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【香り屋】#3 第2話 雨の匂い

 市内を走るバスの運転手をしている田所たどころ良平りょうへいは、細い路地のどんつきにある町家の前に立っていた。

 傘の先から落ちた雫が、石畳に小さく跳ねる。

 暖簾の奥で、扉が少しだけ開いていた。

 営業中、という札はない。
 けれど、閉じているようにも見えない。

 格子戸の横に、古い木札が掛かっている。
 雨に濡れて、木目が少し濃くなっていた。

 香利屋。

 良平は、声に出さずに読んだ。

 ここに来るつもりはなかった。
 少し早めに仕事が終わったから、買い物をして帰るだけのはずだった。

 それなのに、気がつけば、こんな細い道の奥にいる。

 傘を持つ手に、少し力が入った。
 雨音の向こうで、さっきまで耳に残っていた車内アナウンスの声が、まだ薄く聞こえてくる気がした。


 雨の日の車内には、いろいろな匂いが混じる。

 濡れた傘、雨合羽。
 湿った服。
 締め切った車内の空調。
 扉の開閉時に入り込んでくるアスファルトの匂い。
 渋滞時の排気ガス。

 ワイパーの音は、同じ速さで窓を行ったり来たりする。
 前方のガラスには、細い水の筋が何本も流れる。
 道路の白線は濡れて、昼間なのに少し光って見える。

 良平は、それらをひとつずつ意識しているわけではなかった。
 ただ、全部が少しずつ、身体に残っていく。

「次、止まります」

 ボタンの音がした。

 良平はミラーを見た。
 中ほどの座席から、杖を持った男性がゆっくり立ち上がる。

「お降りの方は、足元にお気をつけください」

 マイクを通した自分の声が、車内の上の方で薄く響いた。

 男性が、ゆっくりと通路を進む。
 その後ろで、急いでいるらしい若い男が、スマホを見ながら小さく息を吐いた。

 雨の日は、バスが遅れる。

 そんなことは、乗っている人も分かっているはずだった。
 それでも、誰かの予定には関係がない。
 それぞれの急ぎが、濡れた服や傘と一緒に車内へ持ち込まれる。

「すみません、遅れそうですか」

 前の方に立っていた女性が、控えめに聞いた。

「申し訳ございません。ただいま道路が混み合っております」

 良平は、いつもの声で答えた。

 いつもの言葉。
 いつもの声。

 そうしていれば、大抵のことは過ぎていく。

 次の停留所で、ランドセルを背負った子どもが降りようとしていた。

 前の扉のそばで、傘を持ったまま、手提げ袋の中を探っている。運賃箱の前まで来ても、カードが見つからないようだった。

 後ろに並んだ人が、子どもの手元を見下ろしている。

「ゆっくりで大丈夫ですよ」

 子どもは小さく「すみません」と言い、見つけたカードを読み取り部へ近づけた。

 ピッ。

 乾いた音が鳴る。

「はい、お気をつけて」

 子どもは頭を下げ、傘を開いて雨の中へ降りていった。


 感じの良い運転手さんですね。

 以前、そんなことを言われたことがある。
 乗客からだったような気がするが、いつ言われたか、覚えていない。

 悪い気はしなかった。

 もともと、人にきつく言うのは苦手だった。
 できるなら、穏やかに運転したい。
 お年寄りが乗る時は少し待ちたいし、子どもには急かしたくない。
 降りる人には、気をつけてほしい。

