【香り屋】#5 第4話 金木犀はまだか
金木犀は、まだ咲いていなかった。
九月の終わりが近づいているのに、京都はまだ夏の顔をしていた。日差しは白く、ビルの壁に跳ね返った熱が、足元からまとわりついてくる。
それでも朝の空気だけは、変わりはじめていた。
綾は駅へ向かう途中、民家の塀の内側をのぞきこんだ。濃い緑の葉が、枝先で詰まるように重なっている。あれは金木犀やろか。そう思って立ち止まったけれど、風は何も運んでこなかった。
まだやな。
声に出さずに呟いて、綾は歩き出した。
通りの角にある雑貨店の店先には、もう金木犀の香りと書かれたハンドクリームが並んでいた。橙色の小さな花の絵が、パッケージの上で先に咲いている。
本物より先に、香りだけが売られている。
綾はそれを見て、顔をしかめた。嫌いなわけではない。むしろ、金木犀の香りは好きだった。ただ、まだ街にその匂いがないうちから、名前だけが先に届いていることが、落ち着かなかった。
信号が変わる。
人の流れに押されるようにして横断歩道を渡りながら、綾は鞄の中の手帳に意識を向けた。
次の原稿。
記者・遠野綾の東奔西走。
いつのまにか、自分の名前の前に「記者」とつくようになった。最初は、記事と記事の間に小さく挟まるコラムだった。季節の話、路地の話、誰かが言い残した妙な噂。そういうものを歩いて拾い、書いた。
それが、連載になった。
うれしかった。
うれしかった、はずだった。
編集部に着くと、机の上に校正紙が積まれていた。誰かの赤字がぎっしり入った紙の束。その横に、綾の前回分の掲載誌が一冊、無造作に置かれている。
表紙の端に、自分の記事タイトルが小さく載っていた。
――推し活できる!?OMURO88とは?
我ながら、よう通したな。
綾は椅子に座る前に、その誌面を一度だけ見た。御室八十八ヶ所を現代の推し活に重ねている「御室ムスメ」について取材した記事だった。怒られるかと思ったが、思ったより反応はよかった。
その前は、地元の人が花見をしていると噂の、山科の琵琶湖疏水を追った。真相を確かめるため、お花見の頃に連日、疏水沿いを歩き回った。
その前は、「京都“ぎょえん”って二つあるって知ってました?」というタイトルで、京都御苑と京都魚苑を訪ねた。御苑と魚苑。同じ音なのに、片方は広い砂利道で、片方は金魚が泳ぐ水槽の光だった。
本能寺跡の記事では、半日歩き回って、「歴史に出てくる、あの本能寺は今の場所にはない!」と書いた。
「琵琶湖の水止めたろか!」を本当に止められるのか調べた時は、編集長に「企画書の時点でうるさい」と言われた。褒め言葉やと受け取っている。
パソコンを開くと、画面の端で新しいメールの通知が出ていた。
件名は、次回案について。
来た。
綾は椅子に腰を下ろし、メールを開いた。
『次の東奔西走、そろそろ方向ください。前に言ってた“香りの店”いけそう?』
香りの店。
綾は返信欄に指を置いたまま、しばらく止まった。
『いけそうです』
そう打って、消す。
『取材中です』
これも違う。
『たぶん、いけます』
たぶん、が弱すぎる。けれど、今のところ一番近い気がした。
送信はしなかった。
代わりに手帳を開く。
香利屋。香り屋。こうりやさん。こおりやさん。
本能寺跡からほど近い通りの奥。ろーじ。古い木札。長い暖簾。扉が開いていれば、入れる。女性。男性。お茶。坪庭。梔子。
その下に、綾は自分で書いた言葉を見つけた。
――強いのに、押してこない。
梔子の香りのことだった。
あの日、坪庭で白く咲いていた花。湿った空気の中で、花そのものから少し離れたところに輪郭を持っていた香り。
潤、これ好きやったな。
