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【香り屋】#7 第5話 藤袴

 綾は、バスの窓の外を見ていた。

 今日、香り屋の前まで行くのは、久しぶりな気がした。

 この三週間のあいだに、別の記事を一本、入稿した。

 そちらは進んだ。

 ただ、香り屋のメモだけが、増えないままだった。

 前回、カウンター越しに栞と向き合った時のことを思い出した。

 香り屋のことを考えると、何を聞けばいいのか分からなくなる。店のこと。仕事のこと。香りのこと。前に聞きそびれたことは、いくつもあった。

 バスは、ゆっくりと停留所を出た。

 そもそも、暖簾、かかってないかもしれんし、今考えても仕方ないわ。

 綾は、首を振ると、車内をひと通り見た。

 車内には、午後の京都らしい人の混ざり方があった。

 ガイドブックを見ている、観光客らしい二人組。バゲットの先がのぞいている買い物袋を持った年配の女性。制服姿の学生。後方の座席には、仕事中なのか、膝の上の書類に、何かを書き込んでいる男性もいる。

 前の方で、観光客らしい二人が手すりに掴まって、ガイドブックとスマホを交互に見ていた。

「ここで降りたらいいのかな」

「いや、もう一個先じゃないかな」

 二人の前には、制服を着た学生が、黒いケースを抱えて立っていた。何かの楽器だろうか。バスの振動に合わせて、ケースが上下に細かく揺れている。

 後ろの方では、買い物帰りらしい女性たちが話をしていた。

「もう十月も半分過ぎたのに、昼間はまだあかんなあ」

「ほんま。何着たらええか分からへんわ」

「ほんまやで。朝晩は寒いくらいなのにねえ」

「そうそう。上着持ってきたら邪魔やし、持ってこんかったら帰りに寒いし」

 綾は、笑いそうになった。

 ほんまにそうや。

 夏は終わったような顔をしているのに、まだそこらへんに残っている。

 窓の外では、自転車が一台、バスと並ぶように走っていた。前の籠には、葱が一本、斜めに突き出ていた。

 次の停留所のアナウンスが流れた。

 その音に重なるように、後方から、男の声がした。

「せやなあ。せっかくやし、そこらの土産もんと一緒やったらあかんやろ」

 声は、車内の音より少し大きかった。

「シー。いしおかさん、声大きいわ」

 たしなめる女性の声が聞こえた。

「すんませんなあ」

 綾は、視線だけをそちらへ向けた。

 中年の男性が、隣に座る女性へ話しかけていた。きちんとしたジャケットを着ているが、襟元は少しゆるんでいる。両手を合わせ、笑いながら謝るような仕草をしていた。

 綾の席からは、女性の姿は見えなかったが、若めの声が聞こえた。

「京都らしい、なかなかないもんやろ。うん。京都のことなら、任しとき。値段のことは、気にせんでええし」

 京都らしい、なかなかないもの。

 便利な言葉やな、と綾は思った。

 自分も仕事で何度使ったか分からない。京都らしい。ここにしかない。知る人ぞ知る。特別。

 人はそういうものを探したくなる。

「だから、いしおかさん、静かにして」

 女性が肩でも叩いたのか、男性が大げさに痛がるような仕草をして、また笑った。

「まあ、でも、喜んでもらわな意味ないしな」

 その最後の声だけ、小さくなった。

 後方の学生が、笑いながら言った。

「この前の連休、ほんま一瞬やったな」

「休みって、始まった瞬間終わるよな」

「それ、毎回言うてる」

 バスが交差点を曲がって、大きく揺れた。

 男の声は、まだ続いていた。

「分かってるって。ちゃんと探しとくわ。京都ならでは、なかなかないやつな」

 綾は、窓の外へ目を戻した。

 次で降りる。

 降車ボタンの赤い光が、車内のあちこちに灯っていた。

 バスを降りると、日もまだ高く、相変わらず暑かった。

 綾は、鞄の紐を肩にかけ直した。

 本能寺跡の石碑の脇を通り過ぎながら、前に書いた記事のことも思い出す。

 何度来ても、最後の道だけは迷うな。

 綾は、前に覚えた角を曲がった。

 表の通りの音が、少しずつ遠ざかる。

 ろーじの途中にある家の室外機の上には、小さな鉢が並んでいた。水をやったばかりなのか、土の色が濃い。どこかから、煮物を炊いたような、甘辛な匂いがほんのり流れてくる。

