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うにっき帳 vol.68|自分史編|私の幼稚園の頃までの話(11)

はじめに

こんにちは。吉村うにうにです。「うにっき帳」のvol.68を掲載します。
「うにっき帳」は日記と銘打っていますが、①日記編 ②語彙増量編 ③自分史編の三部のいずれかを取り上げます。

今回は、自分史編です。今日も「私の幼稚園の頃までの話」の続きで、自分の記憶と母からの話の断片から構成しています。このシリーズの(1)~(10)はこちら

では、始めます

ちなみに、本文は常体で書いております。また、日付は自分史編では、エピソードが生じたと思われる日です。

   一九七七年頃まで 私の幼稚園の頃までの話(11)


 ひらがなを覚えたのは、年長の時の夏休みだった。それまで母の執拗な説得を拒否し、ひらがなを学習しなかった。「自分の名前がわからないと(鞄入れの場所を探すのに)困るでしょう?」の言葉に、「お船のマークでわかるから、良いもん」と答える始末だった。

 しかし、姉が読んでくれた「ドラえもん」がその状況を変えた。姉は最初だけ、読み聞かせてくれたが、すぐに面倒臭くなったのか、一人で黙読し、笑っていた。そこで私もやむを得ずひらがなを覚えることにした。それまで一文字も読み書きできなかったが、夏休みで集中して覚えた。すると、次は漢字にチャレンジしたくなり、電車の方向幕や駅の駅名標を元に、「米原」「安土」「野洲」「姫路」「加古川」などの漢字を片端から見様見真似で書いて覚えた。

 漢字を覚えるのに方向幕を使うくらい、私は電車によく乗った。客車から運転席の窓越しに見える、進行先に延びている線路が大好きで、いつまで見ていても飽きなかった。そして、ポイント切り替えの不思議さに魅了されていた。細い三日月の先端のような形状をした可動レールがほんの少し位置をずらすだけで、列車は急に方向を変える。年長になると、祖父から手帳とボールペンを沢山貰い、日付の書いてあるところには目もくれず、ひたすら余白のページに線路の絵ばかり描いていた。母は後に「ずっと同じ絵を描いているから、この子大丈夫かと心配になった」と述懐している。

 手帳は何十冊と祖父から貰っていた。ほとんどは、買ってもらったものではなく。当時クリニックに出入りする製薬会社が置いていったものだ。今は、そういった製薬会社から医師への贈り物には規制がかかっているようだが、当時は自由だった。手帳やボールペンを買う必要はなかった。

 電車から見える風景と線路は大好きだったが、電車そのものには興味がなかったらしく、鉄オタにはならなかった。絵も、線路の縦線と枕木の横線だけだった。幼稚園で水彩画を描く時間があったが、面倒臭がりの私は、絵の具が乾く時間も待てなかった。適当に乾かない絵の具の上に絵の具を塗っていた。後で母から聞いた話では、画用紙の中に水たまりができていて、通りかかったクラスの子が、絵を踏んで転んだらしい。
                (つづく)

さいごに

いかがだったでしょうか。幼稚園から小学校の低学年にかけて、手帳に線路の絵だけを描いていました。祖父母や母から見る私の評価は、手帳とボールペンを与えていれば、この子はどこでもおとなしくしているというものでした。単調な事を黙々とすることが性に合っているのかもしれません。ちょっと強迫的だなと、今振り返れば思いますけれども。

ここまで読んで下さり、ありがとうございました。

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