#585[短編]琥珀色の間[20]──銀色の桜
美術館を出た瞬間、風がふたりをどこかへ導くように吹き抜けた。大翔と爽子は言葉を胸にしまったまま、夜の灯りに立ち止まった。連載第24回。
1話、2話、番外編・大翔、3話 -I、3話 -II、3話 -III、4話、5話-I、5話-II、5話-III、5話-IV、5話-V、6話、7話、番外編・爽子、8話、9話、10話、11話、12話、13話、前半まとめ
※ 連載ですが、どのお話からも読めます。
冬の夜に中華を食べた日から一ヶ月。
美術館を出ると、冷えた風が大翔の横を吹き抜けていった。その瞬間、爽子は月を見上げた。小さな銀のイヤリングが、ひとつだけ月明かりを跳ね返して、夜風にこぼれた。
大翔はその光を追うように、そっと目線を上げた。
螺鈿細工と絵画──古都の余韻がまだ身体のどこかに残っていて、ふたりの歩幅が自然と揃う。
大翔は何かを言葉にしようとして、何かが壊れそうで、何も言えずにいた。爽子はその沈黙の “間” を、胸の中でそっとほどいていた。
小径を抜けて開けたところに、桜の枝が見え始めた。
「わぁ……」
爽子は吐息のように声が漏れ、思わず足を止めた。
大翔も横で立ち止まる気配を感じた。
寺院の裏手の広場は、時間がふっと抜け落ちたように静かだった。ベンチと街灯に照らされた桜が、静かに枝を広げて、花びらの淡い影がゆっくりと春の風に揺られている。
二人は、心の奥がふっと波立つのを感じていた。
大翔はそっと歩幅を合わせた。
爽子は目の前の光景と、隣にいる大翔の気配がひとつに重なって、あふれそうになる何かを堰き止めるように目を閉じた──。
夜の桜は、昼よりも静かで、
月の光の当たるところだけが淡く浮かんでいた。
オレンジの街灯が月明かりに重なる。
薄い花びらを掬い上げる。光に透けるガラス片のように、儚く、淡く。風が通るたびに、光がさやさやとわずかに揺れて、桜が呼吸をしているようだった。爽子は鼻の奥がツンとして、いっそ泣き叫びたいとさえ思った。
その瞬間、大翔がふっと息をつく。
「……きれいだな」
大翔は爽子の半歩先に出て、小さく振り返った。
大翔の声に言葉を重ねると、花びらが散ってしまうような──柔らかな声に目線が重なり、爽子は小さく頷いた。息が少しだけ深くなった。
「こんな場所、あったんですね…」
爽子は自分の声がわずかに震えたことに戸惑った。
大翔は気づいたのか、気づかないのか──美術館で感じたものと目の前にある桜が、どこかでつながった気がして、ポケットに手を入れて、指を弄んだ。
爽子がふと大翔の横顔を盗み見ると、光に照らされた輪郭が、さっきよりも少しだけ近く感じられた。
──言葉にできない。
──でもたしかに、何かが動いている。
爽子は桜の深い海に潜って、心の底に落ちている言葉のカケラを拾おうと、また深く息を吸い込んだ。
二人は歩いては話し、止まっては写真を撮って、また歩き出す。何枚も撮るうちに、少しずつ肩が近づく。
ふいに、大翔が口を開いた。
「……なんか。
今日は時間の流れがゆっくりでいいな。
こういうの、悪くないなって……思って」
小さな声が、夜の光に溶ける。
遠くの大通りのざわめきが、かすかに風に運ばれた。
その明るさが近づくたびに、ふたりの歩みは自然と小さくなる。
爽子が横を見ると、大翔は前を向いたまま、
ほんの少しだけ口元が緩んでいる。
「あ、別に、特別な意味じゃないですけど。
……でも、なんか、いいですよね。こういうの。」
大翔は言葉を探すように、少しだけ息を整えて、目を合わせた。
夜風が花を揺らす。ふたりはまた見に来たいと思った。
もう一度、ここに来れないかと思っていた。
同じ場所で、同じ風をもう一度感じたい──ふたりとも、同じことを思っていた。
街が静まり、遠くの列車の音だけが、ふたりの沈黙にそっと寄り添っていた。
執筆: 2026/3/13 かきおろし <了, 約 1,400 字>
♪ BGM 🌙

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