【香り屋】#11 エピローグ 春の終わり、また隣に
石碑のまわりに、白い花が咲いていた。
綾は、本能寺跡の前で足を止めた。
昔、そのことを記事にした。
――歴史に出てくる、あの本能寺は今の場所にはない!
見出しだけ見ると、少し騒がしい。
地図を見ながら、汗を拭きながら、市役所前の方から、何度も通りを確かめたこと。途中で、自分はいったい何をしているのかと思ったこと。けれど、歩かなければ分からないことが、たしかにあったことを覚えている。
今日も、少し暑い。
石碑のそばに咲いている花から、甘い匂いがした。
梔子。
潤ちゃんの花や。
そう思った途端、綾は笑った。
昔なら、そのまま胸の奥まで持っていかれていたかもしれない。けれど今日は、潤に会う。会うと決めて、ここまで来た。
白い花は、葉の濃い緑の中で、ぽつぽつと昼間でも灯りのように浮いていた。
「今年も、よう香ってきたねえ」
声がして、綾は振り向いた。
日傘を差した年配の女性が、ゆっくり歩いていた。その隣には、白い杖を持った男性がいる。女性は男性の腕に、手を添えていた。
「ほんまですね」
綾が答えると、男性が顔を上げた。
「ここ、ええ匂いするな。何やったかな、この花」
「梔子です」
「くちなし、そうかあ。とにかく、ええ匂いや」
女性が笑った。
「この匂い嗅いだ人には、ええことありそうやなあ」
綾は、そうですね、と答えた。
メモ帳は出さなかった。
鞄の中に入れたままでも、残るものはある。
最近、そう思うことが少し増えた。
綾は二人に軽く頭を下げ、バス停の方へ歩き出した。
背中の方で、女性の声がした。
「そこ、少し段あるしな」
「分かってる」
「分かってる人ほど、危ないねん」
綾は、もう一度だけ振り返った。
潤ちゃん、覚えてるやろか。
綾は首を振った。
覚えていなかったら、その時は、その時や。
バスは、思ったより混んでいた。
綾は吊り革につかまり、車内を軽く見回した。観光客らしい人のキャリーケースが、足元で小さく揺れている。買い物帰りの紙袋。制服姿の学生。冷房の入り始めた車内の空気に、湿った服の匂いが少し混じっていた。
さっきの梔子の匂いが、まだ袖に残っているような気がした。
バスが停まるたび、前の方から声が聞こえた。
「足元、お気をつけください」
乗り込んできた年配の女性が、運転席に向かって小さく頭を下げた。
「ゆっくりで大丈夫ですよ」
綾は、その声を聞きながら、窓の外に目を戻した。
次の停留所で、杖を持った男性が降りた。
扉が開く。
「段差があります。お気をつけください」
「おお、おおきに」
「ありがとうございました。よい一日を」
バスがまた動き出した。
京都駅に着くと、人の流れが一気に増えた。
綾は、改札へ向かう人たちの波を避けながら、駅ビルの方へ歩いた。待ち合わせのカフェは、潤が昔言っていた店だった。
京都駅の方に、ママキ茶が飲めるところがある。
そう言っていた潤の顔を、綾はまだ覚えている。
エレベーターの前には、何人かが並んでいた。
扉が開く。
中には、車椅子の女性と、その車椅子を押す男性がいた。綾は隅に寄り、ほかの人たちと一緒に乗り込んだ。
車椅子の女性は、膝の上に小さなバッグを置いている。男性は、その後ろに立ち、両手で持ち手を握っている。
エレベーターが上がり始めた。
数字がひとつ変わった時、女性がふと男性を見上げた。
「このお店、どこで知ったんでしたっけ」
男性は、少し大きく笑った。
「ははは。そうですねえ、そこんとこも、お茶飲みながら話しましょ」
明るい声だった。
女性は、不思議そうに瞬きをしたあと、そうですね、と小さく言った。
エレベーターが止まった。
綾は、扉の近くにいたが、足を半歩引いた。
男性が車椅子をゆっくり押す。
「すんませんねえ」
軽く会釈をされたので、綾も頭を下げた。
車椅子が通路へ出る。人の流れが左右に分かれた。
綾はそっと二人の脇を通り過ぎようとした。