 そう思っていたのは、本当だった。

 けれど最近、分からなくなっている。


「ありがとうございました」

 終点のひとつ手前で、買い物袋を提げた女性が降りた。

 良平は、女性に向かって言った。

 その後ろに、もうひとこと、続くはずだった。

 よい一日を。

 昔は、自然に言えていた。
 雨の日でも、晴れの日でも。

 けれど最近、その言葉は喉の手前で止まる。

 言うほどのことなのか。
 余計ではないか。
 遅れているくせに、何を気取っているのか。

 誰にそう言われたわけでもない。
 それなのに、自分の中で、誰かが言う。

 だから、良平は「ありがとうございました」だけ言った。

 女性は傘を開き、濡れた歩道へ降りていった。

 ワイパーが、また一度、窓を拭いた。

 勤務が終わっても、車内の音はすぐには消えなかった。

 営業所に戻り、日報を書き、濡れた制服の袖を軽く払う。
 休憩室の椅子に座っても、身体がまだ運転席に残っている気がする。

 ピッ。

 運賃箱の読み取り音が、耳の奥で鳴る。

 「遅れそうですか」

 「申し訳ございません」

 「ゆっくりで大丈夫ですよ」

 声だけが、頭の中で何度も回っていた。

 良平は、自動販売機で缶コーヒーを一本買った。

 けれど、プルタブに指をかけたところで手が止まった。
 隣で同僚が飲んでいるコーヒーの甘い匂いが、急に重たく感じ、蓋を開けられなかった。

 そのまま、鞄に入れた。

 疲れた。

 けれど、今日は早く上がれた。

 この時間なら、スーパーは空いている。

 良平は、着替えながら何を買うか考え、営業所を出た。

 三条会商店街は、雨の日だからか、夕方にしては人が多かった。

 地元の買い物客だけではない。
 外国語で話す観光客の一団が、物珍しそうに商店街の店を指差しながら、歩いている。

 魚屋の匂い、揚げ物の匂い、湿った段ボールの匂いが、アーケードの下にこもっていた。

 人にぶつからないように歩く。

 それだけで、少し疲れる。

 良平はスーパーで卵と豆腐、それから小松菜を一袋買った。
 レジ袋を提げて商店街を出ると、雨はまだ細かく降っていた。

 一本、下がろう。

 傘を差すのは面倒だった。
 けれど、傘は周囲の視線を遮ってくれる。

 仕事中は、ミラーで乗客を見る。
 乗客からも、運転席の自分は見えている。

 傘の内側に入ると、顔を見なくていいし、見られずに済む。
 妙な安心感があった。

 良平はアーケードを抜け、一本南の静かな通りへ入った。
 雨の音が、傘を細かく叩く。

 大きな通りを渡ろうとして、信号を見ると、青信号が点滅していた。
 信号待ちをしていたバスが、軽くクラクションを鳴らした。

 びくりとして顔を横に向けると、

 運転席で、同僚が手を挙げていた。

 良平も、反射的に手を挙げた。

 同僚のバスは、青信号でゆっくり動き出した。
 後ろ姿が雨に滲み、やがて車の流れに紛れる。

 良平は、傘の柄を握り直した。

 この喧騒から、離れたい。

 大きな通りを渡る足が速くなった。

 逃げるように小さな通りを歩いていると、雨の中に、ふっと違う匂いが混じった。

 甘い。

 良平は足を止めた。

 何の甘さかは分からない。
 けれど、雨の匂いの中で、そこだけ少し違っていた。

 普段なら入らない細い道が、通りの脇にあった。
 人ひとりが傘を差して通れば、それだけでいっぱいになりそうな道だった。

 この道でも、向こうの通りへ抜けられるかもしれない。

 良平は、そう思って足を進めた。

 けれど、道は抜けていなかった。

 抜けられなかったか。まあ、そういう時もある。

 戻ろうとした時、香りがまた近くなった。

 雨に濡れた木。
 少しくぐもった甘い香り。

 良平は、傘を上げ、目の前の町屋を改めて見た。
 格子戸の横に、古い木札が掛かっている。

 香利屋。

 暖簾が出ており、風にゆるく揺れていた。
 扉は少しだけ開いている。

 良平は、しばらくその場に立っていた。

 入るなら、今だろうか。


 中から声が聞こえた。

「そしたら、このあとお寺に戻らんとあかんので。和尚さんいはったら、その数、伝えておきます」

「あら、これから戻らはるんですか。雨も降ってますし、お気をつけて。和尚さんに、よろしくお伝えください」

 暖簾の向こうから、作務衣姿の女性が出てきた。

 良平は、咄嗟に傘を深く差した。

 その女性は、片手に小さな紙袋を持っていた。
 口のところから、畳まれた風呂敷の端が少しだけ覗いている。

「あら、お客さん、待たせてしもたかしら」

 傘をあげると、女性が入口で、良平を見ていた。

