【香り屋】#8 第6話 茶の花
「はー。これは、なかなか」
店の前で、石岡久は白い息を吐いた。
京都らしいもの、を探して半年近く。
もうすぐ、クリスマスになってしまう。
今回は、えらく時間がかかった。
久はコートの襟を立て、振り返った。今来た道は、人ひとりが傘を差せば、それだけでいっぱいになりそうな細さだった。石畳は、昨日の雨のせいか、ところどころ濡れている。
ここまで来るのにも、手間取った。
タクシーのナビは、「目的地周辺です。運転お疲れさまでした」と言って案内を終えてしまう。けれど、運転手は細い道の前で首を傾げた。
「この辺りなんですけどねえ」
普段なら、文句を言っていたかもしれない。もっと前で止めてくれたらよかったとか、地元の運転手なのに分からないのかとか。
けれど、その時は腹が立たなかった。
むしろ、面白かった。
ナビでも着かない店。
タクシーの運転手も分からない、ろーじの奥。
これなら、話になる。
祇園の店で、カウンター越しに笑いながら言えばいい。
「いやあ、京都はやっぱり奥が深いですな。ナビでも行けへん店があるんですわ」
そう言えば、あの子はきっと笑う。
「石岡さん、また大げさなこと言うて」
久は、そういう顔を想像していた。
だから、タクシーを降りる時も、運転手に強くは言わなかった。
「ここから歩きますわ。お釣りは結構です」
運転手は恐縮したように礼を言ったが、久は片手を上げただけで車を降りた。
金を払えば、たいがいの場は丸く収まる。
ろーじの奥まで辿り着くと、大きな看板はなかった。
古い家の入口の横に、木札が掛かっている。雨風にさらされたような木肌で、文字の一部が少し薄れていた。
香利屋。
寺の和尚からは、「こうりやさん」と聞いていた。
久は、寺の法要で受け取った匂い袋が気に入っていた。
派手な香りではない。強く残るわけでもない。けれど、鞄に入れておくと、ふとした時にお茶と、桜餅のような甘い匂いが立った。名刺入れの近くに入れておけば、話の取っかかりにもなる。
祇園の店で話すには、ちょうどよかった。
寺でこんな匂い袋をもらいましてな。ひとつずつ手で作ってはるらしいですわ。
そう言えば、京都らしい話にもなる。
けれど、話のネタにするつもりだった匂い袋を、久はひとりの時にも何度か取り出していた。
それで、和尚に尋ねた。
「あの匂い袋、どこで作ってはるんですか。なんとか教えてもらえませんやろか」
和尚は最初、渋った。
古くから頼んでいる家やし、普通の店のように人を紹介するところでもない、と言った。
それでも久が何度か頼むと、ようやくこの店のことを教えてくれた。
近所では、こうりやさん、と呼ぶらしい。
久は建物を見上げた。
なるほど、これは、それらしい。
いかにも京都らしい。通り沿いに派手な看板を出さない。人から教えられないと分からない。しかも、奥に入らないと辿り着けない。
久は少し口元を緩めた。
あの子に渡すには、ちょうどええかもしれん。
そう思ったあとで、念のために頭の中で言い直した。
家内に。
家内に、何か京都らしいものを。
そう言っておけば、誰も余計なことは聞かない。
引き戸は、ほんの少し開いていた。
暖簾は出ていない。
久は迷ったが、和尚が「ひとこと伝えておきます」と言っていたので、大丈夫だろうと思った。
和尚の言葉が、もう一つよみがえった。
「紹介はしますが、無理に何か頼みに行くところではありませんよ」
その言い方が、かえって久の興味を強くした。
無理に頼めない店。
普通には行けない店。
それなら、なおさら京都らしい。
久は一度だけ咳払いをして、引き戸に手をかけた。
「ごめんください」
中へ入ると、すぐ店というわけではなかった。細い通り庭のような場所が奥へ伸びている。土間の冷えと、古い木の匂い。水を含んだ石の匂いもする。
引き戸を閉めると、小さな鈴の音がした。
女性が顔を出した。
「いらっしゃいませ」
「石岡と申します。和尚さんから、こちらのことを伺いまして」