 その途中で、あれだけ待ち遠しかった香りも、ふわりと鼻に届いた。

 綾は立ち止まって、香りを確かめた。

 金木犀、咲いてたな。

 たしかに、すでにいろいろなところで嗅いでいた。

 でも、思ったほど胸が動かなかった。

 仕事や。仕事。

 綾は、首を振り、ろーじの石畳を進んだ。

 奥に、古い家が見えてきた。

 入口の横には、木札がかかっている。

 香利屋。

 何度見ても、やっぱり「香り屋」と読める。

 暖簾が出ていて、引き戸がわずかに開いている。

 今日は、入れる。

 綾は小さく息を吐いた。

 今日は、入れてしまうんかあ。

 ゆっくり歩きながら、引き戸の前に着いた。

 何と言って入ろうか。

 そう思った時、中から人の声がした。

“See you. A hui hou.”

 綾は、足を止めた。

 聞き慣れない言葉だった。英語のあとに、やわらかい響きが続いた。扉の内側で、栞の声が何か短く返す。言葉までは聞き取れないが、笑い声が聞こえた。

 引き戸が開いた。

 綾は、思わず見上げた。

 背の高い人やなあ。母よりは、少し若いくらいやろか。

 首に巻いている、深い緑のストールが印象的だった。手には小さな紙袋を持っていた。

 その人は、綾と目が合うと、片手を軽く上げた。

“Hi.”

