小説「LOVERS」サクライロ編 #9 最終話:世界が終わっても芸術は終わらない 〜芸術家が現実を創る新時代へ〜
物質的な資産が価値を失っても、私たちの絆や芸術がその価値を失うことはない――。ここから始まる物語は、生まれたときから「一円にもならない芸術や愛」を信じ、突き詰めてきた私たちの未来図である。
最終話:終わりの始まり
<リオン> 今は交わることのない、あなたの世界と芸術家の世界
湖を囲むように桜の木が植わっている。3月も下旬になると、薄ピンク色の花弁は勢い良く膨らみ、一輪、また一輪と咲きはじめる。その様子を、おれとさくらは日々観察しながら、春のおとずれと新しい時代の到来を静かに見つめている。
湖畔脇に佇む『ワライバ』。霊性の高い魂を持つ者が集うこの場所だけは、世界がどれだけ混乱しようとも静寂を保ち続けている。
◇◇◇
おれたち『サクライロ』は、ピアノの即興演奏とライブペイントで人々を魅了するパフォーマー。その存在は全国に広く知られているが、真の活動――ピアノと絵で人々を癒やし、救うこと――を知る者は案外少ない。なぜなら、目の前でライブパフォーマンスを披露しても、魂レベルで受け取れる人間は極少数だからだ。
おれたちは共に生きる道を、ずっと前から提示している。だが、優しく手を差し伸べても多くの人は外的刺激を求め、現実から目を背けるかのごとく娯楽に没頭する道を選ぶ。あるいは世界の秩序が乱れたことでパニックに陥り、保有する現物資産を必死に守ろうと躍起になっている。悲しいかな、これが実情だ。
彼らを蔑むつもりはない。ただおれたちとは見ている世界が違う、それだけのこと。無理やりおれたちの世界に引っ張り込むことも、理解させようと押し付けることもしない。その人たちが自分で氣付き、行動し、ワライバを訪れる日が来たら、そのときは快く受け入れるだけだ。
◇◇◇
悩みに悩んだが、最終的に大濠公園そばのアトリエは手放し、湖畔脇の古民家で運営する『ワライバ』を主要拠点とすることに決めた。寝るためだけに借りていた街中の部屋ともおさらばした。いつ食いっぱぐれるかわからない状況の中で、都心部と田舎とを行き来するのは身体的負担が大きいと判断したためだ。
それだけじゃない。コーヒーの提供もやめる。関東にある本家『ワライバ』に倣い、これまで飲める環境を整えてきたけれど、輸入豆が入手困難になるのは時間の問題。断腸の思いではあるが、その日が来る前に手を打とうと決め、国産のお茶に切り替えるべく生産者と交渉を進めている。
◇◇◇
その日は、候補に上がった緑茶の試飲会をワライバ内で行うことになっていた。生産者との交渉にあたってくれたのは、かつて「金を使わず生きていけるはずがない」と言ってここで二週間を過ごし、見事に惨敗を喫した錬次郎さん。彼はその後、早期退職してワライバの営業担当を自ら買って出たのだった。
「どこの生産者さんも、ワライバのコンセプトには非常に興味をもってくれてね。ここに出入りさせてもらえるなら、無償で提供してもいいと言ってくれた農家さんもいたほどだよ」
「そりゃあ、ありがたいな。……んー、渋みの中にもほんのり甘みがある。なんだかホッとするな」
心が凪の状態になると、意識の底からいくつもの音が湧き出てきた。すぐにピアノの前に座って音を奏でる。
このアコースティックピアノは、近隣の住人から譲り受けたものだ。誰かが置いていった電子鍵盤も悪くはなかったが、こいつなら電氣の供給が途絶えても弾くことが出来る。
「福岡の八女茶を飲みながらリオンくんの生演奏を聴く……。なんて贅沢なんでしょう」
さくらがうっとりしたように言う。
「あぁ、そうだわ。さっき苺を頂いたの。みんなで食べましょう」
彼女が台所の棚から持ってきたのは、小粒の苺だった。
「ハウス苺も今年が最後かもしれないと聞いたわ。これまで、季節に関係なく一年中食べることが出来たけれど、よく考えてみればそれって不自然なことだったんだと氣付かされたわ。本来、苺の季節って5月頃だもの」
「じゃあ、ありがたく食べなくちゃな」
錬次郎さんが、人数分の小皿を出して取り分け始めた。だが、一人二個ずつ配ると一人だけ、一つになってしまった。
「僕は一つでいいよ。みんなはふた粒食べたらいい」
「私、ひと粒で満足できますから、錬次郎さんはふた粒どうぞ」
「いやいや、さくらさんこそ、どうぞ」
おれが弾いている後ろで、苺の譲り合いが行われている。そのやり取りが滑稽すぎて、演奏に集中できなくなる。
「食べたい人が、好きなだけ食べりゃいいじゃん? 等分にする必要はないよ」
おれが提案すると、二人は顔を見合わせて苦笑いをした。
「それもそうだな……。いかん、いかん。どうしてもこれまでのクセが抜けなくて」
錬次郎さんはそう言って、ひと粒だけ口に運んだ。
おれもひと粒、手に取る。ヘタを取り、小さな苺を味わうようにかじると、口いっぱいに酸味が広がった。
苺って、実は酸っぱい果物なのかもしれない。人が手を加えて甘く甘く作り変えてきたけど、それは本来の姿から逸脱した、仮のものなんじゃないだろうか。
そう思うと多くの人間も、ここ数百年で随分と不自然な生き方を強いられ、誰かの都合のいいようにさせられてきたと言えるかもしれない。
「天氣がいいから私、外のテラスで食べるね」
さくらはそう言って、片手に苺を載せたまま外に出た。あとからおれもついていく。