久が名を告げると、女性は「ああ」と柔らかく頷いた。
「伺っております。寒かったでしょう。奥へどうぞ」
通されたのは、奥のカウンターだった。
椅子は二つだけ。カウンターの向こうの棚には、片側に茶葉の缶や湯呑み、小皿などが並んでいる。もう片側は、香りの道具なのだろう。薬研のようなものも見えた。
横には、小さな坪庭があった。
冬の光は弱く、庭の苔も湿っている。
カウンターの端には、濃く厚い葉をつけた枝が、細い花器に挿されていた。小さな白い花が一輪咲いている。
久はちらりと見たが、すぐ視線を戻した。
椿か何かだろう。
「いやあ、よう分からん場所ですな」
久は椅子に腰を下ろしながら言った。
「タクシーの運転手さんも、近くまでは来てる言いながら、なかなか着かんのですわ」
「そうなんです。初めての方は、少し迷われます」
女性はそう言って、湯呑みを用意した。
「でも、よう来てくださいました」
「いや、これくらいの方がええですな。通り沿いに大きな看板があったら、ありがたみがない」
久が言うと、女性は少し笑った。
久はコートを脱いで隣の席にかけたあと、膝の上で手を組んだ。
「実は、京都らしいものを探してましてな」
「京都らしいもの、ですか」
女性が湯を注ぐ音がした。
「ええ。家内に、何かひとつと思いまして」
女性は湯呑みを置きながら、久を見た。
「奥様に」
「まあ、家内にも……はい」
言ったあとで、余計だったと思った。
湯呑みからは、番茶に似た香りが立っていた。
「言葉にすると簡単なんですが、案外、難しいでしょう。京都らしいもの。土産物屋にあるようなものとは違う。かといって、骨董ほど大げさでもない」
話しながら、調子が出てきた。
これは、最近何度も口にしてきた説明だった。
祇園の店でも、寺でも、タクシーの運転手にも言った。
「知り合いの子がね、言うんですわ。石岡さんなら、ほんまに京都らしいものを知ってはるでしょう、て」
女性は、相槌だけ打った。
「それで、探しているうちに半年です。いやあ、なかなか見つからんもんですな」
「京都らしいもの、ですか。そう言われると、かえって困ってしまいますね」
女性が、静かに言った。
「ほんま、困りますわ」
久はすぐに笑った。
困っている、と言っていれば、探し続けていられる。
月から来た姫君でもあるまいし。
そんなもの、あるわけがない。
あるわけがないから、助かっていた。
久は湯呑みに手を伸ばし、指先を温めた。
「法要の時にいただいた匂い袋、あれがよかったんです」
久は言った。
「派手ではないのに、どこか残る。ああいうものを、何か作ってもらえませんか」
女性は、カウンターの奥へ目をやった。
そこには、先ほどまで気配を消すように座っていた男性がいた。小さな紙箱のようなものを整えていた手を止め、久の方を見る。
「どなたかに贈られるものですか」
「まあ、そうですな」
久は答えた。
「女性の方に。あまり大げさでなく、けれど、珍しいものがええ」
「香りは、強い方がよろしいですか」
「いや、強すぎるのは困りますな」
久は少し身を乗り出した。
「渡した時に、ああ、ええもんやなと思ってもらえるくらいで」
我ながら勝手な注文だと思った。
男性は、表情を変えずに小さく頷いた。
「少し、お時間いただきます」
そう言って、棚の方へ手を伸ばした。
久は、ふと横を見た。
さっきの白い花がある。
「これは、椿ですか」
久は何気なく聞いた。
「茶の花です」
女性が言った。
「茶の花?」
「椿に似ていますけど、少し小さいんです」
「茶にも花が咲くんですな」
「咲きますよ。見落とされやすいですけど」
女性は、茶の花へ視線を向けた。
「近づくと、ほんのり甘い香りがします」
「へえ」
久は湯呑みの茶をひと口飲んだ。香ばしさが舌に残った。
男性は、カウンターの奥側の隅で手を動かしていた。
小さな紙片。
乾いた葉。
薄く色の残った花びら。
匙の先で、何かを合わせている。
久は、そういう作業を見るのが嫌いではなかった。
だが、なぜか、落ち着かなかった。