「いえ、私は」

「しおりさん、お客さん、待ってはりますわ」

 奥へ向かって、女性が声をかける。

 良平は、違う、と言おうとした。
 通りを歩いていたら香りがしただけで、客ではない。
 店が何の店かも知らない。

 けれど、その言葉は、傘の内側で止まった。

「ほら、どうぞ。待たせてたら、ごめんなさいね」

 作務衣の女性は、そう言って暖簾を少し上げた。

 断るなら、今だった。

 雨の匂い。
 湿った木の匂い。
 その奥に、茶葉のような香りとかすかな甘みがあった。

「……すみません」

 良平は、小さく言って暖簾をくぐった。

「ほな、また」

 背後で、作務衣の女性の声がした。
 引き戸が、静かに閉まる。

 良平は、入り口で立ち尽くした。

 視線を上げた先には、派手ではない着物を着た女性が立っていた。
 さっき、「しおりさん」と呼ばれていた人だろう。

「お待たせして、すんません。よう降ってますでしょう。傘、こちらへどうぞ」

「あ、あの」

「はい」

「こちらは、どういうお店なんですか」

 女性は、目を丸くし、小さく笑った。

「あら。知らんと来はったんですか」

 馬鹿にされた感じはしなかった。

「すみません。通りを歩いていたら、気になる香りがして」

「謝らんでください」

 女性は続けた。

「うちは、お寺さんや飲食店さん、旅館さんなんかに、お香や匂い袋を納めさせてもろてるんです」

「そうなんですね。でも私は」

 気になった香りがしたから来ただけです。

 そう言おうとした。

「立ち話もなんですし、どうぞ。雨宿りがてら、お茶でも飲んでいってください」

 良平は、靴の先に落ちた雨粒を見た。

 ここで引き返してもよかった。

 でも……

「……お邪魔します」

 通り庭を進むと、古い木の匂いに加え、お茶と、何か甘い香りが、先ほどより鼻に届いた。

 通路を曲がると、横に、小さな坪庭が見える。
 雨が葉を叩き、苔の上に細かな水の粒が散っていた。

 車内の窓に流れる雨とは、同じ水なのに違って見えた。

 奥には、カウンターがあった。
 椅子は二つだけ。

 女性はカウンターの内側へ入り、空いている椅子の方へ手を向けた。

「どうぞ、こちらへ。今、片づけますから」

 それから、衝立の向こうへ声をかける。

「そうちゃん、お客さん」

 カウンターには、湯呑みのほかに、古いノート、鉛筆、乳鉢、小さな匙、それから、芯に巻かれた布が置かれていた。

「はーい。いらっしゃい」

 カウンター横の衝立の隙間から、畳の場所が見える。そこから出てこようとしていた男性が、こちらを向いて軽く会釈をした。

 おそらく、「そうちゃん」と呼ばれた人だろう。

 男性は、カウンターの上にあった道具を、ひとつずつ衝立の向こうへ運んでいった。芯に巻かれている布だけは、女性が棚の下の空いたところへそっと置いた。

 良平は、湯呑みの置かれていない方の椅子に腰を下ろした。

 座った途端、身体の重さに気づいた。

 さっきまで歩いていた時には分からなかった重さだった。

「温かいもの、飲まはりますか」

「いえ、そんな」

 断ろうとしたのに、声が途中で小さくなった。

 女性は、聞こえなかったふりをするように、棚の方へ向いた。
茶葉の入った缶を開ける音がする。

「今日は、番茶にしましょうか」

 湯を注ぐ音が、雨音の間に混じった。

 良平は、買い物袋を足元に置き直した。
 袋の中で、卵のパックがかすかに鳴った。

「お仕事帰りですか」

 女性が湯呑みを置きながら聞いた。

「あ、はい」

「雨の日は、何かと大変ですね」

 良平が顔を上げると、女性は坪庭を見ていた。

「傘もありますし、道も混みますし」

「ああ……そうですね」

 良平は湯呑みを両手で包んだ。熱すぎない温度だった。
 番茶の香りが、鼻の奥にゆっくり残った。

「バスの運転手をしているんです」

「そうでしたか」


 その沈黙に、良平は少し戸惑った。

 大変ですね
 いつもお世話になっています

 そんな言葉が来なかった。

 悪い言葉ではない。むしろありがたい。
 けれど、

「いえいえ」
「仕事ですので」
「慣れていますから」

 そう返すつもりでいた。

 けれど、言う相手がいなかった。

 良平は、番茶の入った湯呑みから視線を上げられなかった。


「雨の日は、遅れますし」

「乗っている方も、急いではるので」

「そうですね」

「もちろん、こちらが悪いわけではないことも多いんですけど。信号とか、道路とか、乗り降りとか。でも、遅れていることには変わりないので」

 言いながら、何を話しているのか分からなくなった。

