【香り屋】#4 第3話 祇園囃子の聞こえるころ
最近うまくいかない。
倉田聡は、空になった皿を流し場へ運びながら、また同じことを考えていた。
ランチのピークは過ぎていた。
鉄板の熱はまだ残っていて、厨房の奥には、玉ねぎとバターと、少し焦げたソースの匂いがこもっている。
嫌いな匂いではなかった。
むしろ、少し前までは、この匂いの中にいるだけで、自分がちゃんと料理の世界にいる気がしていた。
なのに今日は、その匂いが重かった。
ある常連の男性が、皿を下げる時に言った。
「今日、美味かったんやけど、なんかちゃうなあ」
ただの感想だったと思う。
他の客からは「美味しかったです」と言われた。
小さな子どもが、オムライスの皿をきれいに空にしてくれた。
それなのに何度も繰り返し聞こえてくるのは、
なんかちゃうなあ。
その声だった。
どうして、そっちばかり残るのだろう。
聡は、スポンジに洗剤を足しながら、皿の縁をこすった。
料理人になると決めて、この洋食屋に飛び込んだ。
会社を辞める時は、怖かった。
けれど、迷っているよりはましだと思った。
後悔したくないと思った。
最初は楽しかった。
仕込みに時間がかかっても、皿の上に自分の作ったものが乗って、お客さんの前に運ばれていく。
それだけで嬉しかった。
「美味しかった」
そう言われるたびに、やっぱりこっちに来てよかったと思った。
会社員の時には見えなかった道を、自分の足で歩き始めた気がした。
でも、最近は違う。
「美味しかった」よりも、その後に続く「けど」の方が残る。
「ありがとう」よりも、「遅い」の方が響く。
向いてないのかもしれない。
そう思った瞬間、胸の奥で何かが痛んだ。
またや。
また、同じところに戻ってきている。
何かを始めると、いつもこうだ。
最初は勢いがあるから進む。
そして、透明な壁のようなものにぶつかる。
それが見えるわけではない。
でも、ある。
手を伸ばすと、そこから先に行けない感じがする。
「聡、後悔しんとき。過ぎたものは戻ってこん」
祖父の声が、ふいに浮かんだ。
何度も聞いた言葉だった。
昔から、祖父は何かにつけてそう言った。
行きたいところがあるなら、行ける時に行き。
言いたいことがあるなら、その時に言い。
後悔しんとき。
その頃の聡は、深く考えていなかった。
機会なんて、いくらでもあると思っていた。
今でなくてもいいと思っていた。
会社が落ち着いたら。
時間ができたら。
ちゃんと料理を習ってから。
もっと自信がついてから。
祖父に、自分の料理を食べてもらいたかった。
子どもの頃、祖父と二人で台所に立つことが多かった。
祖父は手の込んだ料理を作る人ではなかったが、朝の味噌汁と、焼き飯、それから、たまに作るオムレツは妙にうまかった。
聡が初めて包丁を握ったのも、祖父の家の台所だった。
「料理人になったらどうや」
冗談のように言われたことがある。
その時、聡は笑って流した。
「そんな簡単ちゃうやろ」
「簡単やないから、ええんやろ」
祖父はそう言って、コーヒー豆を挽いていた。
豆を挽く音が、台所の隅でごりごりと鳴っていた。
仏間からは、線香の残り香が少しだけ流れてきていた。
料理人になったら。
いつかちゃんとした料理を作れるようになったら。
その時に、食べてもらえばいい。
そう思っていた。
でも、間に合わなかった。
祖父は、聡が会社勤めをしている時に亡くなった。
料理人になった聡の料理を、祖父は一度も食べていない。
後悔した。
あれほど、後悔するなと言われていたのに。
だから会社を辞めた。
好きで通っていた洋食屋のマスターに頭を下げて、働かせてもらった。
後悔しないために始めたはずだった。
それなのに、今はまた、後悔の中にいる。
どうしよう。
どうして、いつもこうなるのか。
「倉田くん、今日は上がってええよ」
マスターの声がして、聡は顔を上げた。
「あ、はい」
「疲れてるやろ。今晩は平日で予約もない。明日も、早いしな」
聡は曖昧に笑って、手を洗った。
