ぼくは何をしているのか――哲学、心理学、IT、政治思想、サブカルを貫くもの
All eyes on kj aka ルサンチMAN
ぼくのnoteを最近知った人には、ぼくがnoteやXにいる似非哲学者を探し出し、「哲学を名乗るな」と言って回っているように見えるかもしれない。あるいはその域に達していないと認定した学者に猫パンチをして回っているようにも見えるかもしれない。
実際、「哲学を名乗るな 実例篇」には、かなりの数の記事がある。EQについても、個々の記事や動画での発言を取り上げた批判を片手に余るほど書いた。「学者の言説を査定する」シリーズも厚くなってきた。
だが、それらはぼくがしていることの中心ではない。
哲学警察、EQ警察、学者叩きは余技である。
しかも、かなりの部分をAIに処理させている。ぼくがこれまで作ってきた判定基準(主に「哲学を名乗るな」3部作。それ以外も理論的な論考は下記のマガジンに所収)、過去の記事、対象となる文章を渡せば、論点の抽出と批判文の草稿作成は相当程度まで自動化できる。
対象を選び、引用を確認し、AIが勝手に作った藁人形を除き、論証を採否し、自分の名前で公開する責任を負うのはぼくだが、似た誤りを毎回一から手作業で書く必要はない。
それはぼくの活動全体の1割以下、実際にはもっと少ない。
では、ぼくは何をしているのか。
この記事では、その全体を整理しておきたい。
これは経歴紹介ではない。個々の理論をもう一度説明する記事でもない。
間もなくnoteでの公開記事が150に達するが、これまでぼくが書いてきたものを、重要度と相互関係に従って配置し直す、重みづけされたインデックスである。
1.ぼくは哲学を守りたいのではない
最初に、哲学についてはっきりさせておく。
ぼくは、哲学の復権を目指していない。
哲学は知の最上位にあり、科学、政治、倫理、芸術を基礎づける特権的な学問である。哲学者は他の人間より深い場所から世界を見ている。
――そういう自己神話は、ほぼ終わっていると思っている。
いまさら哲学とかwww――というのが正直なところだ。
須原一秀は、ローティを引きながら、哲学は死んだと述べた(と、ぼくは思っている)。須原は晩年には、哲学者(あるいはぼくの言葉では哲学学者など)ではなく社会思想家を名乗っていた。
ぼくも、方向としてはそちらに近い。というより明確に須原一秀インスパイア系だ。
現実の判断や議論に必要なものの大部分は、哲学より薄く軽く、明示的で、共有可能な技法へ分解できる。
論理。
クリティカル・シンキング。
資料確認。
概念分析。
比較。
測定。
統計。
制度設計。
システム設計。
これらで足りる場面に、存在、本質、魂、世界、他者、生成、超越といった大きな言葉を持ち込む必要はない。
難解な哲学語彙を所有していることは、それ自体では何の能力証明にもならない。
だからぼくが「哲学を名乗るな」と書いているのは、本物の哲学の格式を守りたいからではない。
反対である。
哲学という高級そうな上位ラベルを使い、平凡な感想、私的体験、初歩的な論理の混乱、宗教的確信を、何か深遠なものに見せかける行為が嫌いなのだ。
それは、単に好悪の問題ではない。深遠さを装う文章は、読者に余計な評価コストを負わせる。新規性があるなら読み込まなければならない。難解な議論なら、こちらの理解不足を疑い、用語を調べ、好意的に再構成しなければならない。
そこまで手間をかけた末に、平凡な感想と論理の混乱しか残らないことがある。
書き手が自分で払うべき整理と検証の費用を、読み手へ押しつけているのである。深さの偽装は、知的評価コストの外部化であり、知的な時間泥棒である。
もちろん、noteに転がっている文章をすべてゴミと呼ぶつもりはない。そこには、個人的な記録も、専門的な論考も、商業出版へつながる企画も並んでいる。ぼく自身の文章も、その同じ場所にある。
だから、プラットフォーム全体を切り捨てるのではなく、個々の文章を検品する必要がある。ぼくがしている似非哲学批判は、そのための個人的なゴミ拾いと分別でもある。
実際のところ、ほぼすべて、ただのゴミであり、哲学以前の問題である。
クリティカル・シンキングと検索で処理できる。
哲学という言葉を使うなら、少なくとも、その言葉に見合う原典、概念、論証、反論処理を示すべきである。
哲学的な何かを書いている、では足りない。
