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【香り屋】#10 第8話 香りの消えるころ

 一月が終わりに近づいても、机の上のメモ帳は、開いたままだった。

 綾は、ペン先を紙に置いたまま、しばらく動かなかった。

 お稲荷さん。
 番茶。
 薬力さんの水。
 湯気。
 口の中に残った甘さ。
 取り出せなかったメモ帳。

 書けそうな言葉はいくつもあった。

 伏見稲荷の山の上で、香り屋の夫婦が何をしていたのか。どうして、お稲荷さんを持って上がったのか。薬力さんの水を、香り屋ではどんなふうに使っているのか。

 ちゃんと聞けば、記事になったと思う。
 ちゃんと聞けば、読者にも伝えられたと思う。

 けれど、あの日、綾はメモ帳を出さなかった。

 食べ終われば、皿の上には何も残らない。
 番茶は、飲めば減る。
 湯気は、いつの間にか消える。
 甘さも、しばらくすれば口の中からなくなる。

 当たり前のことや。

 でも、それを記事にしようとすると、急に手が止まる。

 店名。
 住所。
 営業時間。
 店主の名前。
 おすすめの香り。
 読者への案内文。

 そういうものを並べれば、いつもの記事になる。読者にも親切やし、編集長にも怒られない。

 なのに、そこへ向かおうとすると、何かが違った。

「……何が違うねん」

 綾は椅子の背にもたれた。

 パソコンの画面には、まだ一行しか打ち込まれていない。

 本能寺跡からほど近い通りの奥に――

 そこで止まっていた。

 古い香の店がある、と続ければいい。
 けれど、それを書いた途端、あのろーじの奥にあった家が、急にどこにでもある場所みたいになる気がした。

 綾は画面を閉じた。

「先、別のやつやろ」

 声に出すと、急に言い訳っぽく聞こえた。

 ただ、別の仕事があるのは本当だった。

 春先に開かれるアートフェアの紹介記事。若手作家と、はじめて訪れる人のための会場の歩き方を紹介する、見開きの企画だった。会場案内、注目ブース、周辺の立ち寄り先、はじめて行く人への楽しみ方。

 こういう記事は、綾の得意な方だった。

 人の話を聞く。
 資料を読む。
 歩きまわる。
 適度に、ぼやく。
 それから、読者が行ってみたくなる入口を作る。

 香り屋の記事より、ずっと書きやすい。

 綾は、パソコンをもう一度開き、アートフェアの資料フォルダを開いた。

 出展作家一覧。
 会場マップ。
 推薦者一覧。
 推薦枠の作家一覧。
 一般選考の通過作家。
 作品販売についての案内。
 プレスリリース。

 綾は、出展作家一覧を見ながら、印をつけておいた情報を見返した。

 雑誌を読む人の多くは、作品を買い慣れた人ではない。たぶん、会場に行ってみたい、作品を見てみたい、でもちょっと入りにくい。そういう人たちだ。

 だから、作家本人の言葉だけでは足りない気がした。

 このアートフェアの主体は、あくまで作家だった。ギャラリーが若手作家を連れてくる形ではない。

 それでも、初めて名前を見る読者には、その作家がどこで展示してきたのか、どんな場所で見られてきたのかも、ひとつの手がかりになる。

 綾は、まず過去の展示履歴を追った。どのギャラリーで展示していたのか。どの公募に出していたのか。

 印をつけたのは、年末のことだった。複数の作家の履歴を追っていくうちに、何度も名前が出てくるギャラリーがいくつかあった。

 年明けに回ったのは、その中の何軒かだった。

 あの日は、帰り道に香り屋へ寄り、薬力さんの水と、お稲荷さんを分けてもらった。

 綾は、その時に閉まっていて話を聞けなかった何軒かに電話をし、担当者に話を聞いた。

 作家を見てきた人たちは、作品を売る話だけをするわけではなかった。

 作家の思いを、どう鑑賞者に渡すか。
 作品の前で立ち止まった人に、どこまで声をかけるか。
 作家が自分の作品に値段をつける時、横で何を言い、何を言わないでおくか。
 見てもらう場を作ること。
 次につなげる難しさ。

