【香り屋】#1 第1話 沈丁花のころ
白い花の香りは、花より少し離れたところにあった。
カウンターの横に見える小さな坪庭で、白い花がひとつ、苔の奥に浮いている。暗がりに沈みきらない艶やかな白だった。葉は濃く、花びらだけが、湿った空気の中でゆっくりほどけているように見えた。
「梔子ですか」
綾が言うと、女性は湯呑みを置く手を止め、坪庭へ目をやった。
「今年は、少し早う咲きました」
置かれた湯呑みから、淡い湯気が上がっている。
綾は、湯呑みの縁に指を添えた。温かい。木の道具が小さく触れ合うような音がしている。時々、紙を折るような乾いた音も混じった。衝立の向こうで、男性が何かを量っているのかもしれない。
名刺入れにかけた指は、まだ動かなかった。
取材のつもりで来た。
そのはずなのに、梔子の香りは、名刺を差し出すより先に、綾の中の別の場所へ触れてきた。
強い。
けれど、押してはこない。
こちらが気づくのを待っているような香りだった。
潤、これ好きやったな。
そう思ってから、綾は自分で驚いた。
もう、しばらく思い出していなかった名前だった。
坪庭の梔子は、何も知らない顔で咲いている。
白い花を見ているうちに、香りの輪郭だけがゆっくり変わっていった。
湿った初夏の空気ではなく、頬に刺さる早春の風。
古い木の香りではなく、車の排気と乾いた土、その奥から流れてくる甘い匂い。
それは、沈丁花の香りだった。
講評のあとで、綾はまだ少し気が抜けていた。
鞄の中には、赤を入れられた卒論のレジュメと、折れたプリントが何枚も入っている。題目のところには、まだ仮のままの文字が残っていた。
取材文は、芸術表現になり得るのか。
口に出すと少し大げさで、けれど綾には、それ以外の言い方がまだ見つからなかった。
隣を歩く潤は、黒い平たい作品バッグを肩にかけていた。歩くたびに角が太もものあたりへ当たり、潤は時々、紐の付け根を握ってバッグを身体の脇へ引き寄せた。
持ち手のあたりには、白や群青の絵の具が薄く残っている。黒い表面もところどころ擦れていた。
「潤ちゃんも講評やったん?」
「制作相談」
「卒制?」
「一応」
「一応って」
「卒制は卒制。描きたいものは、また別」
潤はそう言って、バッグの紐を握り直した。
春というには、まだ風が冷たかった。
二条城からそう遠くない道を、二人は並んで歩いていた。大きな通りを車が流れていく。信号が変わるたび、人の足音が一度止まり、また同じ方向へ動き出す。その合間に、ふっと甘い匂いがした。
「これ……」
綾は立ち止まった。
「え、どこ」
「見えへん」
潤は植え込みの方を見たが、すぐに首をかしげた。
「沈丁花やんな?」
「ああ」
綾はもう一度、息を吸った。
花は見えない。どこに咲いているのか分からない。けれど、そこにあることだけは分かる。甘くて、少し青くて、近づくより先に気づいてしまう香りだった。
「これ、綾ちゃんの花やな」
「まだそれ言うん?」
「言うよ」
「その設定、生きてたんや」
「生きてる。うちら、日本三大香木仲間やし」
潤は当然のように言った。
綾は笑った。
「日本三大香木仲間って、何回聞いても大げさやな」
「大事やろ。沈丁花、梔子、金木犀」
「私は沈丁花で、潤ちゃんは梔子」
「そう」
「あと金木犀は空席」
「まだ空席」
潤は真面目な顔で言った。
綾はマフラーに顎をうずめながら、もう一度匂いを探した。
沈丁花は、見えないところから香っていた。姿を見せずに、道の途中で急に声をかけてくるみたいだった。
「そしたら早く金木犀の人、現れへんかなあ」
「簡単に入れたらあかんよ、綾ちゃん」
「なに、面接でもあるん?」
「ある」
「何聞くん?」
「香りに対する理解」
「厳しいなあ」
「当然やろ。三大香木やで」
そう言って、潤はふふっと笑った。
綾はその笑い方を見て、少し満足した。
「卒制は何になりそうなん?」
綾が聞くと、潤は肩をすくめた。
「まだ迷ってる」
「潤ちゃん、ずっと迷ってるやん」
「迷うやろ」
「締切あるで」
「それは知ってる」
「先生にも言われた?」
「言われた」
潤は短く答えた。
綾は、それ以上聞かなかった。