<さくら> 苺を分かち合える人がいる幸せ
ワライバの玄関を出てすぐのところにベンチが置いてある。そこに腰掛け、畑と空を眺める。すぐあとで、リオンくんも何も言わずに座る。
海の向こうはなんだか騒々しいらしいが、眼の前の世界は実に平和だ。ひばりが歌い、どこかでアコースティックギターの音が鳴り響く。隣にはリオンくん。もし今、空から天使が迎えに来たとしてもなんの悔いもないほど、私の心は満たされている。
苺を一口かじる。思っていたより酸っぱく、思わず口をすぼめる。その様子を、隣に座るリオンくんが微笑みながら見ている。
「……食べる?」
「……それじゃ、ひとかじりだけ」
ただでさえ小さい苺を、リオンくんは器用に少しだけかじった。
「うん、やっぱり酸っぱい。だけど、さっきより甘みを感じる。さくらと一緒だからかな?」
リオンくんがそんなことを言うもんで、私はもう一度苺をかじった。すると確かに、少しだけ甘みを感じた。
「不思議ね。誰かと分かち合うと、味が変わるなんて」
「なんの不思議もないさ。心の有り様は、そのまま現実に反映される」
彼はそう言うと、私の肩を抱いた。
「今、二人で分かち合った苺は、古い時代の世の中みたいにちっとも甘くはなかった。でも、こうしておれたちが魂を重ね合わせる時、苺の粒子は共振し、甘くなる。おれたちは今、ワライバという甘さにあふれる空間の中で生きているんだ」
「うん」
「おれ、さくらと出会えてよかった。そして『魂のこもった作品を売る、売らない』で喧嘩してよかった。あの出来事があったから、おれは即興ピアニストとして内側で鳴る音を自由に表現することが出来るし、こんなふうに穏やかに青空を眺めることも出来る。何度も言うようだけど、さくらには感謝してる」
ここに至るまでには、彼も私も苦い思いをいっぱい経験した。出会ってからも、出会う前にも。だけど、それがあったからこそ、今こうして甘さを味わうことが出来る。手を取り合って生きていくことが出来る。
「私にとってもリオンくんの存在は大きいわ。リオンくんの即興演奏が私の人生に彩りを添え、生きていく活力を与えてくれるのだから」
こんな、大げさな言葉で感謝の氣持ちを表現しても、リオンくんは満足そうに笑ってまるごと受け入れてくれる。その微笑みを見て、彼の内側で鳴る音はきっとキラキラ輝いているんだろうなと想像する。
もはや、ピアノという楽器を通さなくても、彼の奏でる音がどれほど美しい旋律かを知ることが出来る。なぜなら、彼と創る現実が、彼の音の反映だからだ。
彼は言う。
「おれの指先は知っている。闇の時代の終わりと、光の時代の始まりを。もう、不協和音は聴きたくない。これから先はずっと、美しい音だけを奏で、聴いていたい。さくらの横でずっと。……だから、さくら。どんな世界になったとしても、一緒にこの青空を見上げていよう」
「もちろん。リオンくんが美しい旋律を弾き続けられるように、この青空というキャンバスに虹の色彩を描き続ける。『サクライロ』のパートナーとして誓います」
「ありがとう。……ほんとにありがとう」
リオンくんは、私の肩を抱く手に力を込めたあと、ワライバ内に戻ってピアノを弾き始めた。それは、福岡に初めて降り立った日に生まれた曲『愛の旋律』だった。
美しい調べが、開け放たれた窓やドアから外にまで響く。その音を聴いたすべての生命が、魂を震わせ、今ここに生きる歓びを感じているのがわかった。
その、瑞々しいまでの生命エネルギーを描きたくなった私はキャンバスに向かう。光の筋を表現するように筆を入れると、室内にもさっと太陽の光が差し込んできた。それは、私とリオンくんを優しく包み込む。
彼のピアノと私がキャンバスに描き出した色とが混ざり合ったその瞬間、世界が愛に包まれた。ここにあるのは愛と調和、そして静寂だけ。
私たちの目に映る世界は、ただただ美しい。心が、魂が満たされていく。この幸福感を、彼と苺を分かち合ったときのように噛み締めていた。

――完――
最後まで読んでくださり、ありがとうございました!
この時代に生きるあなたへ
さくらとリオンの物語は一旦幕を下ろしますが、タイトルにもあるように、物語はここから始まり、芸術家が現実を創る時代が本当にやってきます。
もちろん、これまでの価値観を大切にしながら生きていくのも一つの道。それを否定するつもりはありません。ただ、華麗に現実を物語るという、もう一つの道に続く扉はいつでも開かれています。決めるのはあなた自身です。
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<ここまでの物語はこちらから>
第1話:朝日差すアトリエとコーヒーの香り
第2話:アトリエを集い場にしたいアーティストの葛藤
第3話:苺が繋ぐ、芸術と人の輪
第4話:何者でもない自分になれる場所
第5話:ライブパフォーマンスが作り出す笑顔の循環
第6話:古きものを、新しき時代に再生するためのピアノ演奏『エリーゼのために』
第7話:頑張って生きてきたあなたに贈る詩歌「おさらばしよう、古い時代に」
第8話:お金では買えないものが価値を生み、芸術が心を癒す場『ワライバ』
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