灯火は、きっと受け継がれる。―第3回灯火杯・感想note③(最終回)
第3回灯火杯・感想noteシリーズも、いよいよ最終回です。
残る13作品をお届けします。
すべての物語が、それぞれに灯っていました。
まぶしくて、あたたかくて、ときに切なくて。
でも間違いなく、誰かの心に、次の書き手の手に、静かに受け継がれていくような灯りたち。
今回も、読者として心を込めて感想を綴らせていただきました。
作者さまの意図と異なる読みが含まれるかもしれませんが、ご容赦くださいませ。
そして…
このnoteもまた、灯火のひとつとなれますように🕯️
※ネタバレを含みますので、ご注意くださいませ🍀
今、また“書けない”夜を過ごす誰かへ。#うらやんさん
「ああ、今、美しさが宿る“あの夜”を、
僕は静かに過ごしているんだ。」
ラストのこの一文を読み終えた瞬間、
わたしの胸にも、静かに火が灯りました。
それは激しく燃え上がるものではなく、
でも確かに、夜の暗がりに小さくとも温かく揺れる灯火でした。
冒頭の「どこまで頑張ればいいのか。」という問いに、
すでに胸が詰まります。
答えのない努力を、どれほど積み重ねてきたのか。
その経験が、“立ち止まりたくなる夜”にリアルな重さを与えていました。
そして、
「ここまで充分やったよ。」
というもう一人の自分の声。
わかる。わかりすぎて、苦しくなります。
優しいようで、甘えのようで、
でも時にその声にすがるしかなかった夜も、確かにありました。
そんな夜に思い出すのが、
仲間の顔。
“立ち止まってらんねぇ”と思わせてくれる存在。
このくだりには、思わず胸が熱くなりました。
そしてうらやんさんは、今、その仲間を“言葉の書き手たち”に重ねる。
書きたい。けど、書けない。
諦めきれない夜。
これほどまでに多くの人が経験しているはずなのに、
こんなにもあたたかく、優しい言葉で表現された文章に出会うことは稀です。
「立ち止まりたくなる気持ち」は、
「美しさが宿るサイン」かもしれない。
そう言ってくれる人がいることが、どれほど救いになるか。
わたしもまた、何度も“書けない夜”を過ごしてきたからこそ、
このnoteに込められた気づきが、まっすぐ心に届きました。
どんなに止まりたくなっても、
誰かの言葉が心を押してくれる。
うらやんさんのこの文章が、わたしにとってのその灯火になりました。
言葉を残してくれて、ありがとうございます。
“あの夜”を過ごしてきたすべての人に、
このnoteが届きますように。
“つ〜〜”の向こうに、目が合った#みゆさん
はじめて「ちりとてちん」を知ったのは、NHKの番組だったと思う。
でも、今回読んだ「ちりとてちん」は、もっと身近で、もっとリアルで、そして、もっと温かかった。
亜麻布みゆさんの『高座の上で、目が合ったなら。』は、大学生時代の“落語研究会”でのエピソード。
介護施設で披露した落語がウケなかった――という、少しほろ苦い体験から始まるのに、
読み終える頃には、心がじんわりと温まっていた。
なぜだろう。
それは、きっと“笑い”を求めながらも、“つながり”を大切にしようとするまなざしが、
終始、このエッセイを通して伝わってきたからだと思う。
「いちご煮!初めてでございます!」
この一言で笑ってくれた利用者さんとの、目が合ったあの瞬間。
それは、「笑いを取る」以上の、“わかり合えた”という奇跡だった。
その後の「五平餅!」「豆天玉焼き!」「辛子蓮根!」のくだりは、まるでひとつの落語のようで、
読みながら、私は「クスッ」と何度も笑っていた。
でも、この作品でいちばん胸に響いたのは、最後の部分だ。
それでも、私は時々、高座の上で落語をしている感覚になる。
それは、まさに今。
noteで、文章を書いている時だ。
この一文に、灯火杯という場で作品を届ける意義が、すべて詰まっていたように思う。