「あ、Hi」

 その人は、目元だけで笑って、ろーじの入口の方へ、ゆっくりとした足取りで歩いていった。

 綾は、その背中を見送った。

 遠くから来た人。

 それだけは、なんとなく分かった。

 紙袋の中身は、何だったのだろう。香り屋から受け取ったものなのか、香り屋へ持ってきたものなのか。

 ただ買い物をした人の顔ではないように見えた。

 そう思ってから、苦笑した。

 記者の癖なのか、悪い癖なのか、時々分からない。

「あら、こんにちは。遠野さん」

 入口の内側から、栞が顔を出した。

「あ、はい。こんにちは。えと、栞さん」

 栞は、まあ、と手を口に当てて笑った。

「覚えてくれてはったんですねえ。お久しぶりです。どうぞどうぞ」

「お邪魔します」

 綾は、暖簾を分けて中へ入った。

 通り庭の空気が、外より少し冷えていた。奥から、木と紙の匂いに混じって、甘い匂いが流れてくる。

「先ほどの方は」

「遠いところから来てくれはったみたいですよ」

「海外の方、ですよね」

「ええ。京都に、ご縁があるそうで」

 通り庭を進む。

 今日は、奥の方から、いつもよりはっきりした草の匂いがした。

 生の青さではない。花の甘さとも違う。乾きかけた葉を手のひらで軽く揉んだときのような、少し粉っぽくて、奥に甘さのある匂いだった。

 綾は、思わず足をゆるめた。

「そうちゃん、遠野さん来はったよ」

「はーい。いらっしゃい」

 部屋の奥の方から、男性の声がした。

 香り屋に来るたび、何かしらの香りはしていた。けれど、今日の香りは、店の奥からこちらへ広がってきているようだった。

「今片付けますので、お座りください」

 カウンターへ通されると、理由が分かった。

 今日は、カウンター横の衝立がなく、椅子の向こうに畳の作業場や机が見えた。

 畳の上には、刈り取られた草が束ねて置かれていた。いくつかは麻紐でゆるく結ばれて、新聞紙の上に置かれている。

 そして、畳の作業場だけにとどまらず、草が薄く広げられている三つの竹籠が、カウンターの半分を占めていた。

 葉の色はまだ完全には褪せていない。けれど、茎の先は少し乾きはじめていた。

 そこから、桜餅の葉に似た甘さが立っていた。

「そうちゃん」と呼ばれた男性は、カップが置かれていない方の席の前をあけるために、竹籠を一つ残し、あとの籠を作業場へ持って行った。

 栞は、カウンターにあったカップを下げ、洗っていた。

 綾は、椅子に座る前に、束ねられた草を見た。

「藤袴ですか」

 聞くと、男性が畳の方へ目をやった。

「ええ。乾かしているところです」

「こんなに香るんですね」

「生えてる時より、乾きかけの方が分かりやすいかもしれません」

 男性は、竹籠に乗っている草の茎の端を整えた。

「来年の分です。うちの庭だけでは足りませんので、分けてもらえるところからいただいています」

「来年の分、ということは、今年も使われたんですか」

 思わず、気になったことを口に出してしまい、ふと気がついた。

「あ、すみません。前回、ちゃんとご挨拶できておりませんでした。遠野綾と申します。名刺は……っと」

「ご丁寧にありがとうございます。名刺は、栞さんから見せてもらっていますので、結構ですよ。私は白川蒼介といいます」

「蒼介さん、とお呼びしてもよろしいでしょうか」

 蒼介は苦笑いをして、何かを言おうとしたが、先に栞が口を開いた。

「蒼ちゃんでもいいんじゃないですか、ねえ、蒼ちゃん」

「栞さん」

「それじゃあ、蒼ちゃん……いえ、冗談です。蒼介さんとお呼びします」

「それでお願いします」

 綾は、肩の力が抜けた。

 来年の仕事。

 ふと、先ほどの言葉を思い出す。

 ここではもう、来年の仕事が始まっている。

 胸の奥に、少し引っかかった。

 綾は椅子に腰を下ろし、坪庭を見た。

 そこにも藤袴があった。

 ただ、ふわりと茂った姿ではない。多くはすでに刈り取られている。小さな花を残した最後の一株だけが、わずかに揺れていた。

「だいぶ、刈られたんですね」

 綾が言うと、栞は坪庭へ目をやった。

「ええ。もう、そろそろ終わりです」

「でも、花が残ってるうちは、少しだけ置いとこうと思いまして」

「香りを楽しむためですか」

「いいえ」

 栞は、首を横に振った。

 では何のためだろう。

 その時だった。

 ひら、と何かが坪庭へ入ってきた。

 綾は息を止めた。

 薄い水色のような羽に、黒い線が入っている。蝶だった。庭の中を一度ゆっくり回って、残された藤袴の花にとまった。

「アサギマダラです」

 蒼介が小さな声で言った。

 綾は、蝶から目を離せなかった。

「ほんま、遠いところから、よう来てくれはった。お疲れさま」

 栞も、手を止め、そっと呟いた。

 蝶は、羽をゆっくり開いて、また閉じた。

 さっき、入口で海外の人とすれ違ったからかもしれない。バスの中で聞いた「京都らしいもの」という声が、まだ耳に残っていたからかもしれない。遠くから来た人。誰かのために探されているもの。ふっと現れて、またどこかへ行くもの。

