【香り屋】#6 間話 箱の中
夕方、栞は暖簾を下ろした。
引き戸の向こうには、まだ昼の熱が残っていた。石畳も、木の格子も、九月の終わりとは思えないほどぬるい。
栞が引き戸を閉め、暖簾を畳んでいると、奥から紙をめくる音がした。
蒼介が、カウンターの端で帳面を開いていた。
「明日からしばらく、暖簾は上げんときましょうか」
栞が言うと、蒼介は顔を上げた。
「その方がええですね。反物も厚紙も、出しますし」
「入口、開いてたら入って来はる人もありますしね」
「そうですね」
蒼介がそう言って、また帳面に目を落とした。
店の日でなくても、仕事はある。
どこか遠くで、自転車のベルが鳴った。
明日から、ここに暖簾を出さない。
それだけのことなのに、香り屋は少し姿を変える。
翌朝、引き戸は閉じたままだった。
家の中では、朝から物の置き場所が変わっていた。
カウンターの上には、組紐の束、和紙、厚紙の束、透明な袋。茶器は棚の奥へ寄せられていた。
棚の下の段には、着物地の反物が三本、重ねて置かれていた。
一本で、およそ二百五十。柄の部分がわずかに残る程度。
それが、三本分。
栞は作業部屋とカウンターを往復し、反物と厚紙の束を運んだ。
作業部屋には、反物を裁つための細長い机と、箱を組み立てるためにも使える広めの机がある。栞は、運んできた反物を細長い机に、厚紙の束を広い机の端に置いた。
反物を広げると、柄がすっと長く伸びた。
栞はしばらく、その流れを見た。
どこで裁てば、柄が切れすぎないか。どこなら袋にした時、表にきれいに出るか。
裁ちばさみを入れる。
しゃき。
生地が切れる音が、作業部屋の中に響いた。
昔のやり方を、そのまま守っているわけではない。
着物地を袋にする時には、端の処理を含め、布用の強いテープを使う。縫う場合もあるが、数が多い時は追いつかない。
雑でいい、ということではない。
栞は白いテープを、裁った生地の端に沿わせ、少しずつ押さえていった。
ひとつ。
もうひとつ。
白いテープを貼った生地が、積み重なっていく。
カウンターでは、蒼介が組紐を切っていた。
長い組紐を測り、決まった長さで切る。一本切るたびに、横へ置く。十本たまると、向きを揃えてまとめる。
切る。
揃える。
また、切る。
昼を過ぎても、反物はまだ残っていた。
夕方になっても、組紐の束はまだ低くならなかった。
一日目は、反物を裁ち、組紐を切るところまでで終わった。
それから数日、香り屋の暖簾は上がらなかった。
朝になると、栞は作業部屋へ入る。蒼介はカウンターで組紐を切り、まとまった分から作業部屋へ運んだ。
栞は裁った生地に白いテープを貼り、隣の広い机へ移していく。組紐を切り終えた蒼介は、その生地を受け取り、袋の形にしていった。
栞は、生地に白いテープを貼り終えると、切り終わった組紐の端の処理に回った。
裁った生地や組紐が、日を追うごとに少しずつ形を変えていった。
組紐の端には、金具を使ったこともある。火で処理したこともある。けれど、今回の組紐には、透明なテープが一番きれいに収まった。
見えにくいところほど、手を抜くとあとで目立つ。
栞は組紐の端を指で押さえた。
坪庭では、今年の藤袴が咲いていた。
薄紫の小さな花が、暑さの残る風の中で細く揺れている。けれど、作業部屋にいると、その香りはほとんど分からなかった。生地と紙の匂いの方が近い。
「蒼ちゃん」
カウンターに物を取りに行っていた栞が、作業部屋に戻ってきて、そっと声をかけた。
「坪庭に来てはるわ」
蒼介は、手にしていた生地を置いてカウンターへ向かった。
