見出し画像

【香り屋】#8 第6話 茶の花

「はー。これは、なかなか」

 店の前で、石岡いしおかひさしは白い息を吐いた。

 京都らしいもの、を探して半年近く。

 もうすぐ、クリスマスになってしまう。

 今回は、えらく時間がかかった。

 久はコートの襟を立て、振り返った。今来た道は、人ひとりが傘を差せば、それだけでいっぱいになりそうな細さだった。石畳は、昨日の雨のせいか、ところどころ濡れている。

 ここまで来るのにも、手間取った。

 タクシーのナビは、「目的地周辺です。運転お疲れさまでした」と言って案内を終えてしまう。けれど、運転手は細い道の前で首を傾げた。

「この辺りなんですけどねえ」

 普段なら、文句を言っていたかもしれない。もっと前で止めてくれたらよかったとか、地元の運転手なのに分からないのかとか。

 けれど、その時は腹が立たなかった。

 むしろ、面白かった。

 ナビでも着かない店。
 タクシーの運転手も分からない、ろーじの奥。

 これなら、話になる。

 祇園の店で、カウンター越しに笑いながら言えばいい。

「いやあ、京都はやっぱり奥が深いですな。ナビでも行けへん店があるんですわ」

 そう言えば、あの子はきっと笑う。

「石岡さん、また大げさなこと言うて」

 久は、そういう顔を想像していた。

 だから、タクシーを降りる時も、運転手に強くは言わなかった。

「ここから歩きますわ。お釣りは結構です」

 運転手は恐縮したように礼を言ったが、久は片手を上げただけで車を降りた。

 金を払えば、たいがいの場は丸く収まる。

 ろーじの奥まで辿り着くと、大きな看板はなかった。

 古い家の入口の横に、木札が掛かっている。雨風にさらされたような木肌で、文字の一部が少し薄れていた。

 香利屋。

 寺の和尚からは、「こうりやさん」と聞いていた。

 久は、寺の法要で受け取った匂い袋が気に入っていた。

 派手な香りではない。強く残るわけでもない。けれど、鞄に入れておくと、ふとした時にお茶と、桜餅のような甘い匂いが立った。名刺入れの近くに入れておけば、話の取っかかりにもなる。