その時、男性が車椅子の女性のそばへ腰をかがめた。
さっきより低い声が、綾の耳に届いた。
「今日行くお店はね、美咲、あなたが私を連れてきてくれたお店なんですよ」
「あら、私が」
「ええ。前に、ここのお茶がおいしいって」
「そうでしたか」
女性は、少し困ったように笑った。
「ごめんなさいねえ。最近、私、忘れっぽくて」
「ええんですよ」
男性の声は、もう大きくなかった。
「何度でも、行きましょう」
綾は、そのまま二人をゆっくり追い抜いた。
同じ店かもしれない。
そう思ったが、確かめることはしなかった。
カフェの入口が見えてきた。お昼を少し過ぎた時間で、店の前には二組ほど待っている人がいた。店内から、コーヒーと焼き菓子の匂いが流れてくる。
綾は、スマホを取り出した。
潤からのメッセージが入っていた。
――窓側の席、取れた。
短い文だった。
綾は、口元だけで笑った。
潤は、歩くのが嫌いではなかった。
小さなノートを一冊、鞄に入れている。気になる建物の角や、店先の看板、いつの間にか変わっていた窓の形を、信号待ちのあいだに少しだけ描く。
京都の町は、古い顔をしているくせに、案外忙しい。
しばらく通らないうちに、店が変わっていたり、壁の色が塗り直されていたりする。昔からあると思っていた看板がなくなって、知らない間に別の店になっていることもある。
見ていて、飽きない。
だから今日も、バスには乗らなかった。京都駅までは、歩けない距離ではない。ぎりぎりに着くのは嫌だったので、早めに家を出た。
本能寺跡の石碑の前まで来ると、潤は足をゆるめた。
ここを通るたび、綾の記事の見出しを思い出す。
――歴史に出てくる、あの本能寺は今の場所にはない!
記事の中で綾は、途中から少しぼやいていた。たぶん、市役所前の方から歩いたのだろう。よう歩くわ、と潤は思う。
そう思いながら、自分も歩いている。
もしかしたら、自分も歩き回る仕事には向いていたのかもしれない。記者は、たぶん無理やけど。
潤は、石碑の横で一度立ち止まった。
甘い匂いがした。
白い花が、葉の中にいくつも咲いている。
梔子や。
潤は、ノートを出しかけた手を止めた。
描こうと思えば描ける。
白い花の輪郭も、濃い葉の重なりも、石碑の影も。
けれど、今日は描かなくてもいい気がした。
綾ちゃん、まだ覚えてるやろか。
潤は小さく首を振った。
覚えていなかったら、笑えばいい。
覚えていたら、それも笑えばいい。
潤は、ノートを鞄に戻した。
カフェに着いた時、店内はほどよく混んでいた。
一人で本を読んでいる人。大きな荷物を足元に置いた観光客。母親と娘らしい二人。スーツ姿の男性。窓際では、外を見ながらコーヒーを飲んでいる人がいる。
ちょうど、窓側のカウンター席が二つ空いた。
潤は、そこに座った。
窓からは、下の方に改札が見え、たくさんの人が行き来している。大きな荷物を引く人、手をつないだ親子、誰かを探して立ち止まる人。京都駅は、いつ見ても忙しい。
潤は鞄から薄いファイルを取り出した。
綾の記事を入れているファイルだった。
最初は、たまたま見つけた記事を一枚だけ挟んだ。次に、また見つけた記事を挟んだ。そのうち、見つけたら保存するようになった。
記者・遠野綾の東奔西走。
誌面の隅にあるその名前を見るたび、潤は少しだけ変な気持ちになる。
うまいことやってるな、と思う。
相変わらずやな、とも思う。
そして、やっぱり思う。
面白い記事なんだよな。綾の記事って。
後ろのテーブルから、男性の声が聞こえた。
潤が顔を上げると、窓に、向かい合って座る二人の影がうっすら映っていた。
「なんで、料理の道に進もうと思わはったんですか」
女性の声だった。
お見合いかな。少し硬い間があった。
カップを置く小さな音がしたあと、男性の声がした。
「自分に嘘ついて、後悔したくなかったからです」
その言葉は、潤に向けられたものではない。
もちろん、そんなことは分かっている。
