ラサフラメナ 〈1. 歓迎〉
あらすじ
香は嘘をつかない。火は、すべてを知っているー霊山フラメナの恩恵を受け築かれた、ラサフラメナ霊山都市。火と香そして"夢見"の力が息づくその街は、どこにも属さない時間の中に浮かぶ、美しい火の檻だった。十五歳の巫女アーシャは、薔薇月の満月の夜に執り行われる通過儀礼〈初火の儀〉を数日後に控えていた。ある朝、この街の門番である霊火に"歓迎"された謎の少年が現れ、平穏な都に歪みが生じはじめる。異父兄ジェイドとの血を超える絆、誠実な王族ミカールからの所有を超えた愛⋯⋯。儀の前日、とある事件をきっかけに、決して越えてはならない境界が越えられ、幻火の都は取り返しのつかない運命の物語へと向かっていく—
ラサフラメナ 〈1. 歓迎〉
ラキ・グラハの葉は夜明け前の霧に濡れ、銀緑に光っていた。
アーシャはその葉の先端をそっと摘み、腰に巻きつけた籠に重ねるたびに、微かな香の立ち昇りを確かめた。夢の記憶を鮮烈に脳裏に焼きつけるこの霊草の真実の力は、陽が昇ってからでは決して摘めない。この葉の力は空高く上がった太陽の光に触れると逃げてしまうから。
フラメナ霊山の斜面には、同じように身をかがめて葉を摘む巫女たちの白い影が点々と連なっている。
ーーアーシャは空を仰ぐ。遠く、山の向こうが淡く染まり始めていた。
その時、山の麓から法螺の音が響いた。
「ジェイド様だ!」
誰かが叫び、ざわめきが走る。
アーシャは籠を小脇に抱えて立ち上がった。法螺は、夢見通達者が長旅を終えて霊山に帰還したことを告げる合図。
ジェイドは二週間前、隣国へ夢見通達をしてから戻ると言っていた。
アーシャは摘みたてのラキ・グラハの香に包まれながら、急ぎ足で山の中腹の祠へと向かった。祠には、既にジェイドと同じフラメナールのセナとノアリも到着していた。
ジェイドは香を焚き、帰還の祈祷を始めるところだった。山肌に設けられた祠は小さいが、清浄な空気に満ちている。霊火が灯台のように揺らぎ、帰還者たちの無事を照らす。
「無事で、よかった」
アーシャがそっと言うと、ジェイドは微笑んだ。
「今回は特に危ないところには行ってない。無事に夢を通達してきたよ」
それでも、彼の声には少しだけ疲れが滲んでいた。ノアリが持ってきた温かなラキ・グラハ茶を、セナが手渡す。
「ちゃんと飲んで、温まろう。祈祷終わったらさ、五惑星温泉でひとっ風呂しよ〜!」
*
カーサプリアンカのアーシャの部屋では、朝の光が柔らかく差し込んでいた。五惑星温泉から帰ってきたジェイドとアーシャは、ラサフラメナの名物、霊草とハーブのパンとキブティエラ産蜂蜜煮ナツメヤシを分け合っていた。すりつぶしたコーヒーの粉に、カルダモンの粉末を含ませて淹れる。
「ミカール様から、またお手紙が来たわ」
アーシャがカップを差し出しながら、机の端に置かれた筒を指差した。
「開けたの?」
「まだ。でも、香りだけ確認した。白檀の香りがさり気なく仕込まれてるの。外からでもわかったわ。やさしかったよ」
ジェイドは少し眉をひそめたが、何も言わず、パンをちぎった。
「ジェイド⋯⋯もしかして、怒ってるの?」
「いや⋯⋯あの人はアーシャを"持とう"としていないから、困るんだ」
「じゃあ、どうなったらいいの?」
その問いに、ジェイドは返事をしなかった。代わりに、そっとアーシャの髪を撫でた。
「髪、しっかり結んだほうがいいよ。正門近くは風が強いから」
じゃれ合いながら、彼らは朝食を食べ終えた。
そのときだった。窓の外から、ざわめきが聞こえた。
「なんだか、ゲートが騒がしい」
セナが息を切らしながら駆け込んできた。
「霊火が⋯⋯燃え上がってる。あれ、歓迎の炎だよ」
「こんな朝早くに?」
アーシャが目を丸くする。歓迎されし者は、選ばれし者。
だが、こんな時間に来訪する者など滅多にいない。
ジェイドは立ち上がった。
「様子、見に行こう」
ーー門に近づいたとき、霊火は風に揺らめきながら、高く伸び上がっていた。
門前にはひとりの少年。
日焼けした肌、そしてどこか火とは無縁の香りをまとった⋯⋯少年。