店を出ると、外はまだ明るかった。
夕方前の京都の街は、妙に落ち着かない空気をしていた。
通りの向こうから、笛の音、鉦の音、太鼓の音が混ざった、祇園囃子の稽古の音が聞こえる。
祇園祭が近づくと、街の空気が少し変わる。
通りを横切っていた電線がなくなり、空がいつもより少し高く見える。
それだけで、ああ、もうそんな時期かと思う。
そして、通りを歩く人の足取りも、どこか浮き立つ。
その浮き立った空気の中で、聡の気持ちだけが、終わりに近い蝋燭の火みたいだった。
消えるわけではない。
でも、もう明るくもない。
聡は、ため息をついて首を横に振った。
またループしている。
このまま帰っても、家でごろごろするだけだ。
スマホを見て、何も頭に入らない動画を流して、気づいたら夜になっている。
それでまた明日、同じ顔をして厨房に立つ。
それでいいのか。
そう思った時だった。
チャリーン。
小さな音がして、聡は足を止めた。
道の脇にある自販機の前で、おじいさんが立っていた。
片方の手には買い物袋を持ち、もう片方には白い杖を持って、自販機の前をカツカツと叩いている。小銭を落としたらしい。
聡は、反射的に近づいた。
「大丈夫ですか」
おじいさんが顔を上げた。
顔はこちらを向いているが、目は聡を見ていない。
「ああ、ごめんな。お金、落としてもうて」
「拾いますよ」
聡はしゃがみ込んだ。
おじいさんの足元から少し離れた所に、百円玉が転がっていた。
「これですね」
「ありがとなあ」
おじいさんは、手のひらを差し出した。
聡が百円玉を乗せると、指先で確かめるように触った。
「ついでに悪いんやけど、水、買うてくれへん?」
「いいですよ」
聡は自販機に硬貨を入れ、冷たい水のボタンを押した。
「はい、どうぞ」
「助かったわ。暑うてなあ」
おじいさんはペットボトルを受け取り、額にあてた。
そして、ふと、何かに気づいたように、聡の方を向いた。
「ところで、お兄ちゃん、飲食の仕事してるんか」
「え、分かるんですか」
「油と、焦げたソースの匂いがするんよな」
おじいさんは、にやっと笑った。
「目ぇ見えん分、音と匂いはよう入ってくるねん」
「すごいですね」
「すごいことあるかいな。不便なことの方が多いわ」
ワハハ、とおじいさんは声を立てて笑った。
その笑い方が、少し祖父に似ていた。
「飲食の仕事って言っても、まだまだですけど。最近、自分に合ってるのか分からなくなってきて」
言ってから、しまったと思った。
初対面の人に何を話しているのだろう。
「すみません。急に」
「ええよ。水買うてもろたしな」
おじいさんは、ペットボトルのふたを少し回してから、また閉めた。
「合うてるかどうかは、知らん。ワシには分からん」
はっきり言われて、聡は少し笑いそうになった。
「ですよね」
「せやけど、そんなふうに言うてるなら、こおりやさんにでも行ったらええわ」
「氷屋さん?かき氷ですか」
「ちゃうちゃう。こおりやさんや」
「小売屋さん?」
「それもちゃうなあ」
おじいさんは、白杖を持ち直し、道の先の方を指した。
「この通りをちょっと行ったとこにな、左へ入る細いろーじがある。人ひとり通るくらいの細い道や。そこをどんつきまで行ってみ」
「どんつき」
「突き当たりや」
「あ、はい」
「目ぇ見えんおじいから言われて来た、て言うたら、ようしてくれるわ」
それだけ言うと、おじいさんは大通りの方へ歩き出した。
白杖の先が、カツン、カツン、と道を叩く。
「あの、ありがとうございました」
聡が声をかけると、おじいさんは振り返らずに片手を上げた。
その背中は、すぐに人の流れに紛れた。
こおりやさん。
氷屋ではないらしい。
小売屋でもないらしい。
何の店なのか分からない。
でも、帰ったところで、何も変わらない。
聡は少し迷ってから、おじいさんが指した方へ歩いた。
しばらく歩くと、本当に細い道があった。
表通りから見れば、家と家の間にできた隙間のようだった。