笑わせたい、届けたい、目を合わせたい――その気持ちは、形を変えても、ずっと灯っている。
みゆさんの文章には、「話す」ように「書く」力がある。
だからこそ、読者は、知らないはずの青森の空気や、しん…とした高座の静けさまで、
まるでそこにいたかのように感じ取れるのだと思う。
読み終えた後、私は、思わず口に出して言いたくなった。
「面白かったです、夢中になって読んでましたよ」
次の「つ〜〜〜〜〜〜〜〜」が、誰かの笑いにつながることを願って。
ぬけがらは、生きてきた証#さよならさん
セミのぬけがらを見るたびに、子どもの頃は「生きてた証みたいだな」と思っていた。
でも、大人になってからは、それが「かつての自分」に見える瞬間がある。
さよならさんの『ぬけがらはあなたのかたち』を読んだ時、私はまさにその感覚に引き戻された。
この作品は、「書くこと」を「脱皮」にたとえながら、過去の記憶、積み重ねてきた言葉たち、
そして、それらが今の自分にどんな意味を持っているのかを、そっとすくい上げていく。
大切なのは、剥がれ落ちたものの方。
つまり、「ぬけがら」だ。
この一文に、ハッとさせられた。
つい私たちは、「成長」とか「アップデート」とか、「変わること」にばかり目を向けてしまう。
でも、変わる前の“自分のかたち”を、忘れないでいたい。
たとえ中身が抜け落ちていたとしても、その輪郭には確かに、過去の自分が宿っているのだから。
クラウドの中に残っていたメモ、書きかけの物語、拙くても愛おしいことばたち。
それらを「記憶の残骸」ではなく、「かけら」として丁寧に拾い上げるさよならさんのまなざしに、
私はじんわりと胸を打たれた。
特に、ここが好きだ。
少し疲れたら、ぬけがらのもとへ帰ってこよう。
かつてのあなたの元へ。
そしてまた、羽を震わせて、飛び立とう。
「書く」ことが、未来へ飛ぶための羽になる。
そして、「ぬけがら」は、その羽が生えていた場所――
つまり、自分が確かに“生きて書いていた”証なのだ。
私も、noteを書こう。
書いた文章がどれだけ読まれても、読まれなくても。
それが、自分のかたちとして、静かに残っていくのなら、それでいい。
今年の夏も、たくさん脱ごう。
ぬけがらを、いっぱい残そう。
そして、羽を震わせて、また、書こう。
「書くこと」が、誰かの未来をひらく時#michoさん
夏の暑さとは違う、息苦しさがある。
michoさんの『就活が決まらなくて、息苦しかった夏』を読んで、私は自分自身の「将来が見えなかった時代」の空気を思い出していた。
真っ黒なスーツ、聞き慣れない企業名、エントリーシートという名の「自己紹介文」。
書けば書くほど、自分が何者なのかわからなくなってくる、あの季節。
でもこのエッセイが描くのは、そんな“迷いの季節”に咲いた、ひとつの光のような出来事だった。
優秀な友人より唯一得意なことは書くこと。
私にできることはなんでもしてあげたい。そんな一心でこんな提案をした。
「書くこと」で、誰かを助けたい。
その気持ちが、言葉の向こうに真っ直ぐ伝わってくる。
ただ添削をしたわけじゃない。
“内容はそのままに、書き方をガラッと変えた”という一文に、michoさんの真剣さと、相手を想う優しさが詰まっていた。
どうかどうか、いいところが伝わりますように。
この祈りのような一文が、とても好きだ。
そして数週間後、友人が笑顔の涙で内定を報告してくれたあの瞬間。
書くことがエールになることに気がついた。
この「気づき」が、michoさんの文章の根っこになったという話に、私は心を打たれた。
noteは確かに広くて深くて、ときに泳ぐのがしんどくなる。
でも、そんな時にmichoさんが言うこの言葉に、私はとても救われた。
noteはすごい人が多くて時々溺れそうになるけど、その根っこを思い出すと息が吸える、泳げる。
なんて優しくて、力強い言葉だろう。
michoさんは今、「誰かへのエール」を毎日のように綴っている。