「バラは、お嫌いですか」
男性がふいに聞いた。
「バラ?」
「ええ」
「いや、嫌いではありません。女性には、分かりやすくてええんちゃいますか」
男性は何も言わなかった。
ただ、乾いた赤い花びらをほんの少し、乳鉢の中に入れた。
それから、茶葉らしきものを少し合わせ、匙で軽く混ぜる。
「バラにお茶ですか」
「香木もほんの少し入れています」
「面白いですな」
久は、目の前で折られていく和紙を見ていた。
「どうぞ」
久は、包みを手に取った。
軽い。
鼻に近づけると、最初にバラが香った。
その次に、お茶、そして、わずかに寺の本堂を思わせる匂いがあった。
香ばしいというほどではない。渋いというほどでもない。
久は、包みを持つ手を止めた。
美咲のハンカチの匂いがした。
店の中の音が遠くなった。
昔、妻の美咲はバラの香水を使っていた。
強い香水ではなかった。
出かける前に、手首と首元に少しつける。ハンカチにも、ほんの少し移る。
「バラ、まだ使ってるんか」
いつだったか、久はそう聞いたことがある。
美咲は鏡の前で笑っていた。
「好きやねん。落ち着くし」
「バラが落ち着くんか。派手な匂いやと思うけどな」
「これは派手ちゃうよ」
そう言って、美咲はハンカチを畳んでいた。
そのあと、ふと思い出したように言った。
「そうそう、お茶の香りのする香水もあるみたい」
「お茶?」
「うん。今度、探してくれへん?」
「また今度な」
それで終わった。
また今度。
久は、そのうち、忘れていた。
美咲は、強く頼まない人だった。
忘れても困らなかった。
「いかがですか」
女性の声がして、久は瞬きをした。
手の中には、小さな包み香がある。
茶とバラ。
久はもう一度、鼻に近づけた。
やはり、美咲のハンカチを思い出す。
「これは……」
久は言いかけて、言葉を探した。
「落ち着きますな」
結局、久はそう言うしかなかった。
久は包みを置いて、ふと横を見た。
茶の花が、まだそこにあった。
さっきは椿だと思った花。
見落とされやすいと、女性が言った花。
近づくと、ほんのり甘い香りがすると言っていた花。
久は、椅子の上で少し体を動かした。
「この花、もう一度、見てもよろしいですか」
「どうぞ」
女性が花器を久の方へ寄せた。
久は顔を近づけた。
白い花びらは、椿よりも薄く見えた。豪華ではない。店先に大きく飾られるような花ではない。
香りは、すぐには分からなかった。
さらに鼻を近づけた時、甘い匂いがした。
強くない。
けれど、湯気の奥に残るような甘さがあった。
久は、しばらく顔を上げられなかった。
美咲に渡したい。
祇園の店の女性ではなく。
半年探していることにしていた、京都らしい何かでもなく。
この花を、美咲に渡したい。
昔、探してくれないかと言われたものを、今さら見つけたような気がした。
今さら。
今さらでも、持っていけるだろうか。
花は、何も答えなかった。
ただ、近づいた久の鼻先に、かすかな甘さを残していた。
久は、女性の方に向き直った。
「これは、いただけるものですか」
自分でも、唐突だったと思った。
「この花ですか」
「ええ」
久は頷いた。
女性は、困ったように微笑んだ。
「これは、売り物やないんです」
「そうでしょうな」
久はすぐに答えた。
それくらいは分かっている。
分かっているのに、手放せなかった。
男性は、久の前に置かれた包み香を見ていた。
「茶の花は、あまり長く持ちませんよ。切り花ですし」
「構いません」
久は言った。
萎れることも。
持たないことも。
間に合わないかもしれないことも。
それでも、構わない、と言ってしまった。
女性は少し黙っていた。
「包みますね」
女性はそう言って、薄い紙を用意した。
久は、胸の奥で小さく息を吐いた。
「ありがとうございます」
言ってから、久は内ポケットに手を入れた。
一万円札を一枚抜き、カウンターの上に置いた。
「これ、置いときます」
女性は、茶の花を包むための紙を用意していた手を止めた。
「お代は、いただいておりません」
