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本能寺の変1582 【重史32】 251007 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【重史032】 「惟任退治記」    251007 

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→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 概説大 目次中 →
 1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
 4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
 3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【人物】 【信長の人物像】 6 7 8 9 10
【ここがポイント!!】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
 信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正 251007 

【重史032】                    251007

①惟任(光秀)、・・・備中に下らずして、密かに謀反をた工む、

②年来の逆意、識察する所なり、

③ときは今、あめかしたしる五月かな、

④今、これを思惟すれば、則ち、誠に、謀反の先兆なり、

⑤天正十年六月朔日、夜半より、 
                      「惟任退治記」


 天正十年1582、五月二十八日。           158200528
 (三日前)

 これが、全ての元凶となった。
 「惟任退治記」は、「天正記」(現存八巻)のうちの一巻。
 「惟任謀反記」とも、いう。
 作者は、大村由己。                   【 人物 】
 秀吉の御伽衆である。

 秀吉は、実に、素早かった。
 本能寺の変 六月二日。
 山崎の合戦 同十三日。
 その、直後。
 十月には、すでに、この書が、世の出ていたという。

 「惟任退治記」は、創作物。 
 信長亡き後の、秀吉の行動を、美化・正当化するために書かれた宣伝本。
 フィクション部分が多い。

 今風に言えば、政府発表の公文書の如きもの。
 瞬く間に、世に広まった。

 秀吉は、歴史を捏造した。 
 秀吉は、これを利用して、言葉巧みに、大衆を丸め込んだ。
 狡猾で、抜け目のない男である。

  惟任(光秀)、公儀(信長)を奉じ、二万余騎の人数を揃え、
  備中に下らずして、密かに謀反をた工(たく)む、
  併(しか)しながら、当座の存年に非ず、
  年来の逆意、識察する所なり、

  扨(さて)、五月廿八日、愛宕山に登り、一座の連歌を催す、
  光秀、発句に云はく、

   ときは今、あめかしたしる五月かな、

 秀吉は、光秀が、己の心中を、事前に、外部の人間に漏らした、
 と言っている。

 ここから、話は、いよいよ、盛り上がって行く。

  今、これを思惟すれば、則ち、誠に、謀反の先兆なり、
  何人か、兼ねて、これを悟らんや、

  然るに、天正十年六月朔日、夜半より、
  彼の二万余騎の人数を延(ひ)きい、丹波国亀山を打ち立ち、
  ・・・・・
                          (「惟任退治記」)

 秀吉は、光秀を利用した。
 「死人に口なし」
 光秀は、冥途の彼方へ。

 秀吉は、天下を狙っていた。
 「明々白々」
 やがて、織田家を乗っ取った。
 これもまた、「下剋上」。
 その様な時代だった。

 ここで、注目!!
 「惟任退治記」には、「あめがしたしる」とある。

 ⇄【比較参照】【重史234】『信長公記』「あめが下知る
 ⇄【比較参照】【重史005】「続群書類従」「あめか下なる

  【参照】『信長公記』について。    →◎第4話
      「惟任退治記」について。   →【 重史 032 】
       これらの、真偽について。  →そ第78話⑬


 【引用】【四国問題】 天正十年1582
     そ第78話⑬

 【参照】【四国問題】
    
天正八年1580
    天正九年1581
    天正十年1582

 【参照】【四国問題 概要】
    
天正八年1580
    天正九年1581
    天正十年1582



 ⇒ 次へつづく

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