 そういうものばかりが、今日は目につく。

「どこから来るんですか」

 綾は、蒼介を見て、思わず聞いた。

 蒼介は、少し考えるように坪庭を見た。

「遠くから、としか僕は言えませんね。詳しい方なら、もっと正確に言えるんでしょうけど」

「遠くから」

「ええ。どこからかは分かりませんが、来はったのを見ると、嬉しいものですよ」

 栞が、小さく笑った。

「待ってても来ない年もありますしね」

「それは、寂しいですね」

「でも、来なくても、藤袴は咲いてます」

 栞は、そう言って、作業場の方へ目をやった。

「刈る時期になったものは刈って、また来年の支度をするだけです」


「遠野さん、苦手な飲み物はありました?」

 綾は栞の方へ向き直った。

「あ、えっと。特にありません」

「はい」

 栞は、棚の戸を開けた。

 蒼介は、畳の上に上がり、藤袴を踏まないようにしながら、机の上にあるものを片付けていた。

 よく見ると、作業場の机の上には、小さな箱がいくつか、口を開けたまま置かれていた。箱の中から細い紐の端が出ている。

 綾は、箱を見ながら口を開いた。

「そういえば、この前、しばらく閉めてはりましたよね」

 蒼介が、片付けをしながら答えた。

「ええ。数の多い手仕事がありまして」

「お香の?」

「匂い袋です。お寺さんへ納める分で」

「香りを作って納める、ということですか」

「いいえ」

 蒼介は、作業場からカウンターへ戻って、続けた。

「匂い袋を、生地を切るところから、箱詰めするところまでです」

「あ、ここにあった」

 そう呟いて、蒼介は紙の束をトントンと整え、作業場に戻った。

 綾は、驚いた。てっきり匂い袋を作ると言っても、香りだけ作って入れるものだと思っていた。

 匂い袋。

 綾は昔、取材で立ち寄ったお土産屋さんの匂い袋を思い出した。

 綺麗な生地が使われていて、丸く膨らんでいるのが可愛らしかった。口を結ぶ紐も綺麗だった。

 それを、全部作っている、と言った。

「ミシンとか機械を使わはるんですよね」

「いいえ」

 今度は、鉄瓶の蓋をずらした栞が答えた。

「すべて手作業なんです。うち、そんな大きくないし」

 そんなお店が京都に、まだあったとは。

 これは、記事になるかも。

 綾は、取材メモを出しかけて、やめた。

「だから、数があると、箱に入れるまでが長いんです」

 蒼介は、そう言って、ふっと笑った。

「香りを合わせたら終わり、ではないので」

「そう、ですよね」

 蒼介は、紐の切れ端をまとめて、小さな紙に包んだ。

 聞きたいことが、また増えた。

「香りって、いつも同じじゃない気がするんです。これ、いい香りって思っても、急に違うなって思う日があったりするというか」

 その言葉に、蒼介は黙った。

 何かまずいことを言っただろうか。

「……香りは、体調や気分、気温や湿度、いろいろなものに影響されます。だから、感じ方が変わることはあります」

「ということは、蒼介さんでも、日によって違って感じることがあるんですか。納期があるお仕事なら、大変ですね」

「大変です」

 蒼介は、すぐに答えた。

 栞が、棚の前で笑った。

「蒼ちゃん、そこは、すぐ言うんやね」

「大変なものは、大変ですから」

 その言い方があまりにも普通だったので、綾も笑ってしまった。

「お茶、入りました」

「ありがとうございます」

 綾は、大量の匂い袋と聞いて、その数を想像した。袋を作り、香りを入れ、紐を結び、箱に入れる。

 口で言えばそれだけなのに、これを手作業でしているとなると、目が回りそうだ。

 その横で、来年の分だという藤袴が、こんなに広げられている。

 ひとつの仕事が終わっても、次の支度が始まっている。

 そう思うと、香り屋という場所が、少しだけ違って見えた。

 ここには、ちゃんと仕事がある。

 栞がティーカップを置いた。

 薄く赤みを帯びた茶だった。

 湯気は、静かに立ちのぼっている。

 作業場から広がる藤袴の乾いた甘さが強く、綾はまだ、茶の香りには気づかなかった。

 ティーカップの赤みが、目に入った。

 綾の手が止まった。

「……これ」

「ママキ茶、いうそうです」

 ママキ茶。

「ご存じでしたか」

「あ、はい。昔、飲んだことがあって」

「そうでしたか」

 栞は、棚の方へ目をやった。

「さっきのお客さんにいただいたんです。向こうで作ってはる石鹸をいくつか、置いていってくださって。その中に、このお茶を使ったものがありまして」

「石鹸に」

「ええ。うちもお茶を使うてる話をしたら、茶葉も分けてくれはったんです」

 綾は、ティーカップに指を添えた。温かいけれど、熱すぎない。持っていると、指先にじわじわ熱が移ってくる。

 ママキ茶。

 潤ちゃん。

 綾は、思わず顔を坪庭へ向けた。最後の藤袴が揺れている。アサギマダラは、まだ花の近くにとまっていた。羽をゆっくり開く。

 昔、潤と飲んだ時も、こんな色だっただろうか。

 薄い赤。派手ではない。カップの底に残ると、少しだけ夕方の光みたいに見える。