 綾は、聞きながらメモ帳に書き込んだ。

 そんな時、印をつけておいた作家名のひとつが目に入った。

 水野潤。

 名前の横には、推薦者の名が添えられていた。
 綾でも知っている作家だった。

 潤も、こういうところに名前を置くようになったのか。

 そう思って、すぐに紙面の構成へ戻った。

 仕事やし。

 それは、とても便利な言葉だった。


 締切の前日、綾は編集部を出るのが少し遅くなった。

 外の空気は、まだ冷たかった。

 信号待ちのあいだ、どこからか甘い匂いがした。

 綾は顔を上げた。

 沈丁花。

 花は、すぐには見えなかった。よく見ると、小さな花のかたまりがある。白いのか、淡い桃色なのか、街灯の下ではよく分からない。

 それでも、香りだけが先に来た。

 綾は、コートの襟を少し寄せた。

 これ、私の花やったな。

 そう言ったのは、潤だったか。
 自分だったか。

 もう、どちらでもよかった。

 沈丁花は、花の姿より先に香る。
 見つける前に、そこにあると分かる。

 香り屋も、そうやな。

 思ってから、綾は少しだけ笑った。

 何でも香り屋に結びつけたらあかん。

 信号が青に変わった。
 綾は、鞄を肩に掛け直して歩き出した。

 アートフェアの記事は、二月の終わりに載った。

 編集部の机に置かれた見本誌を、綾は昼休みに開いた。自分の記事のページには、会場までのアクセス写真と、プレス用に提供された作品画像、近くでひと息つけるカフェの写真が、ほどよく組まれている。

 悪くない。

 そう思ったところで、後ろから声がした。

「アートフェアのやつ、よかったで」

 綾が振り返ると、編集長がマグカップを片手に立っていた。

「ありがとうございます」

「はじめて行く人向けの入り口、あれでええと思うわ。ちょっと敷居下がる」

「よかったです」

「会場までの行き方と、周辺のカフェ入れたんもよかったな。ああいうの、読者は助かる」

「作品だけやと、少し構えてしまうかなと思って」

「せやな。作品を買いに行く人だけが読むわけちゃうし」

 編集長は、見本誌のページを軽く指で叩いた。

「で」

 来た。

 綾は、見本誌を閉じた。

「香りの店は?」

「……書いてます」

「それ、先月も聞いた」

「ですよね」

「没にするならするでええねん。別ネタあるし。でも、抱えたままやと次、行けへんやろ」

 編集長は、ただ仕事の話をしている。

 それが分かるから、綾は余計に返事に困った。

「もう少しだけ、時間ください」

「もう少しって、どれくらい」

「三月中には、初稿出します」

「言うたな」

「言いました」

「ほな、待つわ」

 そう言って、自分の席へ戻っていった。

 綾は、閉じた見本誌の表紙に手を置いた。

 アートフェアの記事は出た。

 それなのに、香り屋の記事はまだ、パソコンの中で一行目から動いていなかった。

 三月の初め、綾はアートフェアの会場へ行った。

 紹介記事を書いたからといって、必ず会場へ行く必要はなかった。けれど、掲載後の反応を見たいという口実はあった。後追いの小さなコラムに使えるかもしれないし、次の企画につながるかもしれない。

 会場は、白かった。

 白い壁。
 白い床。
 作品の前に立つ人の黒いコート。
 小さく交わされる声。
 紙袋の擦れる音。
 受付で渡される会場マップ。

 綾は、首から下げたプレス証を指で直し、ブースを順に回った。

 若い作家たちは、自分の作品のそばに立っていた。

 声をかけられると、緊張した顔で説明を始める人もいれば、慣れた様子で素材や制作期間を話す人もいる。来場者が作品の前で立ち止まると、作家の方も、言葉を待つように姿勢を変える。