何を読み、何を根拠にし、どの概念をどう使っているのかを示せばよい。
ぼく自身について言えば、早稲田大学政治経済学部政治学科で政治思想を学び、卒論ではニーチェとシェーラー(今や忘れられた哲学者だろう。だが、ハイデガーは『存在と時間』で何度もこの兄弟子に批判的に言及している。当時はそのレベルの知的巨人だった)のルサンチマン論を扱った。その後、早稲田大学大学院文学研究科の哲学専攻へ進み、ニーチェとハイデガーにおける生成と存在をテーマに修士論文を書いた。
出来のよい修士論文だったとは思っていない。いま振り返れば、修士論文としては射程が広すぎた。
だからといって、学歴があれば正しいとは言わない。あるいは、IQが高ければ優れているとも言えない。
こちらは自分が、どのような動機から、何を学び、どの程度の背景から書いているかを開示する。そのうえで、文章と論証を出す。
同じことを、あるいはせめて最低限の論理性を、クリティカル・シンキングを、相手にも求めているだけである。
2.ニーチェ、須原一秀、呉智英
ぼくのベースにはニーチェがいる。
ただし、ニーチェ学者になりたいという意味ではない。
ニーチェについての文献を正確に整理し、解釈史上の位置を確定すること自体には、現時点ではそれほど関心がない。文献学の価値を否定するわけではないが、ぼくがやりたいことの中心ではない。
とはいえ今でもニーチェの深淵ミームから逆に後期ハイデガー批判に持って行く程度の土地勘は持っている。
ニーチェは古典文献学者として出発した。
だが、文献の正確な解釈者にとどまらず、道徳、宗教、文化、学問、人間類型を診断し、「神は死んだ」と宣告する思想家になった。
もちろん、ぼくとニーチェを同列に置く話ではない。スケールはまったく違う。
ただし、文献を保存することより、そこで得た道具を現在へ持ち出すという方向は同じである。
ニーチェから受け取ったのは、完成した教義ではない。
背後世界を疑うこと。
価値の無色透明性を疑うこと。
思想の背後にある身体、欲望、利害、ルサンチマンを見ること。
高尚な言葉が、どのような不都合を守るために使われているのかを問うこと。
須原一秀から受け取ったのは、哲学そのものへの見切りである。
哲学が世界の最終審級である必要はない。
思想は、生活、制度、身体、登山、死、生き方といった具体的な問題へ接続されなければ、ほとんど役に立たない。
須原は自分の哲学を体系として保存するより、それを実践しようとした。
ぼくも、思想を所有するより、使おうとしている。
呉智英から受け取ったのは、通念を通念のままにしない態度である。
民主主義、人権、平等、進歩、知識人、文化人。世間で善いものとされている言葉を、その権威だけで受け入れない。
論理的帰結まで追い詰める。
自分に都合の悪い結論が出ても止めない。
ニーチェ、須原一秀、呉智英は、同じ哲学者・思想家ではない。
だが、ぼくの中では、哲学・思想を高級な所有物にせず、現在の社会と自分自身へ実際に適用するという線でつながっている。
ぼくがしようとしているのも、その実践である。
3.反スピ――最低限のヘルスチェック基準
その実践から生まれた批判語彙の一つが、「スピ」である。
ぼくは「スピる」を、占い、波動、前世、魂といった狭義のスピリチュアルだけに使っていない。
ぼくの定義では、スピるとは、現実の制度・身体・責任・因果を飛ばして、抽象的で大きな意味や理念へ逃げることである。
制度の問題を内面の問題へ変える。
身体の問題を精神性の問題へ変える。
責任の所在を物語へ溶かす。
限定された概念を、人間、社会、歴史、宇宙の真理へ膨張させる。
個人の実感を、世界の原理へ横滑りさせる。
科学用語、宗教語、哲学語を、自分の物語を権威づけるために密輸する。
これをぼくはスピると呼んでいる。
ただし、反スピはぼくの仕事全体ではない。
思想や言説が、最低限まともに機能しているかを見るためのヘルスチェック基準である。
何かを考えるときに、ここで制度を飛ばしていないか。身体を消していないか。因果を検討したか。誰が責任を負うのか。概念を適用範囲の外まで膨張させていないか。そう問い返すための道具である。
この語彙は、心理学、政治、哲学、AI論のすべてに使える。
日本共和制論にも深く接続している。
日本古来の宗教性を、すべて非合理な神秘主義として切る必要はない。