「どこか入る?」
潤が先に言った。
「寒いし」
「入る」
綾はすぐに頷いた。
「やることもあるし」
「やることは、あるけど」
「やるとは言ってない」
「言ってへんね」
二人は笑いながら、大きな通りから少し入った古いビルの方へ歩いた。
階段の途中に、小さな喫茶店の看板が出ていた。文字は少し褪せている。窓の内側には薄いカーテンがかかっていて、外から中の様子はよく見えなかった。
潤が先に階段を上がる。
綾はその後ろをついていった。
店の扉を開けると、小さな鈴が鳴った。
中は思ったより暗かった。窓際の席だけに、やわらかい光が落ちている。古い木の床と、深く煎った珈琲の匂いがした。
沈丁花の香りは、もう届かない。
「窓際、空いてる」
潤が言った。
「ラッキー」
綾は鞄を椅子に置き、コートを脱いだ。中のプリントが少しはみ出して、床に落ちそうになる。
「綾ちゃん、また鞄ぐちゃぐちゃ」
「これは、すぐ使う資料やから」
「全部それ言うやん」
「全部すぐ使うかもしれへん資料やねん」
「便利な言葉」
潤は笑いながら、黒い作品バッグをテーブルの端に置いた。
注文を取りに来た女性に、潤は迷わず言った。
「ママキ茶、ふたつお願いします」
それから綾を見て、
「……で、ええやろ?」
「綾ちゃん、ほんまに好きになったな」
「潤ちゃんが毎回頼むからやん」
「別に強制してへん」
「してへんけど、目の前で飲まれたら気になるやん」
女性が去ると、テーブルの上に少しだけ沈黙が落ちた。
綾は窓の外を見た。
通りには、自転車が一台停まっていた。前かごに、丸めた布のようなものが入っている。向かいの建物の壁に、午後の光が薄く貼りついていた。
「潤ちゃんは、ほんまママキ茶好きやね」
「うん」
「飲めるとこ、あんまりないし」
「ここか、京都駅の方のカフェくらいやな」
「前に言うてたとこ?」
「うん。駅ビルの中。京都駅行ったら、寄ってみ」
「そうやね。今度、取材帰りに行ってみよかな」
「綾ちゃん、ほんま何でも取材にするな」
「それが仕事やし」
そう言ってから、綾は少し得意になった。
仕事。
その頃の綾にとって、その言葉はまだ未来に近かった。
雑誌の仕事をしたい。文章を書きたい。写真も撮りたい。誰かが見落としたものを拾って、ちゃんと人に届く形にしたい。
そう口にすると、まだ少し大げさに聞こえた。けれど、潤にだけは言えた。
潤の前では、自分がまだ何者でもないことを、そこまで恥ずかしいと思わずにいられた。
「綾ちゃんは、ほんまに記者になりそうやな」
潤が言った。
「なるよ」
「言い切るなあ」
「言い切っとかな、なれへん気がする」
「そういうとこ、綾ちゃんやな」
「どういうとこ」
「先に声に出すとこ」
潤はそう言って、黒い作品バッグから、数枚の厚い紙をテーブルの上に取り出した。
綾はいつものように、出された厚い紙に手を伸ばした。
「どれどれ〜」
「この前からそんな変わってないよ」
卒業制作のための構図案。窓、古い家の影、人の背中、暗い廊下。どれも潤らしい線で描かれている。
その中から、普通紙に印刷された写真が一枚出てきた。
画質は粗かった。山の輪郭も、空の色も、少し潰れている。けれど、山頂の白さだけは、不思議と残っていた。
「これ、まだ持ってたん?」
綾が言うと、潤は一瞬だけ眉を寄せた。
「はい、もう返して」
「う、うん」
綾は紙の束を全てそのまま渡す。
潤は一番上にある写真を眺めながら、軽いため息をついた。
「マウナケア山やっけ?」
「うん」
「卒制とは別?」
「別」
潤は短く答えた。
「でも、ずっとあるな。それ」
「ある」
「中学の時に行ったって言うてたとこやんな」
「行ったっていうか、連れて行かれた」
「言い方」
「だって、その時はハワイって、もっと観光のとこやと思ってたし」
潤は紙の端を指で押さえた。
「ショッピングとか、海とか、ホテルとか。そういう感じやと思っててん。なのに、オアフ島にほとんどおらんと、すぐハワイ島行くって言われて」
「なんで?ってなった?」
「なった」
潤は少し笑った。
「でも、行ったら全然違って」
「違う?」
