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【香り屋】#9 第7話 薬力さんの水

 まだ、暖簾は出していなかった。

 通り庭の奥から、湿った冷えが上がってくる。
 台所にはストーブをつけていたが、それでも寒さは床のあたりからまとわりついてきた。

 栞は、炊き上がった酢飯を飯台に移した。
 湯気が、ふわっと上がる。
 そこへ合わせ酢を回しかけると、甘いような、尖ったような匂いが立った。

 年が明けてから、しばらく経った。
 正月の人出はまだ残っているけれど、朝の早い時間なら、お山も少しは静かだろう。

 栞は、手元の団扇をゆっくり動かした。
 飯台の木の匂いと、酢飯の匂いが混ざる。
 湯気が鼻に入って、咳き込みそうになった。

 カウンターの方では、蒼介が、竹皮を細く裂いて、結ぶための紐を作っていた。

「十包、でしたね」

 蒼介が言った。

「はい。あ、蒼ちゃん、それ終わったら、お揚げさん出してもらえますか。忘れてしもて」

「はい」

 十包分の竹皮を用意すると、蒼介は台所へ来て、お揚げの入った保存容器を飯台の脇に置いた。

 お揚げは、昨日のうちに炊いておいた。甘く、濃すぎない味。

 栞は、煮汁が出すぎないように、お揚げを軽く押さえた。
 酢飯を俵の形にやさしく握り、お揚げに詰める。

 二つ作って、ひと組にする。二個一包。

 蒼介は、竹皮に並んだお稲荷さんを包み、細く裂いた竹皮で結んでから、風呂敷の上へ移していった。

「今年も、一之峰まで上がりますよね」

「はい。行けるところまで」

「行けるところまで、て」

 栞は笑った。

「毎年そう言うて、結局、上まで行くやないですか」

「途中で引き返してもいいんですよ」

「引き返したこと、ありましたっけ」

 蒼介は答えず、包みの数を数え直した。

 一、二、三。

 栞はその様子を見て、また酢飯を握り、お揚げに詰めた。
 蒼介は、数を確かめる時だけ、少し子どものような顔をする。
 それが面白くて、でも言うときっと照れる。

 鉄瓶の湯が、奥で小さく鳴っている。
 棚の上には、年末に拭いたばかりの木箱が並んでいた。
 古い木、お茶、鉄瓶の湯気。その間に、甘い揚げの匂いが入る。

 栞は、最後の二つを包んだ。

「これで十包」

 蒼介は、お稲荷さんの入った風呂敷の四隅を持ち上げた。
 結び目を作る前に、一度だけ中を見た。

「こうやって見ると、たくさんですね。ありがとうございます」

「喜んでくれるといいんやけど」

「お願いしに行くわけでもないですし、喜んで食べてくれはると思いますよ。栞さんの作ったお稲荷さん、美味しいですし」