 壁には、作家名と作品名、価格の書かれた小さな札が並んでいた。

 作品に値段がつく。
 名前が、人前に置かれる。

 綾は、メモ帳を開いたまま、少しだけ立ち止まった。

 事前記事では、会場の歩き方を書いた。
 でも、実際に来てみると、紙面に載せきれなかったものがいくつも見える。

 作品の前で足を止めた人を、少しだけ待つ顔。
 説明の途中で、言葉を探す間。
 値段の札の横で、背筋を伸ばす姿。
 それでも、ここに出したのだと思わせる目。

 運営スタッフに会場の反応を聞き、出展作家本人に短く話を聞く。写真を撮っていいか確認する。メモを取る。

 仕事をしているあいだは、余計なことを考えずに済んだ。

 いくつか目のブースで、綾は足を止めた。

 作品の横に置かれた小さなキャプションに、作家名が並んでいた。作品名、素材、制作年、価格。その下に、推薦者の名前が添えられているものもあった。

 その中に、名前があった。

 水野潤。

 白いキャプションカードに印刷された文字は、ただの情報だった。けれど、会場の中で見ると、潤が今もどこかで作品を作り、誰かに見せる場所まで来たのだと分かった。

 綾は、キャプションの前に立ったまま、しばらく動かなかった。

 作品のそばに、潤の姿はなかった。

 少し離れたところで、別の作家が来場者に説明している声が聞こえる。緊張しているのか、途中で言葉がつかえた。それでも、相手はうなずきながら聞いていた。

 綾は、鞄の中のスマホに手を触れた。

 今、連絡したらどうなるのだろう。

 ここにいるのか。
 今日はいないのか。
 出してるんやね、と送ればいいのか。
 記事で名前見た、と言えばいいのか。

 結局、取り出さなかった。

 会場を出ると、外はまだ明るかった。

 綾は駅へ向かいながら、鞄の中のメモ帳に手を触れた。

 名前を見た。

 それだけだった。

 胸の奥がざわついた。


 三月の半ばを過ぎて、綾は香り屋の記事のファイルを開いた。

 本能寺跡からほど近い通りの奥に――

 そこから、もう一度打ち直した。

 本能寺跡からほど近い通りの奥に、古い香の家がある。

 店、と書きかけて、消した。

 家。
 仕事場。
 店。
 住まい。
 香り屋。

 どれも間違いではない。でも、どれかひとつに決めると、何かがこぼれる。

 綾は、古い木札の文字を思い出した。

 香利屋。

 利の字が少し薄れていて、遠目には「香り屋」に見えた。近所のおばあちゃんは「こおりやさん」と言った。「こうりやさん」と呼ばれていたとも言っていた。

 綾だけが、最初から「香り屋」と読んだ。

 それは、間違いだったのだろうか。

 綾は、キーボードの上で指を止めた。

 間違いではない。
 でも、正解でもない。

 あの場所は、綾がつけた名前だけで呼べる場所ではなかった。

 画面の上に、仮タイトルの欄がある。

 綾は、そこにゆっくり打った。

 香りの消える頃に

 打ってから、少し画面を見つめた。

 消える。
 消えていく。

 番茶の湯気は消える。お稲荷さんの甘さも、しばらくすれば口の中からなくなる。沈丁花の香りも、通り過ぎれば分からなくなる。あの家にあった匂いも、外へ出れば感じなくなる。