それは、誰かの履歴書ではなく、人生のそばに置いておきたい文章。
きっと、これからもたくさんの人の背中を押していくのだと思う。
このエッセイそのものが、すでにひとつのエールだ。
灯火杯にぴったりな、静かに力強い光を、ありがとうございます💖
いつかは、さらば。#砂糖の塊さん
「今を生きよう」
その言葉は、あまりに多くの場面で語られすぎて、時に空虚にすら聞こえてしまう。
でも、砂糖の塊さんのこのエッセイを読んで、私は「今を生きる」ということが、こんなにも痛くて、優しくて、静かで、強い行為なんだと、もう一度教えてもらったような気がした。
それでも、今を生きている私たちには、さらばすることを想定することはできないんだと思ってる。
この一文に、深くうなずいてしまった。
“いつかは終わる”とわかっているはずなのに、その「いつか」を実感することは難しい。
それでも私たちは、「今」の中に自分の存在を探し、確認しながら生きている。
蝉の声に耳を澄ませながら、「ここにいるよ」と叫ぶように文章を綴る砂糖の塊さんのまなざしは、森山直太朗さんの『いつかはさらばさ』と共鳴しながら、確かな言葉を紡いでいた。
今、此処に、生きていて、そこに熱を加えれる。
だからこそ、いつかは終わる今を。あなたらしく生きてみませんか。
一文一文が、まるで詩のようだった。
哲学のようでいて、日記のようでもあり、誰かの励ましの手紙のようでもあった。
「今を生きること」も、「書くこと」も、本当はとても似ている。
どちらも、"その瞬間"にしか宿らない温度があって、形に残しておかないとすぐに消えてしまうものだ。
だからこそ、このエッセイに綴られた「今たち」の記録が、読む私たちにとっての“ぬくもり”になる。
僕も、あなたもいつかはさらば。
この静かな、でも確かな別れの言葉が、
なぜこんなにも前向きで、心を照らすのか――
それはきっと、「今を生きよう」と呼びかける声が、誰かのためではなく、「あなた自身」に向けられているからだと思う。
灯火のように、そっと寄り添う文章を、ありがとうございました。
“さらば”のその日まで、言葉を抱えて、今を大切に過ごしていきたいと思います。
溶けて、笑って、生き返る#はれるやさん
暑すぎてバターが溶けた話は、昔話で聞いたことがあるけれど、
まさか、自分が地面に溶けて首だけになり、さらには天気予報士の号令で空から帰ってくるとは――
はれるやさんのショートショート『なくなった私、帰って来た』は、
“真夏の地面にバターのように溶ける私”という突拍子もないアイディアから始まり、
どんどん想像のスコップで深掘りされていく、じつにユニークな一篇でした。
「地球と一体化した気分」
「干物になっておいしく食べられた方がよかった」
「ボーリングのピンになるバイトをしていた経験が生きた」
このシュールなユーモアのオンパレードに、笑いながらも
「あぁ、夏って、ここまでくるともう“非現実”なんだな」と、ある種のリアリティも感じました。
不思議なのは、こんなにふざけているのに(褒めてます!)、
どこか「詩」のような手触りがあること。
「私はいなくなった。次に雨が降ったら、きっと帰ってくる。」
「帰って来れればいいな。」
このあたりの一文には、ふいに切なさや儚さすら漂っていて、
笑いながら、気づいたらちょっと胸がきゅっとなっていました。
そして最後の、
「なお、賢明な読者諸君はすでにお気づきだと思うが、これはフィクションである。」
この“メタ落ち”で、すべてのナンセンスが“物語”として昇華される爽快さ。
「これでいいのだ」と言い切る語り手に、思わず拍手を送りたくなりました。
フィクションだからこそ描ける“暑すぎる現実”と、
現実が追いついてしまいそうな“フィクションの熱”。
その境界線が、いい具合にトロけて混ざっていました。
はれるやさん、こんがり焼けた想像力と、こんがり焦げないユーモアを、ありがとうございます!
