転シバ 第2話:アンちゃん襲来
わたくしがこの家に“降臨”した日、雨が静かに降っておりましたの。
玄関で迎えたのは、スパイを気取る男と、紅茶に陶酔した女、そして疲れた瞳の少女。
……えぇ、想像以上に“やばい家”でございましたわ。
大阪の端っこ、金剛山のふもとにあるその一軒家
津村家は、いつも通りの平和な夕方を迎えていた。
元スパイの父・忍(しのぶ)は、テレビを真顔で睨みつけ、中学二年の娘・あいこは、学校の課題に追われてため息をついている。
そして母・静花は、なぜかクマのぬいぐるみにもマスクを装着させながら「感染予防」と微笑んでいた。
なんでもない日常。
だけどこの日は、違った。
「ただいま。ちょっと、見つけちゃって…連れてきちゃったの」
玄関の扉をそっと開けて、静花が言った。
傘の下にいたのは、一匹の柴犬だった。
毛は濡れていたが、どこか高貴な気配をまとい、まるで何かを見透かすような目をしていた。

その犬は、リビングの中心にゆっくりと足を進めると、ラグの中央に伏せた。
「えっ、犬……? うち、飼ってないよね……?」
あいこが動揺を隠せずに問いかけると、父・忍が立ち上がる。
「この犬──ただの犬じゃない」
真顔で言い切る父に、家族の空気が一変する。
まさか、この日を境に、津村家の日常が“侵略”されることになるとは、誰もまだ知らない。
それからの数日間、家の空気は明らかに変わった。
「なあ、今の見たか? あの犬、漢字読んでたぞ……」

新聞の上で伏せながら、まるで記事を睨みつけるようにする柴犬。
目線の先には、「犬用おせち予約開始」の文字。
「いや、偶然じゃない? ……っていうか、読めるわけないじゃん」
「“この漢字は犬の未来を暗示している”って目をしてたぞ……!」
「なにそれ!?」
父・忍の妄想は止まらない。
もと国家スパイだったという経歴を持つこの男は、日常すら任務に変えてしまうのだった。

そしてもう一人、我が道を行くのが母・静花。
「アンちゃん、ドライヤー嫌いなの? うふふ、まるで昔のフランス王妃みたいね」
「どんな例え!? てかいつから“アンちゃん”って呼んでるの!?」
気づけば、その柴犬には“アンちゃん”という名前がついていた。
特に相談された記憶もない。
あいこはただただ混乱する。
アンちゃんは、静かに家の中心に座り、誰よりも堂々としていた。
父は警戒し、母はうっとりし、娘は振り回される。
家の主導権が、完全に犬に奪われている。
「ねえ、どういうことなの……この家、完全に犬に支配されてるんだけど……!」
ある夜のこと。

食卓に集まった三人と一匹。
「この犬、やっぱり普通じゃない。何かを隠している。いや──何かを思い出しかけているのかもしれない」
そう語る忍の目は真剣そのもの。
「スパイだったとか言い出す気……?」
「いや、違う。もっと……高貴な、なにか……」
そのとき、アンちゃんが静かに立ち上がった。

その動きは優雅で、まるで舞踏会のはじまりのようだった。
そしてラグの中央で、ひとこと、つぶやいた。
「──わたくしの名は、アン・フランソワ・ド・ジャルジェ。かつて華やかなる宮廷に生き……そして、ここに転生した高貴なる柴犬ですわ」
……と、言っているような目をした。
「やっぱりスパイじゃなくて貴族!? ってか、転生してるの!?」
あいこは頭を抱えた。
──でもそのとき、確かに彼女の中で、何かが変わりはじめていた。
アンちゃんはただの犬じゃない。
でも、あいこたちもまた、ただの家族じゃない。
変わった家族と、変わった柴犬。
この出会いが、何をもたらすのか。
それを知るのは、もう少し先のことだった。
To Be Continued…
