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【香り屋】#0 プロローグ ろーじの奥

あらすじ

京都には、「ろーじ」と呼ばれる細い生活道路がある。本能寺跡からほど近い通りの奥にも、入り組んだ路地があり、思ったところへなかなか辿り着けない場所があった。そんな路地の突き当たりに、古い木札の掛かった家がある。木札には「香利屋」とあり、近所の人はそこを「こうりやさん」「こおりやさん」と呼ぶ。そこでは、あたたかな一杯を用意する女性と、香りを合わせる男性が、訪れた人を静かに迎えている。雑誌記者の遠野綾は、京都の不思議な噂を追ううちに、その家へたどり着く。取材対象として近づいたはずのその場所は、やがて綾自身が置き去りにしていた親友・潤との記憶にも、静かに触れていく。


※この物語はフィクションです。登場する人物、店、団体、施設等は架空のものです。京都の風景や地名を一部手がかりにしていますが、物語として再構成しています。


 春の終わりだった。

 桜は散り、葉桜になっている。梅雨にはまだ少し早いけれど、空気の中には湿気の気配があった。

 市バスを降りた綾は、歩道の端で立ち止まり、地図のアプリを見直した。

 通り名の歌を、頭の中でなぞる。
 四条から、ひとつ、またひとつ北へ。
 これを上がっていけばいいんやな。

 「それにしても、暑いなぁ」

 思わず声に出ていた。

 スマホの天気予報には、十年に一度の暑さ、という文字が並んでいる。

 何が十年ぶりの暑さやねん。
 毎年言うてるやん。

 そう思いながら、綾は鞄からハンカチを取り出した。首筋に浮いた汗を押さえても、すぐにまた湿り気が戻ってくる。

 遠野とおのあやは、雑誌の記者をしている。

 京都に昔からある店、妙な噂、誰かが言い残した小さな言葉。
 そういうものを拾って、記事にする。

 最近、その仕事が小さな連載になったばかりだった。

 今回も、足で拾うしかない。

 綾はハンカチを握りしめ、通りを北へ上がっていった。

 大通りを一本、また一本と上がるにつれ、車の音が少しずつ遠くなる。
バスのブレーキ音も、信号待ちのざわめきも、背中の方へ置いていかれる。

 その代わりに、
 どこかの家の網戸が閉まる音がした。
 昼ご飯の支度をしているような音と匂いがした。
 家の中の方から、箒で掃く音も聞こえた。

 不意に風が吹いた。

 葉桜になった桜の木が、さらさらと音を立てる。その近くに、石碑がひっそりと立っていた。

 本能寺跡。

 前、記事で取り上げたなぁ。

 綾は足を止めた。

 あの時は、今日みたいな靴と違って、ヒールのある靴だった。珍しくかしこまった取材終わりにそのまま来たせいで、ひどいことになった。

 いくら「跡」と言ったって、市役所のあたりにあると思うやん。
 めっちゃ歩いたわ。

 別に、本能寺跡が悪いわけではない。

 綾は少し苦笑いをして、石碑に心の中で手を合わせた。

 その時も思った。
 京都の記憶は、案外、今見えている場所とは違うところに残っている。
 名前だけが残り、人は石碑ひとつで、そこに何かがあったことを知る。

 今日探している店も、その一つなのかもしれない。


 もうそろそろかな。

 綾はスマホに目を落とした。今いる場所を地図で確認したあと、SNSのDM欄を開く。

 始まりは、一週間ほど前に見つけた、ちょっとした投稿だった。

誰もアップしてないのなんでだろ。
京都の路地裏のお店で、香りを合わせてもらった。めっちゃいい香り。
明日からがんばろ。
京都に行く人いたら、ほんと行ってほしい。

#京都ディープスポット
#京都大好き

 写真はなかった。
 店名もなかった。

 お香屋は結構あるが、老舗のお香屋だろうか。
 けれど、綾は妙に引っかかった。

 その人の投稿を遡ってみると、京都へ観光に来た人らしかった。
 寺社の写真、喫茶店のクリームソーダ、鴨川の夕方、ホテルの朝食。
 よくある旅行記録の中に、その投稿だけが少し浮いていた。

 DMを送ると、返事はすぐに来た。

 感じのいい人だった。
 ただ、店のことを聞くと、少し曖昧になった。

 たぶんこのへんです。地図のスクショを送ります。
 でも、はっきり説明できないんです。
 気づいたら、着いていた感じです。

 その数日後、その人は投稿を削除していた。

 変なこと聞いたかな。

 何かあったのかは、聞かなかったが、ブロックされているわけでもない。
 こうやってDMも見れるし、私の投稿にいいねもつけてくれている。
 たぶん、大丈夫。

 綾はもらったスクショの地図を確認してから、メモ帳をタップした。

・大きな通りからは入っていない。
・路地の奥にあったと思う。
・行ける時と、行けない時があるっぽい。
・地図ではすぐそこにあるのに、歩くと見つからない。
・道を間違えて、抜けられると思った先に店があった。
・気がついたらいた。
・お琴の音がした。
・古い家だった。