人ひとりが傘を差せば、それだけでいっぱいになりそうな道。知らなければ、まず入ろうとは思わない。
聡は入口で足を止めた。
ここで合っているのだろうか。
湿った石の匂い。
古い木の匂い。
どこかの家で炊いている米の匂い。
聡は、細い道へ入った。
一歩進むごとに、車の音が消えていく。
人の声も、足音も、だんだん遠くなる。
その代わりに、遠くから祇園囃子が柔らかく聞こえた。
誰かが稽古でもしているのかもしれない。
分からない。
でも、不意に、聡は祖父と歩いた夜を思い出した。
子どもの頃、祖父に連れられて、遅い時間に山鉾を見に歩いたことがあった。
昼間の祇園祭とは違った。
祖父は、ゆっくり手を引いてくれた。
鉾の近くを通る時、見上げすぎて首が痛くなった。
その時も、お囃子の音は遠かった。
近くにあるはずなのに、どこか別の場所から聞こえているようだった。
人はまばらで、熱気は引いていて、灯りだけがぼんやり浮かんでいた。
自分のためだけの祇園祭みたいだ。
恥ずかしくて、誰にも言わなかった。
ろーじは、どこにも抜けていなかった。
戻るしかない道だった。
その奥に、古い家があった。
格子戸の横に表札があり、その脇に、色の褪せた木札が掛かっていた。
香利屋。
聡は、声に出さずに読んだ。
こうりや。
こおりや。
たぶん、ここだ。
暖簾がかかっていた。
扉は少し開いていた。
入っていいのだろうか。
聡は、引き戸の前でしばらく立った。
おじいさんに言われたから来た。
でも、何をしに来たのか、自分でも分かっていない。
戻ろうか。
そう思った時、また祖父の声がした気がした。
聡、後悔しんとき。
聡は、小さく息を吸い、暖簾をくぐった。
ちりん、と鈴が鳴った。
「はーい」
奥から声がした。
細い通り庭の向こうに、着物姿の女性が現れた。
「あ、えっと」
急にどう説明すればいいのか分からなくなって、聡は言葉を探した。
「今、通りの自販機の前で、おじいさんのお金を拾って、その、おじいさんが白杖を持っていて」
女性は、ふふっと笑った。
「全部話さんでもええですよ。目ぇ見えんおっちゃんから言われて来た、て言えとか、言われたんと違いますか」
「はい。そうです」
聡はほっとした。
「でも、こおりやさんがどんなお店かも知らなくて」
「大丈夫ですよ。お茶でも飲んでいってください」
「お茶、ですか」
「今日は、ちょうど別のものもありますし。まあ、どうぞお上がり下さい」
女性は奥へ向かって歩き出した。
聡は靴を脱いで、その後についていった。
古い木の匂いの奥から、うっすらと緑茶の香りが流れてくる。
坪庭を横目に奥に進むと、カウンターと椅子がある部屋に出た。
「どうぞこちらへお座りください。そうちゃん、お客さん」
カウンターの向こう、棚のそばから男性が顔を出した。
着物かと思ったが、作務衣を着ている。手には小さな匙のようなものを持っていた。
「いらっしゃい」
男性は、静かに頭を下げた。
棚に目を向けると、茶葉の缶や湯呑み、鉄瓶のようなものが並んでいる。
反対側には、小さな木箱や、紙に包まれた何か、乳鉢、古い道具のようなものも見えた。
横を見ると、さっき脇を通った坪庭が見えた。
葉が青々としている。水を打ったあとなのか、石が少し濡れていた。
聡は、遠慮しながら座った。
「ちょうどこれから淹れるところなんです」
女性が棚から、コーヒー豆の入った瓶の蓋を開けた。
コーヒー豆の香りが、聡のところまで届いた。
思わず顔を上げた。
「コーヒーなんですね」
「この前、近所の方から豆をいただきまして。うちでは、飲むのはお茶の方が多いんですけど、せっかくやし」
女性は、カラカラとコーヒー豆を手回しのミルに入れた。
「そうちゃん、お願い」
手回しのミルを男性に渡し、女性は鉄瓶のそばに戻った。
手回しのミルの音、鉄瓶の音が混ざって、賑やかだった。
祖父も、よく豆を挽いていた。
朝と夕方、コーヒーを飲む時間になると、台所の隅で手回しのミルを回していた。
ごりごり。