それでも、少しだけ耳に残った。
頑張りや、青年。
潤は、心の中でそう言った。
ファイルの一番上には、最近の綾の記事があった。
『香りの消える頃に』
遠野 綾
店の名前は、どこにも出ていなかった。
けれど、読んでいると、どこかに道がある気がした。はっきり示されているわけではないのに、歩いてみたくなる。
綾ちゃんの記事、肝心なとこ書いてへんし。
そう思うと、少し腹が立つ。
でも、その肝心なところを書かなかったのが、たぶんあの記事の肝心なところなのだろう。
ややこしい。
潤はファイルを閉じかけた。
「お待たせーー」
声がした。
潤は顔を上げた。
綾が立っていた。
「ごめん、遅れた」
「混んでたん?」
「駅はいつでも混んでる」
「それはそう」
綾は潤の隣の椅子を見た。
「横並びなんや」
「嫌なら、向こう空くの待つ?」
「いや、ここでええわ」
綾は隣へ座った。
その動きがあまりに自然で、潤は少しだけ目を逸らした。
喫茶店のカウンター。学食の端。展覧会の帰りのベンチ。昔から、向かい合うより、隣に座って話すことの方が多かった気がする。
綾がメニューを手に取った。
「今日な、本能寺跡の前、通ってん」
潤は、思わず綾を見た。
「うちも通ってん」
「え」
「家から歩いてきたし」
「家、まだあの辺やったんやな」
「うん」
「よう歩くなあ」
「綾ちゃんに言われたない」
綾が笑った。
「あそこ、咲いてたやろ」
「咲いてた」
少しだけ間が空いた。
「「梔子」」
二人の声が重なった。
一瞬、二人とも黙った。
それから、ほとんど同時に笑った。
「今の、完全に合ったな」
「合った」
「まだ覚えてたん」
「覚えてるやろ。日本三大香木仲間やし」
綾はメニューを置いた。
「私が沈丁花で」
「うちが梔子」
「あと金木犀の人を探したら完成」
「まだ見つかってへんなあ」
「もう、探さんでええんちゃう」
潤が言うと、綾は少しだけ目を丸くした。
「え、諦めたん?」
「諦めたというか」
潤は窓の外を見た。
「別に、三つそろわんでもええかなって」
駅の前を、人が流れていく。
大きなキャリーケースを引く人の後ろで、小さな子どもが何かを指さしていた。母親らしい人が、しゃがんでそれを聞いている。
「そっか」
綾が言った。
店員が水を置きに来た。
綾はメニューを見て、目を丸くした。
「ほんまにある」
「何が」
「ママキ茶」
「あるって言うたやん」
「昔な」
「昔言うても、事実は変わらん」
「潤ちゃんは、そういうとこ変わらんなあ」
「綾ちゃんもな」
二人はママキ茶を頼んだ。
店の中には、カップの当たる音や、誰かの笑い声、店員の返事が混ざっていた。
綾が、窓の外を見たまま言った。
「潤ちゃん」
「何」
「花開いたね」
潤は、すぐには返事をしなかった。
メニューの端を、指で軽くなぞる。
昔なら、たぶん腹が立った。
花開くって、簡単に言うな。
うちがどんな気持ちで描いてるか、知らんくせに。
「……それ、昔言われた時は、ちょっと腹立った」
潤が言うと、綾はすぐには返さなかった。
「知ってる」
「知ってたん」
「今はな。あの時は、分かってへんかったと思う」
「遅いな」
「遅いねん、私」
綾はそう言って笑った。
「でも、今は、まあ……受け取っとくわ」
「素直になったなあ」
「調子乗んな」
ママキ茶が運ばれてきた。
薄く赤みを帯びたお茶が、白いカップの中で揺れている。
綾はカップを両手で包んだ。
「ここ、覚えてる?」
「覚えてる。昔、潤ちゃんが言うてたとこやろ」
「京都駅行ったら寄ってみ、って言うた気がする」
「行かんかったけどな」
「行ってへんのかい」
「だって、京都駅でママキ茶飲む用事、そんなになかったし」
「今あるやん」
「今はある」
綾はそう言って、ひと口飲んだ。
潤もカップに口をつけた。
昔飲んだ味と同じかどうかは、分からない。
けれど、似ている気はした。
少し乾いた甘さ。