 祇園の店で話すには、ちょうどよかった。

 寺でこんな匂い袋をもらいましてな。ひとつずつ手で作ってはるらしいですわ。

 そう言えば、京都らしい話にもなる。

 けれど、話のネタにするつもりだった匂い袋を、久はひとりの時にも何度か取り出していた。

 それで、和尚に尋ねた。

「あの匂い袋、どこで作ってはるんですか。なんとか教えてもらえませんやろか」

 和尚は最初、渋った。

 古くから頼んでいる家やし、普通の店のように人を紹介するところでもない、と言った。

 それでも久が何度か頼むと、ようやくこの店のことを教えてくれた。

 近所では、こうりやさん、と呼ぶらしい。

 久は建物を見上げた。

 なるほど、これは、それらしい。

 いかにも京都らしい。通り沿いに派手な看板を出さない。人から教えられないと分からない。しかも、奥に入らないと辿り着けない。

 久は少し口元を緩めた。

 あの子に渡すには、ちょうどええかもしれん。

 そう思ったあとで、念のために頭の中で言い直した。

 家内に。

 家内に、何か京都らしいものを。

 そう言っておけば、誰も余計なことは聞かない。

 引き戸は、ほんの少し開いていた。

 暖簾は出ていない。

 久は迷ったが、和尚が「ひとこと伝えておきます」と言っていたので、大丈夫だろうと思った。

 和尚の言葉が、もう一つよみがえった。

「紹介はしますが、無理に何か頼みに行くところではありませんよ」

 その言い方が、かえって久の興味を強くした。

 無理に頼めない店。
 普通には行けない店。
 それなら、なおさら京都らしい。

 久は一度だけ咳払いをして、引き戸に手をかけた。

「ごめんください」

 中へ入ると、すぐ店というわけではなかった。細い通り庭のような場所が奥へ伸びている。土間の冷えと、古い木の匂い。水を含んだ石の匂いもする。

 引き戸を閉めると、小さな鈴の音がした。

 女性が顔を出した。

「いらっしゃいませ」

「石岡と申します。和尚さんから、こちらのことを伺いまして」

 久が名を告げると、女性は「ああ」と柔らかく頷いた。

「伺っております。寒かったでしょう。奥へどうぞ」

 通されたのは、奥のカウンターだった。

 椅子は二つだけ。カウンターの向こうの棚には、片側に茶葉の缶や湯呑み、小皿などが並んでいる。もう片側は、香りの道具なのだろう。薬研のようなものも見えた。

 横には、小さな坪庭があった。

 冬の光は弱く、庭の苔も湿っている。

 カウンターの端には、濃く厚い葉をつけた枝が、細い花器に挿されていた。小さな白い花が一輪咲いている。

 久はちらりと見たが、すぐ視線を戻した。

 椿か何かだろう。

「いやあ、よう分からん場所ですな」

 久は椅子に腰を下ろしながら言った。

「タクシーの運転手さんも、近くまでは来てる言いながら、なかなか着かんのですわ」

「そうなんです。初めての方は、少し迷われます」

 女性はそう言って、湯呑みを用意した。

「でも、よう来てくださいました」

「いや、これくらいの方がええですな。通り沿いに大きな看板があったら、ありがたみがない」

 久が言うと、女性は少し笑った。

 久はコートを脱いで隣の席にかけたあと、膝の上で手を組んだ。

「実は、京都らしいものを探してましてな」

「京都らしいもの、ですか」

 女性が湯を注ぐ音がした。

「ええ。家内に、何かひとつと思いまして」

 女性は湯呑みを置きながら、久を見た。

「奥様に」

「まあ、家内にも……はい」

 言ったあとで、余計だったと思った。

 湯呑みからは、番茶に似た香りが立っていた。

「言葉にすると簡単なんですが、案外、難しいでしょう。京都らしいもの。土産物屋にあるようなものとは違う。かといって、骨董ほど大げさでもない」