 けれど、消えたから、なかったことになるわけではない。

 そう書きそうになって、綾は手を止めた。

 それを書いたら、説明になる。

 分かってほしいことほど、書きすぎると嘘になる気がする。

 綾は、記事の本文に戻った。

 出された番茶の湯気。
 坪庭の中で、ぼやっと浮かんで見えた梔子。
 カウンターの向こうで紙を扱う手。
 藤袴。
 ママキ茶。
 お稲荷さんを分ける手。

 一つずつ書いていった。

 途中で、指が止まった。

 藤袴。

 ママキ茶。

 薄く赤みを帯びた湯。
 乾いた甘さ。
 紙の束。

 ガサッ。

 潤が紙の束を鞄にしまう音。
 テーブルの上に置いた千円札。
 もうええわ、と言った声。

 綾は、目を閉じなかった。

 キーボードに手を置いたまま、息を吐く。

 潤は、あの時、何を言いかけていたんやろ。

 それは、今さら考えても仕方のないことだった。

 でも、今まで綾は、そこを考えたことがなかった。

 潤が何を言ったか。
 自分が何を言われたか。
 自分がどれだけ傷ついたか。

 そこまでは何度も思い出した。

 けれど、潤が何を飲み込んだのかは、考えなかった。

 綾は、画面を見た。

 香りの消える頃に。

 タイトルだけが、先に決まっている。

 その下に、本文が少しずつ増えていった。

 三月の終わり、綾は初稿を出した。

 送信ボタンを押す前に、何度も迷った。店名は入っていない。住所も入っていない。営業時間もない。問い合わせ先もない。

 店紹介としては、かなり不親切だった。

 それでも、綾は送った。

 十分もしないうちに、編集長の席から声がした。

「遠野」

「はい」

「ちょっと来て」

 来た。

 綾は、椅子から立ち上がった。

 編集長の机の上には、プリントアウトされた原稿が置かれていた。赤ペンはまだ入っていない。ただ、タイトルの横に大きく丸がついている。

「文章はええ」

「ありがとうございます」

「でもな」

「はい」

「店名どこ」

 綾は、黙った。

「住所は」

「入れてません」

「営業時間」

「入れてません」

「店主の名前」

「入れてません」

 編集長は、眼鏡を少し下げて綾を見た。

「遠野、これ、店紹介やろ」

「店紹介ではないと思うんです」

「思うんです、て」

「すみません」

「読者、どこ行ったらええか分からへんやん」

「はい」

「はい、やなくて」

 編集長は、原稿を一枚めくった。

「悪い記事とは言わへん。むしろ、文章はええ。けど、読者に不親切すぎる。店に行きたいと思った人、どうするん」

 たしかに、その通りだった。

 行きたいと思った読者が、行けない。それは雑誌の記事として、かなり変だ。

 でも、行けるように書いた瞬間、あの場所が変わってしまう気がした。

「もう一回、行ってこい」

 編集長が言った。

「え」

「店名、住所、営業時間。最低限、確認してきて。載せるかどうかは、そのあと考える」

「でも」

「でも、やない。取材先に確認せんまま、勝手に名前伏せるのも違うやろ」

「……行ってきます」

 そう言うしかなかった。


 四月に入ると、街ゆく人の服装に彩りが増えた。桜はもう散り始めていて、道の端に淡い花びらが寄っていた。

 綾は、香り屋へ向かって歩いていた。

 鞄の中には、初稿を印刷した紙が入っている。編集長に言われた確認事項も、メモしてある。

 店名。
 住所。
 営業時間。
 掲載可否。

 取材としては、当たり前の項目だった。

 綾は、通りの角で立ち止まった。

 本能寺跡からほど近い通りを少し入り、見落としそうな細い道へ入る。人ひとりが傘を差せばいっぱいになるような道。奥へ行くほど、車の音が遠くなる道。

 ろーじの奥に、古い家があった。

 暖簾が出ている。

 今日は、入れる日だった。

 綾は、暖簾の前で立ち止まった。

 引き戸も、わずかにあいている。

 木札は、いつもの場所にあった。

 香利屋。

 利の字が薄れている。相変わらず、遠目には香り屋と読める。

 引き戸の隙間から風に乗って匂いがした。
 古い木の香り。
