本能寺の変1582 【重要史料2】 021~040 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重要史料2】 021~040
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信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
→その一因 目次大 概説 目次中
1時代の風潮 2光秀の年齢と嫡男光慶 3光秀という男 4光秀の苦悩
5志向の相違 +信長の油断
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
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【重要史料2】 021~040
【重史021】 ◎第74話 ◎小74
①今度、間近く寄り合ひ侯事、天の与ふるところに侯間、
②中国の歴々討ち果たし、
③九州まで一篇に仰せつけらるべきの旨、
④ (惟任日向守) 先陣として、出勢すべきの旨、
『信長公記』
【重史022】 公 天正10 158200323
①三月廿三日、滝川左近召し寄せられ、
②上野国、幷(なら)びに、信州の内二郡下され候。
③年罷り寄り、遠国へ遣はされ候事、
④関東八州の御警固を申しつけ、
⑤老後の覚えに上野に在国仕り、
⑥東国の儀、御取次、彼れ是れ申しつくべきの旨、
⑦都鄙の面目、此の節なり。
『信長公記』
【重史023】 ◎第77話 ◎小77
①時に、明知、齢(よわい)、六十七、
②齢(よわい)、六十七、
「当代記」
【重史024】 ◎第79話 ◎小79 第79話
①祖父新左衛門慰は、京都妙覚寺法花坊主落ちにて、西村と申し、
②また、父左近大夫(道三)、代々惣領(長井氏)成るを討ち殺し、
「春日文書」
【重史025】 第200話
①惟任方、もと明智十兵衛尉といひて、
②濃州土岐一家牢人たりしか、
③越前朝倉義景を頼み申され、
④長崎称念寺門前に、十ヶ年居住故、
⑤念珠(ねんごろ)にて、六寮、旧情、甚に付て、
「遊行上人三十一祖京畿御修行記」
【重史026】 第201話
筒井へ、惟任日向守より申し来たる
「多聞院日記」
【重史027】
①情無く、主の頸を切り、
②毒飼を仕り、殺し奉り、
③大桑を追ひ出し侯。
④むかしは、おさだ、いまは、山しろ、
『信長公記』
【重史028】 そ第78話⑫ ✓ 天正10 158200527
①家康は、明日、大坂・堺に罷り下られ候、
②中国表、近々、御馬出さるべきの由候条、
③我々、堺見物の儀、先ず、遠慮致し候、
④一両日中に、御上洛の旨候間、是に、相待ち申し候、
「小畠文書」
【重史029】 そ第78話⑦ 公 天正10 158200517
五月十七日、惟任日向守、安土より坂本に至りて帰城仕り、
『信長公記』
【重史030】 そ第78話⑩ 公 天正10 158200526
①五月廿六日、惟任日向守、中国へ出陣のため、
②坂本を打ち立ち、丹波亀山の居城に至り参着。
『信長公記』
【重史031】 そ第78話⑫ そ第78話⑬
①廿七日に、亀山より愛宕山へ仏詣。
②廿八日、西坊にて連歌興行。
③ときは今、あめが下知る五月哉
④五月廿八日、丹波国亀山へ帰城。
『信長公記』
【重史032】 ✓ 天正10 158200528
①惟任(光秀)、・・・備中に下らずして、密かに謀反をた工む、
②年来の逆意、識察する所なり、
③ときは今、あめかしたしる五月かな、
④今、これを思惟すれば、則ち、誠に、謀反の先兆なり、
⑤天正十年六月朔日、夜半より、
「惟任退治記」
【重史033】 公 天正10 158200529
①五月廿九日、信長公、御上洛。
②御小姓衆二、三十人召し列れられ、御上洛。
③直ちに、中国へ御発向なさるべきの間、
④今度は、御伴これなし。
『信長公記』
【重史034】 公 天正10 158200305
三月五日、信長公、隣国の御人数を召し列れられ、御動座。
『信長公記』
【重史035】 公 天正10 158200421
①四月廿一日、濃州岐阜より安土へ御帰陣のところに、
②ろくの渡りにて、御座船飾り、
③捶井(垂井)に御屋形立ておき、
④今洲(今須)に御茶屋立てて、
⑤柏原に御茶屋拵らへ、
⑥佐和山に御茶屋立て、
⑦山崎に御茶屋立ておき、
⑧京都・堺・五畿内、隣国の各(おのおの)、はるばる罷り下り、
⑨御陣御見舞の面々、門前市をなす事に候。
⑩路次中、色々進物、員(かず)を知らず上覧に備へ、
⑪誠に、御威光有りがたき御代なり。
⑫四月廿一日、安土に御帰陣。
『信長公記』
【重史036】 ✓ 天正10 158200424
①中国進発の事、来秋たるべきの処、
②小早川、備前児嶋より敗北せしめ、備中高山に楯籠るの間、
③羽柴藤吉郎、出陣せしめ取巻くの由、注進候、
④重ねて、一左右次第、出勢すべく候、
⑤猶、惟任日向守、申すべく候也、
「細川家文書」
【重史037】
①駿河・遠江両国、家康公へ進らせらる。
②其の御礼として、徳川家康公、幷びに、穴山梅雪、今度、上国侯。
『信長公記』
【重史038】
①五月十四日、
江州の内、ばんばまで、家康公・穴山梅雪、御出でなり。
②同日に、
三位中将信忠卿、御上洛なされ、ばんば、御立ち寄り、
『信長公記』
【重史039】 そ第78話⑤
①五月十五日、
家康公、ばんばを御立ちなされ、安土に至りて御参着。
②御振舞の事、惟任日向守に仰せつけられ、
③十五日より十七日まで、三日の御事なり。
『信長公記』
【重史040】 ✓ 天正10 1582005**
①三河の国主(徳川家康)と、甲斐国の主将たちのために
饗宴を催すことを決め、
②その盛大な招宴の接待役を彼(光秀)に下命した。
③これらの催し事の準備について、
④信長は、ある密室において、明智と語っていた
⑤元来、逆上しやすく、
⑥反対意見を言われることに堪えられない性質であったので、
⑦彼の好みに合わぬ要件で、明智が言葉を返すと、
⑧信長は、立ち上がり、怒りを込め、一度か二度、明智を足蹴にした
『日本史』
⇒ 次へつづく