草のような、木のような、湯気の奥にある味。
綾がカップを置いた。
「あの記事、読んだで」
綾の手が、少し止まった。
「どの記事?」
「店の名前、出てへんやつ」
「あれ、読んだんや」
「読んだ」
「どうやった?」
「ずるい記事やと思った」
「褒めてる?」
「半分くらい」
「半分かあ」
「肝心なとこ書いてへんし」
綾は、笑った。
「そうやな」
「なんで、店の名前、書かへんかったん」
潤が聞くと、綾は少し考えた。
「忘れてしまってん」
「忘れた?」
「うん」
綾は、カップに添えた指を少し動かした。
「でもな、思い出さなくても、いいかなって」
「記者がそれ言う?」
「言う時もある」
「編集長、怒らへんかったん」
綾は潤の方を見て、軽く拳を握った。
「怒ったというか、戦った」
「戦ったんや」
「まあ、そこそこ」
「勝ったん?」
「完全勝利ではないけど、記事は載った」
「いつものより長かった」
「読んでるやん」
「読んだ言うたやん」
綾が、そこで潤の手元に気づいた。
「それ、何」
「別に」
「別に、で隠す量ちゃうやろ」
潤はファイルを閉じようとした。
けれど、遅かった。
綾が身を乗り出す。
「あ、私の記事」
「見るな」
「いや、私の記事やし」
「そういう問題ちゃう」
「めっちゃあるやん」
「たまたま」
「たまたまでファイルにはならんやろ」
綾は、ファイルの端を指で軽く押さえた。
潤は諦めた。
表紙に近いところには、最近の記事が入っている。
その下にも、古い記事が何枚かある。切り抜きもあれば、印刷したものもある。
綾は、しばらく何も言わなかった。
からかうかと思った。
笑うかと思った。
でも、何も言わなかった。
潤の方が、少し居心地が悪くなった。
「……何」
「いや」
綾は、ファイルの一番上にある記事を見た。
『香りの消える頃に』
遠野 綾
店の名前は、やはりどこにもなかった。
「潤ちゃん」
「何」
「私のファンやん」
「ほんま調子乗んな」
綾は笑った。
その笑い方が、昔と似ていた。
潤はファイルを閉じた。
窓から見える下の方では、人が途切れずに行き交っている。どこかへ行く人。どこかへ帰る人。遅れそうなのか小走りの人。誰かを待っている人。
少し離れた席に、車椅子の女性と、その車椅子を押す男性が案内されているのが見えた。
男性は椅子を少し引き、車椅子の位置を何度か確かめていた。女性は窓の方を見て、何かを言って笑っていた。男性が身をかがめると、女性もそちらを向いた。
綾はそちらを少し見ていたが、すぐに目を戻した。
潤は、その横顔を見た。
「その店」
潤が言うと、綾がこちらを向いた。
「その、名前書いてへん店」
「うん」
「今度、行ってみよかな」
綾は、すぐには答えなかった。
カップの中のママキ茶に目を落としている。湯気はもう上がっていない。
「なんとなく、あの辺りかなとは思ってるんやけど」
「思ってるんや」
「綾ちゃんの記事、肝心なとこ書いてへんし」
「まだ言うか」
「大事なことやし」
綾は少し笑ってから、窓の外へ目を向けた。
「行ける時は、行けるんちゃう」
「何それ」
「私も、そうやったし」
「場所、教える気ないやろ」
「教えられるほど、うまく言えへんねん」
「取材したのに?」
「取材したのに」
潤は、少し笑った。
それはそれで、よかった。少なくとも今は。
カフェの匂いの奥に、さっき石碑の前で嗅いだ梔子の甘さが、まだ残っている気がした。
「綾ちゃん」
「何」
「金木犀の人、見つからんままでもええけど」
「うん」
「もし見つけたら、報告するわ」
「まだ探す気あるやん」
「一応な」
「じゃあ、私も探しとく」
「取材にすんなよ」
「分かってる」
綾は、窓の外を見た。
「たぶん」
「たぶんかい」
二人で笑った。
ママキ茶は、少しずつ冷めていく。
梔子の香りも、たぶんそのうち分からなくなる。
でも、今はまだ、わずかに残っていた。
潤の隣に、綾がいた。
