【香り屋】#2 間話 蒼介の棚
鈴の音が消えてからも、店の中には、人がいたあとの気配が残っていた。
カウンターの端に、名刺が一枚置かれている。
遠野綾。
蒼介は、そこに印刷された名前を一度だけ見て、名刺を伏せた。紙の裏には何も書かれていない。
湯呑みには、茶の色がほんの少し残っている。
栞がそれを持ち上げると、底が木の台に触れて、小さく鳴った。
「記者さん、やったなあ」
「そうやな」
蒼介は、衝立の向こうにある畳の作業場へ戻った。
作業場は、店の床より一段高くなっている。畳の上には低い机がひとつあり、机のなかほどには、香炉と、開いたノート、鉛筆が置かれていた。端の方には、乳鉢があり、その中に乳棒と小さな匙が入っている。脇には、折りかけの和紙が重ねてあった。
カウンター側からは衝立に隠れて全部は見えないが、紙を折る音や、作業場で温められている練香の香りは、カウンターまで届く。
綾も、質問している時に何度か作業場の方に顔を向けていた。
栞は湯呑みを下げ、椅子を整えると、棚の前へ移動した。
カウンターの後ろには、横に長い棚がある。
坪庭に近い半分は、栞の棚だった。
茶葉の缶、湯呑み、菓子皿、コーヒー豆、など。
そして、作業場に近い半分は、蒼介の棚だった。
香材料の小瓶。薬研。石臼。小さな匙類。和紙。古い配合帳。
栞は茶葉の缶を戻し、湯呑みを伏せた。鉄瓶の蓋を少しずらすと、残っていた湯気が細く上がった。
蒼介は香炉の灰の上にある、炭と練香を片付け、灰に空気を含ませながら、丁寧にならした。
それが終わると立ち上がり、作業机に置いてあった小さな木箱を取って棚に戻した。角が丸くなって、蓋の合わせ目だけ色が濃い。先代の頃からある箱だった。
中には、様々な香材料と、包みかけの和紙が入っている。
今日は、それには手をつけなかった。
代わりに、棚の木製の引き出しから瓶を三つと、小さな壺を出した。
粉末茶。竹炭粉。蜂蜜。
それから、空の壺。
店の中で焚く練香は、強くなくていい。むしろ、強くない方がいい。主張する香りではなく、あとで気づくくらいがいい。
蒼介は匙で粉末茶をすくって乳鉢に入れる。
湿気を含み始めた粉は、さらさらとは落ちなかった。匙の端に少しまとわりつく。春の終わりから梅雨の前にかけて、粉はいつもより重くなる。
もうじき、お香づくりはお休みやな。
そんなことを考えながら、粉末茶を乳棒で混ぜ、甘い香りを引き出す。
そこに竹炭粉を足して混ぜると、緑は限りなく漆黒に近い黒緑になった。
最後に蜂蜜を落とす。
入れすぎると、香りが丸くなりすぎる。少なすぎると、まとまらない。
蒼介は指先で練った。
坪庭の方から、梔子の香りがまだ流れている。
さっきの記者は、何度かあの花を見ていた。
名刺を出すまでに、少し時間がかかった。
「蒼ちゃん、あの人、また来はるかなあ」
栞が言った。
蒼介は、丸めかけた練香を、手の平を合わせて転がした。
「来るんちゃうかな」
「取材で?」
「取材のつもりでは、来るやろ」
一センチほどに丸めた練香を、空の壺へ入れていく。
壺の中に入れ終えると、手を洗い、壺の蓋に日付を書いた和紙を挟んだ。
三ヶ月は、壺の中で寝かせる。
昔は一年、壺を土に埋めて寝かせたと聞かされた。
そういった作り方も含め、古い配合帳には書かれている。
紙の端は茶色く、指でめくると、古本屋の匂いがした。そこに書かれた字は、蒼介の字ではない。栞の字でもない。けれど、今もこの棚の中に残っている。
場所を変えると、棚そのものが落ち着かないような気がする。
蒼介は瓶を引き出しに戻し、ノートと古い配合帳を棚に戻した。日付を書いた和紙を挟んだ壺は、別の引き出しに入れる。
その引き出しの奥から、同じような壺をひとつ取り出した。
栞の棚では湯呑みが伏せられ、蒼介の棚では配合帳が元の場所に戻っている。
外の光が、少しだけ鈍くなっていた。
坪庭の梔子は、まだ白い。けれど、さっきよりも香りが低いところに降りている。苔の色も濃く見えた。雨になる前の空気が、庭の石と、古い木と、棚の紙に少しずつ染みていく。
栞が鉄瓶の蓋を戻した。
小さな音がして、店の中がまた静かになる。
蒼介は、古い和紙の挟まった壺から練香をひとつ、和紙の上に置いた。
明日は、雨になるかもしれない。
次のお話:#3 第2話 雨の匂い