 話しながら、調子が出てきた。

 これは、最近何度も口にしてきた説明だった。

 祇園の店でも、寺でも、タクシーの運転手にも言った。

「知り合いの子がね、言うんですわ。石岡さんなら、ほんまに京都らしいものを知ってはるでしょう、て」

 女性は、相槌だけ打った。

「それで、探しているうちに半年です。いやあ、なかなか見つからんもんですな」

「京都らしいもの、ですか。そう言われると、かえって困ってしまいますね」

 女性が、静かに言った。

「ほんま、困りますわ」

 久はすぐに笑った。

 困っている、と言っていれば、探し続けていられる。

 月から来た姫君でもあるまいし。

 そんなもの、あるわけがない。

 あるわけがないから、助かっていた。

 久は湯呑みに手を伸ばし、指先を温めた。

「法要の時にいただいた匂い袋、あれがよかったんです」

 久は言った。

「派手ではないのに、どこか残る。ああいうものを、何か作ってもらえませんか」

 女性は、カウンターの奥へ目をやった。

 そこには、先ほどまで気配を消すように座っていた男性がいた。小さな紙箱のようなものを整えていた手を止め、久の方を見る。

「どなたかに贈られるものですか」

「まあ、そうですな」

 久は答えた。

「女性の方に。あまり大げさでなく、けれど、珍しいものがええ」

「香りは、強い方がよろしいですか」

「いや、強すぎるのは困りますな」

 久は少し身を乗り出した。

「渡した時に、ああ、ええもんやなと思ってもらえるくらいで」

 我ながら勝手な注文だと思った。

 男性は、表情を変えずに小さく頷いた。

「少し、お時間いただきます」

 そう言って、棚の方へ手を伸ばした。

 久は、ふと横を見た。

 さっきの白い花がある。

「これは、椿ですか」

 久は何気なく聞いた。

「茶の花です」

 女性が言った。

「茶の花?」

「椿に似ていますけど、少し小さいんです」

「茶にも花が咲くんですな」

「咲きますよ。見落とされやすいですけど」

 女性は、茶の花へ視線を向けた。

「近づくと、ほんのり甘い香りがします」

「へえ」

 久は湯呑みの茶をひと口飲んだ。香ばしさが舌に残った。

 男性は、カウンターの奥側の隅で手を動かしていた。

 小さな紙片。

 乾いた葉。

 薄く色の残った花びら。

 匙の先で、何かを合わせている。

 久は、そういう作業を見るのが嫌いではなかった。

 だが、なぜか、落ち着かなかった。

「バラは、お嫌いですか」

 男性がふいに聞いた。

「バラ?」

「ええ」

「いや、嫌いではありません。女性には、分かりやすくてええんちゃいますか」

 男性は何も言わなかった。

 ただ、乾いた赤い花びらをほんの少し、乳鉢の中に入れた。

 それから、茶葉らしきものを少し合わせ、匙で軽く混ぜる。

「バラにお茶ですか」

「香木もほんの少し入れています」

「面白いですな」

 久は、目の前で折られていく和紙を見ていた。

「どうぞ」

 久は、包みを手に取った。

 軽い。

 鼻に近づけると、最初にバラが香った。

 その次に、お茶、そして、わずかに寺の本堂を思わせる匂いがあった。

 香ばしいというほどではない。渋いというほどでもない。

 久は、包みを持つ手を止めた。

 美咲みさきのハンカチの匂いがした。

 店の中の音が遠くなった。

 昔、妻の美咲はバラの香水を使っていた。

 強い香水ではなかった。

 出かける前に、手首と首元に少しつける。ハンカチにも、ほんの少し移る。

「バラ、まだ使ってるんか」

 いつだったか、久はそう聞いたことがある。

 美咲は鏡の前で笑っていた。