 他にも数人から拾った情報を眺める。
 全部が合っているとは思っていない。

 けれど、嫌いじゃない。

 誰かが、わざわざ言い残したくなった場所。
 消してしまったのに、少しだけ残っている話。

 それは、記事になる。

 たぶん。

 今日は、歩けるだけ歩いてやる。

 そう意気込んで、綾は通りを上がっていった。



 それから三十分後。

「うーん、わからん。なんでなん」

 綾は、同じような細い道の前で立ち止まっていた。

 大きな通りに出るまで、左右を見ながら路地を探した。
 路地があれば覗き込み、建物と建物の隙間に奥行きがあれば足を止めた。

 けれど、見つからない。

 ただ、成果がまったくなかったわけではない。

 和菓子屋があった。店先に並ぶ最中と落雁の横で、女将らしき人が紙袋を畳んでいたので、綾は思い切って聞いてみた。

「香りのお店をご存知ないですか?
 お香の販売店ではないと思うんですが……」

 女将は少し首をかしげた。

「今日は主人がいないから、詳しいことはわからんけど…
 お香屋さんと違うて、香りのお店か……
 もしかしたら、うちの裏あたりちゃうかな」

 そう言われて、和菓子屋の裏へ入る道を探してみた。
 けれど、その店の並びにはなかった。
 大きな通り側に回ってみても、それらしい入り口はなかった。

「後は、この道か」

 綾はスマホの画面を見直した。

 本当にあるのか。

 珍しく、少し不安になった。

 取材で歩き回ることには慣れている。
 店がなくなっていたこともある。
 噂が間違っていたこともある。
 話を聞いてみたら、ただの見間違いだったこともある。

 それでも、今日は妙だった。

 見つからないことよりも、見つけてしまうことの方が、少し怖い。

 そんな考えが一瞬だけ浮かんだ。

 綾は首を振った。

 暑さのせいや。
 あと、暑い中歩きすぎ。

 汗をハンカチで拭き、もう一度スマホの画面に目を落とした。

「そこのお姉ちゃん。ごめんなぁ」

 声は、思ったより近かった。

 綾はびっくりして、左右を見回した。

 少し離れたところに、シルバーカーを押した年配の女性が立っていた。
 薄い紫色の帽子をかぶり、取っ手に小さな布袋を提げている。

「はい」

 綾はスマホを鞄にしまい、少し膝を曲げた。

「どうされました?」

「このへんで、お酒を買えるところ、知らん?」

「お酒ですか。近くだと、大きな通りのコンビニにありますよ」

「ああ、そうかぁ。おおきに」

 年配の女性は、少し照れたように笑った。

「恥ずかしい話、コンビニにお酒置いてるか知らんねん。
 私、お酒ほとんど買うたことがなくてな」

「そうなんですね」

「今日は夫の祥月命日でなぁ。お酒が好きやってん。
 お酒やめたら、すぐやったわ」

 自分の顔に出たのかもしれない。

 女性は、ひらひらと手を振った。

「もう十五年も前の話やからな」

 その声は、明るかった。明るいのに、どこかで細く残っているものがあった。

 綾は、それ以上の言葉を探さなかった。
 こういう時、何かを言おうとすると、だいたい余計なことになる。

「ほんでな、今日は、こおりやさんでもろてるお香と一緒に、お酒を供えよう思て」

 ……お香。

 綾は、顔を上げた。

「お姉ちゃん、おおきにな。ちょっとコンビニ行ってくるわ」

 女性がシルバーカーの向きを変えようとする。

 ……こおりや。

「あ、あの。おばあちゃん」

 綾は、思わず声をかけていた。

 女性が振り返る。

「ん?」

「今、お香って言いました?」

「言うたよ」

「その、こおりやさんって……
 かき氷とかの、氷屋さん、ではないですよね」

 女性は一瞬きょとんとして、それから声を立てずに笑った。

「氷は売ってへんなぁ。昔はどうやったか知らんけど」

「お香のお店なんですか」

「お店いうか、家やね。昔からこのへんにあるとこ。
 うちらは、こおりやさん言うてるけどな。
 こうりやさん、言う人もいるかな」

 こうりや。
 こおりや。
 香り。

 綾は、鞄の外ポケットに差していた手帳を、無意識に指で押さえた。

