(恋愛小説)立葵と向日葵(1)
(あらすじ)
甲斐圭太は兄(旭)の美しい妻・美月への片思いに苦しみ、地元から離れて転職。帰省も避けていた。
引っ越しから2年後、圭太の職場に入社した石橋悠良は年齢こそ大きく違うものの美月に瓜二つ。
性格は美月と対極で正直な悠良に惹かれ始めたある日、圭太は悠良に告白された。
天真爛漫な彼女の真っ直ぐな告白を圭太は受け入れる。
悠良と居る日々は心地よく、ずっと一緒にいたくなる圭太だが、結婚すれば悠良に義姉である美月の存在が知られてしまう。
「もし、過去の恋心まで知られたら……」
今の幸せを感じるほど、将来のことを言い出せない。
そうするうちに、自分の気持ちに正直な悠良から「圭太と結婚したい」と言われ…。
この夏がこんなに暑いのは、俺のせいかもしれない。
吹く風さえあついのに、じめじめと不快で息苦しい。必死に隠しているこの気持ちによく似て、嫌になる。
「今日はお兄ちゃん達、帰ってくるからね。早く帰ってきてよ。あんたいつも遅いけど。」
兄達という言葉にどきりとする。
あの長い黒髪が過ぎり、離れない。
悟られたくない。
「分かったよ。行ってくるから」
母から顔を背けたまま、投げるように言って家を出る。
動揺して引き戸のガラスに手を付くと温かく、外はこの時間からもう暑い。
急いで車に乗り込んでエンジンを入れた。数秒待って涼しい風を受けると、やっと安心できる。
早く頭まで冷やしてほしかった。
彼女の姿が蘇ってしまいそうだったのを抑え込みたい。
近所に咲く、子どもの頃からいつも見ている立葵からも、今日は目を逸らした。
兄の恋人・美月を見ると、折れそうなほど真っ直ぐに高く伸びた立葵の茎を思い出す。
誰にも言ったことは無いが、手足が長く美しい顔をした美月は、立葵に似ている。
真っ直ぐな長い黒髪が、さらにその印象を強くしている気がした。
(最初は、良かったのにな)
二年前、兄から美月を紹介された。
美しい姿に胸が高鳴り、これは何だと思った時にはもう遅かった。甘い香りが胸に染み付いていた。
立葵にも甘く香る品種があるからと誤魔化していたけれど、香りの正体なんて本当は解っている。どんなに遠くに小さくでも、うっすらでも、彼女の姿を見つければ嬉しい。
二十四歳にしてはあまりに幼い初恋を自分で嘲笑ったが、幸せな時だったのだと今は思う。
やけに張り切る母を見れば解る。兄達はもうすぐ結婚するのだろう。
その日の夜、家の前はすっかり暗い。
引き戸のガラスを触ってみる。今度は熱くないことに勇気づけられる。
「もう、早く帰るって言ったじゃないの」
戸が開くが早いかで、居間から駆けてきた母が責め立ててきた。
奥で美月が笑って会釈する。背が高いから、三和土からでも姿が見えてしまう。
「圭太、おかえり!ご飯、とってあるぞ!早く来い」
後から出てきた兄の旭はいつも屈託がない。
居るだけで空気が解れる気がする。
彼の隣に立つと、孤高で折れそうな美月も小さく幼く見えた。
兄ながら、良い男なのだ。
兄なら、美月の頭を顎でかかえ込んで抱きしめることだって出来るだろう。
俺には目線を合わせることで精一杯だ。
兄に出来ることは、昔から俺には無理なことばかりだった。
身長、アンカー、クラスのヒーロー、美月の夫。
あの細い指の上でチラチラと光るものを見逃さないこと。自分に出来るのはそれしかないような気がして目眩がした。
「兄さん…。ごめんけど、お風呂入って寝るよ」
のろのろとシャワーを浴びて、ベッドに横たわってもまだ寝苦しく、肌布団を強く抱きしめる。
この熱を逃がしたかった。
だが、布団はもう熱いのに、力を込めれば込めるほど腕が熱くなり続ける。
「美月」
せめて兄のように呼んでみると、涙が溢れてやっと熱が冷めていく。
「好きだよ」
初めて出てきたその言葉は、誰にも知られず夏の夜の涼しさに散っていった。
白檀の線香が混じった生ぬるい空気で目を覚ますのは、この上なく体が重いものだと思う。
起き抜けの腕には湿気が張り付いて、昨夜、無理して浴びたシャワーの意味を考えてしまう。
しばらくうだうだと寝転がっていたけれど、このままでは暑さでどうにかなってしまう。
冷房を入れて自室にいるのも、美月を避けていることに気付かれそうで怖い。
そしてやっと部屋を出て階段を降りた。
一階は別世界のような涼しさだった。
「寒っ」
「圭太、髪コテコテじゃない。暑いのわかってるんだから、早く起きてきなさい」
反論する余地もなく黙って周りを見渡すと、兄と目が合う。
「兄さん、昨日はごめん」
「いや、それは良いけど、大丈夫か?そんなに仕事キツイのか?」
兄が珍しく矢継ぎ早に訊いてくるその間、視界の端に居る美月が気になっていた。
自分への気持ちに気づいて、憐れむような顔をされていたらと思うと顔を向けられない。
「仕事は大丈夫だって。それより、あの白檀は兄さん?流石」
「お盆だし、それくらいは」
照れて困ったような顔をする兄は、冷房の効いた部屋がよく似合う。
涼しげで、からっとしていて、心地良い。
この涼しさが、自分の中からじめじめとしたものを取り去っていくように思える。
言うなら今だ。
「あ」
「何?」
「兄さん、おめでとう。美月さん、兄をよろしくお願いします」
「え、あ」
俺が丁寧に座礼するのを、きっと真っ赤になって二人は見ている。
「疲れてても、婚約指輪くらい気付くって」
居間は大きな笑い声で満たされて、俺は兄に小突かれる。
茶化してみたけれど、この二年、彼女が指輪をはめる日が怖かった。
美月を見れば幸せで嬉しくて堪らないなんてことはもうないだろう。
「じゃあ、俺は引っ越すよ。仕事も決まった」
兄と美月はこの実家で同居するわけではないはずだ。
けど、二人の結婚に傷付くなら、二人の結婚を利用しても良いと思う。
「ちょっと待ちなさい、圭太。仕事も変えるって、どこに引っ越すの」
母の声は、俺が二つ県を跨いだ田舎町を伝えるとさらに大きくなったが、ずっと黙っていた父がのんびり言う。
「面接か。だから圭太、最近ずっと家に居なかったんだなぁ」
がんばったな、と父に言われ、母も黙るしかなくなる。そうだ、父はここぞという時の一言が強い人だった。
引っ越しの日は夏の終わりなのに暑くて体に堪えた。それでもじめじめと渦を巻いていた心は軽い。
これで最後だと思いながらいつもの道を同じように運転した。
あの立葵は花が終わり、花茎が切り取られている。
最後に見ていきたかった気はしたが、同じ畑の隅にまだ明るく咲いている向日葵を見つけた。
(もうすぐ秋なのになぁ)
たくましい向日葵が励ましてくれたような、慰めてくれたような気がする。
まだ暑さが目の前の景色を揺らしていた中で、すがすがしく故郷を離れられたのは、向日葵のおかげかもしれない。
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