 石の香り。
 そして、うっすらとお茶の香り。

 中から、誰かの声もした。
 栞の声かもしれない。
 蒼介の声かもしれない。
 近所の人かもしれない。

 綾は、暖簾に手を伸ばしかけた。

 聞けばいい。

 店名を教えてください。
 記事に載せてもいいですか。
 住所はどこまで書けばいいですか。
 営業時間はありますか。

 そう聞けば、仕事は進む。

 でも、暖簾の向こうにあるのは、綾の記事のために置かれたものではなかった。

 これまで見てきたものが、暖簾の向こうに重なった。

 紙を折る音。
 箱を動かす音。
 湯気。
 生活の声。
 香りを合わせる手。

 それらは、綾が来る前からそこにあり、綾が帰ったあとも続いていく。

 記事になるから価値があるわけではない。
 名前を載せるから残るわけでもない。

 綾は、伸ばしかけた手を下ろした。

 背後で、小さな車輪が石に当たる音がした。

「今日は、入らへんの?」

 振り返ると、おばあちゃんが、シルバーカーを押して、ろーじの途中の家の門先に立っていた。

「あ……こんにちは」

「こんにちは。今日はあったかいなあ」

「そうですね」

 おばあちゃんは、暖簾を見て、それから綾を見た。

「入るんかと思たわ」

「今日は、いいです」

「そう」

「ほな、また来られる時に来たらええわ」

 綾は、少しだけ頭を下げた。

「はい」

 おばあちゃんは、ゆっくり通りの方へ歩いていった。

 綾はもう一度、暖簾を見た。

 入れる。
 けれど、入らない。

 聞けないのではない。

 聞かない。

 そう思うと、鞄の中の初稿が重くなった。けれど、それは嫌な重さではなかった。

 編集部に戻ったのは、翌日の午後だった。

 綾は、机に座る前に編集長のところへ行った。

「店名、確認してきた?」

 編集長は、パソコンから顔を上げずに聞いた。

「確認してません」

 編集長の手が止まった。

「遠野」

「入れません」

「何を」

「店名も、住所も、営業時間も、入れません」

 編集長は、ゆっくり椅子にもたれた。

「昨日、何しに行ったん」

「確認しに行きました」

「確認できてへんやん」

「はい」

「はい、やなくて」

 綾は、鞄から原稿を出した。

「店紹介としては、載せられないと思います」

「当たり前や」

「でも、店紹介ではなくて、連載の記事としてなら、載せたいです」

 編集長は、黙って綾を見た。

「場所を知らせる記事ではなくて、あの場所で受け取ったものを書く記事にしたいです」

「読者に不親切やろ」

「はい」

「はい、やめ」

「すみません」

 編集長は、ため息をついた。

「遠野、雑誌はな、読者に届いてなんぼやねん。読んだ人が行きたいと思った時に、行けるようにする。それも仕事や」

「分かってます」

「分かってて、これ?」

「はい」

 今度は、綾は言い直さなかった。

 編集長は、少し眉を動かした。

「名前を出したら、違うものになる気がします」

「気がします、では弱い」

「名前を出せば、読者はそこへ行けます。でも、行き方だけを書いても、あの場所のことを書いたことにはならないと思いました」

「不思議な店です、みたいな話にしたいん?」

「違います」

 綾は、首を振った。

「むしろ、逆です。あそこは、誰かの生活と仕事の場所です。だから、消費されるような形では出したくないです」

 言ってから、自分でも少し驚いた。

 消費。

 その言葉を、自分が使うとは思っていなかった。

 編集長は、原稿を手に取った。

「ほな、何を書くん」

 綾は、少し考えた。

「香りが消えたあとに、残るものです」

 言ってから、すぐに足した。

「いえ、そう書くと説明っぽいんですけど」

「今の時点ですでに説明っぽいな」

「ですよね」

 編集長は、ほんの少しだけ笑った。

 綾も、少しだけ笑った。

 けれど、すぐに続けた。

「香りって、残しておけないじゃないですか。花も、お茶の湯気も、食べものの甘さも。あの場所にあった匂いも、持って帰れるわけじゃない。でも、消えたからなかったことになるわけじゃない」