ラサフラメナ寺院特区へと、彼は既に一歩踏み入れていた。
ラサフラメナ寺院特区の正門。
月夜から目覚めて高く昇りつつある柔らかな陽光の中、香煙がゆるやかに流れる門前で、突如として霊火が燃え上がった。
その場にいた誰もが、はっと息を呑んだ。
浅黒い肌、風に乱れた髪。露出の多い装いで、どこか野生の匂いをまとっている。
この街の空気の中で彼が異質なのは明らかだった。
だが、霊火は彼を拒まなかった。
それどころか、むしろ嬉々として迎えているようだった。
「⋯⋯こんなに燃え上がるの、見たことあるか?」
門衛の一人が、小さく呟いた。
「捧げ物もなしで⋯⋯まるで、火が彼を導いてきたみたいだ」
アーシャとジェイドが駆けつけたとき、彼はもう正門の敷地内に立っていた。門の火はまだ高く燃えており、周囲の空気すら熱を帯びていた。
アーシャの瞳が彼を捉えた瞬間、なぜか胸の奥がざわめいた。だが、この感覚をすぐには説明できない。
ゆっくりとこちらを向いたとき、彼の口元に、小さなほくろがあるのが目に入った。左口角のすぐ下。笑ったのか、話す前に少し口元を動かしただけで、その一点がほんの一瞬、艶を持ったように見えた。
(⋯⋯ほくろ?)
それだけのことなのに、視線が離せなくなる。胸がドクンと浮くように脈打った。
よく見ると、顔立ちがこの街の誰とも違う。
目の形、頬骨の張り、顎の線。まるで波に幾百年と削られた岩のような、力強い線だった。整っているとか、美しいとかではなく、アーシャにとっては「知らないかたち」だった。
(なんでこんなに見てしまうんだろう⋯⋯)
好奇心なのか、それとももっと別の、何か⋯⋯?
アーシャ自身にもわからなかった。ただ、勢いのあるその気配は、アーシャの心の扉をしきりに叩いて、知らないふりなどさせてはくれない。
ジェイドは、眉間にしわを寄せて立ち止まった。
火ではない⋯⋯もっと別の感覚が、身体の奥に触れた気がした。
「あいつ、きっと声がいいな」
まだ何も話していない。けれど、何かが"響き"としてこちらに伝わってくる。
「俺も思った」
と、後ろから声がした。セナだった。
「何もしゃべってないのに、声が響いてくるような。音じゃなくて⋯⋯なんていうか、波みたいだ」
「⋯⋯響き、だと思う。呼ばれるような。あの人、音が肉体の奥で生きてるね」
続いて、ノアリがひっそりと現れた。
やや伏し目がちに例の少年を見つめる。
霊火が最後にもう一度、鮮やかな朱を弾いて立ち上がり、ゆっくりと静まった。
ラサフラメナの門が、完全に開かれた。
その彼は正門近くの人々の注目を一心に集めながら、真っ直ぐに迷いなくアーシャめざして歩いてきた。
「アーシャ、ってあなたのことですか?」
「えっ⋯⋯はい。そうですけど、はじめまして」
研ぎたてのナイフで紙を素早く分けた時のような、空間を裂く彼の声に、アーシャは清々しさを覚えた。
「はじめまして。ここから南西の植物園で預かってきました」
彼は籠を背負っていた。
その中には、大量の朝摘みの真紅の薔薇の花たち。それとはまた別に、籠の中から一束の花束を取り出し、アーシャに手渡した。中央がくすんだ紫で、外側に向かって純白が滲んでいく薔薇の花束。アーシャの初火の儀を控え、植物園の職員たちが心を込めて束ねたものだった。
「エステや修羅湯?だか、に使ってくれって言ってましたよ」
「ふふ、シュクラ湯のことね。この区域にある五惑星温泉の金星の湯のことよ」
彼が背負ってきた大量の花々は、毎年この時期に寺院へ運ばれる薔薇月の満月用の薔薇。植物園の門には小さな札が立っており、こう書かれている。
ーー寺院特区正門まで運んでくださいましたら嬉しいです。優しいあなたに今日も祝福をーー
彼は、それを見て気まぐれに手伝っただけだった。
薔薇は、金星湯での巫女エステに使うため、抽出されオイルにしたり、香浴にそのまま投入されたりする。
「じゃ、俺、薔薇を届けに来ただけなんで」
人々の熱狂と好奇の目をよそに、少年はサラッと踵を返した。
「ちょっと待てよ。せっかくだから区内を観て行ったらどうなんだ?」
ジェイドはいつになく眼光鋭くなった瞳を、少年に向けながら言った。少年はジェイドの眼に臆する様子もなく、静かに見つめ返す。