 言い訳をしているみたいだ。
 誰に。

「たいしたことではないんです」

 良平は、湯呑みを両手で包んだまま、指を動かした。

「みなさん、もっと大変ですから」

 言ってから、また同じ言葉だと思った。

 仕事ですし。
 慣れていますし。
 たいしたことではないですし。

 そう言っておけば、話は終わる。
 だから、何度も使ってきた。

「ありがとうって、言われることも多いお仕事なんでしょうね」

 女性が静かに言った。

 良平は、返事に迷った。

 多い。
 たぶん、多い。

 降りる時に頭を下げる人もいる。
 小さくお礼を言う人もいる。
 子どもが手を振ってくれることもある。

 それなのに最近、その声があまり残らない。

 残るのは、

 遅れていますか
 急いでいるんですけど
 扉、開けてもらえますか
 なんでこんなに混んでるんですか

「言ってもらってるんやと思います」

「たぶん」

「聞こえてないのかもしれません」

 自分で言ってから、少し驚いた。

 聞こえていない。

 そんなつもりはなかった。
 耳は、いつも使っている。
 車内の音には気を張っている。
 ボタンの音。乗客の足音。誰かが転びそうになる気配。
 小さな咳払い。苛立ったため息。

 聞こえているはずだった。

「ありがとうって言われるのは、嬉しいんです」

 良平は続けた。

「嬉しいはずなんですけど」

 その先が、出てこなかった。

 良平は湯呑みの底を見つめることしかできなかった。

 カウンター横の衝立の向こうで、男性が小さな音を立てた。

 皿に何かをのせる音。
 匙が、机に置かれる音。
 紙が折られるような音だった。

 男性が持つお盆の上には、先ほどカウンターにあった乳鉢、小皿や紙が乗っていた。

「雨の日は、香りが重くなります」

 声は低く、落ち着いていた。

「湿気で、下へ沈みやすいんです。強いものを足すと、いつもより、強く感じることがあります」

 男性は、良平の目の前に置いたお盆の上から、小皿に乗った、番茶だろうか、ほうじ茶だろうか、煎った茶葉を少し取った。

「だから、少しだけ逃がします」

「逃がす?」

 良平が聞き返すと、男性はうなずいた。

「無理に強い香りで押し返すのではなくて。逃げ道を作る感じです」

 乳鉢の中に、茶葉が匙で入れられる。
 もう一つの小皿に、薄い橙色の欠片が少しだけ乗っている。

「柑橘は、苦手ではありませんか」

「いえ」

「みかんの皮です。よう乾かしたものを、ほんの少し」

 そう言うと、男性は茶葉の入った乳鉢にみかんの皮を入れ、ゆっくりとすりつぶした。

 途端に柔らかく、爽やかなみかんの香りがした。

 みかん。

 良平は思い出した。

 市内の中心部を抜け、少しずつ家並みが低くなっていく路線だった。
 窓の外に畑が見え、雨ではなく、冬の乾いた光が車内に入っていた。

 終点に近づくほど、乗客は減っていく。

 その路線に、いつも同じ停留所で降りる女性がいた。
 小さな買い物袋を膝に置き、降りる時には必ず、運転席の方へ顔を向ける人だった。

「いつもありがとうね。はい」

 ある日、その人はそう言って、良平の手の上にみかんをひとつ置いた。

 瞬間的に受け取ってしまった。

「いえ、困ります。お気持ちだけで」

「一個だけやし。あんた、いつも待ってくれるやろ」

「でも」

「ほな、見なかったことにしといて」

 女性は少し笑って、ゆっくり降りていった。

 扉が閉まる。

 発車しなければならなかった。

 良平は、次の信号で止まった時、ポケットから取り出した。
 丸くて、小さかった。

 終点に着いてから、運転用手袋を外した時、ふと思い出してポケットに手を入れた時、皮に爪が当たった。
 手から、みかんの匂いが広がった。

 甘いだけではない。
 少し苦くて、明るい匂い。

 あの時、困っていた。
 けれど、たぶん嬉しかった。

 その日の帰り便で、降りる人に何と言ったのかは覚えていない。
 ただ、声が今よりずっと軽かったことだけは覚えている。


「……みかんの匂いですね」
 思わず口に出してしまった。

 男性は手を止めずに、ほんの少しだけ笑った。

「強すぎましたか」

「いえ」

 良平は首を振った。

「懐かしいです」

 女性は、ただ、番茶を足してくれた。

 湯気が、細く上がった。

「昔は」

 良平は、湯呑みを見たまま言った。

「降りる人に、もうひとこと言えてたんです」

「もうひとこと」

「ありがとうございました、のあとに」

 そこまで言って、言葉が止まった。

 よい一日を。

 その言葉は、まだ声にならなかった。

 