そう思った瞬間のことまで、手帳に書いてあるわけではない。けれど、ページを見ていると、書いていない言葉の方が先に戻ってくる。
綾は手帳を閉じた。
仕事や。
これは仕事。
そう思うほど、指先が動かなくなった。
昼休みを過ぎたころ、綾は編集部を出た。
市バスに乗って、本能寺跡からほど近い通りへ向かう。今日は暑い。だけど、真夏の暑さとは違った。汗の出方が鈍く、空気に雨の匂いが混じっていた。秋雨が近いのかもしれない。
路地の入口は、一度見つけてしまえば、そこにあると分かる。
けれど、知らなければ通り過ぎる。
綾は通りの端で立ち止まり、手帳を確認するふりをした。誰かに見られているわけでもないのに、まっすぐ入っていくのが気恥ずかしかった。
取材対象に、気恥ずかしいも何もない。
そう思ってから、また足が止まる。
この前来た時、女性は笑っていた。
あら、記者さんなんて、初めてちゃうかな。うちも有名になったもんやね。
その言葉は明るかった。明るいのに、名刺入れに触れた手を、そのまま出しきれなくさせるものがあった。
綾は息を吐き、ろーじへ入った。
人ひとりが傘を差せばいっぱいになる道。表通りの車の音が、背中の方で薄くなる。
奥へ進む。
古い木札が見えた。
香利屋。
ただ、その日は暖簾がなかった。
引き戸も閉まっている。
綾は入口の前で足を止めた。閉まっている店を訪ねるのは、仕事で何度もしている。電話番号がなければ近所に聞く。用件を書いた名刺を置く。次の約束を取りつける。そういうことは、やってきた。
けれど、ここでそれをする気にはなれなかった。
呼び鈴は見当たらない。
名刺を差し込めそうな隙間もない。
綾は鞄の中で名刺入れに触れた。取り出しかけて、やめた。
暖簾がない。
それだけで、答えは足りていた。
戻りかけたところで、ろーじの入口に自転車が止まった。
白髪の男性が、買い物袋を前かごに入れたまま自転車を降り、こちらへ歩いてきた。綾と目が合うと、男性は「ああ」と声を漏らした。
「こおりやさん?」
「あ、はい。えっと、こちらに少しお話を聞けたらと思って」
男性は路地の奥を見て、片手を軽く振った。
「今日は、やめとき」
「お休みですか」
「休みいうか、仕事してはるんやろ」
「店閉めてる時は、閉めてるんや。開けてはる時に来たげ」
「あの、今の時期って、お忙しいんですか」
「さあ」
男性は笑った。
「うちは香りのことは分からん。ただ、毎年この時期は、家の中でよう動いてはるな。何や知らんけど、箱に入ったもんもよう届くし」
「箱」
綾は鞄から手帳を取り出し、箱、と書き込んだ。
その姿を見て、男性は不思議そうに目を細めた。
「あんた、記者さんかなんかなん」
「はい」
「そしたら、なおさら急かさん方がええな」
「香りのもんは、待つ時間も仕事なんやろ。ほな、帰るわ」
そう言って、男性はもと来た道を戻っていった。
綾は手帳にペン先を置いた。
待つ時間も仕事。
そう書けば、たぶん記事の見出しになる。けれど、ペン先は紙の上で止まったままだった。
綾は路地を出た。
表通りに戻ると、車の音が急に大きくなった。金木犀は、まだどこにも香っていない。
その日の夜、綾はパソコンに向かった。
仮タイトルだけなら、いくつも浮かんだ。
京都のろーじ奥にある、不思議な香りの店。
悩みをほどく香り屋。
必要な人だけがたどり着く店。
古い都に残る、記憶の香り。
どれも、嫌だった。
嫌だと思うのに、なぜ嫌なのかがうまく言えない。
不思議な店、と書けば、あの木札が急に作り物になる。
悩みをほどく、と書けば、あの女性が何でも分かる人になる。
必要な人だけ、と書けば、選ばれた人の話になってしまう。
