256.【小説】ぐるり、左 ― 遠回りのあとで ―①
あらすじ
東京駅での待ち合わせに向かうはずだった彼女は、なぜか山手線の外回りに乗ってしまう。
品川から渋谷、新宿、池袋──一周する街の風景が、人生の記憶を静かに呼び起こしていく。
大学時代の夜、就職の不安、恋の始まりと躊躇。回る電車のなかで、彼女は“このまま進むべきか”を問い直す
──「ぐるり、左に」逸れた一時間だけの旅が、心の選択を揺さぶっていく。
静かな共感と余韻を残す、現代都市を舞台にした感情小説。
プロローグ:左に乗った日
東京駅に向かうなら、内回りだった。
そんなこと、わかっていた。
でも私の足は、なぜか左側のホームに向かっていた。
階段を降りた先。
黄緑のラインが、左のホームをなぞっている。
人の波の合間で、その色だけがやけに浮いて見えた。
発車メロディが鳴ったとき、扉の前に立っていたのは偶然だったと思いたい。けれど、鞄を握り直したあの動作には、たしかな意志があった気もする。
ハンドルの革が、しっとりと指に吸いつく。冷たい金具が、無言の肯定をしたような気がした。
待ち合わせには、まだ時間があった。
彼はいつも早く着く。
私もそうだった。
お互いに「ごめん、待った?」と訊き合って、それを笑うことに慣れていた。
今日もそうするつもりだった。
でも、それを繰り返した先に、何があるのか
──その答えを、私はまだ持っていなかった。
電車が走り出す。
まるで、考える隙を与えずに、何かから引き離していくみたいに。
窓の外で、柱が規則的に流れていく。
街は少しずつ、見慣れた風景を剥がしながら遠ざかる。
第1章:恵比寿 ― ほろ酔いのあとで
恵比寿で降りたのは、たしか大学三年の冬だった。
先輩に連れられて行った店は、ガーデンプレイスの奥にある小さなバーで、暗い木のカウンターと、静かなジャズが流れていた。グラスを置く音だけが、ジャズの隙間に溶けていた。
当時の私は、「大人っぽい店」に弱かった。
スカイウォークを歩くあの長い直線で、会話が弾まなかったことも、エスカレーターの音でなんとなく誤魔化された。
前を歩く彼の背中に、言葉が届くほどの近さなのに、沈黙だけがずっとついてきた。
店を出たあと、彼がガーデンプレイスの方向に歩き出した。
「バカラのシャンデリア、見たことある?」と訊かれて、首を振った。
12月のガラス越しの広場に、あのシャンデリアは静かに浮かんでいた。
赤い絨毯の中央、天井の高いアーチに囲まれて、無数のクリスタルが光を集めていた。
風が吹いても、光だけは動かなかった。きらめく粒が、宙に凍ったまま吊られていた。
「いくらくらいすると思う?」
彼はそんなことを言っていたと思う。でも私の目には、ガラスの奥に映る自分の横顔のほうが気になっていた。
笑っていた。知らない顔で。
あの人とは、結局つきあわなかった。
連絡もしなくなって、共通の友人たちとも疎遠になった。
でもあの夜の恵比寿だけは、いまだに色褪せないまま、記憶のなかで点灯し続けている。
冬の恵比寿は寒かった。
手袋をしていたけれど、指先は少し冷えていた。
あの夜の冷たさは、不思議と嫌じゃなかった。
ほんの少し、自分の心が輪郭を持てた気がしていた。
それでも、その夜は手を繋がなくてよかったと思っている。
たぶん、それでちょうどよかったのだと思う。
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