その横で、聡はコーヒーに使うお湯を用意していた。
仏間から流れてくる線香の匂い。
コーヒーの香ばしさと、少しの苦さ。
祖父の背中。
コーヒーを飲む時、お湯を用意するのは、いつも聡の役目だった。
聡がカウンターを見るともなく見ていると、淹れられたコーヒーが目の前に置かれた。
「どうぞ。熱いのでお気をつけて」
「ありがとうございます」
黒い液面から、湯気がほんのり上がっている。
「コーヒー豆って、うちでは結構大事なんです」
男性は、ミルの手入れをしながら言った。
「飲むためだけやなくて、お香を作る時にも使います。途中で、鼻がきかなくなることがあるので」
「ここは、お香を作るお店なんですか」
聡が聞くと、男性は小さく頷いた。
「はい。お寺さんに納める匂い袋を作ったり、ご近所さんのお供えの香を包んだりしています」
「大きなお店みたいにはしてませんけど、香の仕事をさせてもろてます」
「お香にコーヒー豆が必要なんですね」
「入れるわけやないんですけどね」
男性は少し笑った。
「いったん戻すんです。足した香りは、あとから取り出せませんから」
あとから取り出せない、という言葉を聞いて、聡は思わず口にした。
「料理と似ているんですね。入れた調味料は取り出せませんし」
言ってから、気恥ずかしくなり、聡はカップを両手で包んで、コーヒーを見つめた。
男性は、一瞬手を止めた。
「ほんまですね」
それから、鉄瓶に水を足していた女性の方を見た。
「なあ、しおりさん」
「ほんまやね」
女性も笑っていた。
遠くで、太鼓の音がトン、トンと聞こえた気がした。
聡は、コーヒーを一口飲んだ。
「美味しいです」
「お兄さん、コーヒーお好きなんですか」
「はい。祖父がよく飲ませてくれて。子どもの頃は苦いだけやと思ってましたけど」
聡はカップの中を見た。
「最近は、お客さんに出すものばかり気にしてて、自分は缶コーヒーで済ませてました」
「飲食のお仕事されてはるんですか」
「はい。洋食屋で働いてます。料理人って言うには、まだまだですけど」
「料理人さん」
女性は、少し嬉しそうに繰り返した。
「どうりで、さっき料理の喩えが出てたんやね」
「それにしても、同じ味を出すって、すごいことやと思います」
「いえ、そんな」
聡は、カップを持つ手を止めた。
女性は、カウンターの向こうで鉄瓶の蓋を少しずらした。
「自分の調子がええ日も、悪い日もあるでしょう。暑い日も、雨の日も、眠れてへん日もある。それでも、お客さんには同じように出す。うちは料理のことは分かりませんけど、それは大変なことやと思います」
聡は、返事に迷った。
ありがたい言葉なのに、素直に受け取れなかった。
「でも」
口から、勝手に言葉が出た。
「最近、分からなくなってきて」
聡は、坪庭へ目を向けた。
濡れた石の上に、小さな葉が一枚落ちていた。
「お客さんから、美味しいって言われても、前みたいに嬉しくなくて。代わりに、味が変わったとか、なんか違うとか、そういう言葉ばかり気になるんです」
言いながら、胸のあたりが痛かった。
「祖父と暮らしていた頃、よく台所に立っていたんです。料理当番みたいな感じで。その頃は、こんなふうに考えたことなかったんですけどね」
コーヒーの湯気が、弱くなっていた。
「祖父に、料理人になったらどうだって言われたことがあって。でも、その時は、なんとなく、今じゃないと思っていました。いつかでいいって」
聡は、自分の指先を見た。
「でも、祖父が亡くなって。料理人になった自分の料理を、一番食べてもらいたかったんです。
祖父にだけは、食べてもらいたかった。
……間に合わへんかったんです」
喉の奥が詰まった。
「後悔するなって、祖父の口癖だったんです。だから、会社を辞めて、料理人の世界に飛び込んだのに」
そこまで言って、聡は目を閉じた。
「それなのに、また後悔してる気がして」
外から、遠いお囃子の音が聞こえた気がした。
さっきよりも、もっと遠い。
女性は、鉄瓶から上がる湯気を見ていた。
「うちもね」