「好きやねん。落ち着くし」

「バラが落ち着くんか。派手な匂いやと思うけどな」

「これは派手ちゃうよ」

 そう言って、美咲はハンカチを畳んでいた。

 そのあと、ふと思い出したように言った。

「そうそう、お茶の香りのする香水もあるみたい」

「お茶?」

「うん。今度、探してくれへん?」

「また今度な」

 それで終わった。

 また今度。

 久は、そのうち、忘れていた。

 美咲は、強く頼まない人だった。

 忘れても困らなかった。

「いかがですか」

 女性の声がして、久は瞬きをした。

 手の中には、小さな包み香がある。

 茶とバラ。

 久はもう一度、鼻に近づけた。

 やはり、美咲のハンカチを思い出す。

「これは……」

 久は言いかけて、言葉を探した。

「落ち着きますな」

 結局、久はそう言うしかなかった。

 久は包みを置いて、ふと横を見た。

 茶の花が、まだそこにあった。

 さっきは椿だと思った花。

 見落とされやすいと、女性が言った花。

 近づくと、ほんのり甘い香りがすると言っていた花。

 久は、椅子の上で少し体を動かした。

「この花、もう一度、見てもよろしいですか」

「どうぞ」

 女性が花器を久の方へ寄せた。

 久は顔を近づけた。

 白い花びらは、椿よりも薄く見えた。豪華ではない。店先に大きく飾られるような花ではない。

 香りは、すぐには分からなかった。

 さらに鼻を近づけた時、甘い匂いがした。

 強くない。
 けれど、湯気の奥に残るような甘さがあった。

 久は、しばらく顔を上げられなかった。

 美咲に渡したい。

 祇園の店の女性ではなく。

 半年探していることにしていた、京都らしい何かでもなく。

 この花を、美咲に渡したい。

 昔、探してくれないかと言われたものを、今さら見つけたような気がした。

 今さら。

 今さらでも、持っていけるだろうか。

 花は、何も答えなかった。

 ただ、近づいた久の鼻先に、かすかな甘さを残していた。

 久は、女性の方に向き直った。

「これは、いただけるものですか」

 自分でも、唐突だったと思った。

「この花ですか」

「ええ」

 久は頷いた。

 女性は、困ったように微笑んだ。

「これは、売り物やないんです」

「そうでしょうな」

 久はすぐに答えた。

 それくらいは分かっている。
 分かっているのに、手放せなかった。

 男性は、久の前に置かれた包み香を見ていた。

「茶の花は、あまり長く持ちませんよ。切り花ですし」

「構いません」

 久は言った。

 萎れることも。
 持たないことも。
 間に合わないかもしれないことも。

 それでも、構わない、と言ってしまった。

 女性は少し黙っていた。

「包みますね」

 女性はそう言って、薄い紙を用意した。

 久は、胸の奥で小さく息を吐いた。

「ありがとうございます」

 言ってから、久は内ポケットに手を入れた。

 一万円札を一枚抜き、カウンターの上に置いた。

「これ、置いときます」

 女性は、茶の花を包むための紙を用意していた手を止めた。

「お代は、いただいておりません」

「いや、受け取ってください」

 世話になった時。
 無理を聞いてもらった時。
 言いにくい頼みをした時。
 面倒をかけた時。

 払えばいい。

 多めに払えばいい。

 向こうも悪い気はしない。こちらも気が済む。話はそこで終わる。

 終わるはずだった。

 けれど、女性は一万円札を見たまま、すぐには手を伸ばさなかった。

「石岡さん」

 女性は、一万円札に手を伸ばさないまま言った。

「包み香のお代は、いただいておりません」

 久は、ふっと笑った。

「いかんいかん」

