#23 〜ピカある探訪記✧*〜 なごや観光ルートバス編(十) 9.広小路栄
前回記事:#22 〜ピカある探訪記✧*〜 なごや観光ルートバス編(九) 8.中部電力 MIRAI TOWER
こんにちは。
ぴかるまこと編集部、「ピカある探訪記」担当のぴかるまことです。
前回の中部電力 MIRAI TOWERではバス停周辺の近代の名古屋の発展の象徴「中部電力 MIRAI TOWER」を紹介いたしました。
今回の出発点は、なごや観光ルートバス「メーグル」の広小路栄停留所です。
広小路栄は名古屋に住む人にとっては、おなじみの場所です。
名古屋駅と栄を結ぶ広小路通は、名古屋の東西を結ぶ大きな交通軸。
その東西の軸と交差するように、栄には南北の大津通や久屋大通が通っています。
「栄」という字が表すように、名古屋の弥栄を象徴するような街です。
今回は、そんな栄の街を歩きながら、現在の繁華街だけではなく、戦後の名古屋がどのように都市をつくっていったのかも見ていきたいと思います。
「メーグル」ルートガイド
名古屋駅🚏 ─ トヨタ産業技術記念館🚏 ─ ノリタケの森西🚏 ─
四間道🚏 ─ 名古屋城🚏 ─ 名古屋城東・市役所🚏 ─
徳川園・徳川美術館・蓬左文庫🚏 ─ 文化のみち二葉館🚏 ─
中部電力 MIRAI TOWER🚏 ─ ✎広小路栄🚏 ─ 広小路伏見🚏 ─
《復路》─ 名古屋城🚏 ─ 四間道🚏 ─ ノリタケの森(4番)🚏 ─ トヨタ産業技術記念館🚏 )─ 名古屋駅🚏
バス停情報
バス停 広小路栄
現在のバス停前には、名古屋駅のある西方向へ向かうバスの停留所が並んでいます。
市バス、名鉄バスを合わせると、名古屋駅に次ぐ本数で運行されている場所でもあります。
オアシス21が現在のようなターミナル機能を持つ前は、このあたりが西方向へのバスの中継地点でした。
現在、バス停の前にある店舗は、無印良品とTESLA。
2018年まで、この場所の西側、プリンセス大通りまでの一帯には丸栄百貨店がありました。
現在も丸栄ギャラリーなどに、その面影を感じることができます。
プリンセス大通り
プリンセス大通りは、セントラルパークのある大津通と並走する南北の通りです。
南へ進めば大須方面へつながります。
昼夜問わず、若者が行き来する歩行者がメインの通りです。
プリンセス大通には、パチンコ店のほか、1990年代まではダイエーやユニーといったスーパーがありました。ナディアパークのある場所から先は呉服町通となっていて、名古屋を代表する100m道路の若宮大通と交わる場所に名古屋総鎮守 若宮八幡社があります。
このあたりは、百貨店や専門店、飲食店などが集まり、名古屋を代表する繁華街のひとつとして発展してきました。
そして、ここから少し南へ進むと、名古屋の都市構造を考えるうえで、とても特徴的な場所に出会います。
それが、若宮大通です。
名古屋の2本の「100m道路」
名古屋の中心部には、全国的にも有名な2本の「100m道路」があります。
南北に走る久屋大通と、東西に走る若宮大通です。
久屋大通は栄の中心を南北に通り、中央部には久屋大通公園(セントラルパーク)があります。
一方の若宮大通は、東西に走り、大須や新栄方面を結んでいます。こちらにも若宮大通公園があります。
現在の名古屋中心部を地図で見ると、道路が格子状に配置されていることがわかります。
第二次世界大戦で名古屋大空襲という大規模な空襲を受け、更地となった名古屋では、戦災復興のための大規模な都市計画が進められました。
名古屋市の資料では、1946年(昭和21年)に復興都市計画が策定され、久屋大通と若宮大通という幅員約100mの道路をはじめ、幅員50mの主要幹線道路などが格子状に配置されたとされています。
つまり、現在の名古屋の「碁盤の目」のような街並みには、戦後復興の都市計画が大きく関係しているのです。
なぜ、そんなに広い道路を造ったのか?