やがて、ぽつりと言った。
「この仕事をしていると、言われることがあります。前と違う気がする、とか。香りが変わったんと違うか、とか」
聡は顔を上げた。
「お香でも、ですか」
「はい」
女性は頷いた。
「同じ材料で、同じ配合で、同じように作っていても、言われる時はあります」
男性が、小さく笑った。
「ありますね」
その声は、苦笑いに近かった。
女性は続けた。
「もちろん、こちらが間違えていることもあるかもしれません。だから確認はします。配合帳も見ますし、出来上がった香りも確かめます」
「でも、何も間違ってへんこともあります」
「そういう時、どうするんですか」
聡は思わず聞いた。
「説明するんですか。材料は同じです、とか」
その時、外のどこかで、鉦の音がかすかに、ちん、と鳴った。
女性は、首を横に振った。
「言う前に、聞きます」
「聞く?」
「はい。どんなふうに違いましたか、って」
聡は、カップの縁に指を添えた。
「それで、分かるんですか」
「分かる時もありますし、分からへん時もあります」
女性は、そこで少し笑った。
「でも、お話を聞いていると、香りの話をしていたはずなのに、いつの間にか別の話になっていることがあります」
「別の話」
「その日の体調のことやったり、眠れてへんことやったり、家のことやったり。香りが違うと思った理由が、香りだけにあるとは限らへんのです」
聡は何も言えなかった。
「天気で、香りの感じ方も変わります。湿気の多い日と乾いた日では、立ち方も違いますし」
女性は、坪庭の方を見た。
「でも、それを言い訳にしてしまうと、お客さんの声を聞きそびれることがあります」
聡の胸の奥で、何かが小さく動いた。
聞きそびれる。
「なんとなく違う、の、なんとなくにも、何かあるんやと思います」
女性は、カウンターに手を置いた。
「そういうことも、聞かせてもらうんです」
聡は、黙っていた。
今日の常連の声が戻ってくる。
なんかちゃうなあ。
聡はその言葉を、ただ怖がっていた。
否定されたと思った。
自分には向いていないと言われた気がした。
でも、聞いただろうか。
何が違いましたか。
前のどんなところが好きでしたか。
今日のは、どこが気になりましたか。
聞いていない。
怖くて、聞けなかった。
遠くで、鉦と太鼓が、ちん、とん、とまた鳴った。
マスターにも、聞けていない。
どうしたらいいか。
どこがぶれているか。
自分では分からないところを、聞いていない。
聞く。
何を。
どうやって。
考え始めると、胸の奥がざわざわした。
怖い。
男性が、カウンターの上に小さな包みを置いた。
和紙で包まれた、手のひらに乗るほどのものだった。
「これは」
「包み香です」
男性が言った。
「和紙でお香を包んだものです。持って帰って、時々、そばに置いてみてください」
「いただいていいんですか」
「はい」
聡は、両手で包みを受け取った。
和紙は軽かった。
けれど、手のひらに乗せると、妙に存在感があった。
鼻に近づける。
最初に、緑茶の匂いがした。
そして、やわらかい木の香りがした。
甘いようで、甘すぎない。
どこか乾いた、落ち着いた香り。
その奥に、ふっと仏間の匂いが混じった気がした。
祖父の家の仏間。
仏壇にあげたお茶。
薄暗い部屋。
線香の煙の名残。
台所から、コーヒーの匂いがする。
祖父が豆を挽いている。
ごりごり。
ごりごり。
「聡」
祖父の声がした。
後悔しんとき。
過ぎたものは戻ってこん。
そこまでなら、何度も思い出した。
でも、本当は、その先があった。
祖父は、いつもそこで終わらなかった。
「後悔してる暇があったら、原因と向き合い」
聡は、包み香を持ったまま動けなくなった。
そうだ。
そう言っていた。
後悔するな、だけではなかった。
過ぎたものは戻ってこない、だけでもなかった。
原因と向き合い。
聡は、その先を見ないふりしていた。
祖父に食べてもらえなかった後悔。
会社員のまま動かなかった後悔。