「そのおうちって、どこにありますか」

 女性は、綾の顔を見て、また少し笑った。

「お姉さん、なんや楽しそうやねえ」

「すみません。仕事柄、気になってしまって」

「仕事?」

「雑誌の記者をしています。京都の古いお店とか、
 面白そうな噂の話とか、そういうものを取材していて」

「へえ。記者さん」

 女性は、感心したように綾を見た。けれど、警戒する感じはなかった。

「この通りのすぐそこに道があるやろ」

 そう言って、女性は片手をゆっくり上げた。

「細い道。見落としそうなとこ。
 そこ入っていったら、どんつきに古い家があるわ」

 綾は、女性の指す方を見た。

 さっきも通ったような気がする場所だった。けれど、言われてみると、建物の間に細い影がある。路地というより、家と家の軒先が被りそうな小道に見える。

「あそこですか」

「そうそう。どんつきまで行ったら分かるわ」

「どんつき……突き当たりですね。ありがとうございます」

 うんうんと首を縦に振る女性。
 だが、思い出したかのように口を開いた。

「ああ、さっきは開いていたけど、今は開いてるかは知らんよ」

「不定期なんですか」

「さあ。用事がある時は開いてるんちゃうかな」

 女性は、当たり前のようにそう言った。

 綾はその言い方に、少しだけ引っかかった。

 用事がある時。
 誰の。
 店の。
 客の。

 聞こうかと思ったが、女性はもうシルバーカーを押し始めていた。

「おばあちゃん、コンビニ分かります?」

「大丈夫。大きい通りのとこやろ」

「はい。車に気をつけてくださいね」

「おおきに。お姉さんも、迷子にならんようにな」

 そう言って、女性は笑った。

 綾は見送ってから、細い道の前へ戻った。

 そこは、さっきまで確かに見えていなかった。

 いや、見えてはいたのかもしれない。
 ただ、道だと思わなかった。

 人ひとりが傘を差せば、それだけでいっぱいになるような幅だった。両側の壁は近く、古い木の格子と、低い塀と、植木鉢が少しずつ道にはみ出している。

 綾は一歩、足を入れた。

 表の音が、すぐに変わった。

 車の音は、まだ聞こえる。けれど、さっきまでのように身体へまっすぐ当たってこない。細い道の中で、少しほどけて、やわらかくなる。

 どこかの家から、弦をつまびくような音がした。
 窓越しに、食器が触れ合う音がした。
 遠くで、子どもの声が響いた。

 湿った石の匂い。
 古い木の匂い。
 葉桜の青い匂い。

 道は、奥へ行くほど少し暗くなった。
 昼間なのに、建物の影が重なって、空が細くなる。

 途中で、抜けられそうな横道があるように見えた。近づいてみると、それは家の勝手口だった。別のところでは、奥へ続いていそうな隙間が、ただの塀の凹みだった。

 思ったところへ、なかなか辿り着けない。

 その言葉が、綾の頭の中に戻ってきた。

 やがて、道は突き当たった。

 本当に、抜けられない。

 戻るしかない道だった。

 そのどんつきには、古い町家があった。

 格子戸の横に白川と書かれた表札があり、その脇に、表札より二回りほど大きな古い木札が掛かっていた。

 木札の字は、雨風にさらされたせいか、少し褪せている。

 香利屋。

 綾は声に出さずに読んだ。

 こうりや。
 こおりや。

 それから、もう一度だけ、文字を目でなぞった。

 かおり屋

 そう読めなくもなかった。

 「……あった」

 言ってから、綾は自分の声の小ささに気づいた。

 入口には、淡い亜麻色の長暖簾が掛かっていた。
 どこから風が抜けているのか、裾がほんの少し揺れている。

 立て看板も、営業中の札も、料金表もない。

 けれど、引き戸は開いていた。

 綾は、握りしめていた手帳を鞄の外ポケットへ戻した。


 ちりりん。

 暖簾を押し分けて中に入ると、小さく鈴が鳴った。

「ごめんくださーい」

 恐る恐る声を出した。

 細い通り庭のような通路が、奥へ続いている。土間なのか板なのか、一瞬では分からない暗さがある。壁の近くに、古い傘立てが置かれていた。奥の方から、風に乗って香りが流れてくる。