今年の夏は、これを読んで乗り切れそうです。
「書け」のひと言が、わたしを呼び戻す#極夜さん
その言葉は、あまりにシンプルで、あまりに強かった。
「書け」
たった二文字のメッセージが、極夜さんを深夜の迷いから、言葉の世界へ引き戻していく。
その瞬間の描写に、私は息を呑んだ。
これは、書く人にとっての“信仰告白”のようなエッセイだったと思う。
迷い、もがき、それでも「書く」ことを手放さない、その決意の記録。
誰かのエールに頼ってしまった自分を「情けない」と言いながら、
その背中を支えてくれる「兄貴」との関係には、熱くてやさしい信頼が宿っている。
バーモントカレーの甘口くらい?
夏祭りの綿菓子ほど甘ければ、兄貴依存症になってしまう。
こんな比喩で微笑ませてくれる文章の奥に、極夜さんの“書くこと”への本気がにじんでいる。
書くことは、自分の弱さに向き合うことでもある。
だからこそ、そこに「誰かの声」が重なると、こんなにも深く響くのだろう。
「何を語るか」ではなくて「誰が語るか」が大切。
この言葉は、極夜さんがもらったギフトであると同時に、
今、この記事を読んでいる私たちにもそっと手渡される「バトン」だ。
わたしの言葉を待っている人が、どこかにいるかもしれない。
それが一人でもいるなら、書いてみよう――
そう思わせてくれる力が、この文章にはあった。
読む人から、書く人へ。書いて繋がる人へ。
この変化の軌跡が、灯火杯という“書く人の祭典”で披露されたことに、静かな感動を覚える。
書けなかった極夜さんが書いた。
そのこと自体が、すでに小さな奇跡であり、誰かにとっての道標になる。
書いて、読まれること。
それは小さな頃のわたしの夢だったと、まさに今夢が叶っているのだと、これ書いている「今」気づいた。
この「今」の喜びが、確かに読み手である私の胸にも届きました。
だから私もまた、言いたい。
書いてくれて、ありがとございます💖
乾いた心に、言葉の雨が降る#そらさん
「書けなくなること」
それは、書く人なら誰もが一度は出会う通過点であり、壁であり、静かな闘いだ。
そらさんの『書く人へ、私からのエール』は、まさにその“書けなくなった”時間の中に身を置いたひとりの書き手が、
どのようにして再び言葉の世界に帰ってきたか――その軌跡を丁寧に描いたエッセイだった。
それは「心が乾燥していた」ことだ。
この一文に、私はハッとさせられた。
書けない理由を「才能の枯渇」や「時間の不足」と決めつけてしまいがちな中で、
“心の乾き”という表現は、とてもやさしくて的確だった。
読むだけではもったいない!
こんな素敵な作品、もっとたくさんの人に読んでほしい!