「いや、受け取ってください」
世話になった時。
無理を聞いてもらった時。
言いにくい頼みをした時。
面倒をかけた時。
払えばいい。
多めに払えばいい。
向こうも悪い気はしない。こちらも気が済む。話はそこで終わる。
終わるはずだった。
けれど、女性は一万円札を見たまま、すぐには手を伸ばさなかった。
「石岡さん」
女性は、一万円札に手を伸ばさないまま言った。
「包み香のお代は、いただいておりません」
久は、ふっと笑った。
「いかんいかん」
声に出すと、少しだけ楽になった。
「申し訳ない。癖が出ました」
札を引っ込めようとした時、白い茶の花が目に入った。
「では、この花を」
久は、引っ込めかけた札を持ったまま言った。
「この花を、ください」
また同じことをしている。
久は、自分でも分かっていた。
女性は、ふっと笑った。
「これは、お花のお代としてはいただけません」
茶の花を包む紙へ、女性は目を落とした。
「けど、石岡さんがあの匂い袋を気に入って来てくださったのでしたら」
少し考えてから、女性は続けた。
「そのお気持ちとして、お預かりすることはできます。次にお寺さんへ納める匂い袋の材料に、使わせてもらいます」
久は、目を瞬いた。
「材料に」
「はい」
久は、カウンターの上の一万円札を見た。
花を買うのではない。
包み香に値段をつけるのでもない。
自分が気に入った匂い袋の、その先に回る。
それなら、まだ受け取ってもらえるような気がした。
「では、そのようにお願いします」
女性は軽く頭を下げ、一万円札をカウンターの端へ寄せた。
茶の花は、薄い紙に包まれた。女性はそれを、小さな紙袋に入れた。
「できれば、今日か明日には」
久は、男性の方を見た。
「渡されるなら」
押しつけではなかった。
ただ、花には時間がある。
そう言われただけだった。
「そうですな。花ですからな」
そう言って笑ったつもりだったが、うまく笑えなかった。
女性が、包み香も小さな袋に入れてくれた。
「こちらも一緒に」
久は袋を受け取った。
軽かった。
久は、立ち上がった。
「長居しました」
「いいえ」
女性は首を横に振った。
「寒いので、お気をつけて」
引き戸を開けると、外の冷気が肩に当たった。
久は慌ててコートを羽織り、襟を立てた。
ろーじの石は、まだ湿っていた。細い道の先から、通りを走る車の音が聞こえる。
久は紙袋を片手に持ち直した。
そのまま、祇園へ行くこともできた。
あの子に渡せば、きっと喜ぶ。
「石岡さん、さすがやわ」
そう言って笑うかもしれない。
久は、そういう顔を思い浮かべようとした。
けれど、うまく浮かばなかった。
代わりに、美咲の手元が浮かんだ。
鏡の前で、ハンカチを畳む手。
香水の瓶を小さく傾ける手。
久は、ろーじの途中で立ち止まった。
前からも、後ろからも、誰も来ない。
行き先を決められずに、久だけが立っていた。
今日か明日には。
男性の声が、耳の奥に残っていた。
袋の口を開くと、茶の花は、和紙の中に静かに収まっていた。
花は、何も言わない。
久は袋を閉じた。
今日は、まだ無理だ。
明日。
明日なら行ける。
そう、自分に言い聞かせた。
また今度、ではなく。
明日。
けれど、翌日、久は行かなかった。
年末の用事もあった。会社関係の挨拶状も残っていた。午後には、銀行へ行く用事もあった。
行けない理由は、いつでも用意できた。
茶の花は、食卓の端に置いた小さなグラスに挿した。家にちょうどよい花器などなかった。美咲がいた頃なら、どこに何があるか、すぐに分かっただろう。
久が戸棚を開けると、小皿や湯呑みや、使っていない客用の茶碗が並んでいた。
どれも、美咲が置いたものだった。
久はすぐに戸棚を閉めた。
グラスでええ。
そう言って、茶の花をグラスに挿した。
白い花は、少し首を傾けていた。
包み香は、茶の花の横に置いた。
近づくと、バラとお茶の香りがする。
久は何度かそれを嗅いだ。
そのたびに、美咲の声が戻ってきた。
今度、探してくれへん?