 声に出すと、少しだけ楽になった。

「申し訳ない。癖が出ました」

 札を引っ込めようとした時、白い茶の花が目に入った。

「では、この花を」

 久は、引っ込めかけた札を持ったまま言った。

「この花を、ください」

 また同じことをしている。

 久は、自分でも分かっていた。

 女性は、ふっと笑った。

「これは、お花のお代としてはいただけません」

 茶の花を包む紙へ、女性は目を落とした。

「けど、石岡さんがあの匂い袋を気に入って来てくださったのでしたら」

 少し考えてから、女性は続けた。

「そのお気持ちとして、お預かりすることはできます。次にお寺さんへ納める匂い袋の材料に、使わせてもらいます」

 久は、目を瞬いた。

「材料に」

「はい」

 久は、カウンターの上の一万円札を見た。

 花を買うのではない。
 包み香に値段をつけるのでもない。
 自分が気に入った匂い袋の、その先に回る。

 それなら、まだ受け取ってもらえるような気がした。

「では、そのようにお願いします」

 女性は軽く頭を下げ、一万円札をカウンターの端へ寄せた。

 茶の花は、薄い紙に包まれた。女性はそれを、小さな紙袋に入れた。

「できれば、今日か明日には」

 久は、男性の方を見た。

「渡されるなら」

 押しつけではなかった。

 ただ、花には時間がある。

 そう言われただけだった。

「そうですな。花ですからな」

 そう言って笑ったつもりだったが、うまく笑えなかった。

 女性が、包み香も小さな袋に入れてくれた。

「こちらも一緒に」

 久は袋を受け取った。

 軽かった。

 久は、立ち上がった。

「長居しました」

「いいえ」

 女性は首を横に振った。

「寒いので、お気をつけて」

 引き戸を開けると、外の冷気が肩に当たった。

 久は慌ててコートを羽織り、襟を立てた。

 ろーじの石は、まだ湿っていた。細い道の先から、通りを走る車の音が聞こえる。

 久は紙袋を片手に持ち直した。

 そのまま、祇園へ行くこともできた。

 あの子に渡せば、きっと喜ぶ。

「石岡さん、さすがやわ」

 そう言って笑うかもしれない。

 久は、そういう顔を思い浮かべようとした。

 けれど、うまく浮かばなかった。

 代わりに、美咲の手元が浮かんだ。

 鏡の前で、ハンカチを畳む手。
 香水の瓶を小さく傾ける手。

 久は、ろーじの途中で立ち止まった。

 前からも、後ろからも、誰も来ない。

 行き先を決められずに、久だけが立っていた。

 今日か明日には。

 男性の声が、耳の奥に残っていた。

 袋の口を開くと、茶の花は、和紙の中に静かに収まっていた。

 花は、何も言わない。

 久は袋を閉じた。

 今日は、まだ無理だ。

 明日。

 明日なら行ける。

 そう、自分に言い聞かせた。

 また今度、ではなく。
 明日。

 けれど、翌日、久は行かなかった。

 年末の用事もあった。会社関係の挨拶状も残っていた。午後には、銀行へ行く用事もあった。

 行けない理由は、いつでも用意できた。

 茶の花は、食卓の端に置いた小さなグラスに挿した。家にちょうどよい花器などなかった。美咲がいた頃なら、どこに何があるか、すぐに分かっただろう。

 久が戸棚を開けると、小皿や湯呑みや、使っていない客用の茶碗が並んでいた。

 どれも、美咲が置いたものだった。

 久はすぐに戸棚を閉めた。

 グラスでええ。

 そう言って、茶の花をグラスに挿した。

 白い花は、少し首を傾けていた。

 包み香は、茶の花の横に置いた。

 近づくと、バラとお茶の香りがする。

 久は何度かそれを嗅いだ。

 そのたびに、美咲の声が戻ってきた。

 今度、探してくれへん?