 強い香りではなかった。

 香水のように前へ出てくるものではない。線香の煙のように、ひとつの匂いとして立っているわけでもない。

 湿った木と、何か少し甘いものが、通り庭の奥で混じっている。

「はーい」

 聞こえてきた返事は、思っていたよりも近かった。

 綾は顔を上げた。

 通路の奥、小上がりのあたりに、ひとりの女性が立っていた。白いシャツに、薄い色の前掛けをしている。年齢は、綾より少し上か、同じくらいかもしれない。声の印象より、顔は若く見えた。

「すみません。こちらのおみせ、、、は、営業中ですか」

「ええ、やってます。その、、、」

 綾はその女性の表情の変化を見て少し慌てた。

「あ、すみません。私、遠野綾と言いまして、雑誌記者をしております」

「あら、記者さんなんて、初めてちゃうかな。
 うちも有名になったもんやね」

 ふふっと女性は笑い、目を細めた。
 綾は、名刺を出そうとしていた手を、少しだけ止めた。

「実は今回こちらのお店についてお聞きしたいことがありまして」

「そうなんですか。うちは、そんな大層なとこやないんですけど」

 女性は少し困ったように笑った。
 綾は、相手が安心しそうな言い方を選んだ。

「先ほど、通りでおばあちゃんと話していたんです。
 お酒を買える場所を探しておられて。
 そこで、こおりやさんでもらっているお香のことを聞いて、
 こちらを教えていただきました」

 嘘は言っていない。

 女性の表情が、少しやわらかくなった。

「そうなんやね。香りのことなら、少しは話せると思うし、どうぞ上がってください」

「ありがとうございます」

 綾は靴を脱ぎ、家の奥へ付いていった。


 坪庭の脇を通り抜けると、部屋が現れた。

「お席にどうぞ。そうちゃん、お客さん」

 女性は部屋に入るとすぐ右のカウンターの内側へ入った。

 小さなカウンターに椅子は二脚だけで、客は綾だけだった。

 カウンターの向こう、壁際には棚があった。

 湯呑みや鉄瓶、茶葉の缶、小さな菓子皿が並び、
 その横に、薬研、小さな石臼が置かれている。

 お酒の並ぶバーの棚とは、まるで違っていた。

 さっきまで、誰かがここにいたのだろうか。

 淡い茶葉のような、少し甘い匂いが残っている。

 綾は席に座ったまま、香りの元を探すように横を向いた。

 カウンターの横には衝立があり、その隙間から畳が見えた。

 綾が少し身を乗り出すと、
 低い机の上に、紙のようなものが重ねてあるのが見えた。

 作業場だろうか。

 そこには、作務衣を着た男性が背中を向けて座っていた。

「はーい。いらっしゃい」

 そうちゃん、と呼ばれた人だろう。
 男性がこちらを向き、挨拶をした。
 女性と同じ歳の頃だろう。

 思ったより若い人たちがやっているのか。

 そんなことを考え、綾は椅子に座り直した。

 一通り見回した時、先ほど脇を通った小さな坪庭が目に入った。

 苔の奥で、白い花がひとつ、暗がりに浮いている。

 名前を考えるより先に、甘い香りが、湿った空気の中でほどけていた。
 花そのものからまっすぐ来るのではなく、少し離れたところに輪郭がある。

 強いのに、押してこない。
 こちらが気づくのを待っているような香りだった。

 綾は、名刺入れに指をかけた。

 けれど、その指が、止まった。

 何かを思い出したわけではない。
 ただ、香りが、取材に入りきる前のところで、綾を引き留めた。

 いつもなら、最初に名刺を出す。
 それから手帳を開いて、店名を書く。
 住所を書く。日付を書く。誰に会ったかを書く。
 そうやって取材対象を、文字の中に置く。

 綾はもう一度、木札の文字を思い出した。

 香利屋。
 こうりや。
 こおりや。
 香り屋。

 どれを名乗る場所なのか、分からなかった。

 女性は、何も急かさなかった。

 ただ、湯呑みをひとつ選び、鉄瓶の方へ手を伸ばした。
 木の道具が小さく触れ合う音がする。時々、紙を折るような乾いた音も混じった。

「さて、どんなこと話しましょ」

 綾は名刺入れに指をかけたまま、坪庭の白い花をもう一度見た。

 取材のつもりで来た。

 そのはずだった。

次のお話:#1 第1話 沈丁花のころ


【香り屋】作品リスト

#0 プロローグ ろーじの奥

#1 第1話 沈丁花のころ

#2 間話 蒼介の棚

#3 第2話 雨の匂い

#4 第3話 祇園囃子の聞こえるころ

#5 第4話 金木犀はまだか

#6 間話 箱の中

#7 第5話 藤袴

#8 第6話 茶の花

#9 第7話 薬力さんの水

#10 第8話 香りの消えるころ

#11 エピローグ 春の終わり、また隣に


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