 蒼介が言うと、栞は笑った。

 お願いではない。

 今年も無事に商いをさせてもらえたこと。
 この家に、人が来てくれたこと。
 香りを合わせる手が、年を越してもまだ動くこと。

 それを言いに行く。

 風呂敷の結び目が、きゅっと締まった。

 電車を降りると、冷えた空気が頬に当たった。

 鳥居の朱が、朝の光を受けて眩しかった。

 栞は鳥居の前で一礼し、厚めの紙袋を持ち直した。
 蒼介も隣で一礼し、風呂敷をそっと抱え直した。

 参道には人がいる。けれど、肩が触れるほどではない。
 どこかで店の支度をする音がして、甘いものを焼く匂いが風に混じった。

「今年は、早く来られましたね」

 蒼介が言った。

 鳥居をくぐるたびに、駅の方で聞こえていた音が、少しずつ後ろへ置かれていく。

 いくつもの鳥居を抜けた。

 なだらかな道を過ぎると、山道の階段が続く。

 朱色が続く。同じように見えて、一基ずつ違う。
 納めた会社や人の名前が連なり、鳥居の足元には年季が出ていた。

 蒼介は途中で何度か息を整えた。
 栞も、紙袋を持つ腕を替えた。

「持ちましょうか」

「大丈夫です」

「無理せんでください」

「そちらこそ」

 蒼ちゃん、しんどそうやな。

 栞は笑いそうになって、やめた。
 息が上がっていて、笑うとしんどい。

 お社の前で、蒼介が風呂敷をほどいた。
 栞は、包みをひとつ取る。

 包みを置く。手を合わせる。

 願わない。

 いつも、たくさんの願いを聞いてはるんやろうな。

 そう思った。

 お疲れさまです、と言うのは変かもしれない。
 神さんに向かって、そんな言い方は失礼かもしれない。
 けれど、栞の中に浮かんだ言葉は、それに近かった。

 栞は目を開けた。

 続けて、蒼介も手を合わせる。

 今度は蒼介が、栞の置いた包みを両手で持った。
 置いていかない。

 次のお社でも、同じようにした。
 包みを置く。
 手を合わせる。
 持ち帰る。

 一之峰まで上がる頃には、背中の内側に汗がにじんでいた。
 空気は冷たいのに、首の後ろが熱い。

 栞は、石段の横に立って息をついた。

「毎年思いますけど」

「はい」

「よう、こんなところまで皆さん来はりますね」

 蒼介は笑った。

「栞さんも来てますよ」

「私は、蒼ちゃんが行くって言わはるから」

「栞さんが包んでくれるから、僕は持って上がるんです」

「そういうこと言うと、来年も作らなあかんようになるやないですか」

「お願いします」

 栞は返事をせず、また包みをひとつ取った。

 手を合わせる。

 昨年も、ありがとうございました。
 お稲荷さんで、少しでも休んでもらえたら。

 