 味は、たしか、甘かった。いや、それほど甘くなかった。

 潤は、いつもカップを両手で包むように持っていた。

 綾は、ティーカップから手を離しかけた。

 いや。

 今は、香り屋にいるんや。

 藤袴の乾いた甘さが、入ってくる。

 そこに、ママキ茶の香りが重なる。

 綾は、ティーカップに口をつけた。

 乾いた甘さが、舌の奥に残る。

 その奥から、音がした。

 ガサッ。

 綾は、ティーカップを持つ指に力を入れた。

 今の音ではない。

 ここには、そんな音はない。

 紙を、鞄に押し込む音。

 綾は、坪庭から目を離せなかった。

 最後の藤袴の向こうに、別のテーブルが重なった。

     *

 その日、喫茶店のテーブルには、水の入ったグラスと、白いカップがそれぞれの前に置かれていた。

 外は、雨が降りそうで降らない曇り空だった。店の窓ガラスは少し曇っていた。

 窓際の席ではなく、奥まった二人掛けのテーブルだった。

 古い喫茶店で、椅子の背もたれが少し硬い。テーブルの端には、小さな傷がいくつもついている。

 潤が見つけた店だった。

 ママキ茶が飲めるから、と言っていた。

 綾は、鞄から紙の束を出した。

「見て見て」

 自分でも、声が弾んでいた。

 潤は、向かいの席でカップを持っていた。薄く赤い茶が、その中で揺れている。

「何」

「載ることになってん」

 綾は、紙をテーブルに広げた。

 初めて、自分の名前がちゃんと載る記事だった。

 それまでも、小さなコラムや取材協力のような形で誌面に関わったことはあった。でも今回は違う。自分が歩いて、聞いて、書いたものが、記事として出る。

 編集長に何度も直されて、タイトルも何個も出し、何度も、もうええわと投げそうになりながら、やっと形になった。

 やっと。

 本当にやっとだった。

 紙の端には、赤字がいくつか残っていた。見せていいものかどうか、迷いはあったが、潤にだけは見せたかった。

 正式に出てからではなく、出る前に。

 まだ誰にも届いていないうちに。

「すごいやろ」

 潤は、紙の束の表紙をじっと見ていた。

 すごいやん。

 やったやん。

 綾ちゃん、花咲いたな。

 そんな言葉をかけられるに違いない。

「ここ、名前載るねん」

 ダメ押しのように、綾は紙の端を指で押さえた。

「遠野綾って。ちゃんと」

 綾は、潤の目を見るのが気恥ずかしくて、テーブルを見た。

 潤の脇には、薄い封筒があった。白い封筒の端に、英字でGALLERYと印刷されているのが見えた気がした。

 潤は、カップを置き、それを片手で押さえた。

「私も……」

「え?」

 綾が顔を上げた。

「なんでもない」

 潤は、そこで口を閉じ、店内に視線を移して、ため息をついた。

「これ、出版前の記事やんな」

「うん。まだ、最終の確認前やけど」

「部外者に見せてええの?」

「……潤ちゃんやから見せてんけど」

「でも、仕事なんやろ」

「そうやけど」

「ちゃんとせなあかんのちゃう」

 潤の声は、怒っているようには聞こえなかった。

 綾は、紙の端を押さえていた指を離した。

「そんな言い方せんでもええやん」

「別に、変なこと言うてへんやん」

「変なことは言うてへんけど」

 違う。

 そういうことを言ってほしかったんじゃない。

 けれど、その言葉をどう言えばいいのか分からず、自分が広げた原稿を見つめていた。

 潤が、テーブルの上の封筒を鞄の方へ寄せた。

 潤ちゃん、何かあったん。

 綾が口を開く前に、潤が封筒を鞄の中へ押し込んだ。

 ガサッ。

 音が、思ったより大きかった。

 綾は、その音で顔を上げた。

「何なん」

 潤は、封筒を押し込んだまま、こちらを見なかった。

「何が」

「喜んでくれると思ってた」

 潤の指が止まった。

「……喜んでないわけちゃうやん」

「じゃあ、なんでそういうこと言うん」

「仕事の話やからやろ」

「潤ちゃんに最初に見せたかっただけやん」

 綾は、紙をまとめた。

 せっかく広げた紙が、急に恥ずかしくなった。自分の名前が載る場所も、タイトルも、編集長に直された赤い跡も、全部見られたくなくなった。

 紙を揃える手が、乱れた。

 何か言ってくれるのを、どこか待っていた。

 けれど、言葉はなかった。

 認めてもらえなかった。

 その沈黙で、胸の中がすっと冷えた。

「もうええわ」

 綾は、紙を鞄に入れた。

 潤が、少しだけ身を乗り出した。

「綾ちゃん」

「ええって」

「違うねん」

「何が」

 違うなら、最初から違うって言ってほしかった。すごいやんって、言ってほしかった。頑張ったなって、笑ってほしかった。

 それだけだった。

 綾は立ち上がって、財布から千円札を一枚出して、テーブルの端に置いた。

「綾ちゃん」

 隣の席の人が、一瞬こちらを見た気がした。綾は鞄の紐を肩にかけ、紙が折れていないかだけを気にした。

 店の扉を開け、足早に階段を降りた。