「海はきれいやし、空も広いし、南の島って感じはするねん。でも、それだけじゃなくて」
潤は言葉を探すように、少し視線を落とした。
「昔ながらのお店があって、アルファベットで書かれているのに、日本の苗字みたいな店の名前があって。なんか、観光地っていうより、生活があった」
綾はその言い方を、しばらく心の中で転がした。
生活があった。
潤らしい言い方だと思った。
「おばあちゃんの妹さんの家族に会ったんやっけ」
「うん」
「その時、山の話聞いたって言うてたな」
「マウナケアを見ながらな」
潤の声は、少し低くなった。
「白い山、って意味なんやって。雪があるやろ。あれ見て、昔移り住んだ人らは、富士山を思い出したんやって」
「富士山」
「うん」
綾は、写真の白い部分を見た。
ハワイで雪。
南の島に、白い山。
その組み合わせは、少し不思議だった。
「サトウキビ農園で働いてた話も聞いた」
潤は続けた。
「しんどかったやろな、って。暑いところで働いて、遠くに白い山が見えて。そういうの、なんかずっと残ってる」
綾は潤を見た。
潤は写真の端を見ていた。
その表情から、何を考えているのかまでは分からなかった。ただ、テーブルの上に置かれた一枚の写真が、卒業制作の構図案よりも、少し重たく見えた。
「それ以来、行ってへんの?」
「行ってへん」
「また行きたい?」
「行きたい」
返事は早かった。
けれど、そのあとすぐに、潤は小さく笑った。
「でも、行ったら、分かってしまうかもしれへんやん」
「何が?」
「自分が描いてるものが、全然違うって」
綾はすぐには返せなかった。
店の奥で、湯が沸く音がした。
「でも、行かな分からへんこともあるやろ」
「それもそう」
「どっちなん」
「どっちも」
潤はそう言って、また少し笑った。
その笑い方は、困っているようにも、楽しんでいるようにも見えた。
白いカップに、薄く赤みを帯びたお茶が注がれて運ばれてきた。
ママキ茶。
湯気に、ほうじ茶とも紅茶とも違う、少し乾いた甘さが混じっている。綾は両手でカップを包んだ。
「これ、なんか落ち着くなあ」
「前も言うてた」
「言うてた?」
「言うてた。毎回、同じこと言うてる」
「それだけ毎回落ち着いてるってことやん」
「便利な言葉、二個目」
潤はそう言いながら、少し笑った。
綾は、その笑い方が好きだった。
大きく笑うわけではない。すぐに消える。けれど、その一瞬だけ、潤の顔から余計な力が抜ける。
綾はカップに口をつけた。熱くて、少しだけ舌が驚いた。けれど飲み込むと、喉の奥にほんのりと甘さが残る。
「これもハワイのやつなんやろ」
綾がカップを見ながら言った。
「そう」
「潤ちゃんがこれ好きなん、やっぱりハワイ島のこと思い出すから?」
潤は、すぐには答えなかった。
カップの中の薄い赤みを見ている。湯気が、潤の顔の前を一度だけ曇らせた。
「どうやろ。中学の時に飲んだかどうかも、覚えてへん」
「そうなん?」
「でも、これ飲むと、あの時の空気を思い出す気がする」
「空気?」
「暑いのに、山の方だけ涼しそうで。海も畑も家もあって。ハワイって一言で言えへん感じ」
綾はカップの中を見た。
薄く赤い茶が、白い陶器の中で小さく揺れている。
「それを描きたいんや」
綾が言うと、潤は写真の端を指でゆっくり撫でた。
「うん」
短い返事だった。
でも、その声はさっきより少しだけはっきりしていた。
綾は、なんだか嬉しくなった。
自分にはまだ全部分からない。けれど、潤がそれを大事にしていることだけは分かった。
「私は、潤ちゃんの絵、好きやけどな」
「それは、前から聞いてる」
「何回でも言うよ」
「何回も言わんでいい」
「なんで」
「照れる」
今度は綾が笑った。
潤は窓の外へ目を逸らした。耳が少しだけ赤い気がした。
綾は、カップを両手で包み直した。
「潤ちゃんの絵って、ちゃんと残る感じがする」
「残る?」
「うん。ぱっと見て、分かりやすい絵とは違うかもしれへんけど」
言ってから、綾は少しだけ慌てた。
「いや、違うっていうのは、悪い意味じゃなくて」
「分かってる」
「ほんま?」
「うん」
潤は短く答え、カップを口に運んだ。