ここが、この100m道路の面白いところです。
名古屋市の「歴史的風致維持向上計画」では、この2本の100m道路を、戦災復興土地区画整理事業のシンボルのひとつと位置付けています。
1946年(昭和21年)の市長の説明では、100mの緑道を東西・南北に一本ずつ設けた目的として、保健衛生や災害防止、そして都市美観が挙げられています。
つまり、100m道路は、自動車を走らせるための道路
として計画されたものではありませんでした。
災害時の防災空間や避難場所、緑地、歩行者空間など、都市の安全や環境、景観を支える役割も期待されていたのです。
現在の久屋大通を見ると、道路の真ん中に大きな公園があります。
「道路」というより、公園の両側を道路が走っているようにも見えます。
それは、100m道路が単なる幅の広い車道ではなく、緑地や歩行者空間などを含めた都市空間として計画されたからです。
さらに、名古屋市の資料には、当時の田淵技監の言葉として、東西・南北2本の100m道路によって、名古屋市を大きく四分割するという考え方が紹介されています。
つまり、都市を大きな防災・交通・緑地の軸で構成する。
戦後の名古屋には、そんな大胆な都市づくりの発想があったのです。
地上だけではありませんでした
ここまで見てくると、戦後の名古屋がかなり大胆な都市計画を行ったことがわかります。
しかし、名古屋の都市づくりは地上だけではありません。
実は、道路の下にも新しい街をつくっていました。
それが、地下鉄です。
名古屋の地下鉄は、なぜ造られた?
名古屋で地下鉄の構想が始まったのは、戦後になってからではありません。
1934年(昭和9年)、名古屋市の人口が100万人を突破したころ、市内の交通は路面電車が中心でした。
しかし、人口増加とともに道路の混雑が問題となり、1936年(昭和11年)には、7路線・約52kmに及ぶ地下鉄路線網の計画が発表されました。
ところが、戦争や財政などの問題によって、計画は実現しませんでした。
戦後になって再び地下鉄建設が進められ、1954年(昭和29年)8月、名古屋~栄町間の工事が始まりました。
そして、
1957年(昭和32年)11月15日。
名古屋駅と栄町駅を結ぶ、名古屋市営地下鉄が開業します。
現在の東山線の始まりです。
地下鉄は「道路の下」を走った
ここで、先ほどの100m道路の話とつながります。
名古屋~栄町間の地下鉄建設では、戦災復興事業で確保された道路予定地、現在の錦通が利用されました。
しかも、開削工法によって工事が行われたため、用地取得にかかる費用や時間を節約できたと、名古屋市交通局の資料にあります。
地上では戦災復興の道路をつくり、その地下には地下鉄を通す。
戦後の名古屋では、地上と地下を一体的に使った都市づくりが進められていたわけです。
地下鉄と一緒に「地下街」も生まれた
そして、ここからが現在の栄につながります。
1957年の地下鉄開業に合わせて、栄地下街も誕生しました。
名古屋市によると、名古屋駅と栄町駅では、
地下2階に地下鉄、その真上の地下1階に歩行者の通路と商店街
という構造がつくられました。
つまり、地下鉄の駅を造っただけではありません。
地下鉄を利用する人が、地上の自動車や雑踏を避けて歩けるように、その上に歩行者空間をつくり、さらにその両側に店を並べたのです。
これが、現在の栄の地下街につながっていきます。
栄の地下は、少しずつ広がっていった
現在の栄の地下街は、最初から巨大な地下都市だったわけではありません。
1957年に地下鉄とともに栄地下街が誕生。
その後、1965年 栄中・南地下街が開業。
同じ年には、地下鉄2号線(現在の名城線)の市役所~栄町間も開通しました。
1969年 サカエチカ、栄東地下街が開業。
1978年 久屋大通公園やテレビ塔の地下に、セントラルパーク地下街が開業しました。
こうして、異なる時代につくられた地下空間が少しずつつながっていきました。
栄の地下を歩いてみる
栄の地下には、まるでデパートの店内のように専門店が並んでいます。
地上では自動車が走り、人が行き交っています。
その一方で、地下には地下鉄が走り、その上を人が歩き、さらにその周囲に商店が並んでいます。
百貨店やオフィスビルにも地下階から出入りできる場所があり、地下街から別の建物へ移動することもできます。
そして、階段やエスカレーターを上がれば、そこには久屋大通公園や広小路通など、まったく違う景色が現れます。
地下を歩いていると、いつの間にか別の場所に出てしまう。
栄の地下が「迷路」のように感じられるのは、こうして異なる年代に生まれた地下空間が、後からつながってきたからなのかもしれません。
名古屋市の資料でも、市内の地下街は建設時期によって大きく分けられ、地下鉄の建設と一体的に整備されたものから、後の時代に整備されたものまで、段階的に形成されてきたことが紹介されています。
足元にも歴史がある?