 外へ出ると、雨は降っていなかった。

 綾は、駅に向かって歩いた。

 後ろから潤が追いかけてくるかもしれない。

 けれど、綾を呼ぶ声は、聞こえなかった。

 鞄の中で、紙の束が少し曲がっている気がした。

     *

 ティーカップの中で、茶の色が揺れていた。

 綾は、瞬きをした。

 坪庭には、もう蝶はいなかった。

 残された藤袴だけが、細い茎を少し揺らしていた。

「ママキ茶、苦手やった?」

 栞の声がした。

「あ、いいえ」

 綾は、栞の方を向き、ティーカップを持ち直した。

 いつの間にか、ティーカップから伝わる熱が、ぬるくなっていた。

 蒼介は、畳の作業場にあった藤袴の束を持ち、カウンターの奥へ消えた。乾きかけた葉が、かさ、と奥から聞こえてきた。

 綾は、ティーカップをじっと見つめた。

「香りって」

 言いかけて、迷った。

「記憶に残っているものなんですね」

 栞は、ママキ茶の茶殻を片付けていた。

「残るものも、ありますね」

 それだけだった。

 綾は、ゆっくり茶を飲んだ。

 何かが変わったわけではない。

 ただ、あの時の潤の「私も」が、気になった。

 私も。

 その先を、綾は知らない。

 知らないまま、ずっと来た。

 潤が何を言おうとしたのか。

 あの封筒に何が入っていたのか。

 なぜ、あんなふうに封筒をしまったのか。

 綾は、何も聞かなかった。自分が傷ついたことだけでいっぱいで、潤の手元にあったものを見ようとしなかった。

 見えていたのに。

 見なかった。

 そのことに、今さら気づいても、どうにもならない。

 でも、どうすればよかったのか。

 坪庭の藤袴が、かすかに揺れた。

 綾は、首を振ると、鞄からメモ帳を出した。

 書けることは、いくつもあった。

 藤袴に蝶が来たこと。

 店の奥で、草を乾かしていたこと。

 匂い袋を、生地から箱詰めまで手作業で作っていること。

 遠くから来た人のこと。

 でも、どれも見出しにはならなかった。

 それでも綾は、ペンを持った。

 藤袴に、蝶。

 匂い袋、すべて手作業。

 アフイホウ、ママキ茶。

 そこまで書いて、手が止まった。

 かさ。

 その音は、さっきの記憶の中の音とは違っていた。刈り取った藤袴を、整える音だった。

 綾は、最後にもう一つ書いた。

 私も。

 書いてから、しばらく見ていた。

 潤の言葉だったのか。

 自分の言葉だったのか。

 まだ、分からない。

「記事に、なりそうですか」

 カウンターに戻っていた蒼介が、不意に言った。

 綾は顔を上げた。

 蒼介は、カウンターの竹籠の藤袴をまとめながら、綾の手元を見ていた。

「分かりません」

 綾は、正直に答えた。

「書けそうな気がするんですけどね」

 言ってから、少し笑った。

「ゆっくりでいいんちゃいますか」

 栞は鉄瓶の蓋をずらしながら、やわらかく言った。

 そうかもしれない。

「でも、私も仕事なので、納期があるんですよ。あ、締切か」

「それは大変や。気ばらんとあきませんね」

 蒼介が真顔になって答えると、栞と綾は笑った。

 綾は、メモ帳を閉じた。

 紙の間に、さっき書いた「私も」が挟まれる。閉じたら見えなくなるのに、消えるわけではない。

 香りみたいだと思った。

 ティーカップの底には、薄い赤みが残っていた。

 綾は、それを飲み干した。

 ママキ茶の最後の一口は、最初より少し渋かった。

「ごちそうさまでした」

 綾が言うと、栞は静かに頷いた。

「また、いつでも」

 香り屋は、いてくれる。

 その時の綾には、そう思えた。

 綾は、椅子から立ち上がった。

 坪庭を見る。

 蝶のいない藤袴は、相変わらずわずかに揺れていた。

「失礼します」

「お気をつけて」

 暖簾をくぐると、ろーじの空気はもう夕方に近かった。

 一歩、また一歩。

 香り屋から、離れるたび、外の音が、日常の距離へ戻ってきた。

 金木犀の香りは、もうほとんどしなかった。

 綾は、一度だけ振り返った。

 木札の文字が、薄い光の中で読みにくくなっている。

 香利屋。

 香り屋。

 どちらにも見えた。

 ろーじの端には、夕方の光が残っていた。

 金木犀は、もう過ぎてしまったかもしれない。

 けれど、香り屋には、最後の藤袴が残されていた。

 刈り取られた藤袴は、奥で、来年のために乾いていた。



次のお話:#8 第6話 茶の花


【香り屋】作品リスト

#0 プロローグ ろーじの奥

#1 第1話 沈丁花のころ

#2 間話 蒼介の棚

#3 第2話 雨の匂い

#4 第3話 祇園囃子の聞こえるころ

#5 第4話 金木犀はまだか

#6 間話 箱の中

#7 第5話 藤袴

#8 第6話 茶の花

#9 第7話 薬力さんの水

#10 第8話 香りの消えるころ

#11 エピローグ 春の終わり、また隣に


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