そうではない。
あの場所は、もっと普通だった。
普通、というには変だけれど、少なくとも、こちらが勝手に飾りつけていい場所ではなかった。
綾は伸びをして、天井を見上げた。
まだ、あの路地の湿った石の匂いが、鼻の奥に残っていた。
メールの返信は、まだできていなかった。
翌日、綾はもう一度周辺を歩いた。
香り屋へ入るため、というより、入らない理由を確かめるためだった。
近くの和菓子屋で、季節のお干菓子を買った。
紙袋を提げて歩いていると、前に道を教えてくれたおばあちゃんに会った。今日もシルバーカーを押している。
「あら、記者さん」
「こんにちは」
「暑いのに、よう歩いてはるなあ」
「仕事なので」
「仕事でも、しんどいもんはしんどいやろ」
おばあちゃんは笑った。
綾も笑った。笑ったついでに、聞いてみる。
「こおりやさん、最近お忙しいんですか」
「行かはったん」
「はい。でも、暖簾が出ていなかったので、帰りました」
おばあちゃんは何も言わず、通りの向こうを見た。車が一台、ゆっくり通り過ぎる。排気の匂いが風に混じり、すぐ消えた。
「えらいなあ」
「え、そうですか」
「そうや。暖簾がない時は、家やしな」
家。
その言葉で、綾は紙袋の持ち手を握り直した。
そうか。家なのだ。
店でもある。仕事場でもある。でも、家でもある。
あの日、綾は香り屋を見つけたと思っていた。けれど、見つけたのは店の入口だけだったのかもしれない。
「この時期は、何か作ってはるんですか」
綾が手帳を出しながら聞くと、おばあちゃんは首を傾げた。
「さあ。私は詳しいこと知らんのよ。ただ、秋の前は忙しそうにしてはるわ。お寺さんやら、昔からのお付き合いやら、いろいろあるんちゃうかな」
お寺さん。
綾は手帳に、お寺さん、と書いた。
おばあちゃんは、面白そうに目を細めていた。
「知りたいんやねえ」
「はい。知りたいです」
「でも、知ったからって、ぜんぶ書けるわけやないやろ」
綾は返事をしなかった。
おばあちゃんは、シルバーカーを押し直した。
「金木犀も、まだやねえ」
急に出た花の名前に、綾は顔を上げた。
「お好きなんですか」
「好きやけど、急かしても咲かへんし」
おばあちゃんは、通りの先へ目をやった。
「毎年、まだかまだか言うてるうちに、急に香るやろ。あれがええんよ」
そう言って、おばあちゃんはゆっくり歩いていった。
綾はしばらく、その背中を見送った。
まだかまだか言うてるうちに、急に香る。
これも、見出しになる。
今までなら、いい言葉をもらったと思って、その場で手帳に書いていた。
けれど、ペンを持つ手は動かなかった。
その日の香り屋にも、暖簾はなかった。
綾は、暖簾がかかっていないのを見て、入口の前まで行かずに引き返した。
数日後、編集部で会議があった。
綾は会議室の机に、小さな紙袋を置いた。
「何それ」
編集長が、ペットボトルの蓋を開けながら聞いた。
「お干菓子です」
「なんで会議にお干菓子なん?」
「取材先に持っていこうと思って」
「思って?」
綾は紙袋の口を指で押さえた。
「渡せませんでした」
編集長は、蓋を開ける手を止めた。
「遠野が?」
「はい」
「香りの店、アポ取れへんかったん?」
「暖簾が出てなかったので」
「……で、入らへんかった」
「はい」
編集長は、しばらく綾を見ていた。
「珍しいな」
それだけ言って、編集長はペットボトルを机に置いた。
「で、その香りの店はどうなん。写真は?」
「まだです」
「店名は?」
「香利屋、だと思います」
「だと思う?」
「近所の人は、こおりやさんとか、こうりやさんとか」
「人によって店の呼び方違うんや」
「店というか、家というか」