 山の上の方を回り終えると、道は下りに変わった。

 足元に気をつけながら下りる。上がる時とは違う筋肉が痛む。

 しばらくして、蒼介が立ち止まった。

「水、いただいていきましょうか」

 栞は頷いた。

 薬力さんの水。

 子どもの頃から、そう呼んでいた。誰に教わったのかは覚えていない。ただ、家でそう呼んでいたから、栞もそう呼んでいる。

 水は、手に受けると、思ったほど冷たくはなかった。
 山を歩いた後の手は熱くなっていて、その熱を、水がゆっくり取っていく。

 蒼介は、手ですくって飲んだ。栞は、紙袋から小さな容器を出し、蒼介に渡した。

 蒼介は静かに水を入れた。

「蒼ちゃん、それ、香り作りに使うこと、ありましたっけ」

「使う時もあります」

「でも、この水を使ったら、ええ香りになる、という話ではないんです」

 栞は、蒼介の横顔を見た。

「ただ、手が落ち着く気がするんです」

 それだけ言って、蒼介は容器を栞に渡した。

 渡された容器は、手に心地よい冷たさだった。

 下りの途中、茶屋の前で足を止めた。

 店の人が、暖簾の端を直していた。
 蒼介が軽く会釈をすると、向こうも会釈を返した。

「今日は、まだ静かですね」

「この時間はね。昼前になったら、また賑やかになりますわ」

「それまでに、下りられたらええんですけど」

「お二人やったら大丈夫やろ。毎年来てはるし」

 毎年。

 栞は、その言葉に驚いた。
 これだけ人が通る場所で、自分たちのことを覚えてもらっている。

「今日も、お揚げさん持ってきはったん?」

 店の人が、蒼介の持つ風呂敷を見て言った。

「はい。ちょっとだけ」

「ええねえ。お山も喜ばはるわ」

「喜んでもらえたら、ええんですけど」

「大丈夫。お揚げさん、嫌いや言うお稲荷さんはおらんやろ」

 その言い方が軽くて、栞は笑った。
 蒼介も笑っていた。

「ほな、また来年に」

 栞は紙袋の持ち手を替え、また歩き出した。

 香り屋へ戻る頃には、昼を少し過ぎていた。

 通り庭は、朝よりも明るかった。格子の隙間から入った光が、床の上に細く伸びている。暖簾はまだ出さず、引き戸は開けておいた。

 栞は台所で、お稲荷さんを温め直した。

 番茶を淹れると、香ばしい匂いが台所に広がった。
 お稲荷さんの甘い匂いと重なって、正月の続きみたいになった。

 蒼介は、持ち帰った水の容器を、棚の湯呑みの脇に置いた。

「お隣さんに持っていきます」

 栞は、竹皮に包まれたお稲荷さんを二つ、お盆にのせた。

「僕が行きましょうか」

「いえ、私が。ついでに、白杖のおじいさんのところにも寄ってきます」

「では、僕は暖簾出しておきますね」

「お願いします。すぐ戻りますね」

 栞は包みを持って外へ出た。

 近所のおばあちゃんは、すぐそこにいた。シルバーカーの上に、買い物袋をのせている。袋からは、牛蒡と葱の頭が出ていた。

「あら、栞さん。今日は……その包みは」

「伏見稲荷さんのお下がりです。よかったら」

「まあ、お稲荷さん」

 おばあちゃんは、両手で包みを受け取った。

「ありがたいなあ。おじいさんにも、ちょっと見せてからいただくわ」

「冷めないうちにどうぞ」

「そやね。あの人、冷めたんでも文句言わへんけど」

 おばあちゃんは、そう言って笑った。

 通りの向こうから、白杖の音がした。こつ、こつ、と石に当たる音。

 栞は包みを持ち直し、その方へ歩いた。

 綾は、その日、香り屋へ行くつもりではなかった。

 別の取材だった。

 春先に開かれるアートフェアの事前記事。

 共有ファイルの仮見出し欄に、綾は自分でこう入れていた。

 ――頑張っているアーティストに出会える!?アートフェアを紹介

 前向きすぎる。

 でも、企画としては悪くない。若い作家を紹介し、会場になる場所を歩き、春の京都で作品を見る楽しさを書く。

 開催はまだ先だった。

 昨年、綾は開催期間中に会場になった寺を見て回った。メイン会場の博物館でも、関係者に話を聞いた。

 壁に掛けられた作品。
 境内に置かれた大きなオブジェ。
 自分の作品の前で、来場者に説明する作家たちの姿。

 あれが、今年もやってくる。

 そう思うと、記事の輪郭は見えた。

 編集長には、「遠野、美術系出身やし、ちょうどええやん」と言われた。

「一人や二人、知り合いも出てるんちゃうん」

 綾は笑って返した。潤の名前は出さなかった。

 まずは作家にあたる前に、今年の会場予定地を歩いておくことにした。過去に作品が展示されていた街中のギャラリーも、いくつか巡った。そこで、今年出展するという作家にも話を聞けた。

