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#585[短編]琥珀色の間[20]──銀色の桜

美術館を出た瞬間、風がふたりをどこかへ導くように吹き抜けた。大翔と爽子は言葉を胸にしまったまま、夜の灯りに立ち止まった。連載第24回。


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※ 連載ですが、どのお話からも読めます。


冬の夜に中華を食べた日から一ヶ月。
美術館を出ると、冷えた風が大翔の横を吹き抜けていった。その瞬間、爽子は月を見上げた。小さな銀のイヤリングが、ひとつだけ月明かりを跳ね返して、夜風にこぼれた。
大翔はその光を追うように、そっと目線を上げた。

螺鈿らでん細工と絵画──古都の余韻がまだ身体のどこかに残っていて、ふたりの歩幅が自然と揃う。

大翔は何かを言葉にしようとして、何かが壊れそうで、何も言えずにいた。爽子はその沈黙の “間” を、胸の中でそっとほどいていた。

小径を抜けて開けたところに、桜の枝が見え始めた。

「わぁ……」
爽子は吐息のように声が漏れ、思わず足を止めた。
大翔も横で立ち止まる気配を感じた。

寺院の裏手の広場は、時間がふっと抜け落ちたように静かだった。ベンチと街灯に照らされた桜が、静かに枝を広げて、花びらの淡い影がゆっくりと春の風に揺られている。

二人は、心の奥がふっと波立つのを感じていた。
大翔はそっと歩幅を合わせた。

爽子は目の前の光景と、隣にいる大翔の気配がひとつに重なって、あふれそうになる何かを堰き止めるように目を閉じた──。

夜の桜は、昼よりも静かで、
月の光の当たるところだけが淡く浮かんでいた。

オレンジの街灯が月明かりに重なる。
薄い花びらを掬い上げる。光に透けるガラス片のように、儚く、淡く。風が通るたびに、光がさやさやとわずかに揺れて、桜が呼吸をしているようだった。爽子は鼻の奥がツンとして、いっそ泣き叫びたいとさえ思った。

その瞬間、大翔がふっと息をつく。
「……きれいだな」
大翔は爽子の半歩先に出て、小さく振り返った。

大翔の声に言葉を重ねると、花びらが散ってしまうような──柔らかな声に目線が重なり、爽子は小さく頷いた。息が少しだけ深くなった。

「こんな場所、あったんですね…」
爽子は自分の声がわずかに震えたことに戸惑った。

大翔は気づいたのか、気づかないのか──美術館で感じたものと目の前にある桜が、どこかでつながった気がして、ポケットに手を入れて、指を弄んだ。

爽子がふと大翔の横顔を盗み見ると、光に照らされた輪郭が、さっきよりも少しだけ近く感じられた。

──言葉にできない。

──でもたしかに、何かが動いている。

爽子は桜の深い海に潜って、心の底に落ちている言葉のカケラを拾おうと、また深く息を吸い込んだ。

二人は歩いては話し、止まっては写真を撮って、また歩き出す。何枚も撮るうちに、少しずつ肩が近づく。

ふいに、大翔が口を開いた。

「……なんか。
 今日は時間の流れがゆっくりでいいな。
 こういうの、悪くないなって……思って」

小さな声が、夜の光に溶ける。
遠くの大通りのざわめきが、かすかに風に運ばれた。
その明るさが近づくたびに、ふたりの歩みは自然と小さくなる。

爽子が横を見ると、大翔は前を向いたまま、
ほんの少しだけ口元が緩んでいる。

「あ、別に、特別な意味じゃないですけど。
 ……でも、なんか、いいですよね。こういうの。」

大翔は言葉を探すように、少しだけ息を整えて、目を合わせた。

夜風が花を揺らす。ふたりはまた見に来たいと思った。
もう一度、ここに来れないかと思っていた。

同じ場所で、同じ風をもう一度感じたい──ふたりとも、同じことを思っていた。

街が静まり、遠くの列車の音だけが、ふたりの沈黙にそっと寄り添っていた。

執筆: 2026/3/13 かきおろし <了, 約 1,400 字>


琥珀色の間[18]──言葉のともしび

琥珀色の間[19]──言葉の芽吹き

♪ BGM 🌙

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