編集長の眉が、少し動いた。
「遠野」
「はい」
「記事にできるん?」
まっすぐな問いだった。
綾は、できる、と言おうとした。
言えばよかった。
今までなら言っていた。できます。もう少しで形になります。面白くなります。任せてください。
でも、言えなかった。
「分かりません」
編集長は意外そうに眉を上げた。
「それを、遠野が言うんやな」
「すみません」
「いや、怒ってへん。分からんもんを分からんまま出されるよりはええ」
ペットボトルの水を一口飲み、編集長は椅子に背を預けた。
「一回、別案も用意しといて。香りの店は、急がんでええわ」
急がんでええ。
それを言われた途端、胸のあたりが軽くなった。そのことに、綾は自分で驚いた。
記事にしたいのに。
急かされたくなかったのは、自分の方だったのかもしれない。
会議が終わっても、綾はしばらく席に戻らなかった。
廊下の窓から、隣のビルの屋上を眺めていた。室外機が並び、隅に小さな鉢植えがいくつか置かれている。
その一つに、濃い緑の葉が茂っている。
金木犀ではなかった。
綾は笑った。
何でもかんでも金木犀に見える。
その日の夕方、もう一度だけ香り屋へ向かった。
急がなくていいと言われたのに、足はそちらへ向いていた。
通りは夕方の支度をしていた。店先の照明がつき始め、スーパーの袋を提げた人が行き交う。昼間の熱は壁に残っているが、風にわずかな冷たさが混じっている。
ろーじへ入り、奥へ進む。
古い木札が見える。
香利屋。
暖簾は、なかった。
その代わり、引き戸がわずかに開いていた。
綾は足を止めた。
ほんの指二本ぶんくらいの隙間だった。中の様子は見えない。けれど、人の気配はある。奥に灯りがあるらしく、暗いだけではなかった。何かが動く気配がして、すぐ静かになる。
入れる。
そう思った。
すぐに、別の答えが浮かんだ。
いや、入ってはいけない。
暖簾がない。
綾は手帳を握りしめ、ただ、そこに立っていた。
こつん。
奥で、軽いものが当たる音がした。
続いて、紙を重ねる音がした。何か乾いたものを刻む音が、奥で短く続いた。
そして、綾の鼻先に、風に乗って香りが届いた。
乾いた草の匂いだった。
摘みたての青さではない。紙の包みの奥にしまわれていたものを、いま細かくしたような匂い。葉の渋さの奥に、花とも蜜ともつかない甘さがあった。
この匂いを、知っている気がした。
でも、どこで嗅いだのか分からない。
綾は引き戸の隙間を見た。
「すみません」と言えば、あの女性が顔を出すかもしれない。あるいは、あの男性が、奥から出てくるかもしれない。
取材なら、声をかけるべきなのだろう。
けれど、今、声をかけたら、あの香りが別のものになってしまう。
記事の材料になる。
質問の答えになる。
店の説明になる。
それは、違う。
綾は一歩下がった。
戸に手をかけることはしなかった。
今日は、入る日ではない。
誰かに言われたからではなかった。
奥で、もう一度、箱の音がした。
こつん。
小さな音なのに、ろーじの中ではよく聞こえた。
綾は頭を下げた。
金木犀は、まだ香らない。
けれど、乾いた草と花の香りが、引き戸の隙間から流れていた。
綾は来た道を戻った。
表通りの街灯が見えてくる手前で、一度だけ振り返った。ろーじの奥に、古い家の影が沈んでいる。木札の文字は、もう読めない。
香利屋。
香り屋。
こうりやさん。
こおりやさん。
どれで書いても、足りない。
通りに出ると、車の音が戻ってきた。
綾は鼻先で空気を吸い込んだ。
金木犀は、まだ咲いていなかった。
綾は手帳を鞄の奥へ押し込み、駅の方へ歩き出した。
次のお話:#6 間話 箱の中