八百万の神々は、山、川、田、台所、竈、トイレ、祭り、季節、共同体の作法に分散している。それは超越的な唯一原理によって現実を上から裁くというより、具体的な場所と生活実践を分節するものだった。
もちろん、日本は歴史的に一貫して非スピだったわけではない。
分散的で生活世界に埋め込まれていた宗教性が、近代国家の単一イデオロギーへ吸い上げられたとき、日本は政治的にスピった。
国家神道、皇国史観、現人神、八紘一宇、聖戦。
権威と権力が再結合し、制度上の判断と責任が、国体や大義の物語に包まれた。
戦後日本の天皇制を、権威と権力を分ける制度として読み直す日本共和制論は、この失敗に対する自己修正の構想でもある。
したがって、スピ論は一部にすぎない。
だが、全体を下から支える重要な一部ではある。
詳しくは上掲の「スピるとは何か――批判語彙としての『スピ』」を参照されたい。
4.心理学――測れない概念を制度へ入れるな
ぼくの活動の1割程度は、心理学と心理測定に関わる。
もっとも、心理学全体を否定したいわけではない。
嫌いなのは、測定概念として曖昧なものを、人間の本質や価値へ膨らませ、それを教育、人事、組織運営へ流し込むことである。これもスピの一種だ。俗流心理学は大体スピだし、性格診断でよく使われるMBTIもスピだ。
そしてその典型にして最大のものがEQだった。
EQは、感情知能という名前のもとに、異なる能力、性格、美徳、対人行動を一つへまとめる。
定義が研究者によって違う。
能力として測っているのか、性格特性として測っているのか、自己評価を聞いているのかも揺れる。
それにもかかわらず、「IQより大事」「成功を決める」「リーダーに必要」「人間力」のような大きな意味を背負わされる。
その概念が組織へ入れば、評価者が気に入った振る舞いを「EQが高い」と呼び、気に入らない人間を「EQが低い」と処理できる。
測定概念が道徳語へ変わる。
心理学を装った人事スピである。
EQ批判は一通り片づけた。なお、これは主にGeminiを使って書いたが、最終的な論考の出来は、Claudeからも心理学領域で学士優等論文と認められるレベルで整理がされていると評価される程度には仕上がっている。
一方、IQについては、既存研究を紹介するだけでなく、研究の空白地帯を埋め心理学を前へ進めるための研究設計まで提示した。
IQのどの下位能力が、どの職務、学習、生活上の成果へどう関係するのか。
既存の知能検査、GATB、学業成績、職務データをどう統合するか。
環境要因や自己選抜をどう扱うか。
個人差を否定せず、運命論にも落とさないために、どのような縦断研究が必要か。
ぼく自身がその研究を完遂したわけではない。
しかし、「心理学にはまだ分かっていないことがある」と言って終わらず、博士課程で実施可能な水準(と複数AIが認定するレベル)まで問題を分解し、研究計画へ落とすことはできている。
心理的安全性については、まだ残課題がある。
本来はチーム内の発言、報告、質問、異論、失敗共有に伴う対人的リスクの問題である。
それが日本では、「優しい職場」「安心できる雰囲気」「みんな仲良く」という情緒的な話へ変質しやすい。
権限、評価、意思決定、失敗時の責任、発言コストといった制度変数へ戻す必要がある。
心理学についてぼくがしているのは、人間の心について深いことを語ることではない。
概念を定義し、測り、制度へ入れたとき何が起きるかを監査することである。
5.ITとAI――概念を動かす
ぼくはIT、情報技術や情報システムを仕事としてきた。
システム開発、開発方法論、オブジェクト指向設計開発、DOA、構造化分析設計技法、UML、EA、SOA、アジャイル、大規模プロジェクトPMO、ITコンサルティング。
その総括と言えるのが下記のような記事だ。おそらく理解されることは少ないだろうが、いずれも50年のIT史を見渡しつつ、個別の失敗あるいは成功を適切に定位した、地に足のついた優れた論考である。
ITでは、曖昧な理念のままでは何も動かない。
誰が何を入力するのか。
データはどこに置くのか。
状態はどう遷移するのか。
例外時にどう処理するのか。
どの組織が所有し、誰が運用し、どこで責任を負うのか。
概念をモデルへ落とし、モデルをシステムへ落とし、システムを現場へ入れる必要がある。
実装すれば、思想の曖昧さが露出する。
「利用者中心」と言っても、利用者は誰か。
「柔軟な制度」と言っても、どの条件を誰が変更できるのか。
