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【完結】パンで涙を拭って 第一話 #創作大賞2025 #恋愛小説部門

【あらすじ】
主人公。橘瑞稀は、ある日突然親友である高橋朝美の事故死を知らされる。
親族の居ない朝美の身元引き受け人となった瑞稀は、淡々と手続きを進めていく中、自身に起こる異変に気づく。
それは、味覚が消えた事。
唯一、好物のパンだけは僅かに風味を感じられるが、それ以外の物は一切味がしない。
動揺しながらも、葬儀を進める中、遺品整理で訪れた朝美の部屋に驚愕する。
そこは、なんと足の踏み場もない程のゴミ屋敷だった。
戸惑いながら部屋を漁っていると、唯一寝室だけは完璧な清潔さを保っており、その横のローテーブルには数冊の日記帳が置かれてあった。
内容は、朝美が感じた日々の独白と瑞稀への思い。
朝美の事を知ろうとするも、職場の人間関係は希薄で、手がかりはこの日記だけ。
瑞稀は、生前の朝美と計画していた淡路島旅行へ単身出向き、日記帳を読みながら彼女の過去、そして自分の思いと向き合ってゆく。
理不尽な死によって、唐突に明かされた朝美の秘密と心の傷を、自分の人生と重ねる瑞稀。
ーー愛した人の全てを受け入れる、瑞稀の旅路を書いた物語です。



警察から電話があったとき、口から出た第一声は、「なんで私に?」だった。

「その、ですね。事故に遭われた高橋朝美さんのご家族と、いま連絡が取れず。携帯に登録されていたあなたの番号に、ご連絡させていただきました。直近でも、やり取りがあったようでしたので」

はあ、と気の抜けたような声が漏れる。
家族と疎遠だとは聞いていた。でも、まさかそこまでとは。

「そう、ですか。……それで、朝美は本当に」

私の問いかけに、スピーカーの向こうの警察官は、事務的な配慮を滲ませながら答えた。

「ええ、現在、意識不明の状態ではあるのですが……
大変申し上げにくいのですが、ご本人かどうか、確認していただく必要がありまして」

「今から? いや、それは……困ります。仕事があるので……」

“無理です”。そう言いかけて、私は言葉を飲んだ。
頭のなかで、急ぎの案件をひとつずつ確認する。
今抱えているのは、すでにレポーティングの段階。クライアントへの報告資料のまとめだけだ。なら、佐々木君に任せても問題ないはず。

「いえ、やっぱり行きます。病院の名前、もう一度教えていただけますか」

バッグからノートパソコンを取り出しながら、私はやや早口になっていた。
指先がわずかに震えているのを自覚する。

Teamsのチャットに、手早く用件を打ち込んだ。

『本日、急用により休みを取ります。
申し訳ありませんが佐々木さん、報告資料の作成ととりまとめをお願いします。
粗方はこちらで仕上げてありますので、PDFを社内メールにて送付します』

文面を一度読み返し、送信ボタンを押す。
パソコンを閉じ、バッグに戻して、そのまま玄関へと足を向けた。

本当に朝美なのだろうか。何かの間違いではないか。
数年ぶりに早鐘を打つ心臓が苦しく、汗が背筋を伝う。

――今は、とりあえず考えるな。

そう言い聞かせて、私はタクシーを拾った。

「大学病院までお願いします。はい、あの、国立の」

行き先を伝え、助手席の背に身を預けた瞬間、私は指を噛む。
無意識のうちにパソコンを開きそうになっていた自分が、どうしようもなく腹立たしかった。

病院に着くと、支払いを済ませ、足早にエントランスを抜ける。靴音が、冷たく響いた。

「あの、警察の方で……吉村さんという方を」

受付の女性が「ああ」と小さく頷き、すぐに対応してくれた。
待合の椅子に腰かけていたとき、脇から低い声がかかる。

「橘瑞稀さんですかね。私、先ほどお電話させていただいた吉村です」

警察帽を取る中年男性。
ぺこりと深くお辞儀したと同時に、
ベルトの上に乗った下腹が、わずかに揺れた。
私は椅子から立ち上がって、機械的に「どうも」と会釈を返す。

「本日はお忙しいなか、ご協力いただきありがとうございます。ご友人の高橋さんですが……現在は霊安室にいらっしゃいます」

ああ、死んだのだ。

上を見上げ、瞬きを二度繰り返す。

ほんのわずかに抱いていた期待は、あっけなく打ち消された。
肩から力が抜けていく感覚の中で、思わず思う。
――それなら最初の電話で、はっきりそう言ってほしかった。

案内されて別室へと移動し、吉村さんが淡々と説明を始め出す。

夜勤終わりの帰り道、徒歩で帰宅中に、飲酒運転の車に撥ねられたという。
ほぼ即死だったらしい。
体の損傷は激しいが、顔だけは奇跡的に無傷で、身元の確認は容易だとのことだった。

“警察の事情説明って、こういうものなんだな”
どこか他人事のような意識で、私は話を聞いていた。

ひととおりの説明が終わると、吉村さんが背筋を伸ばす。

「では、そろそろ……身元確認のほうへ」

「あ、はい。わかりました」

部屋を出ると、看護師の女性が待っていて、霊安室まで案内してくれた。
関係者以外立ち入り禁止のエレベーターに乗り、地下へ向かう。

もっと無機質な場所を想像していたが、青い花の絵が壁に飾られていたり、内装の色がやわらかなクリーム色だったりと、ここへ来る遺族への配慮が感じられる造りに、少し驚く。

