中国メシ 米粉(ビーフン)
[日] 米粉
[中] 米粉
[台(POJ)] 米粉
概要
ここで言う米粉は米の麺、ライスヌードル。米の粉である米粉ではない。
米粉は米を浸水、粉砕、脱水して「米漿(米浆)」をつくり、蒸して塊にしたものを押し出して麺状にしたもの、または薄く広げてシート状に蒸したものを麺状にカットしたもの。
太いもの、細いもの、幅広のもの、シート状のもの等がある。
汁、炒め、和え、鍋のシメにする等いろいろな食べ方がある。
日本語のビーフンと言う呼び名は台湾語のbí-húnから。
中国南方全域や東南アジアで広く食べられていてる。中国国内の呼び方や種類は米粉、米線、米麺、粿条、河粉などがある。中国国外ではベトナムのフォーやブン、シンガポールやマレーシアのクイティオ、タイのセンなどがある。
原料が米と水だけだと切れやすいので、つなぎに澱粉を入れるものと、入れないものがある。つなぎが多いとよりツルツルになり喉越しが良い。
雲南、貴州、広西には微発酵の米粉、米線もある。
米粉の言い伝えと歴史
米粉の歴史ははっきりしておらず、起源は諸説ある。
始皇帝の時代、秦が桂林(広西チワン族自治区)を攻めた時、北方出身の兵士が米を食べ付けず、故郷の料理「餄餎(饸饹)」に似せた麺状のものを米で作ったのが桂林米粉と言われている。
しかし、この時代の中華世界ではまだ麺食は広まっていない。小麦自体は伝来していたが主要作物は粟、黍、大豆などだった。
製粉技術が未熟なこの頃、製粉に労力がかかる小麦粉を用いた食品は上流階級の食べものだったので、一般兵士が食べていたとは考えづらい。米粉にしても製粉は難しい。
秦の時代の主食だった粟や米は煮れば柔らかくなるので、わざわざ粉にする必要もない。それに北方の兵士を動員するより隣接する米食文化の長沙郡の兵士を動員した方が早い。麺状の食べ物が最初に文献に現れるのが後漢の時代。そして、桂林米粉が文献に現れるのは元の時代1341年(『霊川県地名志』霊田郷の米粉店)。
他にも歴史上の人物の誰々が作ったという言い伝えが幾つかあるが、史料は見つかっておらず根拠に乏しい。
さて、秦から時代は下り、316年に少数民族が中原に侵入し西晋が滅亡した時、多くの上流階級が長江を渡り、江南に逃れ南方各地に散った。今の浙江省、福建省、江西省あたりに逃れた高い製粉技術を持った人たちが故郷の料理を懐かしんで小麦粉の代わりに米の粉で麺を作ったというのが一番信憑性がある。
北魏末に書かれた『斉民要術』には「粉餅法」が記載されており、米粉の原型は6世紀中頃には山東に伝わっていた。米を粉にした「英粉」に水を入れて捏ねて「水引(麺の一種)」型にして茹でるとある。
また、南北朝かそれより前に書かれた『食次』には「粲」についての記載があったが原書は散逸した。その一部は『斉民要術』『膳夫録』などに引用されて残っている。『斉民要術』によれば、「粲」は餅米の粉を水と蜂蜜と混ぜ、穴を開けた竹柄杓に流し、湯に落として茹るとあり、既に現在の作り方とほぼ同じ方法となっている。
さて、米粉の発祥は不明だが、南方各地に広まっていき米線、粿条、河粉などが生まれた。東南アジア各地にも伝わり、例えば、ベトナムのフォーやブン、マレーシアのラクサとなった。粿条は東南アジア各地に広まり、潮州語のクィテャオまたはそれに似た発音で呼ばれている。東南アジアには他にも色々な米粉がある。
台湾には清末に新竹に移住した客家系の人たちが米粉の生産を始めて広まり、日本統治時代に工業化された。日本語のビーフンは、台湾語のbí-húnから来ている。
近年、米粉食が一般的ではない新疆に移り住んだ貴州省出身者が新疆炒米粉を開発するなど、新しい料理も生まれ広まっている。
日本でも中国各地の米粉を提供する店が増えている。
各地のビーフン例