 これで記事になる。

 そう思った。

 でも、話を聞きながら、キャンバスの端に残った絵の具の厚みや、作家の手元を見ると、黒いカルトンバッグの紐を握っていた潤の指が、どこかで重なった。

 綾は、年が明けて新調した手帳に、取材メモを書き足した。

 出品予定作家。
 若手支援。
 京都のギャラリー。
 作品を見せる場所。

 言葉を並べれば並べるほど、ちゃんと仕事をしている気がした。そのぶん、鞄の底に入れた去年のメモ帳が、重く感じた。

 香り屋。

 表紙の内側の取材リストに、自分でそう書いた。でも、そのページはずっと閉じたままだった。

 最後に寄ったギャラリーを出ると、通りの向こうに見覚えのある角があった。

 近いだけ。今日は寄らない。

 綾はそう思った。

 そう思ったのに、足はいつもの方へ向いていた。

 ろーじの入口から奥を覗くと、道の途中に、シルバーカーを押したおばあちゃんがいた。

「あら、お姉さん」

 綾はおばあちゃんの方へ歩いた。

「こんにちは」

「ちょうどええところ来はったなあ」

 おばあちゃんは、嬉しそうに笑った。その声に、綾は少し身構えた。

「お稲荷さん、食べていき」

「え?」

「こおりやさんで、伏見稲荷さんのお下がりいただいてなあ。ようけあるみたいやし」

 こおりやさん。

 その呼び名を聞くと、綾の足が勝手に遅くなる。もう何度も聞いているのに、まだ慣れない。

「いや、私、今日は別件で」

「別件でも、お腹は空くやろ」

 おばあちゃんは、あっさり言った。

 それはそうやけど。

 綾は言いかけて、やめた。 

 たしかに、お腹は空いていた。朝、コンビニのパンを半分食べただけだった。

「いただいてもいいんでしょうか」

「ええと思うよ。栞さん、ようけ作らはったみたいやし」

 おばあちゃんは、後ろを向いて、ろーじを指した。

 暖簾が風に揺れていた。

「お姉さん、早よ行き。冷めるで」

 綾は小さく頭を下げ、ろーじを進んだ。

 引き戸の向こうから、番茶の匂いがした。

 それから、甘い揚げの匂い。

「こんにちは」

 引き戸を閉めると、鈴が鳴った。

 綾が声をかけると、奥から栞が顔を出した。

「あら、遠野さん。ちょうどよかった」

「さっき、おばあちゃんにもそう言われました」

「そうなんですか」

 栞は笑った。

「今日は、取材ですか」

「いえ、別の取材の帰りで。近くを通っただけです」

 自分で言って、嘘っぽいと思った。

「よかったら、お稲荷さん食べていってください」

「いただいてもいいんですか」

「ようけ作ったんです」

 栞は、カウンターへ案内した。綾は椅子に座った。
 横の坪庭には、冬の枝が細く立っている。花はない。苔の上に、落ち葉が一枚だけ残っていた。

 カウンター横の畳の作業場には、蒼介がいた。
 今日は香りの道具ではなく、小さな容器を布で拭いている。

「こんにちは」

 蒼介が顔を上げた。

「こんにちは。今日は、お参りに行かれたんですか」

 綾が言うと、蒼介の手が止まった。

「おばあちゃんに聞きました」

「ああ」

 蒼介は、納得したように頷いた。

「はい。お礼に」

 お礼。

 綾は、その言葉を頭の中で拾った。

 伏見稲荷。商い。お礼参り。お稲荷さん。

 言葉が勝手に並ぶ。

 これは、記事になる。

 そう思った瞬間、鞄の底のメモ帳が、急に重くなった。

 栞が、皿を置いた。お稲荷さんが二つ。揚げの表面が、光を受けてつやっとしている。

「二つも」

「二個一包で持って行ったので」

「一包」

 綾は皿を見た。

 ふたつ。

 一つだけなら、すぐ食べられたかもしれない。
 ふたつあると、なぜか、誰かの分のように見えた。

 潤ちゃん。

 名前が浮かんで、綾は箸袋に手を伸ばした。

 今は違う。ここは、今の話。

 番茶の湯呑みも置かれた。

「熱いので、気をつけてください」

「ありがとうございます」

「そうそう、今日の番茶は、薬力さんの水も少し使ってるんです」

「薬力さんの水」

 綾は鞄に手を入れた。指先に古いメモ帳の角が触れる。

 ここで聞けばいい。

 いつ行ったのか。どこまで上がったのか。どうしてお稲荷さんを持って行くのか。お供えして、なぜ持ち帰るのか。薬力さんの水とは何か。

 聞けば、きっと話してくれる。

 綾は、古いメモ帳の角を指で撫でた。

 皿の上のお稲荷さんから、湯気が立っていた。

 綾は、メモ帳ではなく、箸を取った。

 揚げは、箸を入れるとやわらかかった。