そうしてレビューを書きはじめ、
「気がつくと書いていた」自分に驚きながら、
やがて「長編恋愛小説を書き上げる」までに至る――
これはもう、ドラマチックで静かな“復活劇”だった。
だけど、それは特別な才能や劇的な奇跡が起こったからじゃない。
たったひとつの“読む”という行為、
誰かの書いた「物語」に心を動かされたという経験。
それが、少しずつ、そらさんを“書く人”に戻していった。
私の「書くこと」が起き上がることができました。
あなたの作品に出会えたことに感謝しています。
この言葉は、書くことに悩んでいるすべての人への贈りものだと思う。
「読んでくれる人がいるから書ける」
「書いている人がいるからまた読みたくなる」
noteは、そんな循環の中にある優しい世界なのだと、そらさんの文章が教えてくれる。
この作品自体が、まさに“乾いた心に注がれた水”だった。
そらさん、ありがとう。
そして、次に書けなくなったとき、私はきっとこの文章を読み返すと思う。
それでも、書き続けてきた人へ#みくさん
やわらかく励ましてくれるエールもあれば、
現場から投げ込まれた、生々しくて力強いエールもある。
みくまゆたんさんの『書く仕事で生き残るために』は、
後者の、それもとびきり真実味のある言葉で綴られた一本だった。
灯火杯という場で、あえて“攻めた内容”を持ってくる姿勢に、
最初から「これは、ただ事じゃないぞ」と思って読み進めた。
そして読んだあと、私は静かに背筋を伸ばした。
「誰でもできることを、丁寧に、継続してやること」
「人への気遣いを忘れないこと」
「名前を覚えてもらう努力」
これらは、どれも「クリエイターの美学」ではなく、
フリーランスが“生き残るため”の「術(すべ)」であり、
そこにはロマンではなくリアルがあった。
そして、リアルの中にある“温度”に私は救われた。
イベントレポという体裁をとりながら、
みくさんは実はずっと、過去の自分、そして今悩んでいる誰かに向けて、
「仕事で書いていくとは、どういうことなのか」を言葉で差し出してくれていたと思う。
「仕事は、誰かとやり取りをしなければならない」
「だから、人に好かれることも大切」
このあたりの描写に、私は何度もうなずいた。
「書くこと」と「書くことで生きていくこと」は、
似て非なる世界なのだということ。
それでも、みくさんは両方をあきらめずに、
何度も筆を折って、何度も書き続けてきた。
だから、やめると言った人には「まってます」といえるし、
戻ってきてくれた人には「おかえり」と言える。
この言葉が沁みるのは、みくさん自身が“何度でも帰ってきた人”だからだ。
口数少ない人の「大丈夫」ほど信じられるように、
何度も沈んで、それでも書いてきた人の「おかえり」は、強い。
読みながら思った。
この作品そのものが、“推し”の江郷さんのように、
飄々としていて、ズシリと重たい。
でも、最後にはそっと笑顔で背中を押してくれる。
まさに「信頼のエール」だった。
灯火杯、さまざまな光の形が集まっているけれど、
みくさんの文章は、現場の熱でぎらりと輝く“マグマのような灯火”だった。
ありがとうございます。
この言葉の炎を、しっかり受け取りました。
ミーンミーンの、その先へ#すのうさん
ミーンミーン以外にセミの声を、表現する音はないだろうか。
この一文から始まる“音探しの旅”に、私はすっかり魅了されてしまった。
すのうさんの『セミの声を聞きながら50色で描く夏』は、
50音という限られた音のなかで、自分だけの「ミーンミーン」を探しつづける、
一種のことばの冒険譚だった。
書くことはいつだって、孤独で静かで、自分だけに書けるものって何だろう?