藤袴の花の上に、蝶が止まり、翅をゆっくり開いている。黒い筋の間に、白にも、水色にも見える模様があった。
「アサギマダラですね」
「一頭だけ」
栞は声を小さくした。
「今年は、来てくれはった」
蝶は花に止まったまま、翅を閉じたり開いたりしている。
栞には、その一頭が、遠いところから季節を運んできてくれたような気がした。
「逃げんうちに、仕事せなあきませんね」
「そうですね。見てたら終わりません」
栞は笑って、作業部屋へ戻った。
蒼介も作業部屋へ戻り、袋づくりを再開した。
着物地の袋の形ができたら、次は中に綿を入れる。
香りを入れる前に、まず綿で形を作る。
少なすぎると、手に取った時に頼りない。多すぎると、生地が張って、あとで組紐を結びにくくなる。
蒼介は綿を少しずつ取り、袋の中へ入れていった。
そこへ、組紐の端の処理を終えた栞が合流した。
あとは、香りを入れて、組紐で結べば匂い袋になる。
その手前まで整えたところで、次は厚紙だった。
線に沿って折り、角を立てる。折り目を押さえ、底を作る。
平らだった厚紙が、折られるたびに立ち上がっていった。
できあがった箱は、机の上に少しずつ山を作った。
半分ほどの厚紙が箱になった頃、暖簾を下げてから一週間が経とうとしていた。
この日、蒼介はカウンターの奥の畳の作業場へ回った。
そろそろ、香りを作る日だった。
着物地の袋ができ、組紐もそろい、箱も半分まで組み上がっている。ここまで来て、ようやく香りの作業に入れる段階になった。
蒼介は、香材の入った箱を棚から出し、カウンターに並べた。
箱をひとつ開け、その中から大きな紙包みを取り出した。
去年の秋に乾かした藤袴だった。
坪庭で育てたものだけでは、とても足りない。毎年、分けてもらう葉や茎も合わせて使っている。
箱の中で季節を越えたものは、葉も、茎も、花も、色を鈍くしている。生の花とは違う顔をしていた。それでも紙包みを開けると、乾いた甘さが立った。
蒼介はそれを持って、畳の作業場へ移った。
作業場の机の引き出しから、古い園芸バサミを取り出した。先代の頃から使われているものだった。持ち手の塗りが剥げ、刃の根元に細かい傷が残っている。
まず、乾いた茎から葉を落とす。
茎と、葉や花の部分とに分ける。
茎に刃を入れる。
ぱちん。
高い音が響いた。
次に、葉と花を薬研へ移した。
粉にはしない。香りが出るように、粗くすり潰す。
茎は茎だけで、薬研にかけた。
乾いた藤袴の香りが、作業場に広がった。
葉や花とは固さが違う。同じ力では、うまくいかない。
その加減は、数字だけでは残せない。
昼前、蒼介は畳の作業場の奥の物置へ入った。
いつもの乳鉢では足りない。
蒼介は、物置から大きめの乳鉢を出した。
物置の棚の下段に、白い乳鉢が重ねてあった。その奥には、もう一回り大きなものもあった。
蒼介が初めて見たとき、こんな大きな乳鉢で何を合わせていたのだろうと思った。
昔は、今よりもっと量を作る日があったのかもしれない。
今日使うのは、その手前のものだった。
乳鉢を作業場の机に乗せ、中をから拭きした。
蒼介は、作業場の引き出しから大きな木製の匙を取り出した。
作業場に天秤を置き、前回の配合と、それぞれの重さを確認する。
茶葉を量り、乳鉢へ入れる。匙で混ぜ、香りを嗅ぐ。次に、刻んだ藤袴を量り、乳鉢へ加える。また匙で混ぜ、香りを確かめる。
木の匙が乳鉢の底に当たった。
こつん。
乾いた音がした。
そこから、微調整に入る。
蒼介はコーヒー豆の入った瓶を棚から持ってきて、匂いを嗅いだ。
鼻をリセットしている間に、古い帳面を念のために開く。
