念が「南都御修行」を計画した。
以下は、それに関する記述である (1~3/3) 。
随行した者の手により書き残された。
朝廷より、遊行上人に、説法の申し出があった。
朝廷から、参内して説法するようにとの申し出があった。
伝奏(=取次)は、勧修寺晴豊。
さ伝(て)、勧修寺、天奏(伝奏)として、
重ねて、御参内、
御結縁(けちえん)*1あるべきよし(由)、宣旨(せんじ)*2、
忝(かたじけな)く、有り難き事也。
旧秋、九月十三日、御参裏(参内)事も、
(上人が)誓願寺に御逗留の間、勅使ありし。
今又、当寺へ如此(かくのごとく)の御儀、
偏(ひとえ)に、本尊、引き合わせ申さるゝ哉(や)。
必ず、二月初め比(頃)、吉日を以って、金言*3次第とぞ。
正月廿三日、御行事成就し、七条へ御帰寺 (京都金光寺*4) 。
【 重史 025】(「遊行上人三十一祖京畿御修行記」1/3)
*1結縁 仏と縁を結ぶこと→説教・布教。
*2宣旨 天皇の命を伝える文書。
*3金言 仏の言葉。=参内して説法すること。
*4金光寺 時宗の寺。
当時は、七条堀川北西にあった。
後に、秀吉によって現地に移される(下京区六条通河原町
西入本塩竃町)。
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