その声は責めてこなかった。
責めてこないから、余計につらかった。
夜になって、久は祇園の店へ電話をしようとした。
スマホを手に取り、通話履歴を開く。
そこで指が止まった。
今夜行って、何を話すのか。
ナビでも着かない店の話。
ろーじの奥の古い香の店の話。
茶とバラの包み香の話。
茶の花をもらった話。
どれも、うまく話せたはずだった。
けれど、その話をしてしまえば、茶の花まで、いつもの話のネタになってしまう気がした。
久はスマホの画面を伏せ、食卓の椅子に座った。
茶の花は、白かった。
ただ、花びらの端に、ほんの少しだけ影が出ていた。
翌朝、花びらの端は、昨日より茶色くなっていた。
久は顔をしかめた。
水を替え、茎の先を少し切る。
そういうことを、すればよかったのかもしれない。
けれど、久は花の扱いを知らなかった。
美咲なら知っていただろう。
そう思って、また嫌になった。
美咲なら、という言葉が、家の中のあちこちにあった。
茶葉の場所。
花器の場所。
来客用の菓子皿。
正月飾りを出す日。
久のハンカチを入れておく引き出し。
どれも、美咲なら知っていた。
久は知らない。
知らなくても、困らなかった。
困る前に、美咲がやっていたからだ。
「お茶、淹れよか」
いつも、美咲はそう言った。
久が帰ると、台所から声がした。遅くなっても、怒るより先に湯を沸かした。
「今日は寒かったやろ」
「まあな」
「先にお風呂入る?」
「ああ」
それで済んでいた。
済ませていた。
久は、茶の花の前に立ったまま、しばらく動けなかった。
その日も、施設へは行かなかった。
午後には雨が降った。
雨なら仕方ない。
車を出すのも面倒だ。
急に行っても、迷惑かもしれない。
理由は、また並んだ。
夕方、茶の花はさらに弱っていた。
白かった花びらが、少しずつ茶色へ変わっていく。
香りも、昨日より薄い。
久は顔を近づけた。
もう、ほとんど分からない。
代わりに、包み香の方から、バラとお茶、香木の匂いがした。
軽い包み。
この軽いものが、食卓の上でずっと久を見ているようだった。
もちろん、見ているわけがない。
それだけだ。
それだけなのに、久はその横を通るたびに、息を止めていた。
目が覚めたら、何かが変わっていてほしかった。
美咲が昔のように笑って、久さん、と呼んでくれる日が、どこかから戻ってきてほしかった。
あるいは、自分がそこへ行かなくてもいい理由を、誰かに言ってほしかった。
無理せんでええよ。
もう分からへんのやから。
行っても仕方ないよ。
そう言ってくれる人がいれば、久は楽だった。
けれど、誰も言わなかった。
茶の花は、白いままではいてくれなかった。
包み香も、いつかは薄れていき、そのうち何も香らなくなる。
その時、また別の探し物を始めるのだろうか。
京都らしいもの。
珍しいもの。
終わらないもの。
終わらないものばかり探していれば、終わってしまったものを見なくて済む。
久は包み香を握った。
違う。
終わってしまったのではない。
美咲は、いる。
施設に会いに行っていないだけだ。
茶の花の花びらの端は、もう茶色かった。けれど、花はまだ落ちていなかった。
明日。
久はまた、そう思った。
翌日の昼前、久はコートを着た。
美咲に渡すには、もうきれいな花ではない。
それでも。
玄関で靴を履く時、久は振り返った。
家の中は、静かだった。
美咲が施設に入ってから、この静けさには慣れたつもりでいた。
だけど、違った。
慣れたのではない。
音のする場所へ、逃げていただけだった。
久は鍵を閉めた。
外は、よく晴れていた。
施設までは、電車とタクシーを使えば遠くない。
タクシーの中で、久は紙袋を膝の上に置いた。
運転手がラジオを小さく流している。クリスマスの音楽が聞こえる。
見ても仕方ないのに、何度も袋の口を確かめた。
施設の少し手前で、タクシーを降りた。
久は歩いた。
施設の前には、小さな公園があった。
平日の昼間だからか、子どもの姿はなかった。
久はベンチに座った。
施設の入口は、そこから見えている。
自動扉の前を、職員らしき人が出入りしていた。