 その声は責めてこなかった。

 責めてこないから、余計につらかった。

 夜になって、久は祇園の店へ電話をしようとした。

 スマホを手に取り、通話履歴を開く。

 そこで指が止まった。

 今夜行って、何を話すのか。

 ナビでも着かない店の話。
 ろーじの奥の古い香の店の話。
 茶とバラの包み香の話。
 茶の花をもらった話。

 どれも、うまく話せたはずだった。

 けれど、その話をしてしまえば、茶の花まで、いつもの話のネタになってしまう気がした。

 久はスマホの画面を伏せ、食卓の椅子に座った。

 茶の花は、白かった。

 ただ、花びらの端に、ほんの少しだけ影が出ていた。

 翌朝、花びらの端は、昨日より茶色くなっていた。

 久は顔をしかめた。

 水を替え、茎の先を少し切る。

 そういうことを、すればよかったのかもしれない。

 けれど、久は花の扱いを知らなかった。

 美咲なら知っていただろう。

 そう思って、また嫌になった。

 美咲なら、という言葉が、家の中のあちこちにあった。

 茶葉の場所。
 花器の場所。
 来客用の菓子皿。
 正月飾りを出す日。
 久のハンカチを入れておく引き出し。

 どれも、美咲なら知っていた。

 久は知らない。

 知らなくても、困らなかった。

 困る前に、美咲がやっていたからだ。

「お茶、淹れよか」

 いつも、美咲はそう言った。

 久が帰ると、台所から声がした。遅くなっても、怒るより先に湯を沸かした。

「今日は寒かったやろ」

「まあな」

「先にお風呂入る?」

「ああ」

 それで済んでいた。

 済ませていた。

 久は、茶の花の前に立ったまま、しばらく動けなかった。

 その日も、施設へは行かなかった。

 午後には雨が降った。

 雨なら仕方ない。
 車を出すのも面倒だ。
 急に行っても、迷惑かもしれない。

 理由は、また並んだ。

 夕方、茶の花はさらに弱っていた。

 白かった花びらが、少しずつ茶色へ変わっていく。

 香りも、昨日より薄い。

 久は顔を近づけた。

 もう、ほとんど分からない。

 代わりに、包み香の方から、バラとお茶、香木の匂いがした。

 軽い包み。

 この軽いものが、食卓の上でずっと久を見ているようだった。

 もちろん、見ているわけがない。

 それだけだ。

 それだけなのに、久はその横を通るたびに、息を止めていた。

 目が覚めたら、何かが変わっていてほしかった。

 美咲が昔のように笑って、久さん、と呼んでくれる日が、どこかから戻ってきてほしかった。

 あるいは、自分がそこへ行かなくてもいい理由を、誰かに言ってほしかった。

 無理せんでええよ。

 もう分からへんのやから。

 行っても仕方ないよ。

 そう言ってくれる人がいれば、久は楽だった。

 けれど、誰も言わなかった。

 茶の花は、白いままではいてくれなかった。

 包み香も、いつかは薄れていき、そのうち何も香らなくなる。

 その時、また別の探し物を始めるのだろうか。

 京都らしいもの。
 珍しいもの。
 終わらないもの。

 終わらないものばかり探していれば、終わってしまったものを見なくて済む。

 久は包み香を握った。

 違う。

 終わってしまったのではない。

 美咲は、いる。

 施設に会いに行っていないだけだ。

 茶の花の花びらの端は、もう茶色かった。けれど、花はまだ落ちていなかった。

 明日。

 久はまた、そう思った。

 翌日の昼前、久はコートを着た。

 美咲に渡すには、もうきれいな花ではない。

 それでも。

 玄関で靴を履く時、久は振り返った。

 家の中は、静かだった。

 美咲が施設に入ってから、この静けさには慣れたつもりでいた。

 だけど、違った。

 慣れたのではない。

 音のする場所へ、逃げていただけだった。

 久は鍵を閉めた。

 外は、よく晴れていた。

 施設までは、電車とタクシーを使えば遠くない。

 タクシーの中で、久は紙袋を膝の上に置いた。

 運転手がラジオを小さく流している。クリスマスの音楽が聞こえる。

 見ても仕方ないのに、何度も袋の口を確かめた。

 施設の少し手前で、タクシーを降りた。

 久は歩いた。

 施設の前には、小さな公園があった。

 平日の昼間だからか、子どもの姿はなかった。

 久はベンチに座った。

 施設の入口は、そこから見えている。

 自動扉の前を、職員らしき人が出入りしていた。

 ガラスの向こうに、受付の明るい照明が見えた。

 ここまで来た。

 それなのに、まだ入れない。

 笑えてくる。

 久は小さく息を吐いた。