 編集長は黙っていた。

「そういう記事にしたいです」

 編集長は、原稿の一枚目を見た。

 タイトルの横に、前につけた丸がまだ残っている。

「通常の店紹介枠では無理やな」

「はい」

「連載の特別編にするなら、考える」

 綾は顔を上げた。

「え」

「いつもの東奔西走の枠やなくて、特別編。ページも増やす。その代わり、文章で持たせて。店名がないぶん、読ませなあかん」

「はい」

「一・五倍。場合によっては二倍。写真も、店の外観は使わへん。場所が分かるものも避ける」

「ありがとうございます」

「まだ通すって決めたわけちゃうで」

「はい」

「その、はい、ほんま便利やな」

「すみません」

 編集長は赤ペンを手に取った。

「直し、入れる。説明っぽいとこ削るで」

「お願いします」

「あと、タイトル」

「はい」

「これはええと思う」

 編集長は、赤ペンでタイトルの下に線を引いた。

 香りの消える頃に。

 綾は、その文字を見た。

 肩の力が抜けた。

 四月の終わり、校了前の誌面が上がってきた。

 綾は、プリントされたゲラを机に広げた。

 いつもの記事より大きい。
 写真は少ない。
 店の外観はない。
 木札もない。
 住所もない。

 その代わり、余白があった。

 白い紙面の中に、文章がゆっくり置かれている。

 雨の日の匂い。
 坪庭の花。
 湯呑みから立つ湯気。
 藤袴。
 ママキ茶。
 お稲荷さんの甘さ。
 薬力さんの水。
 沈丁花。

 全部を書いたわけではない。
 全部を説明したわけでもない。

 それでも、あの場所で手元に残らなかったものの端だけは、紙面に置けた気がした。

 綾は、赤で入った修正を確認しながら、ふと手を止めた。

 香り屋を書いた。

 けれど、香り屋を持ち帰ったわけではなかった。

 そのことに、ほっとしていた。

 五月の上旬、掲載号が出た。

 編集部に届いた見本誌の束から一冊取り、綾は自分のページを開いた。

 タイトルは、思っていたより静かに見えた。

 香りの消える頃に
 遠野綾

 店名はない。
 場所もない。

 それでも、記事はそこにあった。

 綾は、しばらく紙面を見ていた。

 その後、鞄からスマホを出した。

 連絡先を開く。

 水野潤。

 綾は、メッセージ欄に指を置いた。

 何から書けばいいのか迷う。

 謝りたい。
 会いたい。
 記事読んでほしい。
 あの時、何を言いかけてたん。

 綾は、スマホを伏せた。

 コピー機の音がする。誰かが電話で取材先に謝っている。編集長が遠くで「それ、今日中な」と言っている。

 いつもの音だった。

 綾はもう一度、スマホを取った。

 アートフェアの記事を書いていた時の資料。
 会場の白い壁。
 作品の横にあった小さなキャプション。
 水野潤の名前。

 あれを口実にすればいい。

 口実でいい。

 綾は、ゆっくり打った。

 この前、アートフェアの記事書いてて、潤ちゃんの名前見た。
 久しぶりに、京都駅の方でお茶せえへん?

 送信ボタンの上で、指が止まった。

 沈丁花の香りを思い出した。もう、あの香りは残っていない。

 けれど、消えたわけではなかった。

 綾は、送信した。

 画面には、送信した文字だけが残っていた。
 既読はまだつかない。

 綾はスマホを伏せた。

 遠くで、またコピー機の音がした。

 もうすぐ、梔子の季節が来る。



次のお話:#11 エピローグ 春の終わり、また隣に


【香り屋】作品リスト

#0 プロローグ ろーじの奥

#1 第1話 沈丁花のころ

#2 間話 蒼介の棚

#3 第2話 雨の匂い

#4 第3話 祇園囃子の聞こえるころ

#5 第4話 金木犀はまだか

#6 間話 箱の中

#7 第5話 藤袴

#8 第6話 茶の花

#9 第7話 薬力さんの水

#10 第8話 香りの消えるころ

#11 エピローグ 春の終わり、また隣に


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