 雨が、坪庭の葉を叩いている音がする。
 良平は男性が乳鉢の中身を、折った紙の中に入れる様子を見つめていた。

「最近は、言えなくなっていて」

 良平は、息を吐いた。

「言わなくても仕事はできますし。むしろ、余計なことかもしれないと思う時もありますし」

 便利な言葉が出かけたけれど、今は言わなかった。


「でも、言えていた時の方が」

 良平は、少しだけ目を閉じた。

 みかんの皮をすりつぶしている時の匂い。
 空いた車内。
 終点の静けさ。
 小さな買い物袋を提げた女性の背中。

「楽しかった気がします」

 そう言って苦笑いしていることに気がついた。

 楽しかった。

 この言葉を仕事に使うのは、久しぶりだった。

 男性が、折った紙を小さな包みにした。
 それを、カウンターの上にそっと置く。

「今日の香りです」

 良平は、その包みを見た。

「持って帰っていいんですか」

「はい」

 男性はうなずいた。

「雨の日は、匂いが残りやすいですから。香りが強いと感じる時は無理に嗅がんと、近くに置くくらいで」

 女性が言った。

「ポケットに入れておいても、鞄に入れておいても。思い出した時に、少しだけ」

 良平は、包みを手に取った。

 軽かったが、手触りが心地よかった。
 ただの紙だと思っていたが、和紙だった。


「お代は」

 良平が言うと、女性は微笑みながら首を振った。

「今日は、結構です」

「でも」

 良平は、鞄の中を探った。

 財布を出そうとして、指先に冷たいものが当たった。

 営業所で買った缶コーヒーだった。
 飲むつもりで買ったのに、開けないまま鞄に入れていた。

「あの」

 良平は、缶コーヒーを取り出した。

「こんなんでよかったら」

 女性は、缶を見て、それから良平を見た。

「まだ開けてません。お代の代わりになるかは、分かりませんけど」

「まあ」

「ほな、ありがたくいただきます」

 女性は、缶を両手で受け取った。


「雨、少し弱くなったみたいですね」

 外を見ると、雨脚は細くなっていた。

 良平は立ち上がった。

 足元の買い物袋を持つ。
 包み香は、ジャケットの内ポケットに入れた。

「ありがとうございました」


「お気をつけて」

 暖簾をくぐって、傘をさした。

 外の空気は相変わらず湿っていた。

 通りに戻る途中、鞄を肩にかけ直す際、ジャケットが揺れ、ほうじ茶とみかんの皮の匂いがかすかにした。

 雨に濡れた木やアスファルトの匂いと混じって、それはすぐに分からなくなる。
 でも、完全には消えなかった。


 翌日も、雨だった。

 良平はいつものように運転席に座り、ミラーを合わせた。
 車内には、濡れた傘の匂いがある。
 湿った服に雨合羽。
 運賃箱の読み取り音。

 何も変わっていなかった。

「次、止まります」

 ボタンの音がした。

 良平はミラーを見た。
 前方の席から、杖を持った女性がゆっくり立ち上がる。

 早めにブレーキを踏む。
 車体が、静かに沈んだ。

「お降りの方は、足元にお気をつけください」

 マイクを通した声が、車内に流れた。

 良平は、自分の声を聞いた。

 昨日より、声が出しやすかった。

 女性が、ゆっくりと降りていく。

「ありがとうございました」

 そこで、声は止まった。

 よい一日を。

 頭の中では続いていた。
 けれど、まだ声にはならなかった。

 女性は傘を開き、雨の中へ歩いていった。

 その背中を見送りながら、良平は胸ポケットの上に手を置いた。

 中で、小さな包みがかすかに触れる。

 雨は、まだ降っている。

 それでも良平は、次の停留所へ向けて、ゆっくりアクセルを踏んだ。


次のお話:#4 第3話 祇園囃子の聞こえるころ


【香り屋】作品リスト

#0 プロローグ ろーじの奥

#1 第1話 沈丁花のころ

#2 間話 蒼介の棚

#3 第2話 雨の匂い

#4 第3話 祇園囃子の聞こえるころ

#5 第4話 金木犀はまだか

#6 間話 箱の中

#7 第5話 藤袴

#8 第6話 茶の花

#9 第7話 薬力さんの水

#10 第8話 香りの消えるころ

#11 エピローグ 春の終わり、また隣に


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