茶葉を主に使うようになったのは、蒼介と栞の代になってからだった。白川家の昔の帳面に、今の答えがそのままあるわけではない。
それでも、見返す。
昔の人が、何を大事にしていたのか。何を避けていたのか。どの季節に、どんな香りを用いたのか。
それは、配合量よりもずっと大事だった。
今回納める寺は、お茶と縁が深いところだった。
何年か前、茶葉を中心にした匂い袋にすると打ち合わせた時には、今までにない試みだと驚かれたが、納めた時には、思った以上に喜ばれた。以来、その寺へ納めるものは、茶葉を軸にしている。
蒼介は、微調整するたびに、加えた量を細かく帳面に書いていった。
この帳面には、何年分かの数字とメモが積もっている。端の方には、栞が書いた納品数のメモも挟まっていた。
配合量に、微調整した量。
今年の暑さ。
乾かした藤袴の様子。
茶葉の香り。
納期。
納品数。
蒼介は、今年の欄に数字を書いた。
書いてから、乳鉢の中をもう一度混ぜる。
匙の先で底から返す。茶葉の香りの中に、藤袴の乾いた甘さが混じっていく。
その日の夕方、家の中には匂いがこもっていた。
茶葉。
乾いた藤袴。
生地。
紙。
作業部屋では、栞が箱を折っていた。
蒼介は筆記具を置き、表の引き戸へ向かった。
少し開けると、隙間から、ろーじの街灯がひとつ見えた。まだ灯っていない。
家の奥から、外へ向かって細い風が抜けていった。
蒼介は畳の作業場へ戻り、コーヒー豆の香りを嗅ぎながら、体を伸ばした。
こつ、こつ。
栞が顔を上げた。
外で、誰かの足音が止まったような気がした。
栞は箱の折り目を押さえた。
納品まで、あと四日になった。
この日、栞は匂い袋を入れる箱に綿を敷きはじめた。
広い机の方の椅子に座り、端に置いた、綿の塊の一つを手元に引き寄せた。
綿の塊から、ピンポン玉くらいの量を取り、箱の底に糊をつけ、綿を広げながら敷いた。
栞は、完成した箱を、六個ずつひと固まりにして、机の端へ積んでいった。
ばらばらに置くと、あとで数が分からなくなる。どこまで進んだか、見て分かるようにしておく。
栞は、残りの箱を数えた。
箱に綿を敷くたび、残った綿と見比べた。
栞は、用意していた綿を出し忘れていないか、棚を見に行ったが、見当たらなかった。
「蒼介さん」
蒼介は顔を上げた。
「綿、足りひんかもしれません」
蒼介は帳面を持って作業部屋へ向かい、並んだ箱を数えて、端に数字を書いた。
「あと、どれくらいありそうですか」
「この感じやと、あと百……いけて百二十くらいやと思います」
蒼介は、帳面の端に書いた数字と納品数をもう一度見比べた。
「足りないので、ちょっと行ってきます」
「今から?」
「ちょうど、香りの方も一区切りつきましたし、この時間なら、まだ間に合います」
蒼介は、畳の作業場に置いてあった肩掛け鞄を肩にかけると、裏の勝手口から外へ出ていった。
栞は、作業部屋へ戻り、箱に綿を敷いた。
机の上には、綿を敷き終えた箱が増えていった。
どれくらい時間が経っただろう。
手芸屋の紙袋を一つ手にした蒼介が戻ってきた。
栞は紙袋を受け取り、中の綿を確認した。
「いけます」
「よかった」
そこからは、二人で残りの箱に綿を敷き、仕上げに入った。
蒼介は、香りを一定量ずつ入れた内袋を作業部屋へ運び入れた。
内袋の形を軽く整えてから、着物地の袋へ収めた。
栞はそれを受け取り、口元を合わせて、組紐を結んだ。
結び目の位置を揃える。余った紐の長さを見る。ずれていれば、ほどいて結び直す。
できあがった匂い袋を、透明な袋に入れて、封をする。