それが苦しくて、料理人の世界に飛び込んだ。
でも、飛び込んだだけで、向き合ったつもりになっていたのかもしれない。
料理が好きだった。
祖父に食べてもらいたかった。
後悔したくなかった。
それは本当だ。
でも、今、うまくいかない理由を、ちゃんと聞こうとしているだろうか。
味が違うと言われた時、逃げていないか。
怖いから、聞かないままにしていないか。
自分に向いていないという言葉で、片づけようとしていないか。
聡は、ゆっくり息を吐いた。
包み香の香りが、少し遠くなる。
でも、なくならない。
聡は、包み香を見た。
「なんか、久しぶりに祖父の声をちゃんと思い出しました」
言ってから、少しだけ目の奥が熱くなった。
「ずっと、後悔するな、のところだけ覚えていたんです。でも、その先があったんやって」
男性は、ただ、静かに頷いた。
「今度、常連さんに聞いてみます」
「なんかちゃう、って言われたんです。怖くて、そのまま流してしまったんですけど。何が違ったのか、聞いてみようと思います。あと、マスターにも」
言いながら、胸の中がざわついた。
怖い。
たぶん、聞けば傷つくこともある。
自分が思っていたより、できていないことが分かるかもしれない。
でも、分からないまま同じところを回るよりは、ましな気がした。
「ええと思います」
女性は、それだけ言って、カップをそっと引き寄せた。
「あの、お代は」
聡は慌てて鞄に手を伸ばした。
女性は首を横に振った。
「今日は、いただきません」
「でも、コーヒーもいただいて、これも」
聡は包み香を見た。
「いただきすぎです」
「まあ、あのおっちゃんの紹介ですし」
女性は、おどけたように笑った。
「またいつか、何かの形で」
聡は少し考え、鞄から名刺入れを探し、ショップカードを取り出した。
「あの」
聡は、それをカウンターに置いた。
「今度、ぜひ食べに来てください」
女性がカードを見た。
「お兄さんの働かれているお店ですか」
「はい。まだ、偉そうなことを言える腕ではないんですけど」
聡は、少し笑った。
「でも、来てください。ちゃんと作ります」
言ってから、胸の奥が熱くなった。
祖父には、もう食べてもらえない。
それは戻らない。
でも、誰かに食べてもらうことはできる。
目の前の人に、これから作る料理を出すことはできる。
男性が、ショップカードを手に取った。
「ここから遠くない所で、やってはるんですね」
「はい」
「楽しみにしています」
そう言われて、聡の背筋が伸びた。
「ありがとうございます」
聡は立ち上がった。
女性が、包み香を小さな紙袋に入れてくれた。
「湿気の多い時期ですし、あまり濡らさんようにしてくださいね」
「はい」
聡は、紙袋を受け取った。
玄関口で、聡は振り返った。
「本当に、ありがとうございました」
女性と男性が、並んで頭を下げた。
「また、どうぞ」
その声を背中に受けて、聡は暖簾をくぐった。
外の空気はさっきより明るい気がした。
細い道を戻って通りへ出ると、祇園囃子がまだ続いていた。
さっきは遠いだけだった音の中に、鉦と笛と太鼓があった。
そのあいだに、人の手で置かれた間まで聞こえる気がした。
聡は、紙袋の中の包み香を取り出した。
鼻に近づけると、お茶と甘い木の香りがかすかに立った。
強くはない。
でも、そこにある。
帰って休むつもりだった。
けれど、店の冷蔵庫の中身を思い出した。
明日のデミグラス。
なんかちゃうなあ、と言った常連の顔。
マスターが何も言わずに見ていた鍋の底。
聞いてみよう。
怖いけど、聞いてみよう。
聡は、包み香をポケットにしまった。
祖父の声が、今度は最後まで聞こえた気がした。
聡、後悔しんとき。
過ぎたものは戻ってこん。
後悔してる暇があったら、原因と向き合い。
分からん時は、聞いたらええ。
聡は、大通りの喧騒の中へ歩き出した。
夜営業までは、まだ少し時間がある。
仕込みに戻ろう。
そう思ったら、足取りが速くなった。
次のお話:#5 第4話 金木犀はまだか