「その容貌からして、海の方から来たんだろう?」
「⋯⋯はい。今は気ままな旅人です」
「ここはラサフラメナ寺院特区。特区には霊火たちの祝福がないと、まず入れない。霊火は正直だ。君は許可どころか、歓迎を受けて正門を開いたんだ。みんながみんな、入りたくて入れる場所じゃない。観光くらいはしていったらどうなんだ?」
「⋯⋯それも、そうですね。でも、いいんですか? 明らかに壁の外とも空気が違うので、不思議な感じで⋯⋯」
少年の見た目とは裏腹な、控えめで慎重な言葉たちに、ジェイドは少しばかり胸を撫で下ろした。
「アーシャ! 区内を案内しなさい」
「えっ?! わたし?」
いきなりジェイドに振られて困惑したアーシャだったが、彼には興味があった。もっと話したかったし。それに霊火にあんなに歓迎されたなんて、何かここに来た意味があるに違いないと思った。
「いいよ。私、今日エステ以外に特に用事なかったし」
「よろしく。俺たち今回の旅の報告書まとめに、文殿行かなきゃいけないからさ」
早口でジェイドは言うと、無表情になってセナとノアリの肩を叩き、アグニア文殿に向かってしまった。
残された、アーシャと謎の少年。目を合わせ、お互いに口元を緩ませた。
(私と、同い年くらいだろうか?)
少年とアーシャの背丈は同じくらいで、よく見ると瞳の色がアーシャとよく似ている。アーシャの右眼は黄金の麦のような色なのだが、少年の瞳もアーシャのそれによく似ていた。
「ああそうだ。あなた、お名前は?」
アーシャが少年の方に身体を向け、尋ねると、少年は言った。
「ヴィアン」
ーラサフラメナ霊山都市ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
霊山フラメナの恩恵を受け築かれた、火と香と"夢見"の都。夢見の巫女〈フラメナーラ〉と夢見通達〈フラメナール〉が、夢を介して受け取った神託を他国の重要取引先に届ける、霊的外交都市。この街には自国の軍が存在せず、外敵を退けるのは霊火と香。そしてそこに暮らす人々の高い霊性と品格だ。都市は「霊山区域」「寺院特区」「特区外」に分かれ、中でも寺院特区にある〈カーサプリアンカ〉は幼い頃から霊山で特別な修行を積んだ夢見の巫女たちが暮らしている。夢見、祈り、精度の高い占い、時には身体を通して近未来のヴィジョンを視る空間である。
この街に生きる巫女の運命を決める重要な通過儀礼が、毎年薔薇月の満月ーカーラ・タルニーの夜に行われる〈初火の儀〉。
これは生まれながらにして霊火の祝福を受けた少女が、フラメナーラーフラメナの霊火の巫女ーとして正式に大人の巫女の仲間入りとなる儀式であり、独立した存在として道が拓かれる瞬間である。巫女の初火は高額の捧げ物と引き換えに競り落とされ、儀の夜、巫女は初めての相手と交わることで"夢見の器"として本格的に身体と魂を明け渡す。
アーシャは、ラサフラメナの中でも特別な存在だった。
かつての伝説的フラメナーラ、プリアンカの娘であるアーシャ。 母:プリアンカの夢見や占いは国境を越え、ひとつの戦争を止めたとさえ噂される。だがアーシャ自身は、そんな「巫女様」になることを運命づけられながらも、カーサプリアンカで異父兄のジェイドや仲間と共に祈りと香、美に囲まれた穏やかな日々を大切にしていた。
しかし、数日後に訪れる、初火の儀。 都市全体が灯を消し、霊火だけが瞬くその晩、アーシャは"誰のものにもならない" はずだった魂と身体を霊火と初めての男火に捧げることで、ラサフラメナ全体の祈りの象徴の存在のひとつとなる。
薔薇月の満月は、ただの満月ではない。それは、少女が巫女となり、祈りが契約となる"魂を捧げる火"の夜である。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
いいなと思ったら応援しよう!
頂いたサポートはありがたく頂戴し、今後の占星術の研究や各種創作や勉学に使わせていただきます。いつもありがとうございます。今日も佳き日をお過ごしくださいませ。