それを箱に収める。箱の中で傾かないように、綿の盛り上がりを直す。
作業部屋の隅に、匂い袋を収めた箱が積まれていった。
納品まであと二日になると、納品用の大きな段ボール箱が組み立てられ、作業部屋の一角を占めた。
「そういえば」
栞が、組紐を匂い袋に結びながら言った。
「記者さん、また来てはったみたいです」
蒼介は手を止めた。
「遠野さんですか」
「たぶん。うちの前まで来て帰らはった人がいたって、近所の方が教えてくれはりました」
「入って来はらへんかったんですね」
「そうですね」
「記者さんって聞いた時は、どうなるかと思いましたけど」
「はい」
「急かしてきはらへんかったし、少し、話せる人かもしれませんね」
栞は結び目を指でならした。
「そうかもしれません」
蒼介は箱の向きを揃えた。
外は暗くなっていた。
栞は手を止め、指先を見た。
親指の横と腹が赤い。人差し指の腹も少し赤くなっている。
「痛みますか」
蒼介が聞いた。
「このくらいなら」
「あとで薬、塗ってください」
「蒼ちゃんもです」
蒼介も、自分の指先を見た。親指と人差し指の腹が擦れて赤くなっている。
「塗ります」
「ほんまに?」
「……塗ります」
栞は笑った。
納品の前日、蒼介は畳の作業場へ戻った。
最後に、和紙へ筆を入れる。
香の名。
寺の名。
筆を持つ手が、こわばっていた。書き損じた紙を一枚脇へ寄せ、もう一枚取る。
墨の匂いが、部屋に残っていた茶葉と乾いた藤袴の匂いに混じった。
書いた和紙が乾くと、栞がまとめて作業部屋へ持っていった。
箱に和紙を貼り、大きな段ボール箱へ収めた。
一箱目。
二箱目。
三箱目。
四箱目。
五箱目。
作業部屋の壁際に並んだ段ボール箱に、仕上がった箱が詰められていった。
翌日、大型のタクシーがろーじの入口近くに停まった。
運転手が後ろの扉を開け、いちばん後ろの席を倒して、荷物を入れる場所を作った。
蒼介は、香り屋とタクシーの間を何度も往復した。
五箱分。
雨の予報だったので、大きなポリ袋を切って、段ボール箱に被せておいた。箱は思ったより持ちにくく、ろーじの石畳を歩くだけで息が上がった。
蒼介が最後の箱を家から出すと、栞は蒼介の肩掛け鞄から鍵を取り出し、引き戸に鍵をかけた。
栞は伝票を入れた肩掛け鞄と傘を持ち、箱を抱えた蒼介の前を歩いた。
「これで最後です。全部入りそうですか」
栞が聞くと、運転手は荷物の隙間を見て、箱の位置を変え、スペースを作った。
「いけます」
蒼介は最後の箱を押し込み、肩で息をしながら、二列目の席に乗り込んだ。
「電話でお伝えしたお寺さんまで」
栞は助手席に座り、運転手に伝えた。
扉が閉まり、タクシーが進み出した。
二人が戻ってきた時、乾きかけたろーじには、金木犀の匂いが薄く流れていた。
出る時には、気づかなかった。
栞は引き戸の前で足を止めた。
「咲きましたね」
「ですね」
「明日あたり、暖簾出せるやろか」
栞が言った。
「出せると思います」
肩掛け鞄から、鍵を取り出しながら、蒼介は言った。
引き戸を開けて家に上がると、二人は作業部屋を見た。
反物も、厚紙も、綿も、香りも、箱の中へ収まっていった。
そして今は、家の中にあった大きな段ボール箱もない。
机の上には、切れ端の生地や組紐、使い終えた道具、空になった紙袋が残っているだけだった。
箱の中で香っていた藤袴は、もうここにはない。
けれど、指先にはまだ、乾いた草と茶葉の匂いが残っていた。
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