「情報共有」と言っても、何を、誰に、どの権限で共有するのか。
「AI活用」と言っても、何を入力し、何を出力し、誰が検査するのか。
ITは、抽象概念を現実へ引きずり下ろす。
その意味で、ぼくの反スピと非常に相性がよい。
現在は、その延長としてAIを実践的に探究している。
AIに何ができるかを、将来予測や業界ニュースだけで論じるつもりはない。
実際に記事を書かせる。
調査させる。
データを統合させる。
画像を作らせる。
英訳させる。
理論枠組みを作らせる。
誤りを出させ、監査し、修正させる。
使った結果から、能力と限界を考える。
AIを論じるためにAIを使う。
これも実践である。
6.日本共和制論――理念を制度へ落とす
ぼくの活動のもう一つの柱が、日本共和制論である。
本編は一旦書き終えた。
補論として時事的な話題や別の観点からの論考を書き続けている。
これは大学時代の政治思想の延長にあると言える。あるいは、それ以前からの政治への興味の継続だ。「人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ」という世界的ベストセラーをもじるなら、「人生に必要な政治はすべてファーストガンダムから逆襲のシャア、閃光のハサウェイの流れで学んだ」と言える。
もちろん、それらのインプットから日本共和制論でのアウトプットは単線的でない。これは、「義務教育を考え直す――日本共和制論 1/5」について、「日本を残せ――日本共和制論 5/5」においてそのインスパイア元が辻村深月『かがみの孤城』であると明かしたことと似ている。そこにはぼく独特の飛躍がある。
日本共和制論では、教育、就労、家族、少子化、移民、天皇制、国家、国民形成を、一つの制度体系として組み直そうとした。
出発点には、日本は天皇を戴く共和制として理解できる、という考えがある。
天皇がいるから王政であり、共和制ではない、と単純に分類する必要はない。理念型としての実質的共和制を考えるべきだ。
重要なのは、権威と権力がどう配置されているかである。
政治権力を行使する政府と、象徴的権威を担う天皇を分ける。
政治権力を持つ者が、国家の最終的な象徴まで独占しない。
この分離は、日本の制度的資源として使える。
ただし、日本共和制論は天皇制論だけではない。
国家は、次世代を自らの成員として形成する責任を負う。
そのため、義務教育は本人の権利だけでなく、国家、社会、本人の三層の義務として捉える。
高校段階まで含めて能力を測定し、進路を複線化する。
全員を抽象的なホワイトカラー候補として扱わない。
普通教育、実業教育、高専、専門教育、職業訓練、企業内教育、福祉への接続を制度として設計する。
大学は、若者を四年間保留する装置ではない。
選抜性の低い私大文系を、人文社会知の保護と混同すべきでもない。
人文学や社会科学には価値がある。
しかし、その価値と、現在の人社系学部の定員、質、制度形態をすべて維持することは別問題である。
日東駒専以下を一律に消滅させる必要はないが、総合大学という看板を外し、職業教育、専門教育、地域人材育成へ再編するべきだと考えている。
人社系のダウンサイジング一般に反対しないのは、ぼくが人文社会知を軽視しているからではない。
人文社会知と、人社系学部の既得権を同一視していないからである。
家族については、少子化を個人の恋愛や価値観だけの問題にしない。
若年期の出産、祖父母世代の育児参加、近居、住居支援、介護の外部化を組み合わせ、三世代が社会の再生産を分担する仕組みを考える。
移民については、単なる労働力として受け入れるのではなく、日本語公共圏の成員として形成する。
自由を掲げて国家の責任を放棄するのでも、国家が成人後の生をすべて管理するのでもない。
十八歳まで国家が制度責任を負い、その後は複数のトラックを用意する。
部品はすでにある。
足りないのは設計図である。
日本共和制論は、その設計図あるいはグランドデザインを出す試みだった。
7.サブカル――楽しみながら考える
ぼくの活動の2割程度は、アニメ、ゲーム、映画、音楽について考えることである。
ここでは「研究」より、まず楽しむことが先にある。
『ブルーアーカイブ』を遊ぶ。
『BanG Dream! It’s MyGO!!!!!』『Ave Mujica』『ゆめ∞みた』を見る。
映画を見る。