…なんて答えのない問いにぶつかって苦しい。
そんな「書き手あるある」の苦しさに、
ユーモアとやさしさをまぶしてくれるのが、すのうさんの文章だ。
アイスは簡単に溶けるのに、脂肪は夏の暑さでは溶けないらしい。
この小さな“笑いのオノマトペ”があるからこそ、
深く沈みがちな「ことば探し」も、軽やかに読み進められる。
エッセイのテンポも、音も、まるでリズムを持って生きているかのようだった。
すのうさんは、書くことで問いかけている。
「あなたのミーンミーンは、どんな音?」と。
たぶん、答えはなくていいのだと思う。
ただ、その問いを持っていることがすでに、すのうさんの“音”であり、“ことば”であり、“書く理由”なのだと。
いつかミーンミーンを超えるミーンミーンを表現できる日がきたら、
「書き続けてよかった」と思える気がする。
この言葉に、私は深くうなずいた。
ことばで何かを伝えることは、結局、「いちばん近い音」を探し続ける作業だ。
たった50音で。
それでも、何万通りも組み合わせながら、
自分だけのミーンミーンを、誰かの心に届けようとする。
この文章そのものが、すのうさんの“音”になって、
私の心に、ふっと染みこんできた。
ありがとうございます。
セミの声が、ちょっと好きになれそうな夏になりました。
それは、きっと、あなたの物語になる#うまみさん
「私もifしてる」
それは、あなたの書くの種です。
この一文を読んだ瞬間、私は心の奥で、カチリと何かのスイッチが入るのを感じた。
蒼玉うまみさんの『書きたい気持ちはまるで』は、
「書けないと思っていた人」が、「書いてしまった人」になったときの、
小さくて、大きな奇跡の記録だ。
文章は、驚くほど簡潔で、澄んでいて、まるで朝の空気のようにすっと胸に入ってくる。
その透明な言葉たちの中に、誰もが一度は抱いたことのある「もしも」の世界――
自分だけの「if」が、そっとすくい上げられていた。
書こうとすらしてなかったし、
書けるとも思ってなかった。
「わたしなんかに」と、
自分の物語を諦めてきた多くの人にとって、
この言葉はまるで、自分のことのように感じられるだろう。
でも、そのあとに続くのが、これだ。
その、if、を
ただ、ただ、脳から文字に「書き落とす」だけで、ストーリーが出来上がっていた。
そう、書くことって、そんなに難しくないのかもしれない。
誰もが持っている「もしも」を、
ほんの少しの勇気で文字に落とせば、それが“物語”になる。
うまみさんの呼びかけは、とてもやさしい。
noteという鉢植えに植えたら、
あなただけの花が咲きます。
ひまわりでも、朝顔でも。
ときにはタンポポでも、野バラでもいい。
その人だけの花が、そこに咲く。
書けないと思っている人にとって、
このエッセイはまさに「一輪目の光」になる。
灯火杯という企画のなかで、この文章に出会えたことが嬉しかった。
書きたいけど、書けない。
そんな風に悩んでいる誰かに、
この言葉を手渡したい。
一緒に、咲かせてみませんか?
書くこと、で。
咲く場所は、noteでも、ノートでも、どこだっていい。
まずは、自分の“if”に耳を澄ませてみたくなる。
うまみさん、あたたかなエールをありがとうございます💖
この夜が、少しでも誰かの“エンサラータ”になりますように#Temppさん
飲み会の帰りに終電を逃して、ふと腰を下ろした駅前のベンチ。
疲れたまま夜空を見上げたその一瞬が、思いがけず、心の深いところを揺らす出来事へと変わっていく。Temppさんの短編小説『エンサラータと星空』は、そんな“すれ違い”と“気づき”が静かに交差する一夜の物語です。
本作を読んでまず思ったのは、なんてリアルな「息切れ」なんだろう、ということ。
雑誌の掲載文字数に収まるよう無難な言葉を並べること。美味しいと感じたはずの料理を、営業や上司の顔色を伺いながら“適切な評価”に加工していくこと。
「食べることが好きだったから選んだ仕事なのに」という主人公のモノローグは、ものを書く仕事に携わる者として、痛いほど胸に刺さりました。
でも、そんな彼女が星を見上げるのです。
静かに、しかし確実に。
それはまるで、自分自身をもう一度見つめ直すための“再起動”のような時間でした。