「私は、ちゃんと届くと思う」
綾は言った。
潤は顔を上げた。
「潤ちゃんの絵。絶対、そのうち花開くって」
言った瞬間、窓の外へ顔を向けた。
花開く。
自分で言っておいて、恥ずかしい。けれど沈丁花や梔子の話もしたあとだったから、ちょっと上手いことを言えた気がした。
潤はカップを置いた。
陶器が、テーブルに小さく当たる音がした。
「花開くって、簡単に言うなあ」
声は大きくなかった。
むしろ、いつも通りに近かった。
「え」
綾は思わず潤に顔を向けた。
潤は、視線を落としたままだった。
「ごめん。今のなし」
綾は、カップに残ったお茶に目を落とした。
さっきまでいい匂いだと思っていた乾いた甘さが、遠くなった気がした。
「私、潤ちゃんのこと、軽く言うたつもりはないで」
「分かってるって」
潤は写真を作品バッグの中へ戻した。
紙が重なって、静かな音がした。
謝った方がいいのか。
綾は、とっさに浮かんだその考えに、自分で少し引っかかった。
謝るって、褒めたのに。
でも、違う。
何が違うのかまでは、分からなかった。
店の中では、誰かが新聞をめくっていた。奥の席で、スプーンがカップの内側に触れる音がする。窓の外の光は、さっきより薄くなっていた。
「そろそろ、進めなあかんな」
潤が言った。
「うん。私も、レジュメ直さな」
綾は鞄からプリントを出した。
赤を入れられたレジュメの端が、折れていた。広げると、紙の折れ目がかさりと開いた。
それからしばらく、二人はそれぞれの作業をした。
潤は構図案を脇に置いたまま、別のノートに何かを書いていた。綾はレジュメを直しているふりをしながら、同じ行を何度も読んだ。
カップを口に運ぶたび、ママキ茶は少しずつ冷めていった。
「帰ろか」
先に言ったのは潤だった。
「うん」
綾はプリントを鞄に突っ込んだ。
いつものように。
少し折れたまま。
また何か言われるかと思った。
けれど、潤は何も言わなかった。
「ごちそうさまでした」
「……ごちそうさまでした」
扉を開けると、鈴が鳴った。
階段の空気は、さっきより冷えていた。
下りる途中で、下の通りから人の声が聞こえた。自転車のベルが鳴り、遠くで車のブレーキが短く鳴った。
外へ出ると、沈丁花の香りがまだ残っていた。
どこに咲いているのかは、やっぱり分からなかった。
ただ、さっきより少しだけ遠くなった気がした。
「潤ちゃん」
綾が呼ぶと、潤は振り向いた。
「何」
「金木犀の人、見つかったら教えてな」
それくらいしか、思いつかなかった。
潤は一瞬だけ黙って、それから小さく笑った。
「面接せなあかんしな」
「そう。香りに対する理解が必要です」
「厳しいなあ」
「当然やろ。日本三大香木やで」
潤は、うん、と言った。
綾は、その声を聞いてから、少し遅れて潤の隣に並んだ。
肩が触れそうで、触れない距離だった。
沈丁花の香りは、角を曲がるまでついてきた。
見えない花の気配だけが、二人の後ろにしばらく残っていた。
潤。
声に出したつもりはなかった。
「お好きなんですか」
女性の声がして、綾は瞬きをした。
沈丁花の甘さが、ふっとほどける。
頬に刺さっていた早春の風が消え、代わりに、湿った木の匂いと、温かい湯呑みの気配が戻ってきた。
カウンターの右手にある小さな坪庭を、ぼんやり眺めていた。
苔の奥で、白い梔子がひとつ、暗がりに浮いている。
焦点が合うまでに、少し時間がかかった。
梔子の花びらは、さっきと同じように白かった。
けれど、香りだけが少し近くなった気がした。
「……え」
綾は女性の方へ顔を向けた。
「梔子」
女性は、坪庭へ視線を戻した。
「お好きなんかな、と思いまして」
綾は、湯呑みを両手で包み込んだ。
温かさが、指先に戻ってくる。
「私やなくて」
綾はそこまで言って、少しだけ言葉を探した。
「友達が、好きやったんです」
言ってから、綾は坪庭の方をもう一度だけ見た。
梔子は、さっきと同じ場所で、何も知らない顔をしていた。
それでも、その白さのそばに、さっきまで歩いていた沈丁花の道が、まだ細く残っている気がした。
次のお話:#2 間話 蒼介の棚