やがて戸が開き、一室に足を踏み入れた。
仏式の祭壇の前には、ストレッチャーの上に横たわる、朝美がいた。

「高橋朝美さんで、間違いございませんか?」

素朴な眉に、ふんわりとした頬のライン。
少しふくらんだ、特徴的な唇。
やさしさのにじむ見慣れた顔には、丁寧なメイクが施されている。

――たしか、こういうのをエンゼルケアって言うんだっけ。

生きているあいだ、彼女は自分を飾ることに無頓着だった。
一度だけ、私がメイクを教えようとしたときなんて、あんなに嫌がっていたのに。

「橘さん?」

「え? あ..…すみません」

無言の対話は、吉村さんの声で断ち切られる。

「……はい。高橋朝美で、間違いありません」

「承知いたしました。これにて、身元確認完了とさせていただきます。ご協力ありがとうございました」

彼の深々とした礼につられて、私も自然と頭を下げた。

「このあとのことですが、もし可能であれば、橘さんにご相談させていただいてもよろしいでしょうか」

ええ、と私は頷き、吉村さんに続いて部屋を出ようとした。
だが、ふと足が止まる。もう一度、彼女の顔が見たくなったから。

「どうかなさいましたか?」

「……いえ、その。もう少し、彼女のそばにいても?」

吉村さんはやわらかく笑って「もちろんです」と答える。その後、入口のそばで待っていますとだけ告げて部屋を出ていった。

朝美と、二人きりの部屋。
けれど彼女がもう、私に声をかけることはない。

なぜだろう。涙は出ない。泣き崩れようとも思わない。
ただ黙って、彼女の冷たくなった頬を見つめていた。

朝起きて、警察から電話があって、突然の事故死を知らされて――
すべてが急すぎて、心が追いついていないだけなのか。
それとも私がただ、薄情で冷たい女なだけなのか。

「ねぇ、朝美。あなたは、どう思う?」

無音を揺らしたその言葉は、ただ部屋の隅へ溶けていくだけだった。
薄く息を吸い込む。歯の隙間をすり抜けた空気が、かすかな音を立てる。
私はゆっくりと息を吐き、なるべく静かに退室した。
それが今の自分にできる、せめてもの礼儀のように思えたから。

――威圧的な人は苦手って、初めて会ったとき、言ってたもんね。

無表情のままエレベーター前に戻ると、吉村さんが真っ直ぐな姿勢で立っていて、無言でボタンを押してくれる。

「食事などは、大丈夫ですか?」

思わぬ気遣いに、私はわずかに笑って「大丈夫です」と返した。
きっとこの人は、いい人なのだろう。

「わかりました」と彼は穏やかに応じ、
私たちはエレベーターに乗り込んだ。
地下からエントランスへと、静かに戻っていく。

病院内の控室を借りて、今後の事について吉村さんが詳しく教えてくれた。

まず、明日までに朝美の親族と連絡がつかなければ、特例として非親族である私にも引き受けが認められるという。

葬儀の進め方はと尋ねると、もし実施するなら私の方で葬儀会社を選び、朝美の遺体を病院からそちらへ搬送後、安置することになるらしい。
葬儀の形式については、宗教・規模を含めてすべて自由で構わないという。
ただし、費用は全額私の負担になる。
親族が後から現れて手続きをすれば返金される可能性もあるらしいが――そんな人がいれば、今ごろもう連絡がついているはずだった。

後は、遺品整理。
これも親族が現れずかつ私が望めば、朝美が住むマンションの管理会社から鍵を貰えるらしい。
整理の手段や方法は基本的に自由。ただし通帳や遺言書、保険証などが見つかれば必ず警察か市役所に報告しなければならないと念を押された。

「長くなってしまいましたが、ここまででご質問とかはありませんか?」

スマホを開いて、聞いた内容を纏めていた私に、吉村さんがそう聞く。

「ああ大丈夫です。大体把握しましたし、分からなければ自分で調べます」

目の前の垂れた顎が少し揺れる。ああ、しまった。つい、仕事の癖が出た。
多分彼は、まるで事務仕事の様に対応する私へ驚いたのだろう。
謝るのも違うよなと顔をしかめていると、吉村さんはいえいえと手を振る。

「すみません、変な反応をしてしまい」

「いやこちらこそ、丁寧に対応して下さっているのに、不躾な言葉でした」

大人なやり取りを終え、一つ咳き込む彼。

「いやしかし、私が言うのもなんですが。本当にご葬儀を請け負うんですか?負担も大きいですし、行政に任せても」

その言葉を、私は遮るように首を振る。

「もう決めた事ですから。大丈夫です」

薄く微笑み、そうですか、と引き下がる吉村さん。

「本当に、大切なご友人だったんですね」

私はほんの僅かに視線を下げ、指先を触りながら曖昧に返事を返す。

そう、友人。私と朝美は“友人”だった。それは、私が守り続けてきた――とても大切な“線引き”だった

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