ガラスの向こうに、受付の明るい照明が見えた。
ここまで来た。
それなのに、まだ入れない。
笑えてくる。
久は小さく息を吐いた。
白い息が、すぐに消えた。
紙袋の中から、かすかにバラとお茶の香りがした。
茶の花の香りは、もうほとんど分からない。
花びらの端は、茶色くなっていた。
こんなものを、今さら持って行くのか。
でも、捨てることはできなかった。
美咲に渡したい。
久は、花を包み直した。
公園の向こうで、施設の扉が開いた。
職員の声がした。
「今日は日が出てますから、少しだけ外に出ましょうね」
久は顔を上げた。
何人かの入居者が、職員に付き添われて公園へ出てきていた。
久は、紙袋を握ったまま、立ち上がれなかった。
美咲がいるかもしれない。
久は、ベンチに座ったまま、入居者たちの方を見た。
風が動き、ふっとバラの香りがした。
久は、立ち上がった。
公園の端に、車椅子の女性がいた。
職員が後ろから車椅子を押している。女性の膝には、淡い色の膝掛けがかかっていて、その上に巾着袋が置かれていた。白髪はきれいに整えられている。
久は、数歩進んで、立ち止まった。
美咲だった。
すぐには声をかけられなかった。
職員が車椅子をゆっくり押して、植え込みのそばを通り過ぎようとしていた。
このまま行ってしまう。
「こんにちは」
ようやく出た声は、驚くほど小さかった。
職員が振り向いた。
「あ、石岡さん」
驚いた顔をしたあと、すぐに表情を和らげた。
「こんにちは。来てくださったんですね」
職員は、車椅子のブレーキをかけた。
「美咲さん」
職員は、車椅子の女性に声をかけた。
「お客様ですよ」
「お客様?」
美咲が、ゆっくりと首を動かした。
職員は車椅子をその場で静かに反転させた。
美咲の顔が、久の正面を向いた。
久は息を止めた。
美咲は、久を見ていた。
見てはいた。
けれど、その目は、久の知っている目ではなかった。
帰ってきたん、遅かったな。
そう言って笑う時の美咲ではなかった。
久は、一歩近づいた。
立ったままでは、いけない気がした。
膝を曲げると、美咲と目の高さが近くなった。
「どうなさったの?」
その声は、以前より細かった。
それでも、語尾の柔らかさは変わらなかった。
久は、紙袋を持つ手に力を入れた。
「あの」
声がかすれた。
久は一度、唾を飲み込んだ。
「これを、渡したくて」
紙袋から、皺がついた和紙に包んだ茶の花を取り出した。
久は、両手でそれを差し出した。
美咲は、職員の方をちらりと見た。
職員が穏やかに頷く。
美咲は膝の上に置いていた手をゆっくり持ち上げ、久から受け取った。
手は細くなっていた。
昔、久のネクタイを直していた手。
湯呑みを置いてくれた手。
冬の朝、久のコートにブラシをかけていた手。
その手が、今は和紙の端をゆっくりつまんでいる。
美咲は和紙を開いた。
中から、茶の花が出てきた。
白い花びらの端は、もう茶色くなっていて、茎も曲がってしまっていた。
美咲は、しばらくそれを見ていた。
「椿かしら?」
久は、首を横に振った。
「茶の花です」
「お茶の?」
「はい」
久は、花を見たまま言った。
「前に、お茶の香りのするものを探してほしいと、あなたが言っていたので」
美咲は、少し首を傾げた。
その仕草だけで、久には分かった。
けれど、それでもよかった。
久も、忘れていた。
忘れていて、あの店で思い出した。
久は、膝を曲げたまま、美咲を見た。
美咲は茶の花を見ていたが、すぐに視線を久へ戻した。
「あなた、お名前は?」
職員がわずかに口を開きかけたが、久は、小さく首を振った。
自分で言いたかった。
「私は、久と言います」
久は言った。
「石岡、久です。美咲さん」
「久さん」
美咲は、言葉を確かめるように繰り返した。
その声に、久は思わず目を閉じそうになった。
久さん。
何度も聞いた呼び方だった。
食卓の向こうから。
玄関先から。
寝室の灯りを消す前に。
けれど、今の美咲の声には、思い出した確かさはなかった。
「あら」
美咲は、久の顔を見ながら、少し困ったように笑った。
「どこかで、お会いしてましたか。ごめんなさいね。最近、記憶が怪しくて」