 白い息が、すぐに消えた。

 紙袋の中から、かすかにバラとお茶の香りがした。

 茶の花の香りは、もうほとんど分からない。

 花びらの端は、茶色くなっていた。

 こんなものを、今さら持って行くのか。

 でも、捨てることはできなかった。

 美咲に渡したい。

 久は、花を包み直した。

 公園の向こうで、施設の扉が開いた。

 職員の声がした。

「今日は日が出てますから、少しだけ外に出ましょうね」

 久は顔を上げた。

 何人かの入居者が、職員に付き添われて公園へ出てきていた。

 久は、紙袋を握ったまま、立ち上がれなかった。

 美咲がいるかもしれない。

 久は、ベンチに座ったまま、入居者たちの方を見た。

 風が動き、ふっとバラの香りがした。

 久は、立ち上がった。

 公園の端に、車椅子の女性がいた。

 職員が後ろから車椅子を押している。女性の膝には、淡い色の膝掛けがかかっていて、その上に巾着袋が置かれていた。白髪はきれいに整えられている。

 久は、数歩進んで、立ち止まった。

 美咲だった。

 すぐには声をかけられなかった。

 職員が車椅子をゆっくり押して、植え込みのそばを通り過ぎようとしていた。

 このまま行ってしまう。

「こんにちは」

 ようやく出た声は、驚くほど小さかった。

 職員が振り向いた。

「あ、石岡さん」

 驚いた顔をしたあと、すぐに表情を和らげた。

「こんにちは。来てくださったんですね」

 職員は、車椅子のブレーキをかけた。

「美咲さん」

 職員は、車椅子の女性に声をかけた。

「お客様ですよ」

「お客様?」

 美咲が、ゆっくりと首を動かした。

 職員は車椅子をその場で静かに反転させた。

 美咲の顔が、久の正面を向いた。

 久は息を止めた。

 美咲は、久を見ていた。

 見てはいた。

 けれど、その目は、久の知っている目ではなかった。

 帰ってきたん、遅かったな。

 そう言って笑う時の美咲ではなかった。

 久は、一歩近づいた。

 立ったままでは、いけない気がした。

 膝を曲げると、美咲と目の高さが近くなった。

「どうなさったの?」

 その声は、以前より細かった。

 それでも、語尾の柔らかさは変わらなかった。

 久は、紙袋を持つ手に力を入れた。

「あの」

 声がかすれた。

 久は一度、唾を飲み込んだ。

「これを、渡したくて」

 紙袋から、皺がついた和紙に包んだ茶の花を取り出した。

 久は、両手でそれを差し出した。

 美咲は、職員の方をちらりと見た。

 職員が穏やかに頷く。

 美咲は膝の上に置いていた手をゆっくり持ち上げ、久から受け取った。

 手は細くなっていた。

 昔、久のネクタイを直していた手。
 湯呑みを置いてくれた手。
 冬の朝、久のコートにブラシをかけていた手。

 その手が、今は和紙の端をゆっくりつまんでいる。

 美咲は和紙を開いた。

 中から、茶の花が出てきた。

 白い花びらの端は、もう茶色くなっていて、茎も曲がってしまっていた。

 美咲は、しばらくそれを見ていた。

「椿かしら?」

 久は、首を横に振った。

「茶の花です」

「お茶の?」

「はい」

 久は、花を見たまま言った。

「前に、お茶の香りのするものを探してほしいと、あなたが言っていたので」

 美咲は、少し首を傾げた。

 その仕草だけで、久には分かった。

 けれど、それでもよかった。

 久も、忘れていた。

 忘れていて、あの店で思い出した。

 久は、膝を曲げたまま、美咲を見た。

 美咲は茶の花を見ていたが、すぐに視線を久へ戻した。

「あなた、お名前は?」

 職員がわずかに口を開きかけたが、久は、小さく首を振った。

 自分で言いたかった。

「私は、久と言います」

 久は言った。

「石岡、久です。美咲さん」

「久さん」

 美咲は、言葉を確かめるように繰り返した。

 その声に、久は思わず目を閉じそうになった。

 久さん。

 何度も聞いた呼び方だった。

 食卓の向こうから。
 玄関先から。
 寝室の灯りを消す前に。

 けれど、今の美咲の声には、思い出した確かさはなかった。

「あら」

 美咲は、久の顔を見ながら、少し困ったように笑った。

「どこかで、お会いしてましたか。ごめんなさいね。最近、記憶が怪しくて」

 久は、首を横に振った。

「いいえ」

 そう言ってから、言葉が止まった。

 ここまで来て、また、逃げられる言葉を探していた。

 久は、袋の中の包み香を思い出した。

 バラとお茶と香木。

 香りは、いつか薄れる。

 花も、いつか落ちる。