地下街ではきれいに整えられた壁や床を目にしながら歩きます。
足元を見てもタイル、壁にもタイル。タイルに照明が反射してきらびやかです。
こうして改めて見てみると、地下街にはかなりの量のタイルが使われています。
地下街だけでなく、街を歩いていると、歩道にもタイルが使われている場所があります。
「これって、もしかして焼き物なのかな?どこで作ってるんだろう。」
そう思って調べてみると、歩道などに使われるタイルには、磁器質やせっ器質など、焼成してつくられたものがあります。
さらに調べていくと、ここで名古屋・愛知の陶磁器産業にもつながってきました。
愛知県には、瀬戸や常滑など、古くから焼き物の産地があります。
近代になると、名古屋では日本陶器、現在のノリタケにつながる陶磁器産業が発展し、常滑では伊奈製陶がタイルや衛生陶器の製造を手がけました。
もしかすると、名古屋の街を歩いていると、足元にまで「やきものの街」の歴史がつながっているのかもしれません。
ただ、今回調べた範囲では、栄の地下街や歩道に使われているタイルが、どこでつくられたものなのかまでは分かりませんでした。
それでも、こうして足元に目を向けてみると、普段は気に留めなかったタイルにも、名古屋らしい歴史が隠れているように感じます。
名古屋文化を代表する百貨店と繁華街の街
再び地上に戻りましょう。
栄が大きな繁華街へと発展した背景には、百貨店や専門店、地下街などの商業施設があります。
三越、丸栄、松坂屋などの百貨店が栄を代表する商業施設として発展し、広小路通や大津通周辺にも多くの店舗が集まりました。
昭和の時代には、百貨店の屋上に子ども向けの遊具やミニ遊園地が設けられていることもありました。
親の買い物についてきた子どもたちにとって、屋上はちょっとした遊び場でもあったのです。
三越の屋上にゲームセンターなどがあり、アーケードゲームのほか、駄菓子屋にあるようなボールを運ぶバランスゲームや、電子ルーレットや電子おみくじでメダルや景品の出る10円ゲームというものがありました。
大津通と錦通が交差する場所にあるサンシャインサカエには、ビルの外壁に観覧車があります。
一瞬目を疑う景観だと思います。
この着想に驚かされますが、夜になるとライトアップされて、栄らしさを感じることができます。
栄の街を歩いていると、こうした特徴的な建物や景観にも出会います。
SKE48の劇場が入ることでも知られ、栄を代表するランドマークのひとつです。
時代ごとの流行や商業文化が上に上に積み重なって、独特の景観になっている街だと感じます。
そして、一つ脇の路地には広小路通と錦通に並走するように飲食店が立ち並び、名古屋を代表する繁華街として発展しています。
おわりに
今回は、広小路栄からプリンセス大通り、そして名古屋の100m道路と地下鉄、地下街まで、少し視点を広げて栄の街を見てみました。
次回は、いよいよシリーズ最終回となる広小路伏見へ向かいます。
広小路通を西へ進むと、名古屋駅へ向かう途中に、もう一つの名古屋の顔が見えてきます。
それでは、次のバス停でお会いしましょう。
名古屋観光デジタルマップ
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