Depeche ModeやNine Inch Nails、あるいはMassive AttackやGoGo Penguin、そしてKOHEI JAPANやLunch Time Speaxを聴く。
コガッツォを読む。あるいは『寄生獣』、『風の谷のナウシカ』マンガ版、『ファイブスター物語』を読む。
作品に持っていかれる。
特定の場面が残る。
何度も見返す、聴き返す。
そこから、何が起きているのかを考える。
サブカル作品を、高尚な哲学の具体例へ格下げするつもりはない。
作品は作品として強い。
フィクションは、制度論や哲学概念の挿絵ではない。
演出、台詞、音響、身体、画面構成、物語の時間、キャラクターの動きには、それ自体の論理がある。
『Ave Mujica』の初華の笑顔をアルカイック・スマイルとして読む。さらに作品の通奏低音にナボコフの『ロリータ』を見る。
『MyGO!!!!!』第十話を、単なるポエトリーではなくスポークンワードとして捉える。
『1917』の泥濘と『幼女戦記』の空中戦を接続し、実写映画とアニメが近代戦の空間をどう作るかを見る。
Depeche Modeの「Halo」を、『魔法少女まどか☆マギカ』や『STEINS;GATE』を経由して読む。さらに「Halo」の歌詞から『ブルーアーカイブ』のヘイロー設定を考える。
そうした接続は、一般理論を先に置き、作品を当てはめているのではない。
作品の細部を見た結果、別の作品、思想、歴史、身体感覚へ接続が生まれる。
ぼくにとってサブカル批評は、思想を現実へ使うもう一つの形である。
同時に、思想や制度だけでは扱えないものを、作品から受け取り直す作業でもある。
反スピという態度は、芸術やフィクションを否定するものではない。
上掲の須原論では、彼が「芸術を「変性意識の発生装置」として捉えた」ことを肯定的に論じている。
音楽は音楽として強い。
神話は神話として強い。
フィクションはフィクションとして強い。
それを政治や制度の根拠へ密輸し、現実の因果や責任を踏み倒したときにスピるのであって、作品の強度そのものを否定する必要はない。
8.似非哲学批判は、なぜ増えたのか
ここまで読めば分かる通り、似非哲学批判は、ぼくの活動の中心ではない。
それでも記事数が多いのは、処理コストが低いからである。
noteやXなどのSNSには、哲学というラベルを貼った文章が大量にある。
存在、意識、世界、魂、他者、自由、自己、本質。
大きな言葉が並ぶ。
だが、定義がない。
原典がない。
引用が不正確である。
異なる哲学者を、語感だけで接続する。
個人的な体験を世界の原理へする。
批判されると、「観測範囲が違う」「レイヤーが違う」「あなたには見えていない」と言い出す。
テレパスではないのだから、書いていないことは読めない。
主張があるなら、言葉にし、根拠を出し、論証を示す必要がある。
これらの誤りには、かなり反復性がある。
概念の実体化。
汎化の暴走。
レイヤーの混同。
引用の誤り。
主張と根拠の断絶。
反論を、相手の認知能力の問題へすり替えること。
一度判定基準を作れば、同型の文章はAIにかなり切らせられる。
だから「哲学を名乗るな 実例篇」が増えた。
記事数が多いことは、思考上の比重が大きいことを意味しない。
毎回新しい理論を作っているのではない。
すでに存在する一定の基準を半ば自動的に適用しているだけである。
哲学警察は余技である。
街にゴミが落ちているから拾っているだけで、清掃活動が人生の目的ではない。
9.AIに任せていること、人間に残していること
現在のぼくの記事のかなりの部分は、AIとの共同作業で作られている。
ただし、ここでAIと人間の分担をもう一度詳しく論じるつもりはない。
理論的な整理は、「理論はAI、応用は人間、実装はAI――人間に本当に残るものは何か」で行った。
そこでは、研究、制作、実装を、1. 問題形成、2. 探索・構想、3. 選択・統合、4. 具体化・検証、5. 展開・運用の五段階へ分けた。
その実践例の一つ、理論を作った上で「やってみた」のが、「女性声優は本当に小柄になったのか――『ゆめ∞みた』から始める身長調査と、AIによる研究・調査の限界」である。
AIは約2300人のデータを統合し、検索し、集計し、スプレッドシートを作った。
一方、何を調べるかを決め、男性声優を比較対象へ加え、欠測率を監査指標として導入し、検索漏れを発見し、根拠のない数値を捨て、結果を解釈したのは人間だった。