 口に運ぶ。甘い。でも、甘いだけではない。酢飯の酸味が後から来る。

 あ、お腹空いてたんや。

 食べてから気づいた。

「おいしいです」

 綾が言うと、栞は「よかった」とだけ言った。

 綾はもう一口食べ、飲み込んだ。

「伏見稲荷さんへは、いつも行かれるんですか」

 聞いてしまった。

 栞は番茶を注ぎ足しながら、頷いた。

「行ける年は」

「お正月にですか」

「人の多い時は避けます。うちら、歩くの遅いので」

「そんなことないでしょう」

「お稲荷さん持ってると、遅いんです」

 栞は真面目な顔で言った。綾は笑ってしまった。

 蒼介が、棚の片隅に置いた容器を見た。

「今日は、水もいただいてきました。薬力さんの水です」

「ああ」

 綾はなんとなく思い出した。記事で扱ったことはないけれど、伏見稲荷の上の方に水があるというのは聞いたことがある。

「その水を、香りに使うんですか」

 蒼介は、容器の蓋に手を置いた。

「使う時もあります」

 それだけ言って、少し間が空いた。

「でも、この水を使ったら、ええ香りになる、という話ではないんです」

 綾は、蒼介を見た。

「ただ、手が落ち着く気がするんです」

 蒼介は、そう言って容器から手を離した。

 綾は、番茶を飲んだ。香ばしい。

 薬力さんの水を使っているからだろうか。そう思いかけて、やめた。

 そう決めてしまうと、何かが違う気がした。

 手が落ち着く。

 記事にしやすい言葉だった。でも、記事にすると、たぶん違う。

 何が違うのかは、分からない。

 分からないまま、綾は二つ目のお稲荷さんに箸を入れた。

 食べ終わると、皿の上には何も残らなかった。

 当たり前や。
 食べもんやし。

 綾は、空になった皿を見た。

 番茶も、飲めば減る。
 湯気も、いつの間にか消える。
 口の中の甘さも、少しずつ薄くなる。

 綾は湯呑みを両手で包んだ。まだ温かい。

 蒼介は、畳の作業場で小さな匙を片付けている。栞は、空いた皿を下げた。水の容器は、棚の片隅に置かれたままだった。

 綾は、その容器をもう一度見た。

 透明な水。ただの水。でも、手が落ち着く水。

 伏見稲荷。
 商いのお礼。
 持ち帰られたお稲荷さん。
 近所の人の昼ごはん。
 薬力さんの水。

 見出しにできそうな言葉は、いくつもあった。

 なのに、メモ帳は出せなかった。

「ごちそうさまでした」

 綾は軽く手を合わせ、立ち上がった。

「お粗末さまでした」

 綾は財布を出した。

「お代は」

「今日は、お裾分けです」

「でも」

「お裾分けです」

 綾は財布をしまった。

 代わりに、鞄の中を探った。ギャラリーでもらった、小さな紙袋がある。中には、茶受けにと出された、小さな干菓子が三つ入っていた。

「あの、これ。いただきものなんですけど」

 綾は紙袋を出した。

「取材先でいただいて。私は、たぶん忘れて鞄の中で粉々にするので」

 栞は、紙袋を受け取った。

「それは、助けなあきませんね」

「はい。お干菓子の命が危ないので」

 蒼介が、畳の方で笑っていた。綾は、その笑い声を聞いて安心した。

 店を出る時、栞が暖簾のところまで送ってくれた。

「寒いので、気をつけて」

「はい。ありがとうございます」

 ろーじへ出ると、外の空気が冷たかった。

 綾は、鞄の口を閉め直した。中には、今日の取材をした新しいメモ帳がある。それから、香り屋と書いた去年のメモ帳もある。

 取り出さなかったメモ帳。それなのに、いつもより重くない。

 通りへ出る手前で、綾は一度だけ振り返った。
 暖簾は、ろーじの奥で小さく揺れていた。

 これは、書ける。

 そう思った。

 けれど、書いてしまったら、何か違う気もした。

 綾は、去年のメモ帳を鞄の底へ押し戻した。
 口の中に、甘い揚げの味がまだ残っていた。

次のお話:#10 第8話 香りの消えるころ


【香り屋】作品リスト

#0 プロローグ ろーじの奥

#1 第1話 沈丁花のころ

#2 間話 蒼介の棚

#3 第2話 雨の匂い

#4 第3話 祇園囃子の聞こえるころ

#5 第4話 金木犀はまだか

#6 間話 箱の中

#7 第5話 藤袴

#8 第6話 茶の花

#9 第7話 薬力さんの水

#10 第8話 香りの消えるころ

#11 エピローグ 春の終わり、また隣に


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