何気ないベンチの隣人との会話が、実は自分の取材先の店主だったという偶然も、ベタなようでいて不思議とご都合主義には感じません。
むしろ、街の明かりがふと暗くなり、星が見えるようになるあの瞬間の静けさに、物語全体がすっと吸い込まれていくような心地よさがありました。
“美味しかった料理”が、記事ではボツになった「エンサラダ・ミクスタ」であるという展開も、とても印象的です。
派手さのないその料理こそが、誰かの心に残る「本当の答え」だったと気づいたとき、物語に一筋の光が差し込んだようでした。
星はただ瞬くだけで、何も語らないけれど、それを見上げた人の心をすっと晴らしてくれる。
読後、私は「自分の中のエンサラータ」を探してみたくなりました。
誰かにとっては記事にする価値もないような小さな出来事でも、私にとっては確かな温度を持った“好き”かもしれない。
その“好き”を、できれば、丁寧にすくい取って言葉にしていきたいと思いました。
Temppさんのこの作品も、きっと、読んだ誰かにとっての「静かな願いの一つ」になる。
そんな風に、信じたくなる読後感でした。
素敵な夜を、ありがとうございます💖
斜めうしろに、“やさしさ”は立っていた#しいもさん
「期待」は、いつから“後ろ姿”になったんだろう。
髙塚しいもさんの『期待は私の、ななめうしろ』を読みながら、私は何度も自分の過去と現在を行き来しました。
がむしゃらに追いかけていたあの頃。
「期待」がちゃんと“光”だった時代。
でもいつしか、それは正面ではなく、背中のどこかで、じっとこちらを見ている存在に変わっていた。
ああ、これは私の話でもある、と何度も頷いていました。
しいもさんの文章には、不思議な温度があります。
真夏の陽射しのように鋭くて、でも読み進めるうちに、ふと日陰に腰を下ろしたときの“木漏れ日”のような優しさが、そっと背中に触れてくるのです。
「ほくそ笑む期待」
この表現には、正直ドキッとしました。
自分がかつて抱いた“前向きなはずの感情”が、現在の自分を追い詰める圧になる。
その怖さを、こんなにもリアルに、しかもユーモアを交えて書けるって、すごいことだと思います。
でも、この作品がただ「苦しさ」や「不安」を綴っただけのものではないと感じたのは、親友とのエピソードがあったからです。
「覚えてるよ」
「忘れてなんか、あげないんだからね」
その言葉に、涙がにじみました。
作品の中で、「期待」が一歩引いた“斜めうしろ”にいる一方で、親友の存在は、どこまでも“並走者”でした。
選ばれるか、選ばれないか。
その天秤の上で揺れながらも、「書いたものが、誰かひとりに届く」という事実が、どれだけ人を救うのか。
この文章が、まさにそれを体現していたと思います。
そして、最後の一文に胸をつかまれました。
「未来の扉をそっと開いてくれる『希望』が、にっこり笑っているはずだから。
あわよくばそれが、たいそうなイケメンであることを、私はただ願っている。」
笑ってしまいました。
でも、そこにこそ“しいも節”の真骨頂がある気がします。
泣いて、笑って、また一歩、歩いていく。
期待と並走していく勇気を、笑いごとにして前へ進む姿勢に、読者として、ものすごく励まされました。
私も、自分の斜めうしろにいる“期待”と、そろそろ仲直りできる気がしています。
🕯️終章|灯火は、きっと受け継がれる。
全34作品。
読み終えて思うのは、ひとつひとつの作品が「生きていた」ということ。
画面の向こうに“書き手”という存在がいて、その人の時間や想いが、確かにそこにあったこと。
それを受け取る読者として、この灯火杯という場所にいられたことが、何よりの幸せでした。
たとえ届かない夜があったとしても、
誰かの言葉がそっと寄り添ってくれるように、
いつか自分の書いた言葉も、誰かの夜を照らす灯りになれたら。
そんな希望を、確かに感じられる時間でした。
主催の花邑灯火さん、
参加されたすべての皆さま、
そして今このnoteを読んでくださっているあなたへ。
心からのありがとうを込めて。
灯火は、きっと、あなたの中にも。
喜木 拝
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本を買う代金に充てさせて頂きますね〜
感謝の気持ちいっぱいです!!