サブカル批評でも構造は同じである。
AIは作品情報を整理し、比較し、文章化できる。
だが、どの作品を追うか、どの場面に違和感を持つか、何と何を接続するか、何を面白いと判断するかといったTasteは、現在のところ人間側から始まる。
ぼくが問題を出す。
AIが探索し、候補を作り、文章、表、画像、コードへ落とす。
ぼくが選び、異常を見つけ、修正し、公開責任を負う。
「哲学を名乗るな 実例篇」やEQ批判実例の多くが半自動化されているのも、この延長にある。
ここで重要なのは、AIを使っていることを隠すことでも、AIにすべて任せたと誇張することでもない。
どの工程を誰が担ったのかを明示することである。
10.五つの領域を貫くもの
改めて整理する。
ぼくの活動の比重は、おおむね次のようになる。
実践としての哲学と反スピが2~3割。
日本共和制論と政治思想が2~3割。
サブカル批評が1~2割。
ITとAIが1~2割。
心理学と心理測定が1割。
似非哲学や似非学者批判はせいぜいが片手%だ。
厳密な統計ではない。
記事数でもない。
ぼくがどこへ思考資源を使っているかを示す、概算である。
計量的な心理学と、工学的なIT・AIを合わせても3割に満たない。
残る7割以上は、広い意味では人文社会系である。
それでも、ぼくは人社系学部を現在の規模のまま守れとは思わない。「人社系のダウンサイジング」批判には回らない。昨日書いた通りだ。
哲学、政治思想、歴史、表象文化には価値がある。
だが、その価値と、選抜性の低い私大文系いわゆるFラン大学を大量に維持することは別問題である。
人文社会知を守ることと、人社系学部の既得権を守ることを混同してはならない。
また、哲学、心理学、IT、政治思想、サブカルを、無理に哲学という一語の下へ置くつもりもない。
哲学を最上位のラベルにした瞬間、また哲学がスピる。
これらを貫いているのは、哲学という学問ではない。
現実を観察する。
概念を検品する。
資料とデータへ接続する。
異なる説明を比較する。
使える形へ成形する。
制度やシステムへ落とす。
実際に動かす。
動かした結果から修正する。
作品に触れ、そこから別の現実を読み直す。
思想を所有するのではなく、使う。
これらは、個別の行為の一覧である以上に、スタイルやアティチュードの問題だとも言える。
早稲田政経が最近、PPE――Philosophy, Politics and Economics――を名乗るようになったことを、ぼくが卒業生として気に入ったのも、それを学問上のディシプリンというより、スタイルやアティチュードとして受け取ったからだ。
11.学位という形へ戻すなら
いま、これらの活動を、もう一度学問の形へ戻すことも考えている。
哲学。
表象文化論。
日本政治思想。
さらに、IT、AI、心理測定、制度の関係を扱うSTS。
トリプルディグリー、あるいはクワッドディグリーという構想は、一見すると散漫に見えるかもしれない。
だが、現在まで書いてきたものを振り返ると、後から無理に作った分類ではない。
すでに実践している活動を、学問制度の側から再配置すると、その四領域になる。
ただし、学位を取ることが最終目的ではない。
哲学者と名乗るためでもない。
研究者という上位ラベルを手に入れるためでもない。
ここ数か月で集中的にAIとともに作ってきた大量の問題設定、概念、制度案、作品論を、他者が検証し、批判し、再利用できる形へ整える。
そのために学問制度が使えるなら、使う。
使えないなら、別の方法を取る。
制度もまた、道具である。
12.結び
ぼくは哲学者になりたいのではない。
哲学を守りたいのでもない。
ITコンサルタント、政治思想家、心理学者、批評家のどれか一つに収まるつもりもない。
ニーチェ、須原一秀、呉智英から受け取ったものを、現在へ持ち出す。
心理学の概念を測る。
情報システムとして実装する。
AIを実際に使い、その限界を監査する。
政治思想を制度設計へ落とす。
アニメ、ゲーム、映画、音楽を楽しみ、そこから考える。
そして、現実の制度・身体・責任・因果を飛ばす言説を見つければ、スピっていると切る。
哲学が死んだのなら、それでいい。
残った道具を使えばいい。
Word up.
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