 それなら、言葉も、今出さなければならなかった。

「私は」

 久は言った。

 声が揺れた。

「あなたに、ずっと支えられてきました」

 美咲は、黙って聞いていた。

 久は続けた。

「仕事から帰った時も、何も言わずに、お茶を出してくれました」

「寒い日は、先に風呂を入れてくれて。雨の日は、玄関で上着を受け取ってくれて。私が何も言わなくても、いつも」

 久は、美咲の顔を見られなかった。

 膝のあたりで、指が少し震えていた。

「私は、それをずっと、当たり前にしてきました」

 美咲の膝の上で、茶の花が少し揺れた。

「今度は」

 久は、顔を上げられないまま言った。

「今度は、私の番です」

 風が吹いて、バラの香りが、またした。

「あなたを、支えさせてください」

 美咲は、しばらく黙っていた。

「そんないいのに」

 美咲の声がした。

 美咲は、茶の花を膝に置き、茎のあたりを指で触れていた。

「私、何もしてへんよ」

 久は、目を閉じた。

 何もしてへん。

 そう言う人だった。

 遅く帰った夜の湯。
 朝、玄関先に置かれていたハンカチ。
 久の生活の端に、いつも用意されていたもの。

 美咲は、そういうものを数えなかった。

 久は、下を向いたまま、肩を小さく震わせた。

「でも」

 美咲の声が続いた。

「ありがと」

 久は、思わず顔を上げた。

 美咲は、久を見ていた。

 夫を見つけた目ではなかった。

 それでも、食卓の向こうから久を見る時の目に、どこか似ていた。

 久は何か言おうとした。

 だが、言葉になる前に、美咲が「あら」と言った。

「なんで泣いてるの」

 久は、そこで初めて、自分が泣いていることに気づいた。

 涙を拭こうとして、内ポケットに手を入れた。

 ハンカチがあるはずだった。

 今朝、入れ忘れた。

 いや。

 昔は、入れ忘れることなどなかった。

 美咲が、出がけに持たせてくれていたからだ。

「これ、使って」

 美咲は、膝の上に置いていた巾着袋から、小さなハンカチを出した。

 淡い色の、古いハンカチだった。端に、花の刺繍がある。

 久は、それを見た瞬間、息が止まりそうになった。

 見覚えがあった。

 いつのものだったかは、すぐに思い出せない。

 たぶん、美咲の鏡台の引き出しに入っていたものだ。

 職員がそっと美咲の手元を支えた。

 美咲はハンカチを久に差し出す。

 久は、両手で受け取った。

 ハンカチは、バラの香りがした。

 強い香りではない。

 布の奥に残った、淡いバラの香りだった。

 久は、そのハンカチを目元に当てた。

 香りが、ゆっくりと近づいてきた。

 久が気づくより先に、必要なものが差し出される。

 美咲は、ずっとこうだった。

 久はそれを、気遣いだと思わずに受け取ってきた。

 当たり前にしてきた。

 美咲の指が、茶の花の茎をまだそっと支えていた。

 萎れかけた花だった。

 遅すぎた花だった。

「きれいね」

 美咲が言った。

「少し、茶色くなってしまいました」

「そう?」

 美咲は花を見た。

「でも、咲いてる」

 久は、何も言えなかった。

 美咲は、茶の花を見ていた。

 久は、その横顔の中に昔の美咲を探しかけて、やめた。

 昔の美咲を探すために来たのではない。

 今ここにいる美咲に、会いに来たのだ。

 久は、膝を曲げたまま、もう一度美咲の目を見た。

「また、あなたに会いに来てもいいですか」

 美咲は、ぱちりと瞬きをした。

「私に?」

「はい」

「まあ」

 美咲は照れたように笑った。

「お茶も出せへんのに」

「私が持ってきます」

 久は言った。

「お茶も、ハンカチも」

 美咲は、不思議そうに久を見た。

 それから、茶の花へ目を落とした。

「ほな、今度は萎れる前にね」

 久は、深く頷いた。

「はい」

 風がまた、植え込みを揺らした。

 美咲の膝の上では、茶の花が小さく揺れていた。

 白い花びらの端は茶色くなっていた。

 それでも、まだ落ちてはいなかった。


次のお話:#9 第7話 薬力さんの水


【香り屋】作品リスト

#0 プロローグ ろーじの奥

#1 第1話 沈丁花のころ

#2 間話 蒼介の棚

#3 第2話 雨の匂い

#4 第3話 祇園囃子の聞こえるころ

#5 第4話 金木犀はまだか

#6 間話 箱の中

#7 第5話 藤袴

#8 第6話 茶の花

#9 第7話 薬力さんの水

#10 第8話 香りの消えるころ

#11 エピローグ 春の終わり、また隣に


いいなと思ったら応援しよう!