久は、首を横に振った。
「いいえ」
そう言ってから、言葉が止まった。
ここまで来て、また、逃げられる言葉を探していた。
久は、袋の中の包み香を思い出した。
バラとお茶と香木。
香りは、いつか薄れる。
花も、いつか落ちる。
それなら、言葉も、今出さなければならなかった。
「私は」
久は言った。
声が揺れた。
「あなたに、ずっと支えられてきました」
美咲は、黙って聞いていた。
久は続けた。
「仕事から帰った時も、何も言わずに、お茶を出してくれました」
「寒い日は、先に風呂を入れてくれて。雨の日は、玄関で上着を受け取ってくれて。私が何も言わなくても、いつも」
久は、美咲の顔を見られなかった。
膝のあたりで、指が少し震えていた。
「私は、それをずっと、当たり前にしてきました」
美咲の膝の上で、茶の花が少し揺れた。
「今度は」
久は、顔を上げられないまま言った。
「今度は、私の番です」
風が吹いて、バラの香りが、またした。
「あなたを、支えさせてください」
美咲は、しばらく黙っていた。
「そんないいのに」
美咲の声がした。
美咲は、茶の花を膝に置き、茎のあたりを指で触れていた。
「私、何もしてへんよ」
久は、目を閉じた。
何もしてへん。
そう言う人だった。
遅く帰った夜の湯。
朝、玄関先に置かれていたハンカチ。
久の生活の端に、いつも用意されていたもの。
美咲は、そういうものを数えなかった。
久は、下を向いたまま、肩を小さく震わせた。
「でも」
美咲の声が続いた。
「ありがと」
久は、思わず顔を上げた。
美咲は、久を見ていた。
夫を見つけた目ではなかった。
それでも、食卓の向こうから久を見る時の目に、どこか似ていた。
久は何か言おうとした。
だが、言葉になる前に、美咲が「あら」と言った。
「なんで泣いてるの」
久は、そこで初めて、自分が泣いていることに気づいた。
涙を拭こうとして、内ポケットに手を入れた。
ハンカチがあるはずだった。
今朝、入れ忘れた。
いや。
昔は、入れ忘れることなどなかった。
美咲が、出がけに持たせてくれていたからだ。
「これ、使って」
美咲は、膝の上に置いていた巾着袋から、小さなハンカチを出した。
淡い色の、古いハンカチだった。端に、花の刺繍がある。
久は、それを見た瞬間、息が止まりそうになった。
見覚えがあった。
いつのものだったかは、すぐに思い出せない。
たぶん、美咲の鏡台の引き出しに入っていたものだ。
職員がそっと美咲の手元を支えた。
美咲はハンカチを久に差し出す。
久は、両手で受け取った。
ハンカチは、バラの香りがした。
強い香りではない。
布の奥に残った、淡いバラの香りだった。
久は、そのハンカチを目元に当てた。
香りが、ゆっくりと近づいてきた。
久が気づくより先に、必要なものが差し出される。
美咲は、ずっとこうだった。
久はそれを、気遣いだと思わずに受け取ってきた。
当たり前にしてきた。
美咲の指が、茶の花の茎をまだそっと支えていた。
萎れかけた花だった。
遅すぎた花だった。
「きれいね」
美咲が言った。
「少し、茶色くなってしまいました」
「そう?」
美咲は花を見た。
「でも、咲いてる」
久は、何も言えなかった。
美咲は、茶の花を見ていた。
久は、その横顔の中に昔の美咲を探しかけて、やめた。
昔の美咲を探すために来たのではない。
今ここにいる美咲に、会いに来たのだ。
久は、膝を曲げたまま、もう一度美咲の目を見た。
「また、あなたに会いに来てもいいですか」
美咲は、ぱちりと瞬きをした。
「私に?」
「はい」
「まあ」
美咲は照れたように笑った。
「お茶も出せへんのに」
「私が持ってきます」
久は言った。
「お茶も、ハンカチも」
美咲は、不思議そうに久を見た。
それから、茶の花へ目を落とした。
「ほな、今度は萎れる前にね」
久は、深く頷いた。
「はい」
風がまた、植え込みを揺らした。
美咲の膝の上では、茶の花が小さく揺れていた。
白い花びらの端は茶色くなっていた。
それでも、まだ落ちてはいなかった。
次のお話:#9 第7話 薬力さんの水
